世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

7月 1, 2018

【わがスパコン人生】第3回 渡辺貞

島田 佳代子
Yoshio Oyanagi

第3回 渡辺貞
単に速いものを作ればいいのではなく
使えるものでないといけない

(画像提供:理化学研究所)

「地球シミュレータ」や「京」の開発を手掛けた、日本が世界に誇るコンピュータアーキテクトであり、日本人として初めてシーモア・クレイ賞を受賞された渡辺貞さんに開発のきっかけや思い出に残るエピソードをお聞きしました。

 

「設計書も仕様書も全て手書き。ゼロからスパコンを開発」


―どのような少年時代を過ごされていましたか?またコンピュータの道へ進んだきっかけを教えてください。

生まれは東京ですが3歳のときの頃に親父が亡くなり、お袋の実家がある北海道の栗山に移りました。田舎町ですから毎日釣りをしたり、虫を採ったり、冬はスキーと受験とは無縁の生活を送っていました。医者だった叔父の影響もあり中学生の頃までは医者になろうと思っていました。しかし、血を見るのが怖くて、高校に入学したころから、数学や物理は好きだったので、漠然と医者ではない理系に進もうと考えるようになりました。

その後進学した東京大学では1,2年生は教養学部に所属し、2年生の夏に専門を決めます。当時、トランジスタに代表されるエレクトロニクス産業が急速に立ち上がっていたこともあり、電子工学を専攻することに決めました。専門に進んでから、5月祭の展示をどうするか考えていたときに、先生からこれをあげるから何か作ってみたらと、当時の大学での実験は真空管の時代でしたが、トランジスタをもらい、5,6人で三山崩しのゲームを作りました。5月祭では動きませんでしたが、それが面白くてコンピュータの道に進むことに決めました。その頃、今でいうLSI(大規模集積回路)といったものが出てくるというので、大学院ではコンピュータを使ってLSIの自動設計の研究をしていました。

大学院を卒業した1968年当時、コンピュータをやっていたのは僅か数社でしたが、技術開発に力を入れ、大型コンピュータを開発しようとしていたNECにぜひ参加させて欲しいと就職させてもらいました。NECがスーパーコンピュータ(スパコン)を始めたのが1982年ですから、それより十数年前のことです。入社して大型コンピュータのハードウェアの開発を始めましたが、大型コンピュータといってもメモリが1MB(メガバイト)です。1MB(メガバイト)のメモリが部屋いっぱいになるような大きさで、入力もキーボードがないから、パンチカード。そういった時代でした。

―そこからどのようにして、スパコンを作ることになったのでしょうか?

1979年6月だったと思いますが、のちに初代地球シミュレータの開発リーダーとなる科学技術庁航空宇宙技術研究所(現JAXA)の三好甫(みよしはじめ)さんから、NEC、日立、富士通にスパコンを開発しないかと打診がありました。それが本格的にスパコンを始めたきっかけです。

「NASA(アメリカ航空宇宙局)が航空機開発のためにCray-1を上回るスパコンを開発しようとしているが、それに負けない国産のものを作れないか。1GFlops(ギガフロップス)を超えるものを開発するぞ!」と言うんです。Cray-1は160MFlops(メガフロップス)でしたが、我々が開発していた大型コンピュータS1000はCray-1の1/10程だったので、Cray-1の10倍というのは、我々からすると100倍です。いきなり100倍のものを作らないかなんて、すごいことを言うなと思いましたね。初めて三好さんにお会いした時、初対面にも関わらず、「NECは素敵に遅いマシンを作るんだな」なんて言うんです。毒舌というか、要はハッパをかけるためにね。そういう方でした。

1982年には社内のスパコン開発チームは20人くらいの体制でした。ところがパソコンの開発が急がれていたこともあり、パソコン部隊に引き抜かれてしまい、スパコン部隊は5,6人だけになってしまいました。その後、パソコン部隊は「PC-9801」を発表しましたが、これが日本のパソコン史を変えたといわれるパソコンで、シェアも80%位ありました。スパコン部隊も最後の段階だけですが、パソコンの開発を手伝いました。

