世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

4月 4, 2022

新HPCの歩み(第87回)-1988年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

富士通は12月、第2世代のベクトルスーパーコンピュータVP2000シリーズを発表した。日本電気は64 PEのマルチプロセッサシステムCenjuを開発した。Unix OSの実装のためのオープンな標準を策定するため、OSFが創立された。Gustafsonの法則は、weak scalingにより高並列が実用化できることを示した。中国では、大学内にPCがあふれていて驚いた。

日本の企業の動き

1) 富士通(VP2000)
前年の日立に続いて、富士通も12月、第2世代のベクトルスーパーコンピュータVP2000シリーズを発表した。最高のFUJITSU VP2600ではピーク性能が4 GFlopsであった(その後出荷前の1990年1月に5 GFlopsにクロックアップ)。シングル・ノードであるが、ベクトル演算器の利用効率を上げるために、スカラユニットを2台設置するDual Scalar Processorも用意した。1台のものを(/10)、2台のものを(/20)と記す。スカラユニット4台とベクトルユニット2台からなる構成も可能とのことである。OSはメインフレーム系のMSPとUnix系のUXP/Mとが可能であり、仮想マシンも構成できる。なお、2000シリーズではハイフンを入れずにVP2000と書く。海外(の一部?)ではVPX220(VP2200相当)、VPX240(VP2400相当)、VPX260(VP2600相当)という名前で販売されていた。

最高のVP2600モデルでは、ベクトル部は128 KBのベクトルレジスタがあり、VP-100/200と同様に動的に構成変更可能である。2個の同一のパイプラインを持ち、各パイプラインは、乗算または加算または乗加算または論理演算を行う。スカラ部は、パイプライン実行を行い、浮動小数演算ではサイクル毎に命令発行が可能である。

1993年6月のTop500リストからVP2600の設置状況を示す。順位は45位タイ。

設置組織

機種

Rmax (GFlops)

設置年

京都大学

VP2600/20

4

1990

富士重工

VP2600/10

4

1990

日本原子力研究所

VP2600/10

4

1991

日本原子力研究所

VP2600/10

4

1991

名古屋大学

VP2600/10

4

1991

動力炉核燃料事業団

VP2600/10

4

1991

動力炉核燃料事業団

VP2600/10

4

1991

九州大学

VP2600/10

4

1992

航空宇宙研究所

VP2600/10

4

1992

大成建設

VP2600/10

4

1992

 

VP2400は2件記載されている。

2) 日本電気(Cenju、PC-9801RA、ウィルス)
1986年頃から並列処理を研究していたが、1988年、64 PEのマルチプロセッサシステムCenjuを開発した。名前は「千手観音」に由来する。PEはMotorolaのMC68020にMC68882とWeitekのWTL1167(ピーク1.6 MFlops)を付加し、主記憶は4 MBであった。各PE は8台ごとに1本のクラスタバスで結合され、クラスタバス間は蓄積型多段結合網で結合されている。メモリは2ポートで、自分のメモリにはローカルアドレス(0x000000~0x3fffff)で高速にアクセスできる。各メモリのもう一方のポートはクラスタバスに接続され、他のPEからクラスタバスを経由してグローバルアドレス(0x80000000~0xbbfffff)でアクセスできる。クラスタ内のデータ書き込みはハードウェアで実現し、クラスタ間のデータ読み出しをハードウェアとソフトウェアの分担で実現した。キャッシュコヒーレンシはどうなっているのであろうか。拡張を考えてPE当たり8 MBに対応するアドレスを確保してあり、その上位はPE番号である。またクラスタ当たりのPE数にも余裕を見ているようである。現在のPGAS (Partitioned Global Address Space)に近い。日本において、他の高並列システムが純粋な分散メモリ方式を採用しているのに、グローバルアドレスを併用しているところが注目される。回路シミュレーションなどが応用のターゲットであった。応用は回路のみに限らない。日経産業新聞1990年9月3日号によると、航空宇宙技術研究所は科学技術庁の官民特定共同研究制度の指定を受け、10台のCPUを搭載したCenjuを購入したとのことである。1991年春の情報処理学会全国大会では、日本電気とのチームが、Cenju上で、有限要素法の剛性行列作成の並列化効率について発表を行っている。その後、Cenju-II (1992)、Cenju-3 (1993)、Cenju-4 (1996)と発展していく。

