世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

12月 3, 2018

【わがスパコン人生】第8回 正田秀明

島田 佳代子
Hideak Shoda

第8回 正田秀明
HPCの世界の今後の10年のあるべき姿を
産業界と一緒に

文系出身で、今でもHPCのシステムのことは分からないと言いながらも、スパコンに携わる人たちを誰よりも知り、長年に渡り人と人を繋ぐことでHPC業界に多大なる貢献をされてきた正田秀明さんにHPCの出会い、記憶に残る講演などをお聞きしました。

人と人を繋ぐことでHPC業界に貢献


―どんなお子さんでしたか?また簡単な経歴を教えてください。

生まれも育ちも神戸です。まだ暗いうちに起きては自転車で須磨の海岸へ行って、みんなで魚釣りするというのが、楽しい年中行事でした。近くには山もある自然あふれる良い環境で育ちました。27歳で東京に移るまでずっと神戸暮らしでした。

私は絵に描いた文系でございまして、子どものころから今に至るまで、本だけはたくさん読んでいます。サラリーマンになったときは、通勤時間の全てが私にとっては書斎でした。ノンフィクションが多いですが、内外の新刊、日本古典から外国古典まで、あらゆるジャンルのものを読みます。

大学は関西学院大学の商学部へ進学し、卒業後はある大手企業に就職したかったのですが、1966年当時は大不況で多くの大企業が採用を中止にしてしまったのです。それで、大阪の繊維商社に就職しました。それが私にとってはある意味ラッキーでした。その会社がコンピュータを初めて導入すると決めていたのです。大阪の繊維商社ですから、コンピュータのことが分かる人間もいませんでした。なぜか新入社員の中から私がそこへ配属されて、新入社員にも関わらず、部下を15人ほど抱えることになりました。

―正田さんご自身はコンピュータに触れたことはあったのでしょうか?

いいえ。ずっと文系できた人間ですからコンピュータのことは全く分かりません。それでもメーカーの方々と話をしながら、社内の調整からプログラマーやインプットする人たちのことなど、導入から全てのことを仕切りました。1966年、それが私とコンピュータの出会いです。

技術計算ではなく、あくまでもビジネス用のものでしたが、コンピュータというものに触れることができました。システムの導入を成功させなければいけないという責任はありましたが、東京から頻繁にお越しになって下さったメーカーの皆さんが素晴らしい方々で、親身にサポートして頂きました。この2つの面で大変恵まれた新入社員生活を送ることができました。

入社して5年目だったと思います。それまでに接していた東京の方々が皆さん本当に素晴らしいお人柄だったこともあり、「やっぱり東京へ行きたい、東京で働いてみたい」という思いが芽生えました。

ちょうどその頃、NECが中途採用の新聞広告を出しました。私はエリートでもなんでもない人間ですが、応募したところ、採用して頂くことができました。 

―NECではどのような仕事をされたのですか?

NECに入社後は日本全国を飛び歩き国内販売に携わっていましたが、3年ほど経った頃に「秘書室勤務を命ずる」という辞令が出ました。中途採用の私が早々に秘書室勤務になるなんて通常では考えられないことなので、「正田さんはもしかしてあの高貴な家につながる方ですか?」と聞かれたほどです。秘書室勤務では、伸び盛りの大メーカー、その役員の方々に接することができて、本当に面白かったですし、当然学びも多かったです。

出張がなくなり、それまで月の半分は出張で東京にいなかった私が、自分の時間も充分に持てるようになりました。そこで、英語学校に通いました。以前から、日本の文学に触れて、美しい日本語の文章を理解することはできましたが、海外の作品は翻訳だと、そういったものが直接伝わらない訳です。原書で読んだら、文章の美しさが理解できるのではないかなと思ったことがきっかけで、英語をまじめに勉強したいと思っていたのです。

その後は海外関係の仕事を希望したこともあり、海外営業のポジションに入れて頂きました。それから、海外にNECのコンピュータを売るという仕事を1977年から20年しました。今度は1年の半分は日本にいないという生活でした。2年半のシンガポール駐在もありましたが、家族も安心して暮らせる国で、子どもふたりも本当に楽しんでくれました。NEC時代はスパコンではなく、オフィス/ビジネスコンピュータの輸出に関わっていました。その頃の日本企業はNECはメモリで世界一ですし、アメリカから買うものはありませんでした。そんな時代があったんですよ。

日本企業が右肩上がりの時代で、面白いことをたくさん経験させて頂きました。その後の右肩下がりの時代でも、個人的にはあまりそれを感じたことがありません。ただ、私の息子世代は右肩下がりの時代しか知らないので、可哀そうですよね。

―正田さんとスパコンの出会いはどういったものだったのでしょうか?

