世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

12月 21, 2015

HPCの歩み50年(第67回)-1998年(e)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

C++のISO/IEC標準が制定された。HPFについては、HUG’98: The 2nd Annual HPF User Group meetingが開かれ、「HPFは死んだ言語ではない」と力説していた。日米貿易摩擦は前年に日本メーカに対する懲罰的関税が決定したが、日本電気は米国憲法修正第5条「大陪審の保障、二重の処罰の禁止、適正手続、財産権の保障」に反すると連邦最高裁判所まで訴えた。

アメリカの企業の動き(続き)

8) Tera Computer社(MTA-1)
1997年のところに書いたように、同年2月に1プロセッサのMTA-1をSDSCに納入したが、これは145 MHzの実験機であった。実用プログラムでは、クロックを300 MHzに上げたとすれば、1プロセッサのT90に匹敵する性能を示した。

2プロセッサのマシン(255 MHz)が1998年4月にできSDSCは導入を承諾した。6月のMannheim Supercomputer Seminar(現在のISC)でAd Emmenは、3種の現実の応用プログラムにおける性能を報告している。数字は予備的とのことである。1プロセッサのT90と比較している。

a) LCPFCT:輸送コード、ベクトル長104のFAST20-800において
T90で498 MFlops、MTA-1(2プロセッサ)で458 MFlops。
b) AMBER:分子動力学コード、ベクトル長71の場合で、
T90で306 MFlops、MTA-1(2プロセッサ)で270 MFlops。
c) LS-Dyna:衝突シミュレーション、C2500/NJという問題で
T90で135MFlops、MTA-1の1プロセッサで105 MFlops、2プロセッサで171 MFlops。

この結果を見て、LBNLのNERSCは8月SDSCと協定を結び、MTAの性能評価に協力することになった。

残り2つのプロセッサが12月に完成し、SDSCには4プロセッサ構成のMTA-1が年末に納入された。SDSCは1999年2月に正式に受け入れた。1999年4月、Tera社は$7.4Mの資金を集め、8ポートのネットワークを開発し、8プロセッサのMTAを製造すると発表した。

1998年10月、Tera社は、二三年後にはGaAsからCMOSに移行し、台湾のTSMCにチップの製造を委託する予定であると発表した。11月にはOpenMPをサポートすると発表した。

9) Data General
1998年10月、Data General社はXeonを用いたAV 25000 NUMAサーバを発表した。

標準化の動き

1) C++
C ++言語の最初の標準は1998年9月1日にISO/IEC 14882:1998として承認された。C++委員会は1997年11月に承認していた。通称C++98。

2) MPI-2
MPI-2の規格書が、The International Journal of High Performance Computing Applications (Sage Science Press)のVol. 12, No. 1/2 (1998)として出版された。この雑誌はJack DongarraがEditor-in-Chiefで、筆者もEditorial Boardの末席を汚している。MPI-1の規格書も同じ雑誌から出版されている。当時の書名は、International Journal of Supercomputer Applications (MIT Press)であった。Annex Bとして、MPI-1 C++ Language Bindingという文書が付属している。総計300ページ。

3) HPF
前年HPF 2.0が公表されたが、HUG’98: The 2nd Annual HPF User Group meetingが、1998年6月25~26日にポルトガルのPortoで開催された。ポルトワインのポルトである。VECPAR’98のサテライトとして組織された。

まとめによると、「多くの人々が考えているように、HPFは死んだ言語ではない」と強調していた。そんなことを言うこと自体、危機を感じさせる。HPFで書いたプログラムは、MPIと比較して数十%の性能を示すものから、10倍遅いものもある。メディアンとしては2倍遅いというとことである。現在、様々な改良がなされており、プログラミング・コストという観点ではHPFに有利になりつつある。残念ながらHPCのコミュニティーに十分受け入れられているとは言えないが、この困難を改善するために、コンパイラの改良とともに、ツールやライブラリなどについていくつかの提案がなされた。

一番進んでいるPGI (Portland Group Inc.)は、彼らのコンパイラpghpfが多くのプラットフォームに対応していることを発表した。それによると、CDAC-Param, Cray-T3D, Intel-iPSC860, Intel-Paragon, Meiko-CS2, nCUBE-3,PVM, SGI-POWER Challenge, Transtech-Paramidなどで動いているそうである。