1988年10月、PC-9801RAを発売した。CPUは20 MHzの80386と8 MHzのV30である。同時に、RSやRXも発売。

日本電気は、1986年4月からパソコン通信サービスPC-VANを運営してきたが、1988年9月13日、日本国内初のウィルスが報告された。厳密にいうと、トロイの木馬型で、自己増殖型のウィルスではない。

3) 東芝(Prodigy)
東芝はこのころ並列AIマシンProdigyを開発した。CPUは68070 (MC68000互換のPhilips製)、ネットワークはBase-8 3-Cube(512の場合)である。まず、Prodigy-16を製作し、その後、Prodigy-512を開発した。目的はHPCというよりAIであった。

4) 日立製作所
ワークステーションでは、1988年5月、2050や2020の後継モデルとして、68020 (20 MHz)と68881を搭載した2050/32と、80386 (20 MHz)と80387を搭載した2020/32を発表した。

5) 三菱電機(ME100/200/400)
1988年9月、三菱電機は、エンジニアリング・ワークステーションME100、ME200、ME400を発表した。CPUにはMC68030 (16.7、20、25 MHz)、FPUにはMC68882/MC68881を採用し、OSはUNIX System V R3.0 +4.2 BSDを搭載した。X-Window V11を採用した。

6) TRONチップ
TRON仕様の32ビットMPUを共同開発していた日立製作所、富士通、三菱電機のGマイクログループ3社は、32ビットMPUのGMICRO/200および、その周辺LSIの3種類を開発したと1988年1月発表した。GMICRO/200は日立が開発したもので、1μCMOSアルミ2層プロセスにより73万トランジスタを集積し、クロック周波数は20 MHzである。周辺LSIは富士通が開発した。

7) 日本IBM(TOP-1)
この頃、IBM東京基礎研究所では、並列ワークステーションTOP-1を試作した。10プロセッサのSMPマシンで、ノードはIntel 80386とWeitek1167を使っていた。スヌープキャッシュを搭載している。試作に先立って行ったメモリのシミュレーションでは、キャッシュヒット率が0.90以下の場合は、10プロセッサより台数を増やしても性能はほとんど向上しないことが分かった。1990年に池袋サンシャインで開かれたSCJ90で展示していた。製品には結びつかなかった。

8) 日本Sun Microsystems社
東芝の常務取締役であった天羽浩平は、1988年日本サン・マイクロシステムズ社代表取締役社長となった。米国のSun Microsystems社副社長を兼務。

9) ソニー(MVC-C1)
ソニーは1981年に、電子スチルビデオカメラ「マビカ」を試作していたが、1988年にマビカMVC-C1を発売した。製品としては、1986年に発売されたキヤノンのRC-701の方が先であった。

10) キヤノン(Q-PIC)
キヤノンは1986年発売のスチルビデオカメラRC-701に続いて、RC-250をQ-PICの愛称で1988年12月に発売した。98000円の低価格化を実現した。