大阪の繊維商社に勤めていたときに出会い、その後も付き合いが続いていた堀義和さんから1990年に電話があり、NECを辞めて彼の会社へ来ないかと誘って頂きました。私は迷うことなく、「はい。分かりました」と即答しました。

「はい、分かりました」と即答して行った先が日本クレイという会社でした。日本クレイはとんでもない会社でしたね。スパコンが好きで、好きでしょうがないという人間の集団でした。そしてクレイが世界を制覇していた時代のことです。
 
NEC時代もスパコンの販売には直接関わっていませんでしたので、私とHPCとの出会いも日本クレイに入社してからになります。ただ、未だにHPCとは何ぞやという話をされたら、システムのことは分かりませんが、、、。

私が何を知っているかといいますと、スパコンに携わる人たち。この人たちのことをひたすら知っております。官公庁、大学の研究機関、自動車業界、ケミカル系など、1990年から今に至るまで、スパコンに携わる皆さんと親しくお付き合いさせて頂いております。

―具体的にはどのような仕事をされていたのでしょうか?

 
 

スパコンそのものは日本で80年代後半から普及し始めて、一通り行き渡ったのが90年代半ばですが、私はユーザー会、シンポジウムといったものを1年中企画してはお客様に対して情報発信をしていました。

日本クレイへ転職した90年から97年の7年間は実に素晴らしい7年間でしたが、97年に日本クレイがシリコングラフィックス(SGI)に買収されてしまい、全くの別世界になってしまいました。辞めて起業した人もいますし、転職した人も大勢います。クレイの人間を対象に、大リストラが行われ、私のもとにも早期退職勧告がありました。当時の私は54歳で簡単に転職ができるわけがありません。辞めない方がいいよとアドバイスをしてくれる社外の友人もいたので、私は辞表を出さず、そのまま居座っていました。

クレイは直販でしたし、私はそれまでに直販しか知りませんでしたが、SGIは代理店販売でお客さんを直接知りません。それは私にとっても大きな違いで戸惑いを感じていました。そんな中、1年もしないうちに元IBMの和泉さんという方が日本SGIの社長に就任し、SGIの旧マネージメントを一掃すると同時に、販売方法も直販としました。

一方SGIにはグラフィックスに命を懸けるエンジニアがいっぱいいて、日本のグラフィックス系の先生方、民間企業の方々から「使ってみたい」と思って頂けるオニキス、オクティンといったすごい製品を持っていました。私自身、それまでのHPC系だけの世界ではなく、今度はグラフィックス系の先生方とお付き合いすることができました。新しい世界が広がって、これがまた最高に面白かったですね。
そして、2002年にあるイベントが起こりました。社長に呼ばれて応接室へ行くと、上智大学の理工学部長や教授たちがいて、色々な分野の先生方にお願いして「可視化」のオムニバス形式の講座をやりたいというのです。その話を聞いた瞬間、私の頭の中でこの分野ならあの先生、あの分野ならあの先生と、HPC系とグラフィックス系の先生方々の顔が頭に浮かんでいたわけです。やるからには最高のものをと、藤井孝蔵先生(当時 宇宙科学研究所、現東京理科大学)、姫野龍太郎先生(理化学研究所)に助言を頂きながら講座を作り上げるのは本当に楽しかったですよ。