他社が日本初となる本格的なスパコンを1983年に発表しました。我々はそれから2年ほど遅れ、1985年にSXを出荷しました。後発となった理由のひとつに、最初パソコンに力を入れたこともあったかと思います。PC-9801の前に、NECの初のパソコンであるPC-8001というのがありましたが、当初はワープロソフトもありませんから、スパコンの設計書も、分厚い仕様書も全て手書きでした。今とはだいぶ違いますね。

1983年に発表し、1985年に出荷したSX-2は世界で初めて1FGLOPS(1秒間に1億万回)を達成した当時世界最高速スパコンで、1秒間に1億3千万回もの計算ができました。1987年1月には円周率πのギネス記録に挑戦することになり、その様子がTBSで放送されました。NECの府中工場に広い芝生があり、πを計算したものを全部プリントアウトして並べて、それをヘリコプターで空撮しようとしたら雪が降ってしまい、結局体育館に並べました。1億3355万4千桁まで計算しましたが、計算するのに1日半かかり、プリントした紙を並べたら体育館にいっぱいになりました。

SX-3の時でしたか、メモリとの接続に何万本もの線があってピンを差し込んで固定します。筐体がガタガタ震えると抜けてくるので、振動試験も必要です。振動試験装置もありましたが、筐体は何トンもあって重すぎて測ることができません。しょうがないから、トラックに積んで、東京・大阪を往復して試験したこともありました。

1996年7月にSX-4が性能テストでクレイ・リサーチ(現Crayクレイ)に勝ち、コロラドにある米国立大気研究センター(NCAR)と正式に契約を交わす直前にクレイからダンピングをしていると、ありもしない言いがかりを付けられました。ダンピング訴訟になり、最後は最高裁まで訴えましたが却下され、NEC製品に454%もの関税が課せられることになってしまいました。重さの単位で1ポンドが454gなのでNECでは1ポンドタックスと呼んでいました。

その数年後、業績が悪化して開発が続かなくなってしまったCrayからダンピング訴訟を取り下げるから、NECのスパコンを売らせてくれないかと話があり、私がNEC側の代表でCrayとのOEM供給の交渉を行いました。Crayの本社がシアトルにあり、月火水とNECの社内で打ち合わせをして、水曜の夕方のフライトでシアトルへ行き、木金、場合によっては土曜も打合せをして、土曜か日曜に帰国し、月火水と社内で打合せをして、水曜の夕方にまたシアトルへ向かうという生活を半年続けました。JALの受付カウンターの方とも毎週会うもんですからVIP扱いを受けました。当時イチローがシアトルマリナーズにいました。Crayが接待用にセイフィコ球場のバックネット裏に年間シートを持っていて、試合を観に行きました。日本に帰国後、大学卒業以来あまり連絡を取っていなかった友人から、「渡辺、見たぞ!」と電話があったこともあります。

 

「叶えられた日本のスパコン生みの親の夢」


―「地球シミュレータ」そして、「京」でも中心的な役割を果たされました。開発中のことを教えてください。

1998年1月に受注し地球シミュレータの開発が始まりましたが、私は本社にいて直接開発をした訳ではありません。全体のとりまとめのようなことをしていました。半導体を熊本の半導体工場で作っていましたが、開発が順調に進んでいるか、開発リーダーの三好さんと一緒に工場を視察したことがあります。三好さんは飛行機の開発をしているのに、高所恐怖症で大の飛行機嫌いのため、飛行機に乗れませんでした。ブルートレイン、夜行寝台列車で熊本まで行きましたよ。