11) IBM産業スパイ事件
1982年に始まった産業スパイ事件に関連して、アメリカIBM社は、1984年に日立と富士通の立ち入り検査を行い、12月に富士通が協定違反しているとして違約金の支払いを求めた。しかし和解契約に曖昧な箇所があり、両社の見解の隔たりも大きく、紛争が再び表面化した。両社はAAA(米国仲裁協会)に仲裁を求めた。AAAは1987年9月に仲裁命令を下し、富士通に和解金の支払いを命じた。1988年11月29日深夜(日本時間)にAAAは最終決定を下し、紛争は決着した。最終裁定では、富士通がsecured facilityを設置してIBMのインタフェース情報を抽出すること(つまりIBMのプログラム資料そのものは自社の開発に使用しないこと)、および富士通が過去、現在、未来にわたって免責を受ける一括払いライセンス料$833M(過去に支払った分を含む)を支払うことが決められた。

この頃IBM社は大型メインフレーム事業が伸び悩み、IBM社のシェアは1987年には88%に落ち込んでいた。IBM社は、1986年には13000人、1988年には7000人の人員削減を図り、1990年にも10000人以上の退職者を予定している。日本IBM社も相当の人員削減を行う。90年代になって、人事担当者に「人員整理をすると、他でも働ける優秀な人材から抜けていきますよ。」と言ったところ、「それをわかってやるのが人員削減です。」と言っていた。ナビスコ社からLouis V. Gerstner, Jr.を引き抜き、CEOに据えるのは1993年である。

標準化

1) UNIX System V
System V Release 4.0は、UNIX System Laboratories(AT&Tの子会社)とSun Microsystems社とが共同開発し、1988年10月18日に発表された。Release 3 と 4.3BSD、XENIX、SunOSの技術を統合したものである。主なプラットフォームはx86とSPARCであった。1989年以降の各社の商用UNIXはこれを基に開発している。Release 5はSCOが1997年開発する。

1988年11月、Unix OSの共同開発のために、AT&T とSun Microsystemsを中心に業界団体UI (Unix International)が設立された。UIには、富士通、日本電気、東芝も参加する。

2) OSF
Unix OSの実装のためのオープンな標準を策定するため、OSF (Open Software Foundation)が1988年5月に創設された。当初のメンバーは、アポロコンピュータ、Bull、DEC、Hewlett-Packard、IBM、Nixdorf、Siemensであり、その後 Philipsや日立などが参加した。この組織の創設は、上記のようにUI (Unix International)を創設しようとしていたことに対抗したものという側面が大きい。OSF/1 1.0は1990年にリリースされる。1993年、UIとOSFの主要メンバ企業は、COSE (Common Open Software Environment)イニシアチブの結成を発表する。94年3月、OSFとUIは合併し新たなOSFに統合する。

3) X Window
1988年1月、今後中立的な環境でX Windowを開発するために、Scheiflerを会長として、非営利ベンダグループである X Consortiumを設立した。1993年には非営利団体のX Consortium, Inc.が後継として設立された。

4) RAID
UC BerkelyのDavid A. Patterson, Garth A. Gibson, Randy H. Katzは、論文“A Case for Redundant Arrays of Inexpensive Disks (RAID)”においてRAIDを提案し、RAID1からRAID5まで定義した。

性能評価

1) TPC
HPCではないが、1988年8月10日、TPC (Transaction Processing Performance Council)が成立した。トランザクション性能のベンチマークを定義しようという動きは1980年代前半からあったが、Datamation誌の1985年4月1月号にJim Grayは24名の共著者とともに「トランザクション処理能力の測定法」という記事を書き、測定法を提案した。その後Omri Serlinなどの努力により、8社の合意ができTPCが1988年8月に成立した。TPC-A, TPC-Bなど種々のベンチマークを定義したが、多くはすでに失効している。現在有効なのは、オンライン・トランザクション処理のTPC-CとTPC-E、Decision SupportのTPC-HとTPC-DS、仮想化のTPC-VMS、ビッグ・データのTPCx-HSである。

2) SPEC
SPEC (Standard Performance Evaluation Corporation)は、コンピュータの性能を公正に評価するために非営利団体として1988年に設立された。全ての主要なコンピュータ企業やソフトウェア製造業者などのメンバー企業が資金提供している。

3) Gordon Bell賞
Gordon Bell賞は、1987年から授与されているので、今年は2回目である。受賞者は以下の通り。ベクトル計算機で受賞するのはこれが最後である。

Peak Performance
First Place: Phong Vu, Cray Research; Horst Simon, NASA Ames; Cleve Ashcraft, Yale University; Roger Grimes and John Lewis, Boeing Computer Services; Barry Peyton, Oak Ridge National Laboratory; “Static finite element analysis,” 1 Gflops on 8-proc. Cray Y-MP, Running time reduced from 15 min. to 30 sec.

