新HPCの歩み(第12回)-1954年-
東京大学の院生であった後藤英一は1954年5月にパラメトロンの原理を発見した。日本科学技術連盟の機械活用研究会では、パンチカードマシンを科学技術計算に応用する努力を進めた。富士通信機製造はリレー式計算機FACOM 100を完成した。 ![]() |
社会の動き
1954年(昭和29年)の社会の動きとしては、1/2二重橋事件、1/6青函トンネル起工式、1/10コメット機墜落事故(エルバ島上空)、1/14マリリン・モンローがジョー・ディマジオと結婚、1/20営団地下鉄丸ノ内線の池袋・御茶ノ水間が開通、1/24ソ連大使館のラストヴォロフがCIAに亡命、2/1 ジョー・ディマジオ、マリリン・モンロー夫妻が来日、3/1第五福竜丸がアメリカの水爆実験による死の灰を浴びる、4/5初の集団就職列車(青森・上野)が運行される、4/8コメット機また墜落(ナポリ沖上空)、4/19文京区の小2女児がヒロポン中毒者に殺害される、5/7ベトナムでフランス軍の拠点ディエンビエンフーが陥落、5/25写真家ロバート・キャパがインドシナ戦争取材中に地雷に触れて爆死、6/2 参議院、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を全会一致で可決、6/4近江絹糸争議、6/17中華人民共和国とイギリスが国交樹立、6/19名古屋テレビ塔完成、6/27モスクワ郊外オブニンスクで世界初の原子力発電所が運転を開始、7/1自衛隊発足、7/21ジュネーブで第1次インドシナ戦争休戦協定、8/13徳島ラジオ商殺し事件の被疑者とされる女性を逮捕、8/24アメリカで共産党が非合法化、8/31釧路市の太平洋炭礦で爆発事故、9/6ベネチア国際映画祭で黒澤明監督の『七人の侍』と溝口健二監督の『山椒大夫』の日本映画2作品が銀獅子賞を受賞、9/26洞爺丸事故、9/26岩内大火、10/8相模湖で定員オーバーの遊覧船沈没、11/1アルジェリア戦争が始まる、11/3東宝映画『ゴジラ』が公開、11/24日本民主党が結成、12/?神武景気始まる(1957年6月まで)、12/7吉田内閣総辞職、12/10第1次鳩山内閣発足、12/22日本プロレス初の日本選手権で力道山が木村政彦を下す、など。
話題語・流行語としては、「ミルクのみ人形」「ゴジラ」「原爆許すまじ」「二十四の瞳」。
ノーベル物理学賞は、量子力学に関する基礎研究に対しMax Bornに、コインシデンス法による原子核反応に対しWalther Botheに授与された。化学賞は、化学結合の本性、ならびに複雑な分子の構造研究に対しLinus Carl Paulingに授与された。生理学・医学賞は、種々の組織培地におけるポリオウイルスの生育能の発見に対し、John Franklin Enders、Thomas Huckle Weller、Frederick Chapman Robbinsに授与された。文学賞はErnest Miller Hemingwayに授与された。平和賞は東西冷戦下の難民のための政治的、法的保護に対して国際連合難民高等弁務官事務所に授与された。
わたくし事であるが、この年の8月、東京都大田区から横浜市神奈川区に転居した。建て売りの県営住宅であった。その後できた新横浜駅まで直線で2 km弱である。
日本政府関係の動き
1) 電気試験所
1954年7月、電気試験所に電子部が創設され、和田弘が初代部長となり、11月、トランジスタ計算機の開発を決定した(「電気技術史」第27号、2002年6月の高橋茂の論文による)。パラメトロンが話題になっていたが、低速で消費電力が大きいことから採用しなかった。結果的に見てこの選択は正しかったとは思うが、高橋秀俊・後藤英一両先生の謦咳に接した筆者としては、「舶来崇拝」の気分が影響していたのではないかと気になる。開発の結果、1956年にはETL Mark IIIが稼働する。Mark IIIからMark VIの開発については、高橋茂の論文に詳しい。
日本の学界
1) 東京大学(パラメトロン)
東京大学理学部物理学科の高橋秀俊研究室の院生であった後藤英一は、1954年5月にパラメトロンの原理を発見した。7月、電気通信学会電子計算機研究専門委員会において、最初の研究発表「非線型リアクタを利用した新回路素子パラメトロンの電子計算機への応用」を行い、真空管に代わる信頼性の高い論理演算素子として高い評価を得た。いくつかの研究機関共同でパラメトロン実用化の研究が始まった。12月にはパラメトロン研究所を創立した。(ちなみに、後藤英一、有馬朗人、有山正孝、不破哲三らは旧制東京大学の最後の学年の物理学科の同級生である)
