新HPCの歩み(第11回)-1953年-
Remington Rand社 は、UNIVAC 120を出荷し、UNIVAC 1103を発表した。IBM社はIBM 650を発表した。Burroughs Adding Machine社はBurroughs社に社名を変更し、コンピュータ企業へ舵を切った。Los AlamosのMetropolisらはMetropolis法を発明した。 |
社会の動き
1953年(昭和28年)の社会の動きとしては、1/13チトーがユーゴスラヴィア大統領に就任、1/15早川電機(現シャープ)が、国産初の白黒テレビを発売、1/27ダレス米国務長官が、「巻き返し政策」の演説を行う、1/28銀座で、風船に使用した水素ボンベが爆発、2/1 NHKが日本初のテレビジョン放送を東京で開始、2/28衆議院予算委員会で吉田茂首相が「バカヤロー」と発言、3/5ソ連のスターリン死亡、3/14衆議院バカヤロー解散、3/24国際電信電話株式会社(KDD)設立、4/1保安大学校(現在の防衛大学校)開校、4/27阿蘇山噴火、5/29ヒラリーとテンジンがエベレスト初登頂、6/2エリザベス2世戴冠式、皇太子明仁親王が参列、6/18立川基地グローブマスター機墜落事故、6/19 Rosenberg夫妻処刑、6/25-29昭和28年西日本水害、7/26キューバで、反バティスタグループがモンカダ兵営を攻撃、7/27朝鮮戦争休戦協定成立、8/8ソ連が水爆保有を発表、8/8ラズエズノイ号事件、8/14-15南山城水害(京都)、8/28日本初の民間放送テレビ局、日本テレビ放送網がテレビジョン本放送を開始、9/15映画「君の名は」公開、9/?イタリアのトリエステをユーゴスラヴィアのチトーが侵略を数回試みる、9/?アメリカでPLAYBOY誌創刊、10/1米韓相互防衛条約調印、10/1日本航空が特殊会社となる、11月には初の国際線(羽田・ホノルル・サンフランシスコ)を運行、11/?日本初のスーパーマーケットとして青山で紀ノ国屋が開業、11/5徳島ラジオ商殺し事件、11/21ロンドン郊外で発見されたというピルトダウン人が捏造と発覚、12/1板垣退助像の百円紙幣発行開始(それまでは聖徳太子と夢殿)、12/10日本ヘリコプター輸送(全日空の前身)が、戦後日本初の日本人による航空機の定期運航、12/25奄美群島が日本に返還、12/31第4回紅白歌合戦を大晦日に移し、テレビ・ラジオ同時生中継、など。
話題語・流行語としては、「真知子巻き」「落下傘スタイル」「マジックインキ」「おこんばんは さいざんす」「くるくるパー」「コネ」「八頭身」など。
ノーベル物理学賞は、位相差顕微鏡の発明に対しFrits (Frederik) Zernikeに授与された。化学賞は鎖状高分子化合物の研究に対しHermann Staudingerに授与された。生理学・医学賞は、クエン酸回路の発見に対しHans Adolf Krebsに、コエンザイムAおよびその中間代謝における重要性の発見に対しFritz Albert Lipmannに授与された。文学賞はイギリスのSir Winston Leonard Spencer-Churchill元首相に授与された。
日本政府関係の動き
1) 国際電信電話株式会社
1953年3月24日、国際電信電話株式会社法に基づき、日本電信電話公社の国際通信部門を分離し、国際電信電話株式会社(KDD)を設立した。この時研究部が発足した。1998年KDDの改組に伴い、株式会社KDD研究所を設立。
日本の学界
1) 大阪大学(加算回路)
大阪大学の城憲三は、いち早く電子計算機の研究に着手し、1950年頃には真空管による十進4桁の加算回路を試作した。1953年6月、牧野内三郎との共著『計算機械』(共立全書)を出版した。1953年に科学研究費80万円(翌年30万円)を得て電子管式電子計算機の試作を開始したが、完成に近づいたときは、すでにトランジスタが主流になっており、完成を見なかった。
2) 京都大学基礎物理学研究所
1949年の湯川秀樹のノーベル賞受賞を記念して、京都大学は湯川記念館の設立を提案した。日本学術会議も1950年1月の総会において、政府に対し、理論物理学振興のための記念事業を行うことを要望した。1952年、湯川記念館が竣工し開館された。1953年8月、記念館は、京都大学附置の「基礎物理学研究所」として発足し、湯川秀樹を初代所長とした。京都大学附置であるが、全国の研究者の共同利用施設として運営されることになった。日本で初めての、大学付置の共同利用研究所であった。
日本企業
1) 東京証券取引所
1953年ごろ、証券ブームが起こり、証券取引所の事務処理が間に合わず、翌日の立ち合いが停止するという事態がおこった。このため、東京証券取引所は、1955年、UNIVAC 120型電子式計算穿孔機を含むRemington Rand社のPCSを導入することになった。
2) 富士通信機製造
株式市場のための株式取引高清算装置をリレー回路により開発することが、山下英男を通して富士通信機に打診された。これも証券ブームと関係があったと思われる。池田敏雄、山本卓眞らが試作開発にあたり、1953年3月に完成した。これは速度が遅く受注には至らなかったが、同社はリレー式の計算機の開発に向かった。
3) 日本IBM社
日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ社は、1953年南糀谷工場(東京都大田区)を開設し、パンチカードシステムの製造を始めた。
アメリカ政府の動き
1) 空軍 (Whirlwind II)
MITがU.S. Navyのフライトシミュレータのために真空管式計算機Whirlwind Iを開発していたが、Williams管の代わりに磁気コアを記憶装置に使ったWhirlwind IIが1953年に完成した。当時、世界最高速のコンピュータであった。磁気コアメモリの原理は1949年、Harvard大学のWang An(王安)とWay-Dong Wooが見出したが、実用化はこれが初めてであった。
これを量産化したAN/FSQ-7はIBMが製造業者に選ばれ、IBMは磁気コア記憶装置の技術を得た。また、Whirlwindをトランジスタ化したTX-0の開発はKen Olsenによって進められていたが、Olsenは途中でプロジェクトを離れ、1957年、DEC (Digital Equipment Corporation)を設立した。PDP-1にはTX-0およびTX-2のコンセプトが生かされている。
ヨーロッパの政府の動き
1) スウェーデン(BESK)