Price-Performance
Honorable Mention: Richard Pelz, Rutgers University; “Fluid flow problem using the spectral method,” 800 speedup on a 1,024 node N-CUBE Compiler Parallelization

Honorable Mention: Marina Chen, Young-il Choo, Jungke Li and Janet Wu, Yale University; Eric De Benedictus, Ansoft Corp.; “Automatic parallelization of a financial application,” 350 times speedup on a 1,024 N-CUBE and 50 times speedup on a 64 node Intel iPSC-2.

 

SC88では前年の第1回Gordon Bell賞の受賞者を招いて非公式な発表会が行われた。

ネットワーク関係

1) BITNET
1988年、CSNETとBITNETが合併し、CREN (Corporation for Research and Educational Networking)として統合された。

2) WIDE
1988年、村井純らはインターネットに関する研究プロジェクトWIDEを設立した。東大と東工大の間を64kbpsで接続した。1989年、WIDEは64 kbpsの国際専用線をハワイ大学に接続し、TCP/IPによるアメリカのインターネットとの接続を実現した。

3) TISN
日本の初期の学術インターネット運営組織の一つであったTISN (Todai International Science Network、東大国際理学ネットワーク)への動きもこのころ始まった。オペレーションズ・リサーチ学会学会誌『オペレーションズ・リサーチ : 経営の科学』1992年12月号の「TISN(東大国際理学ネットワーク)について」(釜江常好、白橋明弘)によると、「1988年にNASAなどの支援を受けたハワイ大学計算機科学科のT.ニールセン助教授より東京・ハワイ間の専用回線料金を分担するから、基礎研究における汎太平洋ネットワークの日本での中心になってほしいとの提案が東大をはじめとする複数の機関になされた。」東大理学部では、これを受けて和田昭允教授(当時評議員)を中心に検討を進めた。引き受けることを決意し、国際理学ネットワーク委員会を発足させた。富士通株式会社からの寄付を基金として、1989年8月にハワイ-東大間が接続され、西海岸のノード(FIX-West)と接続された。ネットワークの運用が開始された。東大理学部教授会には、数年のうちにTISNの運営を引き受け発展させてくれるところが現れると説明し了承を得たが、IMnet等に移管が完了したのは1996年であった。

4) EUnet
1988年11月17日、オランダのCWI (Centrum Wiskunde & Informatica)は、NSFNETとIPで接続した。これは、アメリカ外からインターネットと接続した最初の例である。

5) Morrisワーム事件
1988年に、インターネットを揺るがす大事件が起こった。現地時間11月2日、Cornell大学コンピュータ科学専攻の大学院1年生であったRobert Tappan Morris, Jr.は、MITから自己増殖するプログラムwormをインターネットに投入した。このwormは、Sun-3と4BSDで動いているVAX計算機だけにしか侵入できなかったが、たちまち増殖し、多くのコンピュータを利用不可能にしてしまった。ただし、コンピュータ内のデータを破壊したわけではない。Morris自身は損害を与えるためにやったわけではなく、インターネットの大きさを測るためだったということだが、6千台のVAXやSun-3に侵入し、多くのプロセスが起動され、一種のDDoS攻撃となってしまった。メールが使えないので、各機関のネットワーク管理者は電話で連絡を取りながら対策したという。なお、このとき、日本はまだメールだけでインターネットには接続されていなかったので損害はなかった。彼は「3年間の保護観察、300時間の社会奉仕、約1万ドルの罰金」の判決を受け、刑に服したが、その後会社を立ち上げるとともに、1999年にはMIT教授となり、2006年にはテニュア資格を取得したとのことである。彼の父親はNSAでネットワークのセキュリティを担当しているNational Computer Security Centerの主任科学者だそうで、「蛙の子は蛙」というべきか。