ウィーン大学を中心として、HPF 1.0を拡張するHPF+プロジェクトが進められていたが、1998年4月30日に終了した。

4) OpenMP
OpenMP for Fortranは1997年に公表されたが、C/C++のためのOpenMPは1998年10月に公表された。

5) Gigabit Ethernet
Fast Ethernetの10倍の1 Gb/sの通信速度を実現するGigabit Ethernetは光ファイバーの規格(IEEE 802.3z)が1998年に、UTP (Unshielded twisted pair)の規格(IEEE 802.3ab)が1999年に制定された。

6) Project Monterey
企業連合による標準化されたUnix OSの開発プロジェクトである。広範な32-bitおよび64-bitのプラットフォームの上で稼働させることを意図していた。このプロジェクトは1998年10月に発表され、IBM社、SCO社(Santa Cruz Operation)、Sequent社、Intel社が初期メンバであった。IBM社はPOWERおよびPowerPCのためのAixの情報を提供し、SCO社はIA-32用のUnixの情報を提供し、Sequent社はDYNIX/ptxにおけるマルチプロセッシングの情報を提供し、Intel社は当時未公開のIA-64の情報を提供し、あわせてISVがIA-64向けにソフトを移植するための資金提供をした。Compaq社、Samsung社、Computer Associates社などは後に加わった。主要な目標はIA-64上の企業レベルの高信頼Unix OSを開発することであった。当時はUnixがサーバ市場を主導するとみられていた。しかし、他の同種のUnix標準化の試みと同様にこのプロジェクトはうまくいかなかった。

1999年にIBM社はSequent社を買収しccNUMA技術を直接手に入れた。また、SCO社は2001年にUnixビジネスをCaldera Systems社に売却した。2001年5月、本プロジェクトはIA-64用のAIX-5Lのβ版が完成したと発表したが、Itaniumそのものの発売が2年も遅れたため何の市場性もなかった。IBM社は2001年、Project Montereyは死んだと発表した。実は、Intel社、IBM社、Caldera Systems社などは、linuxをIA-64に移植するというProject Trillianを並行して進めており、これは2000年2月に動くソフトが開発されている。2000年末に、IBMはlinuxをサポートすることを発表した。2003年3月7日にSCO社(正確にいうと、SCOから名前ごと買ったCaldera Systems社が改称した会社)はIBM社を訴え、IBM社がSCOのコードを勝手に使ってlinuxを開発したと主張した。2006年11月30日、裁判所はこの訴えの大半を却下した。(日本語Wikipedia、『Project Monterey』『SCO』参照)

日米貿易摩擦

1) 日本電気は連邦裁判所に提訴
日本電気は1998年6月、Cray Research社が日本電気に対して起こした反ダンピング訴訟に対し不公平な取り扱いを受けたことは、米国憲法修正第5条「大陪審の保障、二重の処罰の禁止、適正手続、財産権の保障」に反すると、米国連邦巡回控訴裁判所(CAFC)に訴えた。日本電気は、反ダンピング手続きが始まる前から商務省が、UCARの契約を阻止することを目的として、日本電気がダンピングで有罪であると発表したことは、日本電気が公正で客観的な聴聞を受ける権利を否定されていると問題視した。商務省は偏見をもっているので、この問題を公正に処理する能力がなく、ダンピングがあるかどうかの判定は第三者によってなされるべきだと主張した。

9月、裁判所はこの訴えを退けた。日本電気は11月、連邦最高裁に上告し、CAFCの決定は外国に対して二重基準を作っていると論じた。

2) 国際通商裁判所の判決
HPCwire12月18日号は、共同通信の配信を引用して、米連邦国際通商裁判所(The U.S. Court of International Trade)が、日本電気と富士通がダンピングによってアメリカの産業に害を与えているという1997年9月の連邦政府ITCの判定を覆したと報じられた。国際通商裁判所は、国際貿易および関税問題に関する事件を取り扱う、特別の一審裁判所である。国際通商裁判所はITCに対し、申し立てられている事件について再調査し、90日以内に新しい判断を示すよう命令した。Donald Pogue判事は、Crayが日本の二社から実質的な損害を受けているという申し立てを却下し、ITCは間違った法的基準を適用していると述べた。1997年の判定には、矛盾が内包され、納得できない事実認定がなされていると判断した。

