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【わがスパコン人生】第6回 小林敏雄

やりたいことを自分で見つける
東大生産技術研究所にて33年間に渡り、計算機を使った「空力予測」と「可視化と画像処理」の研究を続けられたのち、「世の中のためになれるようなこと」をしたいとの思いから、今なお精力的に活動される小林敏雄先生にお話をお聞きしました。
「やりたいことを自分で見つける」
―幼少期からのバックグラウンドを簡単に教えてください。
私は神奈川県の足柄山の麓ののどかな町で生まれて小学校、中学校とそこで過ごしました。父親が国鉄職員でしたので、幼い頃から鉄道には非常に興味がありました。高校は越境で湘南高校、その後は東京大学の工学部機械工学科へ進学し、流体力学の白倉昌明教授の研究室に入りました。大学へ進んだ頃は、特にこれをやろうという明確なことよりも、「物理をやろう。物理でどういう形になるか分からないけれど、世の中のためになれるような方向性を見つけよう」と考えていました。
機械工学科を卒業したのが1965年ですが、その後進んだ修士の1年生のときに東大に、日立のHITAC 5020Eという国産初の大型汎用電子計算機が入りました。新しいものが好きだったこともあり、それを使えるような研究がしたいと、修士の1、2年生のときには、軸流圧縮機の翼列の計算と実験を行いました。しかし、そのときは理想流体の流れを対象とし、等角写像法という手法を用いての理論計算をコンピュータ上に展開するものでした。
修士課程を修了し、博士課程に進みました。学生運動が盛んな時期で、工学部のキャンパスがあった本郷では号館封鎖などを経験しましたが、私は六本木にありました東京大学生産技術研究所で2次元物体まわりの乱流に関する研究に従事し、物体に作用する流体力の特性に関する学位論文を仕上げました。
―その後、長年在籍されることになる東大生産技術研究所でのことを教えてください。
1970年に博士課程を修了すると、生研で指導教官になって頂いていた石原智男教授の研究室に助教授として籍を置くことになりました。生産技術研究所(以下、生研と略す)は東京大学第二工学部の後身ですが、その建物は二・二六事件における青年将校の立てこもった兵舎で、戦争後に米軍が接収し、その後に東京大学のキャンパスになった、地上3階地下1階の古いコンクリート建造物でした。現在は取り壊されて新美術館となっています。その生研の機械系の流体工学、流体機械学部門に所属しました。この頃に一番苦しんだことは、流体力学を基盤として、どういう研究を進めるかということでした。石原先生からは、「何をやってもいい。ただし、私のやっていることはやるな!」と折に触れて指導を受けましたが、それはすごいプレッシャーでしたね。
石原先生は自動車のオートマティックトランスミッションに代表されるトルクコンバータの研究で世界的な成果を挙げられた先生です。その石原先生の研究室となれば、トルクコンバータの研究をしている人がほとんどでしたし、装置もトルクコンバータに関わるものがほとんどでした。そんな中で、トルクコンバータだけは研究の主対象にするなというのです。
当時の生研の先生方には明確な二つの指標があったように思います。ひとつは、生研は学問と現場を結ぶ、社会で実際に使えるものを作るための試作工場になるべきであるということ。 もうひとつは、大学の教授たるもの自分の新しい領域を作らなければいけないということです。現在でも生研はそういった方向性で進んでいると思います。後者が、「トルクコンバータだけはやるな」という石原先生の言葉の真の意味だったと思います。
―何をやるべきか、すぐに見つかりましたか?またスパコンを使い始めるきっかけなどがあれば、教えてください。
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それから5年ほど、何をやるべきか相当に悩みました。そんな中で、ふたつの契機がありました。先ず、名古屋大学の古屋善正教授が機械学会の中に、非定常流における流速、流量の測定方法に関する分科会を立ち上げられ、私は白倉先生の代理で分科会に出席していました。そこで古屋先生から流れの可視化技術の将来についてまとめることを任されたことです。今でこそ、ビジュアライゼーションという英語に相当する「可視化」という言葉はよく使われていますが、当時は「大学で可視化を研究しています」と言うと、「お菓子の学科があるのですか?」と質問されるほどでしたよ。
その時に、コンピュータで画像処理をすれば流れを定量測定する方向があるなと思いました。トレーサと呼ぶ微小粒子を流れに注入し撮影して得られる、瞬時の流れ場の大量の時系列画像を、スパコンを使って処理するCAFV(Computer Aided Flow Visualization)という分野の研究を一から進めました。それが現在では粒子画像流速測定法(PIV: Particle Image Velocimetry)という分野になり、流れ場の瞬時計測の有力な手法に発展しました。