これを機に、Carnegie-Mellon大学内にCERT/CC (Computer Emergency Response Team/Coordination Center)が設置された。その後、世界各地にCERTを含むチームが設置された。

国際的な動き

1) UNESCO(IBI)
1951年11月にパリで合意した「国際計数センター」は、1962年にやっと14か国の批准が集まり、正式の「国際計数センター」が発足した。1971年にIBI (Intergovernmental Bureau for Informatics) に転換したが、日本はIBIには参加しなかった。先進国で残ったのはフランス、イタリア、スペインの3国で他は開発途上国であった。参加国は1985年には43か国を数えたが、1985年フランスが脱退し、1986年末にスペインも脱退した。IBIはUNESCOとは独立の会計だったので、主要国の脱退により分担金が集まらなくなり、1988年に解散した。

2) IPCC
国際的な専門家でつくる、地球温暖化についての科学的な研究の収集、整理のための政府間機構IPCC (Intergovernmental Panel on Climate Change)が、UNEP (United Nations Environmental Programme 国際連合環境計画)とWMO (World Meteorological Organization 世界気象機関)とにより共同で設立された。1988年11月にGeneveで「IPCC第1回総会」を開催し、世界中の第一線の研究者が寄与した地球温暖化問題に関する研究成果についての評価を行い、それらの結果をまとめた報告書をつくることが決定された。第1次評価報告書(First Assessment Report 1990)は、1990年に発表される。 余談であるが、ICPP (International Conference on Parallel Processing)を検索しようとすると、検索エンジンが、「IPCCのお間違いでしょう」と勝手にキーワードを変更するので困る。2007年、Al Goreとともにノーベル平和賞を受賞する。

ヨーロッパの動き

1) ESPRIT計画
1981年のところに書いたように、日本の第五世代コンピュータプロジェクトに対抗する形で、EUでは1983年からESPRIT(European Strategic Program for Research and Development in Information Technology)が始まっている。Wikipedia(英語版)によると、1983年から1998年までに、ESPRIT 0からESPRIT 4まで5プログラムが実施された。

すでに述べたように、Inmos社を中心に、ESPRIT Supernode projectが1985年12月から1989年11月まで続けられた。その目的はT800 transputerを用いて低価格で高性能なリコンフィグラブルなコンピュータを開発しようとするものである。Parsys SN1000はその商品化である(SNはSupernodeから来ている)。これはESPRIT 1のプログラムであろうか。

詳細は不明であるが、1988年4月12日付日経産業新聞によると、EC委員会では、第2期計画ESPRIT2において、5年間で34億ECU(エキュ、ヨーロッパ通貨単位、ほぼ1ドル)を投じ、プロジェクトを選定している。これに対し、2つのグループが応募した。一つは、イギリスのICL社、西ドイツのSiemens社、フランスのBull社の共同グループで、もう一つはイタリアのOlivetti社とオランダのPhilipps社の連合である。後述のように、ヨーロッパでは1989年から3年間GENESISというプロジェクトが行われているがそれとの関係は不明である。