2001年8月、その頃三好さんはがんを患っていました。三好さんに呼ばれて「アメリカを驚かせてやりたい。30TFLOPS(テラフロップス 1秒間に30兆回の計算速度)出せる?」と聞かれて、「出せますよ!」と答えました。2002年4月が性能テストの締め切りで、その前の週にテストしたら34、35テラの性能を出しました。しかし、三好さんは2001年11月に亡くなられてしまい、完成品は見せることができませんでした。それでも、三好さんが言っていた30テラを超えたので、三好さんの夢は叶えられました。三好さんがきっかけとなり、スパコンの開発を進められたので感謝しています。三好さんは日本のスパコンの生みの親ですね。

完成した地球シミュレータは、アメリカのエネルギー省の様々な研究機関に入っているスパコン全てを合わせたものよりも、性能が上でした。アメリカは驚き、DOC(商務省)が緊急対策会議を行ったようです。私のところにもアメリカのメーカーの人から「どうやって作ったんだ?」と直接電話もありました。2007年にアル・ゴアさんとIPCC(気候変動に関する政府間パネル)がノーベル平和賞を受賞しましたが、地球温暖化予測に地球シミュレータも貢献し、地球シミュレータを運用している海洋研究開発機構(JAMSTEC)がIPCCから感謝状をもらいました。

2005年11月に「京プロジェクト」のプロジェクトリーダーの公募がありましたが、もう定年は過ぎていましたし、スパコンを直接現場では担当してはいなかったこともあり、応募して開発の主体であった理化学研究所へ籍を移しました。1千億円を投じた国を挙げてのプロジェクトでベクトル型とスカラ型の複合型を作ろうと、富士通、NEC、日立の共同で開発したわけですが、外部の評価委員会の人たちから「ひとつのシステムを共同開発できるのか」と色々言われました。ところが、2009年5月文科省による中間評価を受けている最中にNECと日立がプロジェクトから撤退してしまいました。民間企業も費用を負担していたので、その前年のリーマンショックの影響もあったと思います。

2009年は私にとって厄年でした。5月に日立とNECが撤退。そして、11月には事業仕分けがありました。私は技術的な質問があれば答える立場で、雛段に文部科学省の担当者、理研の計算科学研究機構 機構長の平尾公彦先生たちとともに座っていました。結局、発言をする機会はありませんでした。事業仕分け後、ある雑誌に事業仕分けの様子がイラスト入りで書かれていましたが、私のところだけ吹き出し欄に「発言なし」と書かれていました。

事業仕分けでお金を削られてしまい、翌年度後始末するためだけの予算になってしまいました。それが一番問題でした。こちらは人を雇い、すでに製造の準備をしていました。1,000人以上が携わる大プロジェクトです。支えてくれている多くの人たち、これからの若い技術者、京を使って画期的な成果を出そうと準備している研究者たちのことを思うと、目の前が真っ暗になるような感じでした。

他の評価委員会でも、「予算が1千億円だなんてこれを使うとGDPが一体どれだけ上がるんだ?」と聞かれたことがありました。スパコンは産業利用だけではなく、災害予測などGDPが下がるのを助けるというメリットもあるわけです。スパコンの応用には、結果がどうなるか分からない基礎研究などもあります。一概にGDPが何%上がるかではその価値は判断できません。

当事者が言っても説得力がないので、科学技術に関係ない人にも声をあげてもらおうと 大勢に掛け合うなど、必死でした。翌年金額は削られたものの予算は復活し、システムも複合システム構成から、単一のシステム構成に変更し開発が続けられることになりました。

2010年中ころからシステムの搬入が始まり、まだ作っている最中の2011年3月11日に東日本大震災が発生。京のケーブルを作っている会社が東北にもありました。あちこちで作られている部品を輸送する道路もズタズタになってしまいました。

スパコンの性能ランキングを管理するTOP500への性能提出期限が4月末だったので、富士通の開発部隊も突貫工事で大変だったと思います。何とか全体の8割くらいを搬入、設置して性能測定し、8ペタを超えて、世界1位になることができました。その時はシステムが全部入れられず、8ペタでしたが、その後、目標の10PFLOPS(ペタフロップス 、1秒間に1京回の計算速度)も達成しました。