当初2,3年と想定されていたこの講座は結果として10年続きました。よくこんなメンバーを集められましたねと喜んでもらいました。評判がよく、先生方もどんな人たちが他にこの講座に呼ばれているかチェックしていて、「本当に私がこの人たちに交じっていいんですか?」という先生も出てくるほどで、遂には東大のVR(バーチャルリアリティ)研究の第一人者である廣瀬通孝教授に「この講座に呼んでもらえるようになったら学者として本物だ」とまで言ってもらうことができました。私も無責任なことはできませんので、話を聞いた学生たちが「この研究所に就職したい」「この先生の大学院へ進みたい」と思ってもらえるような先生に講師をお願いしました。10年間全ての講義を聴いた私自身にとっても著名な先生方の最新の研究に触れることのできた最高の学びの場でもありました。

10年間のうちの最多出場は産業技術総合研究所の広川貴次先生で、9年間お願いしました。丁寧でまじめ。毎回、毎回、最新の面白い情報を入れてくれて、見事に学生を魅了しました。JAXAの久保田孝先生の講義も、ちょうど小惑星探査機「はやぶさ」が話題になっていた時でしたので、リアルタイムで興味深い話をして頂き最高に面白かったです。

 

正田秀明が選ぶ講演 生涯トップ3


―数多くのシンポジウム、講演などで大勢の方の話を聴いて来られたと思いますが、その中でも特に記憶にあるお話はどなたのものでしょうか?

今までにありとあらゆるシンポジウムなどに顔を出して、大勢の講演を聴いてきましたが、その中でも(学術的な講演を除いて)特に記憶に残る講演が3つあります。

まずはクレイ時代にイベントでアメリカからシーモア・クレイと共にクレイを創業したレス・デイビスに来てもらって実現した講演です。講演は「CDCに入社したらこういう若者がいた。彼の名をシーモア・クレイという」から始まり、ふたりでクレイを作って、発展させて、世界を制覇するという話で、これは感動でした。

もうひとつの講演が原島博先生。東大を定年で退職されてからは、個人講演会を開くなどしている方です。原島先生にもクレイのイベントで講演をして頂きましたが、人類の発展、変化を1000年単位で俯瞰した話。次に100年単位、次に10年単位に俯瞰した話で、これを見事にまとめられた話です。

3つ目が廣瀬通孝先生の講演。CAE懇話会という民間のHPCに関わる人たちのためのNPO法人があり、私も創設時から関わっています。昼間はCAEのための講演会を行い、夜は全く別のものにしようと、著名人に趣味を語ってもらう懇親会 ナイトサイエンスを提案しました。廣瀬通孝先生にお願いしたのは2008年2月でした。廣瀬先生は子どもの頃から大の鉄道模型好きで、先生のご自宅は鉄道模型を置くことを考えて建てられたものでして、その設計をしたのは先生の中学時代からの友人である隈研吾氏です。東大教授が語る趣味の世界、鉄道模型の話ってこんなに面白かったのかと。まさに蘊蓄の塊、最高でした。

―SGIを退職された後のことを教えてください

SGIは2012年8月に69歳で退職しました。その後はいくつかの会社の顧問を経て、お陰様で75歳となった今でも契約してくれる会社があります。全国への出張があり、今年のSCもダラスへ行かせてもらいました。やっていることは、どこの会社でもSGI時代と同じことをしているだけです。ひたすら、人とのご縁で今も仕事をさせて頂いています。未だに学ぶこともたくさんあり新しい出会いがあります。

SGIを離れてから良いこともいくつかあって、それまではライバル会社だからと遠慮していたNEC、日立、富士通などの若者たちがシンポジウムなどで、「前から正田さんと話をさせて頂きたかったのですが、なかなか近寄ることができなくて・・・」と、寄ってきてくれました。私自身若い人から学ぶことが大好きなので、色々と教えてもらえて嬉しいですし、楽しいですよ。

―長年HPC業界に携わっているからこそ見える課題と解決方法を教えてください

 
 

2012年、ちょうどSGIを退職した年に、日本のHPC業界の凋落を私が可視化したものが未だに話題になっています。日本は残念ながらコンピュータサイエンス 計算機科学の声の方が大きくて、コンピューテーショナルサイエンス 計算科学の声が小さくなっています。小さいというより分散します。ハードウェアを作る人たちはメモリがこうで、バスがどう、レジスタが・・・と盛り上がりますが、使う側は分野によって欲しいHPCの仕様や機能が異なります。これを統一するのは難しく、今後の課題でしょう。