なお、ESPRIT計画は、1998年にはIST計画(Information Society Technology)に吸収される。

アジアの動き

1) 中国のコンピュータ事情
後述するように、Supercomputing 88(第1回)がOrlandoで開かれたが、筆者等の投稿したQCDPAXに関する論文が通らなかった(まだマシンが出来ていなかったのでしょうがない)ので参加するかどうか迷っているところに、筑波大学の使節団として中国視察(11/9-16)に行かないかという話があり、SCをやめてそちらに乗った。代表団は第三学群長の新井敏弘先生と、事務の吉田氏(研究部長)と筆者の3人。初めての中国だったので印象深かった。共産圏では公用旅券の方が幅が効くからと、初めて緑色のパスポートを取得したが、どう違うのかわからなかった。主たる目的は、西安交通大学の訪問と研究交流の打ち合わせであるが、その前後に、北京大学と清華大学も訪問した。びっくりしたのは、大学でものすごい数のPC(清華大学では1500台)が使われていたことで、当時の筑波大学よりはるかに多かった。しかもネットワークでつながっていた。学部学生の物理実験でも、一つの機械に2つもPCがついていた。PCもIBM/PCだけでなく、中国製の互換機「長城」や台湾製など多様であった。計算中心(センター)の大型機としては、IBMは輸出禁止で、西安交通大学でも清華大学でも、ハネウェルのDPSSが学部学生用に、(何と)Elxsiが院生と研究者用に使われていた。100ほどの端末は満員で、しかも24時間開放とのこと。清華大学では富士通のM-760が到着したところであった。

どこの大学でも画像認識のデモを見せられた。車のナンバープレートを読むものもあった。警察と共同研究している研究室もあったようである。デモとして見せやすいので画像認識を見せてくれたのかと思っていたが、昨今の中国の監視カメラ事情を見ると、まさにその原点であったのかもしれない。

この時、北京では万里の長城(八達嶺)、明の十三陵や故宮に、西安では青龍寺、大雁塔、華清池、秦始皇帝兵馬俑、碑林博物館などに案内された。万里の長城の上に立って北側の大草原を見ると、寒風とともに押し寄せる騎馬民族の姿を想像し、防壁を造る気持ちが分かった。空海ゆかりの青龍寺ではガイドが「日本人はここに来たがりますが、中国人は知りませんよ。」と言っていた。興慶宮公園では、唐の高官になるも帰国を果たせなかった阿倍仲麻呂の記念碑を見た。華清池(Huaqing chi)は楊貴妃が湯あみをしたという所で、今も温泉場であるが、1936年の西安事件でも有名である。ガイドの言うChiang Kai-shekが蒋介石と分かるまで少々時間を要した。兵馬俑は、当時世界文化遺産に登録されたばかりで、ごく一部が発掘されただけだったが、それでもその規模に圧倒された。我々は見学通路から見下ろしただけであるが、VIPと思しきグループはすぐそばまで案内されていた。

2) シンガポール
1988年末までに、シンガポールにAdvanced Computation CentreがComputer Engineering Systemsという政府系の法人によって設立されることとなった。NEC SX-1A (ピーク665 MFlops)が年末までに、IBM 3090-200E-VF(ベクトルは2本で、ピーク240 MFlops)も近々設置される。両社とも5年間のサポートが付いている。このセンターは教育省と経済発展理事会が運営する。シンガポール国立大学とも密接な関係を保っている。アカデミアだけでなく、産業界にも開放されている。

NSRCが設立されるのは1993年、研究所iHPCが設立されるのは1998年である。

3) インド
インド政府の電子情報省は、1988年11月にC-DAC (Centre for Developmento of Advanced Computing)を設立した。インドは原子爆弾を作っているということで、Cray Researchのスーパーコンピュータが輸出禁止になったので、ロシアの協力のもとに自前のスーパーコンピュータの開発を始めた。理事長はVijay Bhatkar。PARAMシリーズと呼ばれ、後には番号かサンスクリット語らしき名前がついている。Paramはサンスクリット語で”supreme”を意味するとのことである。

PARAM 8000 (1991年8月):64個のT800/T805 transputerをCPUとして用いる。256ノードも作られた。

PARAM 8600 (1992年) :ノードはT800とi860からなる。256ノード。性能はPARAM 8000の4倍。ここまでがC-DACの第1期計画である。