もうひとつはスーパーコンピューティング研究の発端となった出来事です。1970年代初頭の日本の自動車産業はある程度の力はついていましたが、アメリカやドイツの車にはまだ追いついてはおらず、一段と飛躍させるには基礎研究をしっかりしなければいけないというのが、自動車業界共通の認識でした。欧米ではそれぞれの自動車メーカーが、それぞれの研究グループ、研究施設を持っていましたが、日本では各メーカーがそれを持つほどの力はなく、多くを共通の課題として捉え、自動車研究所の中に研究体制を作ろうとしていました。
生研には自動車業界と共同研究をされている先生方がおり、強いコネクションがありました。その関係で、私自身も博士課程の頃から自動車研究所に出入りしていたこともあり、石原先生の推薦で1972年のヨーロッパの自動車風洞を調査する調査団の団長に任命して頂き、欧州6カ国の自動車風洞を調査しました。私は流体力学が専門ですから、車の周りの流れや、車が走っているときにどういう力を受けるかなど、そういう部分での調査に興味がありました。
その調査の中で、ドイツのフォルクスワーゲンの風洞を視察したときに、自動車の形が緻密な研究の上に成り立っていることに非常に驚かされました。当時のドイツは航空工学が強く、たとえば航空研究所DLR は特徴ある大型の風洞を数多くもっていました。そこで培ったいろいろのノウハウを自動車製作に活かしているのです。車の形はデザイナーが主導的に決めていましたが、形の候補は無限にあるわけですから、空気力学的性能と形がどういう関係にあるのかを知ることは重要なことです。このノウハウを風洞試験で日本が構築するには20年、30年かかり、この方法では欧米を越えられないと思いました。そこで、コンピュータシミュレーションの採用に力を注ぐべきだと思いました。このふたつの出来事が、コンピュータシミュレーションによる流体力学研究の契機になりました。
―他にも思い出に残っているエピソードなどがあれば、教えてください。
1980年代初頭には、走行中の自動車が横風によって事故を起こすということが欧米でも多く現れました。1982年にロンドンで自動車空力の国際会議が行われた際に、私たちのグループは流体と自動車の横風安定性の研究を発表しました。後年、研究仲間になるカールスルーエ工科大学のW. Rodi教授も会議に参加されており、カールスルーエ大学を見に来ないかと誘って頂きました。実際に訪問しましたが、研究室では熱線風速計やレーザ・ドップラー流速計を使って、乱流の統計的性質を無人自動計測する手法の開発を行っているのを目の当りにしました。また、自動車の風洞実験解析で有名なフォルクスワーゲン社のHucho博士を紹介していただき、博士が主催している自動車の空力特性に関する欧州のシンポジウムに参加する機会を得ました。
このシンポジウムのセッションのひとつが、自動車の空力特性をコンピュータシミュレーションで得るというものでした。その当時は私たちも、非常に粗いメッシュでしたが、自動車周りの流れを計算し始めており、有用な情報交換を行うことができました。それ以来、欧州、米国の大学、自動車メーカーの、自動車周りの流れ、物体周りの流れの研究者技術者との交流の機会が飛躍的に増加していきましたが、一方で国内の自動車空力研究者のグループ作りにも力を注ぎました。特に、自動車技術会に空力特性研究委員会を再構築したことは強く印象に残ることでした。
スパコンとの関係で印象深いことはCRAY社の日本法人日本クレイ社の堀義和社長と親しくなったことです。1990年頃に自動車まわりの流れの数値解析を多く実行しましたが、リソースの提供や結果の表示について助言等多くの援助をCRAY社の人々からいただきました。日経新聞の朝刊に交遊抄というコラムがあるのがご存知だと思いますが、それへの寄稿を依頼されたときに、堀さんとの交流を書かせていただきました。日本CRAYの社員を経験された方は今でも多くの方がスパコンやコンピュータシミュレーションに関係する企業で活躍されていますが、交流は現在でも続いていますよ。
―スパコン「京」のプロジェクトに参加された経緯などを教えてください。
1983年に生研の内部に建築部門の村上周三教授、基礎部門の吉澤徴教授(故人)と機械部門の私の3人でNST研究会(NST: Numerical Simulation of Turbulent Flow)を組織し、主に乱流のコンピュータシミュレーションの研究を行いました。乱流現象は航空機工学、ロケット工学、環境工学、建築学、気象学、自動車工学など、広い範囲において存在する共通の課題です。それぞれの産業界の研究者、技術者と連携して、勉強会やシンポジウムを開きました。スタンフォード大学のFerziger教授(故人)、マンチェスター大学のLaunder教授、インペリアルカレッジのLeschiziner教授、カールスルーエ工科大学のRodi教授と特に強い連携を保って国際規模の情報交換、共同研究を進めました。このグループは名称を変えて現在も続いています。
ものづくりの分野でもコンピュータシミュレーションを大事にしなければいけないということで、NST研究会を母体に複雑乱流工学センターの構想等の幾つかの提案をしました。1987年には文部省の重点領域研究に数値流体力学(CFD: Computational Fluid Dynamics)が指定され、プロジェクトが立ち上がりました。プロジェクトはその後、広がりを見せ、1995年まで続きました。さらに、そのプロジェクトに集まった各大学の研究者がそれぞれの分野で文部科学省科学研究費やNEDOのプロジェクトを得ながら、コンピュータシミュレーション技術の実用化に向けて動き出しました。そして、スーパーコンピュータ(スパコン)の活用による計算流体力学の発展の時代には入っていきました。