3) ITCの再裁定
翌1999年3月、米国ITCは再び日本のスーパーコンピュータ販売はアメリカの製造会社に損害をもたらすと再び判断した。日本電気のスポークスマンは、「ITCが二度までもこういう判断をしたことは遺憾である。われわれは30日以内に意見を文書にして国際通商裁判所に訴える予定である。」と述べた。富士通の副会長も、「日本の会社はダンピングを行っていないし、アメリカの脅威ではないという我々の判断は正しいと革新している。30日以内に意見書を裁判所に提出する。裁判所の判断を見守りたい。」と述べた。

4) Bill Buzbee引退
11年前からNCARのSCD (Scientific Computing Division)に務めていたBill Buzbeeは、日本電気のSX-4の導入に熱心であったが、これまでの動きに失望し、1998年9月までに部長を辞職すると述べた。2年間は上級研究員としてNCARに残る予定である。Bill Buzbeeは、LANLに25年間勤務したのち、1987年にBoulderのNCARに着任した。

SCDの職員に宛てられたメモの中で、「1998年はSCDの新しい部長を迎える好機であろう。SX-4は手の届かないところに行ってしまい、世界は超並列システムに移りつつある。」と述べた。Buzbeeは2年前から1998年には引退しようと考えていたとも述べた。1998年5月末には、128プロセッサのSGI Origin 2000を導入し、その後Cray J90を購入した。

5) 遠隔計算サービス
共同通信の4月の報道によると、スーパーコンピュータそのものをアメリカに売ることができないので、日本電気は32プロセッサのSX-4を東京に設置し、海外のユーザに対しインターネットを経由した計算サービスを始めているということである。料金はCPU時間当たり100ドルである。どの程度利用されたかは分からない。

ヨーロッパの企業の動き

1) Quadrics社
1996年、Alenia Spazi社とMeiko Scientific社との合弁会社としてブリストルとローマで設立したQuadrics Supercomputer World社は、高速な相互接続ネットワークQsNet Iを発表した。バンド幅は350 MB/s、MPIレイテンシは5μs。

ベンチャー企業の創立

1) Google社
Stanford大学の院生であった Lawrence Edward “Larry” PageとSergey Mikhailovich Brinは、1996年からバックリンクを分析する検索エンジンBackRubを研究していたが、大学を休学し、1998年9月4日にAndy Bechtolsheim(1995年にSun Microsystems退社)から10万ドルの資金援助を得て、非公開の会社としてGoogle社を設立した。株式公開は2004年。

ベンチャー企業の終焉

1) Digital Equipment
1998年1月26日、DEC (Digital Equipment Corporation)は、$9.6BでCompaq社に売却されることが発表された。DECの株主は、1株当たり現金$30とCompaqの株式0.945株を受け取る。Compaqは新株150 M株を発行し、現金$4.8Mを支払うことになる。Intelとの特許紛争のため、Alphaなどのマイクロプロセッサ部門はIntel社に売却された。数々の輝かしい業績を積み上げてきたDECもあえなく最後を迎えた。約15000人の人員整理を行うことになった。しかし、既定路線通り、10月にはAlpha の第3世代EV7が発表された。プロセッサ間通信のために、2.5 GB/sのリンクが4本出ている。

1998年10月、Compaq社は575 MHzのAlpha 21264プロセッサ200個を結合したサーバを出荷すると発表した。後のことになるが、Compaq社も2002年にHewlett-Packard社に吸収合併される。

2) The Dead Supercomputer Society
このころ、The Dead Supercomputer Societyというホームページが出現した。つぶれた、あるいは吸収されたコンピュータ会社の一覧である。まあ”dead”の基準は曖昧である。ConvexやCray Researchはdeadと言っていいのであろうか。現在でも見られる。

さて次は1999年、世紀末も近づいている。情報科学技術部会は最終答申を出すとともに、「先導プログラム」が始まった。クリントン政権は、PITAC報告を受けて「21世紀の情報技術」イニシアティブを提唱した。

(タイトル画像:SDSCに設置されていたTera MTA-1 画像提供:田村栄悦氏)

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