新HPCの歩み(第10回)-1952年-
富士写真フイルムの岡崎文次らは、レンズ設計のための計算機FUJICの組み立てを始めた。Los Alamosでは、Metropolisの主導により開発していたMANIAC Iが3月に稼働した。Reminton Rand社はUNIVAC 60を出荷した。 |
社会の動き
1952年(昭和27年)、日本はやっと主権を回復した。この年の社会の動きとしては、1/4イギリスがスエズ運河を閉鎖、1/13黄変米事件(日本)、1/18李承晩ラインを設定、1/21白鳥事件が発生、2/4トカラ列島日本復帰、2/6エリザベス2世即位、2/8(日本で)改進党結成、2/14オスロ冬季オリンピック開幕(2/25まで)、2/18トルコが北大西洋条約機構加盟、2/19青梅事件発生、2/20東大ポポロ事件、2/26チャーチル首相、イギリスが核兵器を保有したことを公表、2/18日米行政協定調印、3/4十勝沖地震(M8.2)、3/20アメリカ、日本との平和条約を批准、4/1琉球中央政府発足、4/1硬貨式公衆電話登場(日本)、4/? 手塚治虫『鉄腕アトム』連載開始、4/9「もく星号」墜落事故、4/10ラジオドラマ『君の名は』放送開始(1954年4月8日まで)、4/17鳥取大火、4/18日本と西ドイツの間に国交樹立、4/28連合国と日本国との平和条約発効、主権回復、安全保障条約発効、GHQ廃止、5/1血のメーデー事件、5/9早稲田大学事件(レッドパージ反対)、5/13広島地裁、被疑者奪回事件、5/19白井義男が世界フライ級王座を獲得、6/2菅生事件、6/5万来町事件、6/15『アンネ・フランクの日記』日本語版刊行、6/19アメリカ陸軍「グリーンベレー」結成、6/24吹田事件、枚方事件、7/1日本で住民登録法施行、住民登録調査実施、7/1羽田飛行場の一部がアメリカ軍から返還、東京国際空港としての業務を開始、7/19ヘルシンキ夏季オリンピック開催(8/3まで)、7/23パリ条約発効、欧州石炭鉄鋼共同体発足、7/23エジプト自由将校団クーデター、7/29日本のアマチュア無線が再開、8/1日本電信電話公社が特殊法人として発足、8/13日本がIMFに加盟、8/14西ドイツがIMFと世界銀行に加盟、8/27西ドイツがイスラエルに対し、ユダヤ人虐殺とホロコーストに対する賠償金30億ドイツマルクを支払う条約に署名、8/28日連正宗の信徒団体である創価学会が宗教法人となる、8/28衆議院、抜き打ち解散、9/18ソヴィエト連邦、日本の国連加盟に拒否権発動、10/3イギリスが初の原爆実験、10/8予定されていた朝鮮戦争停戦協議が延期、10/14国連、ニューヨークの国連本部ビルの利用開始、10/25「日本国との平和条約」発効により、ポツダム命令がすべて廃止、11/1アメリカがエニウェトク環礁で、人類初の水爆実験、11/4カムチャツカ地震(M9.0)、11/4アメリカの大統領選挙、アイゼンハワーが当選、12/?マザー・テレサ、「死を待つ人々の家」を開設、など。
流行語・話題語としては、「透け透けナイロンブラウス」「シームレスストッキング」「エッチ」「火炎瓶」「恐妻」「忘却とは忘れ去ることなり」など。
ノーベル物理学賞は、核磁気の精密な測定における新しい方法の開発とそれについての発見に対し、Felix BlochとEdward Mills Purcellに授与された。化学賞は分配クロマトグラフィーの開発およびその応用に対し、Archer John Porter MartinとRichard Laurence Millington Syngeに授与された。生理学・医学賞はストレプトマイシンの発見に対しSelman Waksmanに授与された。文学賞は小説家François Mauriacに授与された。平和賞は「ランバレネにおける外科医としての診療活動」に対してAlbert Schweitzerに授与された。
わたくし事であるが、この年の4月、父の転勤に伴い静岡県から東京大田区(母の実家)に転居した。
日本政府関係の動き
1) 工業技術院
1948年に商工省工業技術庁が設立されたが、1949年に商工省が通商産業省に組織変更され、1952年には工業技術庁が工業技術院に改編された。傘下に入った研究所で古いものとしては、地質調査所が1882年(明治15年)に農商務省傘下で設立、電気試験所が1891年(明治24年)に逓信省電務局傘下で設立。
2) 電気試験所 (ETL Mark I)
通産省電気試験所の後藤以紀、駒宮安男らは、1952年末にリレー式計算機のパイロットモデルETL Mark Iを完成した。