PARAM 9900/SS (1994):ノードはSuperSPARC II。Clos Networkを用いて最大200ノード。新しいプロセッサを利用できるようモジュラに設計され、UltraSPARCを使ったPARAM 9900/USやDEC Alphaを使ったPARAM 9900/AAもある。

PARAM 10000 (1998):ノードはSun Enterprise 250サーバ(400 MHz UltraSPARC II×2)。典型的には160 CPU。ここまでがC-DACの第2期計画である。

PARAM Padma (2002年12月):ノードはIBM Power4のサーバ。ピークは1TFlops。ネットワークPRAMNet-IIは自主開発。Padmaはサンスクリット語で「蓮の花」とか1015を意味するらしい。2003年6月のTop500において、コア数248、Rmax=532 GFlops、Rpeak=992.00 GFlopsで169位にランクしている。

筆者は、2002年12月にBangaloreで開かれたHPC Asiaの際に、会場近くの研究所にあるこのマシンを見に行った。公式発表より前だったようである。なぜInfiniband等を買わずに相互接続ネットワークを自主開発したのか質問したら、「禁輸に備えて」ということを強調していた。でもノードも輸入品なのだが。

PARAM Yuva (2008年11月):Xeon X7350 (quad-core、2.93 GHz)のクラスタ。HPE製。2008年11月のTop500では、コア数4608、Rmax=37.8 TFlops、Rpeak=54.0 TFlopsで、69位にランクしている。チューニングにより、2009年11月からはRmax=38.1 TFlopsに増大している。Yuvaはサンスクリット語で「若者」を意味するらしい。

PARAM Yuva II(2013年2月8日)は、Xeon E5-2670 8C 2.6GHzのクラスタで、2013年6月のTop500で、コア数30600、Rmax=386.7 TFlops、Rpeak=529.4 TFlopsで70位にランクしている。

その後PARAM ISHAN(2016年9月19日)、PARAM Brahma、PARAM Siddhi-AI、PARAM Shivay、PARAM Sanganak、PARAM Gangaなど開発を続けているようである。

政府内の他の部署でもスーパーコンピュータの開発を進めており、特にインド国防省のDefence Research and Development Organizationは、1988年5月2日にANURAG (Advanced Numceircal Research and Analysis Group)を設立し、並列処理、システム統合、マイクロプロセッサ、VLSIやSOCの開発、数値解析や種々の応用のためのソフトウェアなどの開発を行っている。

世界の学界の動き

1) Gustafsonの法則
Sandia National LaboratoryのJohn L. GustafsonはCommunication of the ACMの31巻5号(1988年5月)に”Reevaluating Amdahl’s Law”を発表し、いわゆるGustafsonの法則を主張した。Amdahlの法則が間違っているわけではなく、weak scalingでよければ超並列は意味があることを示した。

2) Delft大学(DMDP)
1983年にIsing専用機を作ったが、このころ分子動力学専用機DMDP (Delft Molecular Dynamics Processor)を製作した。

3) APE project(イタリア)
イタリアでは、INFNのAPE projectが最初の格子ゲージ専用計算機APE(ピーク 1 GFlops)を完成した。1989年に見学したが、SIMDで、命令が同一であるばかりか、オペランドのアドレスも同一であった。格子ゲージ計算はステンシル計算なので、これで実用になるとのことであった。1次元リング接続であったが、メモリ領域を越えてアクセスしようとすると、隣のプロセッサのメモリがアクセスできるという機構があった。QCDPAXはc-likeなコンパイラを開発したが、APEではFortranに似たApeseという言語を開発した。

国際会議や企業関係は次回。Convex社はC1をクロスバで結合したX-MP互換のC2を出荷。他方、Steve ChenはCrayを退社し、IBMの支援のもとにSupercomputer Systems Inc. (SSI)を設立する。

 

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