その後、後藤は高橋教授とともに、パラメトロンに関する多くのアイデアを出した。3相励振、多数決演算、否定演算、定数発生、フリップフロップ、選択ゲート、計数器、高速桁上げ検出、接点信号の入力、ネオン管やブラウン管による状態表示、非定常励振、3重平衡変調器TMB、2周波磁心記憶、アダマール行列や誤り訂正符号に基づくポリハイブリッド変成器、ビュリダンのロバ問題の考慮、自然崩壊式初期化、修正設計、自己双対化変数などである。(後述の『パラメトロン計算機 PC-1 1958-2008』所収、相馬嵩「PC-1/4 - PC-1演算装置のパイロットマシン-」による。)
2) 電気学会(「電気演算機」)
電気学会(1888年創立)では、1946年にはいち早く「電気演算」について議論されているが、デジタル処理については、1950年に「電気演算機」が論じられている。1954年6月に東京支部が「電気演算機」についての専門講習会を行った。題目は以下の通り。
緒言 |
後藤以紀(電気試験所) |
電子管式アナログコンピュータ |
野田克彦(電気試験所) |
電子管式計数型自動計算機 |
山下英男(東京大学) |
電子計算機のProgramming |
雨宮綾夫(東京大学) |
継電器式計数型自動計算機 |
駒宮安男(電気試験所) |
微分解析機 |
乗松立木(電気試験所) |
3) 日本科学技術連盟(統計機械活用研究会)
山内次郎(東京大学)は、1954年3月、日本科学技術連盟に統計機械活用研究会を設置し、委員長として活動を開始した。この研究会は、当時企業で使われていたIBM 405や602Aなどのパンチカードマシンを、集計業務だけでなく、統計解析、オペレーションズリサーチ、その他の科学技術計算への活用を目指したものである。メンバーには、安藤馨(日本IBM)、伊藤栄一(第一生命)、鴨志田清(通産省)、島内武彦、高橋秀俊、森口繁一(以上東大)などがおり、月に1、2回集まって討議を行っていた。名和小太郎の記事によると、当時、占領軍の撤退にともない、中古のPCSとそれを扱っていた日本人のスタッフが市場に出現し、日本企業のPCS利用を推進したという。
旭硝子にあった機械でJISの乱数表を作ったり、富士製鐵にあった602Aで産業連関分析表のための20次の行列の逆行列を求めたりした。単精度では危ないので倍精度で行ったが、パンチカードの配線が大変であったとのことである(そもそもよくやったという感じだが)。森口繁一は「まるで日本髪みたいな配線になった」と述べている。10時間も掛かり、検算にもまた10時間を要した。戸田英雄「数値計算」(『情報処理』1983年3月号)によると、本当は200次の行列を扱いたかったが、10年も掛かるということで20次にしたそうである。
化学者の島内武彦は1956年に万能計算盤を考案した。カードでプログラムを入力できるようになった。
このような成果をもとに、1955年5月16日からは、毎月3日ずつ6か月(計108時間)にわたる統計計算活用セミナーが開かれた。参加者は32名、参加費は5万円であった。最初の月の講義は以下の通り(出典は『山内次郎 人と業績』)。
基本機械 |
伊藤栄一 |
標本調査法のあらまし |
斎藤金一郎 |
補助機械(1) |
伊藤栄一 |
標本調査法におけるIBMの利用 |
林知己夫 |
IBM計算機械の趨勢 |
安藤馨 |
レミントンランド計算機械の趨勢 |
吉澤幹夫 |
このセミナーは、リレー式計算機(ETC Mark II、FACOM 128B)、続いて電子計算機が一般に利用できるようになるに従い、1958年からは計算機プログラミングコースとなり、計算機のプログラミングの普及に努めた。その後、自動計算機短期セミナー、電子計算機活用セミナー(1960年10月より)と名称を変えて、22回にわたって開催され、1200名近くの修了者を出した。
これとは別に、日本科学技術連盟はプログラミングに関心をもつより広範囲の人たちに呼び掛けて、相互研鑽のためプログラム懇談会を1958年から毎月1回開催した。中心は、森口繁一と高橋秀俊。この懇談会は、1965年4月からは情報処理学会に引き継がれ、月例会(または月例懇談会)として運営された。