3) 日本電信電話公社
それまで電気通信省が所管していた電信電話事業を効率化するため、1952年8月1日、電気通信省を廃止し、日本電信電話公社が特殊法人として設立された。電気通信研究所はその傘下に入った。後のNTT武蔵野電気通信研究所である。
4) 理化学研究所
1948年、財団法人理化学研究所を転換した株式会社科学研究所(初代社長仁科芳雄)は、1952年に研究部門と生産部門の事業を分離し、生産部門は純民間企業の科研化学株式会社となった。研究部門を継承して株式会社科学研究所(第二次)を設立した。1946年8月にGHQの管理下で板橋区加賀において、宇宙線研究のために置かれた板橋分室は、1952年に板橋分所と改称した。板橋分室には1949年からフェライト研究の武井武研究室も置かれていた。その後のことであるが、1961年には板橋分所に湯川秀樹博士を主任研究員に迎え理論物理研究室が発足する。1972年には国から現物出資を受けて、土地と建物を取得する。
日本の学界
1) 電気通信学会(電子計算機研究専門委員会)
電気通信学会(その後電子通信学会を経て、電子情報通信学会)は、1952年末に電子計算機研究専門委員会を設置した。委員長は前田憲一(京都大学)、幹事は喜安善市(電気通信研究所)であった。月に1回の会合が行われた。1955年までの代表的発表題目を記す。(『日本のコンピュータの歴史』(情報処理学会歴史特別委員会編)オーム社1985年)
1953年2月 |
電子管式自動算盤機 |
三田繁(東芝)、元岡達(東大) |
1953年5月 |
電子計算機の諸問題 |
高橋秀俊(東大) |
1953年6月 |
論理数学の演算機回路への応用 |
後藤以紀(電気試験所) |
1953年7月 |
論理数学の演算機回路への応用 |
駒宮安男 (電気試験所) |
1953年11月 |
プログラミングについて |
雨宮綾夫(東大) |
1953年12月 |
水銀記憶回路について |
城憲三(阪大)、牧之内三郎(阪大) |
1954年6月 |
数字式電子計算機FUJICについて |
岡崎文次(富士写真フイルム) |
1954年7月 |
非線型リアクタを利用した新回路素子パラメトロンの電子計算機への応用 |
後藤英一(東大) |
マグネチックドラムの制御回路 |
八木基(東芝) |
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1955年1月 |
試作十進加減乗算器について |
高橋秀俊(東大) |
1954年7月の後藤英一の発表は、パラメトロンに関する最初の学会発表であった。
2) 東京大学(TAC)
1951年のICC条約会議に刺激され、学術会議を中心に日本でもこの分野の振興を図ることになった。その一環として、1952年度の文部省機関研究費1000万円が東京大学に与えられ、東芝とともに大型電子計算機TACの試作研究が始まった。ブラウン管メモリ(Williams管)で難渋し、稼働したのは1959年の年頭であった。
日本企業
1) 富士通信機製造
1952年、東京証券取引所は機械化を検討し、山下英男を通して富士通信機製造に、リレーによる株式取引高の清算装置の開発が打診された。1953年3月に試作機が完成したが、受注には至らなかった。(Wikipedia「FACOM」より)
2) 富士写真フイルム(FUJIC)
富士写真フイルム(1934年1月設立)では、岡崎文次を中心に、レンズ設計に必要な大量の数値計算を迅速に行うために、真空管を用いたデジタル計算機の研究を計画していたが、とりあえず20万円要求し、1949年3月承認された。準備研究の後、1952年12月に全体の組み立てを始めた。半年余りで、外観的には完成時に近いものができ、1953年10月に初めて学会発表した。1954年5月FUJICと命名した。完成は1956年3月上旬であった。製作の苦労話については岡崎文次の論文がある。
アメリカ政府の動き
1) Radiation Laboratory at Livermore