HPCが登場した頃と比べて、世の中がこんなに変わっているのに、日本のHPCの政策はロングレンジで考えられていません。大学の工学系の先生と民間が乖離してしまったのが問題だと感じています。バブルの頃に経団連のトップが、「産業界は大学に何も期待していません。健康な学生を送り出してください。教育は全部企業で行います」と発言したことも問題でしょう。大学の先生方もそれに対して反論せず、お互いに不信感を抱いたままです。またそこが一緒になれば今の状態を打破できるのではないでしょうか。

今年、よその分野の人ある教授から「HPCって一体なんだったんですか?」と言われたことがあります。過去形で、強烈な皮肉ですよね。しかし、90年代前後の日本のHPCは世界でも存在感がありましたが、以降下り坂、地球シミュレータができた頃から、ますます存在感をなくします。多くの民間企業ではハードウェアは外国製品を使って、アプリケーションは全て欧米系。日本でHPCの研究をしてどんな成果が出たのか、日本のHPCは海外へ売ることができるのか。私は答えられません。

本当に役に立つ方法を早く見つけて、人の役に立つような使い方をして欲しいと思いますね。そのためには真の産学連携をやりましょうよと言いたいです。現状、いくつかの省庁から研究資金を支給する施策が幾つかありますが、果たして結果にむすびつくのでしょうか?今進めるべき解決方法の一つは産学が連携したマッチングファンドではないかと考えています。

HPCの世界の今後の10年のあるべき姿を産業界と一緒に作って欲しい。産業界でどんな役に立ったか、あくまで結果が欲しいわけです。強烈な皮肉を言われても反論できないなんて、HPC村の住民としては悔しいじゃないですか。もちろんHPC業界の中から、「そうじゃないよ、正田はここを勘違いしている、勉強不足で知らずに言っている」という意見も欲しいですし、そこをもっと勉強させて欲しいです。

―正田さんにとってスパコンとは?

たまたまそういう世界、それも発展期に携わることができて、お陰様で小林敏雄先生(この連載シリーズ第6回)、小柳義夫先生(この連載シリーズ初回)始めそこで活躍する人たちと色々とお付き合いができて、それを楽しんでいたら、有難いことに75歳になっても未だに楽しむことができているというのが私にとってのHPCです。

システムがどうの、何ペタが、10京が出たといった話は正直分かりません。あくまで、この業界でどういう人たちが、黎明期からどういう形で活躍してきたのか。その姿をずっと見ることができたから、これからも見ていけたら楽しいなと思いますね。

ある医療系分野で研究をしていて、最近業績の目立ってきた若手の研究者が、「私はずっと正田さんに産業界に役に立たない研究は意味がないと言われて、必死で産業界と一緒にやっています」と言ってくれたのは嬉しかったです。

HPC業界についても、ダメだ、ダメだいってもしょうがないですし、日本には新しいことに挑戦している、頼もしくて素晴らしい若い人がいっぱいいるんです。産業界が本当に必要としていることや、世界で誰も解決していないこと、そういったものに挑戦している30代40代の優秀な若手がたくさんいます。彼ら彼女らは上の年代の人たちが研究してきてくれたからこそ、自分の分野に応用できるので、先輩たちのやってきてくれたことを敬い、感謝しながら頑張っています。彼らと話しているときが一番楽しいし、応援しています。今は、その分野だったら、民間企業にこんな人がいるよ、この企業がこんなことを求めているよ、この大学には同じようなことを考えているこんな先生がいるよと折に触れマッチングをしています。今後もこういった私なりの形でHPC業界に関わっていけたらいいなと思っています。「老害」とそしられながら・・・。

 

正田秀明氏 略歴

1966年3月 関西学院大学 商学部卒業
1966年4月 小泉株式会社 入社
1971年2月 小泉株式会社 退社
1971年3月 日本電気株式会社 入社
1990年7月 日本電気株式会社 退社
1990年8月 日本クレイ株式会社 入社
1997年9月 日本SGI株式会社(米国親会社合併に伴い社名変更)
2003年11月 日本SGI株式会社 定年退職
2003年12月 日本SGI株式会社 嘱託契約
2013年8月 日本SGI株式会社 嘱託契約終了
2013年9月~数社の顧問を経て現在 株式会社GDEP顧問