世界一達成も事前に漏れるとインパクトがないので、極秘作戦でした。当時1位は中国のNUDT(現国防科技大学)が開発した天河一号Aでした。TOP500の発表日前日に私は会議でアメリカにいて天河一号Aの開発リーダーの女性と会食していました。京が1番だなんて誰も知りませんから、私も素知らぬ顔で「世界最速の天河一号Aはどうやって開発したんですか?」なんて聞いていましたが、その女性リーダーは翌日青ざめた顔をしていました。アメリカでの発表に合わせて、日本では理研の野依良治理事長が記者会見を行い、新聞の一面に大きく掲載されました。

―今までのスパコン人生を振り返って如何ですか?シーモア・クレイ賞など、数々の賞も受賞されました。

シーモア・クレイ賞は私個人というよりは日本のスパコン界を代表して頂いたと思っています。個人的には1998年に「エッカート・モークリー賞」を頂いた時が嬉しかったですね。これは1946年に開発された「ENIAC」を考案・設計したジョン・エッカートとジョン・モークリーの名前がつけられたコンピュータ・アーキテクチャ賞です。

 

授賞時のバンケットで隣に座ったのが、モーリス・ウィルクスさんでした。コンピュータに携わっている人で知らない人はいないほどの有名なイギリスの人で、今のコンピュータの原型を作った人です。野球でいえばベーブ・ルース。神様のような人がバンケットで隣に座り、授賞を祝福してくれました。この写真は、私にとっては非常に思い出深い1枚です。

シーモア・クレイの自叙伝を読んでいたら、クレイはどうやって開発資金を調達するか。その苦労の連続なわけです。私は、なんでこんなものを作っているんだなどと言われたこともありましたが、総合メーカーですからスパコンの開発をすることによって、他の製品の技術開発にも繋がると、会社がお金を出して開発をさせてくれました。しかもゼロ、何もないところからの開発。苦労もありましたが、ゼロから開発することができたことは幸せですね。

最初に手掛けたSXから京まで、始めた頃はできるはずがないと思っていたものが、振り返ってみればできている訳です。そういったものに携われたというのは、これ以上の幸せはないですね。スパコンは一人の力で出来るものではありません。大勢の人の協同作業によって出来るものです。サラリーマンだからこそできたとも思います。

今、私が危惧しているのは、色々なものがブラックボックスになってしまっていて、仕組みが分からなくなってしまっていることです。スマホを使うことはうまくても、メールだってLINEだって、どうやって伝わるのか、誰も不思議に思わないですよね。仕組みに疑問を持つ、好奇心を持つ人が少ないと、科学技術が発達するのが難しくなってしまいます。

今後のスパコンも単に速いものを作ればいいのではなく、使えるものでないといけません。性能を向上させながら作っていくのは、だんだん限界になってくるんじゃないかと思います。ただ、頑張ればだいたいできますからね。私も技術開発で限界が見えたことがありましたが、やっていると限界が打ち破られているんです。若い人に期待しています。

 

渡辺貞氏 略歴

1968年 東京大学大学院工学系研究科修士課程修了
1968年 日本電気株式会社 入社
1982年 同社 コンピュータ技術本部技術課長 (スーパーコンピュータの開発)
1990年 同社 スーパーコンピュータ販売推進本部長
1998年 ACM/IEEEエッカート・モークリー賞
1999年 同社 支配人(HPC担当)
2005年 日本電気株式会社 退社
2005年 IEEEフェロー
2006年 文部科学省研究振興局研究振興官
2006年 理化学研究所 次世代スーパーコンピュータ開発実施本部 プロジェクトリーダー
2006年 シーモア・クレイ賞
2007年 日本計算工学会功績賞
2009年 日本学士院賞「大規模・高精度計算科学に関する研究」(矢川元基氏と共同受賞)
2013年 理化学研究所特別顧問
2014年 理化学研究所名誉研究員