私は1995年から2001年まではLES(Large Eddy Simulation) という、今、流体の中で主流になっている手法で、スパコンを使ってのシミュレーションの実用化に関する研究を進めました。生研内に計算科学技術連携技術センターを作ったのもこの頃です。
2002年には文部科学省のITプログラムとして「戦略的基盤ソフトウエアの開発プロジェクト」のプロジェクトリーダーとして発足させることができました。私の研究者生活の最大の仕事であったと思います。このプロジェクトの目標は、①科学技術の重点分野において産業や環境・安全に直接寄与することのできる世界水準の実用的科学技術計算ソフトウエアを、量子化学計算、タンパク質・化学物質相互作用解析、ナノシミュレーション、次世代流体解析、次世代構造解析の5つを対象として開発し、公開する、②実用的科学技術計算ソフトウエアの開発を通じて、新たに大規模計算ソフトウエアを開発できる人材を育成する、③実用的科学技術計算ソフトウエアをより広範囲に、より高度に進展させるための開発研究拠点を構築する、④実用的科学技術計算ソフトウエアの開発・運用を担える産業組織を設立するという4点でありました。
文部科学省の研究プロジェクトとして、当時、予算的にも人数規模的にも大きなプロジェクトで、生研の計算科学技術連携研究センターがこのプロジェクトの拠点となりました。プロジェクトはその後、革新的シミュレーションソフトウエア研究開発プロジェクト、イノベーション基盤シミュレーションソフトウエアの研究開発プロジェクト、HPCI戦略プログラムの次世代ものづくりプロジェクト等として持続し、現在も研究拠点として生研の計算科学技術連携研究センターが中心的に活動を続けていることに誇りを感じていますし、加藤千幸教授をはじめとする多くの後輩の活躍に感謝しています。
私は2003年に東京大学を定年で退官し自動車研究所の所長に就きましたが、スパコンについては自動車業界を中心に産業界での利活用の推進に重点を移しました。2005年に文科省と理化学研究所で「京」スパコンの開発が開始されました。国家基幹プロジェクトとしてフラグシップ・スパコンの開発を進めるには、産業界、ユーザーとしての研究者などによる応援団も必要です。戦略的基盤ソフトウエア開発プロジェクトの際に立ち上げたスーパーコンピューティング技術産業応用協議会等を強化してスパコン・ユーザーの立場としてプロジェクトに参加し、利用方法、規模、速くして欲しい部分といったところで、議論をさせて頂きました。
「今なお変わらない、社会の役に立ちたいという思い」
―先生はスパコンを使われる側だったと思いますが、先生にとってスパコンとはどういったものでしょうか?
私がプロジェクトに参加させてもらった「京」が完成したとき、産業界からは使いづらいといった意見があったようですが、私個人にとってはそれが使いやすい、使いづらいといったことはあまり問題ではありませんでしたね。京にしろ、ほかのスパコンにしろ、スパコンがこの世の中に現れてくれたこと自体に感謝しています。時代を変化させるのはコンピュータで、そのごく一部であるものづくり産業を革新するのはコンピュータの利活用であるあることは今も同じであると思っています。
私が最初にコンピュータを使って計算し始めたときから比べると、凄まじい発展を遂げており、研究の方が追いつかない感じですよね。今では多くのできなかったことが、できるようになりました。
たとえば身近な、単純と思われる流れに円柱や球の周りの流れというものがあります。この流れをコンピュータシミュレーションで再現するのは難しいことでした。円柱や球の表面に流れの境界層ができます。この境界層をある細かさで切った計算格子を用いないと正しい答えは出てこないため、私がコンピュータを使って計算していた頃はできませんでした。計算機能力が不足していました。だから、境界層の中についてはある仮定、あるモデルを作っていました。それが今では、コンピュータ能力の向上によって後輩の研究者たちは、実験結果を上回る精度で流れを再現することに成功しています。境界層の遷移という現象を含めて、流れの基本的性質に関わる知識を得ることができるようになりました。
自動車の設計や生産にもスパコンに活躍の場が与えられています。私の専門の近くでは、自動車空力の風洞試験をコンピュータ上で実現することに神戸大坪倉誠教授、北大大島伸行教授らのグループが成功しています。これらの仕事は産業界の方々の協力が不可欠なもので、産業界との大規模な連携がなされたという意味でも感慨深いものがあります。
私の学者人生とスパコンの発展が一致しました。これはタイミング的にも幸運でした。研究者個人としては、やりたいことのためのツールとしてスパコンに出会えたことが最高に幸せでしたね。
―「世の中のためになる」という目標は達成できたと思いますか?また、先生が研究を始められたころと、現代では随分と様々なことが変化していると思いますが、これからの課題はどういったことになるのでしょうか?