1931年に設立されていたUniversity of California Radiation Laboratory at Berkeleyの支所として、カリフォルニア大学バークレー校は、1952年9月2日、核兵器の研究開発を目的としてUniversity of California Radiation Laboratory at Livermoreを設立した。LivermoreはSan Franciscoから東に60キロほど内陸に入ったところである。アメリカ合衆国で「水爆の父」と言われるEdward Tellerと、Radiation Laboratory at Berkeleyの所長であったErnest Lawrenceの両氏が、設立者と言われる。背景には、水爆開発に反対していたOppenheimerとの対立があったといわれている。1971年にはLawrence Livermore Laboratoryと改名され、1981年、Lawrence Livermore National Laboratoryとなる。
2) Los Alamos Scientific Laboratory (MANIAC I)
現在のLANL (Los Alamos National Laboratory)は、原爆開発のため1943年にProject Yという秘密コード名で創立された。1947年1月1日にLASL (Los Alamos Scientific Laboratory)と正式に命名され、1981年に現在の名前となった。
1950年代初頭に、Los Alamos Scientific Laboratoryにおいて、Nicolas Metropolisが主導してノイマン・アーキテクチャのコンピュータMANIAC I (Mathematical Analyzer Numerical Integrator Model I)を開発した。1952年3月に稼働し、1958年7月15日にシャットダウンされた。フェルミ・パスタ・ウラムの再帰現象は、このコンピュータ上の計算に基づいている。後継のMANIAC IIが真空管式コンピュータであることから、同じく真空管式と思われるが、Wikipediaには詳しい記述がない。(SCIENCE PHOTO LIBRARYには、“MANIAC-I, Vacuum Tube Computer, 1952”とある)
ヨーロッパの動き
1) 西ドイツ(Fraunhofer-Gesellschaft)
Fraunhofer-Gesellschaft(フラウンホーファー研究機構)は1949年3月26日、西ドイツの産業界、学界、バイエルン州政府、西ドイツ政府によってMűnchenで創設されたが、1952年、ドイツ経済技術省はフラウンホーファー研究機構を、Deutsche Forschungsgemeinschaft(ドイツ研究振興協会)及びMPI (Max Planck Institut)に続く、大学以外の研究機関として承認した。主として応用研究を担当する。ちなみに、現在ドイツ最大の研究機構であるHelmholtz-Gemeinschaft Deutscher Forschungszentren(ヘルムホルツ協会)は、1995年に創立される。
2) ソヴィエト連邦(BESM-1)
BESM(БЭСМ、Большая Электронно-Счётная Машина、大規模電子式計算機械)は、ソヴィエト連邦で開発されたコンピュータで、6種のモデルがある。BESM-1はSergei Alekseyevich Lebedevが設計し、5000本の真空管を用いた。1語39ビット(符号1ビット、指数部6ビット、仮数部32ビット)で、メモリは1024語の磁気コアメモリと、1024語のread-onlyのダイオードメモリ、磁気ドラム、磁気テープを装備した。1952年に完成し、1台だけ製作。完成年次は不明であるが、BESM-2も真空管式コンピュータであった。BESM-3およびBESM-4はトランジスタ式である。1966年に完成したBESM-6は355台製造された。
世界の学界
1) Illinois大学(ILLIAC I)
1952年9月1日、Illinois大学は真空管によるコンピュータILLIAC Iを開発した。ノイマン・アーキテクチャに基づく。真空管は2800本。1951年春に運用を開始したORDVACの姉妹機である。同じグループがAberdeen Proving GroundのBallistic Research Laboratoryでの弾道計算のために製作したORDVACとは完全互換性がある。
2) 共役勾配法