スウェーデンの計算機委員会は、真空管式計算機BESK (スウェーデン語: Binär Elektronisk SekvensKalkylator)を開発し、1953年に完成した。真空管2400本とゲルマニウムダイオード400個を使用し、1語は40ビット。メモリはWilliams管40本。1954年4月から本格稼働し、1966年まで使用された。
このコンピュータを利用したかどうかは明確でないが、スウェーデンの気象水文研究所のCarl-Gustav Rossbyのグループは、高度に簡略化したモデルを用いて、1954年に数値天気予報の運用を開始した。
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2) ソヴィエト連邦(Strela)
ソヴィエト連邦の最初の汎用コンピュータStrela(Стрела)が、1953年に製造開始された。6200本の真空管と60000個の半導体ダイオードを使用する。1語43ビットで、符号付仮数は35ビット、指数は6ビット。主記憶はWilliams管で2048語。プログラムはread-onlyの半導体ダイオードメモリに記憶。モスクワのthe Special Design Bureau (特殊設計局)245で設計され、計算分析機械モスクワ工場で生産された。7台製造され、ソ連邦科学アカデミー、Keldysh応用数学研究所、国立モスクワ大学研究計算センターなどに納入された。写真はモスクワ大学のページから。
世界の学界
1) メトロポリス法
ギリシャ出身のNicholas Metropolis (1915-1999)はLos Alamos Scientific Laboratory (LASL)において、4人の共著者とともにボルツマン分布に従う系の配位をマルコフ遷移によって生成するアルゴリズムを開発した。論文は、Nicholas Metropolis, Arianna W. Rosenbluth, Marshall N. Rosenbluth, and Augusta H. Teller and Edward Teller, “Equation of State Calculations by Fast Computing Machines” J. Chem. Phys. 21, 1087 (1953)である。 最初の3人の所属はLASL、後の2人の所属はDepartment of Physics University of Chicagoである。
これをメトロポリス法と呼ぶ。この方法は物理系の確率的なシミュレーションだけでなく、最適化のためのシミュレーテド・アニーリングや、マルコフ連鎖モンテカルロ法(MCMC)として統計学・経済学にまで広く用いられている。
2) 二重らせん
1953年4月25日、J.D. WatsonとF.H.C. Crickは“Molecular Structure of Nucleic Acids: A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid”. Nature 171 (4356): 737–738において、DNAの二重らせん構造を提唱した。この業績により、M.H.F. Wilkinsとともに1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞する。
アメリカの企業
1) IBM社 (IBM 650, IBM 702)
IBM社は、IBM中型機 650を1953年7月に発表した。1954年から出荷され、2000システム以上が製造された。世界初の大量生産コンピュータである。データもアドレスも二五進法の二進化十進表現である。浮動小数では指数部2桁、仮数部8桁である。真空管を用い、メモリは磁気ドラムメモリで容量は2000語。1948年に発表されたパンチカードシステムのベストセラーであり、真空管の計算機構を備えていたCard Programmed Calculator IBM 604の代替として開発されたといわれている。改良型のIBM 650 RAMAC(1956年)を含め総計2200台が設置された。わが国にも、1958年に日本原子力研究所および小野田セメントに輸入されるなど、22台以上が使用された。IBM 650に対抗しようとしたのがUNIVAC File ComputerやUNIVAC Solid State Computerである。
1953年9月にはビジネス用計算機IBM 702が発表された。データは任意長の文字列であり、命令は5文字、メモリはWilliams管で、2000から10000文字の容量。信頼性はそれほど高くなかったが、水銀遅延管よりはましとの認識であった。出荷は1955年初めまでずれ込んだが、このころIBM社の設置台数がようやく(Remington Rand社の)UNIVAC部門を上回る。
2) Remington Rand社 (UNIVAC 120, UNIVAC 1103)
1949年からRemington Rand社は、パンチカード計算機Remington Rand 409を設計開発していたが、前年に出荷されたUNIVAC 60に続いて、1953年、UNIVAC 120を出荷した。メモリは真空管で、120桁の十進数が記憶できる。UNIVAC 60と合わせて約1000台が生産されたという。
また、1953年、UNIVAC 1101の後継機としてUNIVAC 1103を発表した。36ビット機で、磁気ドラムメモリとWilliams管をメモリとして使用している。商用機として割込み機構を初めて採用した。1956年に登場したUNIVAC 1103Aは磁気コアメモリを用いた。この開発を行っていたのがSeymour Crayである。
3) Burroughs社
Burroughs社は、1886年にSaint LouisでWilliam Seward Burroughs IによりAmerican Arithmometer Companyとして創業され、1904年にDetroitに移転した際にBurroughs Adding Machine Companyと改名したが、1953年、Burroughs Corporationと社名を変更し、コンピュータ企業へ舵を切った。
1954年、東京大学の院生であった後藤英一がパラメトロンの原理を発見する。電気試験所では、トランジスタ計算機の開発を決定する。
(画像:Strelaコンピュータ 出典:モスクワ州立大学HP)
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