以上は、浦昭二『電子計算機の利用に関する研究と教育』(情報処理Vol.24、No.3、1983年3月)による。
日本企業
1) 富士通信機製造(FACOM 100)
同社では、株式用の計算機(1952年)の経験を活かし、技術計算用のリレー計算機を開発していたが、FACOM 100が1954年10月に完成した。FACOMはFuji Automatic Computerの略である。FACOM 100は、内部で十進3余りコードを用いた独自の方式を取っていた。浮動小数方式を採用した国産初の実用計算機であった。
同社は、各種の統計量計算機の目的で単能のリレー計算機FACOM415A/416Aを開発納入したとのことであるが、統計数理研究所には1954年にFACOM415Aを納入したので、このころ開発されたと思われる。
2) 米軍立川基地
日本の企業とは言えないが、1954年、真空管式コンピュータIBM 650が米軍立川基地に導入された。おそらく、最初の真空管式コンピュータの日本への導入と思われる。日本人のリーダーとして北川宗助が顧問を務めたとのことである。
世界の学界
1) ベル研究所(TRADIC)
ベル研究所(Bell Labs)のJean Howard Felkerは、1951年から、アメリカ空軍のためにTRADIC (TRAnsistor DIgital Computer / Transistorized Airborne Digital Computer)の開発を進め、1954年に完成した。軍用のため非公開とされた。アメリカで最初の全トランジスタ計算機であった。ただしクロックパルス生成は大電力なので真空管を用いた。プログラム内蔵式ではない。1953年には、イギリスのManchester University Transistor Computerが動いているが、これもクロックは真空管であった。真の全トランジスタ計算機の一号は、1955年に完成したイギリスのHarwell CADETである。
2) チューリング死去
イギリスの数学者、論理学者、コンピュータ科学者、哲学者であるAlan Mathieson Turingは、1954年6月8日、自宅で死んでいるところを発見された。青酸化合物による自殺とみられている。ACMはTuringを記念して、コンピュータ科学における特筆すべき貢献に対して、1966年から年1回チューリング賞(ACM A.M. Turing Award)を授与している。
アメリカの企業
1) IBM社(IBM 650、IBM 704)
IBM社は、1953年7月に発表した科学技術用計算機IBM 650の出荷を1954年から始めた。全体で2000台以上売れたベストセラーであった。
1954年4月、IBM社は浮動小数演算ハードウェアを実装した量産機IBM 704を発表した。これはIBM 701のアーキテクチャと実装を大幅に強化したもので互換性はない。演算素子は真空管であるが、メモリは、当初はWilliams管であった。1957年に磁気コアメモリに変更した。3つのインデックスレジスタを搭載し、浮動小数演算回路を実装している。プログラミング言語FORTRANとLISPはIBM 704で初めて開発された。1955年から1960まで123台が販売された。日本でも気象庁が1959年に導入した。
2) ElectroData社(Datatron)
カリフォルニア州PasadenaのElectroData Corporationは十進法真空管計算機を開発し、1954年、Electrodata 203としてJet Propulsion LaboratoryとNational Bureau of Standards(現NIST)に出荷した。1955年にはDatatronという名前を付けた。メモリは磁気ドラムである。日本にも3台入っている。ElectronData社は、1956年Burroughs社によって買収され、Burroughs社が販売した。Datatron 205は、BourroughsがBurroughs 205として販売した。
1955年11月、電気試験所はリレー式計算機ETL Mark IIを完成する。またこの年、フェルミ・パスタ・ウラムの再帰現象が発表される。
(画像:パラメトロン計算機PC-1の前に立つ高橋秀俊(右)とパラメトロン発明者 後藤英一 出典: コンピュータ博物館 )
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