M. R. Hestenes and E. Stiefelは、“Method of conjugate gradients for solving linear systems”(Jounral of Research of the National Bureau of Standards, Vol. 49 (1952) 409-436)において正値対称行列を係数行列とする連立一次方程式に対する共役勾配法を発表した。Hestenesの所属はNational Bureau of Standards(NBS) and Univeristy of California at Los Angelse(UCLA)、Stiefelの所属はUniversity of California at Los Angeles(UCLA)and Eidgenossische Technishe Hochschule, Zürich(ETH)である。
アメリカの企業
1) IBM社(独占禁止法訴訟)
IBM社は創立以来、PCMやコンピュータを販売せずにレンタルだけを行い、レンタル料金に、保守や指導も含めるビジネスモデルを取ってきた。当時、IBM社はアメリカ国内のタビュレーティング・マシンの90%のシェアを持っていた。1952年1月21日、米国司法省はこのビジネスモデルを独占禁止法違反として告訴した。1956年1月に和解が成立した。IBM社はその後何度も訴訟を受けることになる。
2) IBM社(IBM 701)
1952年、Watson Sr.(一世)の長男であるWatson Jr. (Thomas J. Watson Jr.、二世)が社長になり、Watson Sr.は名誉会長となったが経営権は手放さなかった。Waston Jr.はコンピュータの将来性を強く意識しており、コンピュータの開発を主導した。Watson Sr.がIBMの経営権をJr.に引き継いだのは、1956年5月8日、亡くなる1か月前であった。
IBM社は、科学技術計算用のプログラム内蔵の大型コンピュータIBM 701を1952年に発表し出荷した。真空管式で、メモリにはWilliams管が使われていた。19台が設置されたが、1号機は、ニューヨーク州のIBM本部であった。8台は航空会社。米国原子力委員会にも納入された。
UNIVAC Iに続く世界で2番目の商用コンピュータであるが、入力はパンチカードのみであり、磁気テープを使えるUNIVAC Iに追いついていない。また記憶装置の安定性にも問題があった。
3) Remington Rand社 (UNIVAC 60)
1949年からRemington Rand社は、パンチカード計算機Remington Rand 409を設計開発していたが、その成果の一つとして、1952年、UNIVAC 60を出荷した。メモリは真空管で、60桁の十進数が記憶できる。各桁は5者択2符号(bi-quinary coded decimal)を用いて5ビットで表現されている。日本にも輸入された。
ERA 1101などを開発したERA (Engineering Research Associates)社は、海軍が実質的に所有していたが、これが問題となり、ERAのオーナーは会社をRemington Rand社に売却した。Sperryとの合併後はSperryのUNIVAC部門に吸収された。
大会社の社風が合わないと感じた、元ERAの技術者たちは退職して、1957年にCDC社を設立する。
4) NCR (National Cash Register)社
同社は1884年設立されたが、1952年、Computer Research Corporationを買収し、翌年にはエレクトロニクス部門を創設した。磁気ストライプ技術を使った銀行向けの電子機器を発売した。1957年には、GEと共同で、トランジスタコンピュータNCR 304を開発した。第1号機は、1959年、カリフォルニア州の米海兵隊基地に納入された。
企業の創立
1) 高千穂交易
高千穂交易株式会社が1952年3月13日に設立された。その後、米国Burroughs社の総代理店となり、会計機や電子計算機を販売した。
2) Nixdorf Computer社
1952年7月1日、Remengton Rand社にいたNeinz Nixdorfは、Labor für Impulstechnik を創立し、計算器の製造を開始した。企業は成長し1954年西ドイツのPaderbornに移転した。1968年10月1日、KőlnのWanderer-Werkeと合併してNixdorf Computer AG (Aktiengesellschaft)となった。ヨーロッパ第4位のコンピュータ企業に発展したが、1990年Siemensに買収された。
1953年、大阪大学の城憲三は電子管式電子計算機の試作を開始する。
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