中学生時代、高校生時代に物理学的なことを好み、それを通して世の中の役に立つということを漠然と考え、生研助教授時代の産業との接点を研究の基盤に置くことを定めてから結果が戦略的基盤ソフトウエアの開発プロジェクトの立ち上げにつながり、その4つの目標がそれなりに達成できたという点では、小さい時の夢はかなったようにも思いますが、小さい時の夢がこれであったという自信はありません。
車が安全に動くために私のやってきた自動車のCFDの普及が社会にどれだけ貢献しているかといわれると、それは分からないですね。随分と楽しませて頂きましたが、達成できたとは思っていないから、77歳となった今もまだスパコンの実用への活用の仕事を現役的気分で続けているのでしょうね。今もまだ社会の役に立ちたいという気持ちがあります。
機械工学の世界で育ってきた、教育されてきた者の視点というのは、「信頼性の高いものでなければ世に出すな」ということでした。これはものづくりの基本です。今、私はアイシン精機株式会社の社外取締役をやっています。会社方針の一番上に「信頼性」を置いています。多くのものづくりメーカーも同様であると思っています。
ところが、今の世の中は、信頼性を自分たちで確かめる以前に、製品を世の中に出してしまい、利用者の利用結果から製品の改良をするという風潮になっています。この流れは、たとえば、デトロイトとシリコンバレーの対比で、デトロイトの古い体質はシリコンバレーの新しい体質に敗れた等に言われています。新しい体質では、完璧な状態ではなくても世に出してみて、情報を戻して、改善する。その改善するスピードはものすごく速いので、その方がビジネス的には有利であることは一面の真理であるとは思います。
しかし、ものづくりの世界はそうではありません。安全に対する信頼をどのように担保するかが重要であると思います。この開発スピードと信頼確保のギャップをどう埋めるか。現在はそういう問題に直面していると感じます。たとえ人の命の関わるとしても、世の中に出してしまうというのが世の中の傾向になってしまうと、それは恐ろしい。少なくても60年前には想定していなかった時代に入っています。
それから、私はスパコンを推進する側にいますが、スマホはすごく難しいですね。これは年代の差もあるかと思いますが、論理的にやらないと動かないのがコンピュータで、論理的でなくても動いてしまうのがスマホ、そのギャップがすごく大きいと感じています。予期しないものが出てきたら困ることは困りますが、スパコンの結果も、ある意味ではそういうギャップをもっているかもしれません。スパコンが日常化されるようになると、このギャップの解消方法も大きな研究対象でしょう。
―これからどういったことをされたいですか?
その質問はこれから研究するならばどういうことをしたいかに置き換えましょう。
今、自動車でいうと、自動運転の方向に移っています。私が生きているうちには自動車交通の最終的な段階にはならないと思いますが、空間限定、時間限定の自動運転といったところまでは見ることができるかもしれません。自動車の運転がこの先どうなっていくのかということにも興味があります。私が30年、40年後に生まれてきたら、自動運転について研究したかなと思うことはありますが、たぶん、そうはしないでしょう。その時代での新しいことを追ってしまうでしょう。
現代は今までのエンジニアリングを超えた、先の見えない世界になってきましたね。そういう意味でいうと、開発すること、研究することがたくさんあって、若い人は幸せですね!
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小林敏雄 略歴 |
1970年3月 東京大学大学院工学系研究科博士課程修了 1970年4月 東京大学 生産技術研究所 助教授就任 1986年2月 東京大学 生産技術研究所 教授就任 2000年7月 日本学術会議会員 2001年4月 社団法人日本機械学会会長 2003年3月 東京大学 定年により退職 名誉教授就任 2003年5月 財団法人日本自動車研究所 副理事長・所長就任 2012年4月 一般財団法人 日本自動車研究所 代表理事 研究所長就任 2012年6月 一般財団法人 生産技術研究奨励会代表理事 理事長就任 2014年6月 アイシン精機株式会社 取締役就任 2016年10月 一般社団法人ドライブレコーダー協議会 代表理事 会長就任 |