世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


10月 25, 2021

新HPCの歩み(第65回)-1981年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

CalTechのGeoffrey C. Foxは汎用プロセッサによる並列コンピュータ開発のCosmic Cubeプロジェクトを始める。また、CSNET、BITNET、HEPnet、N-1ネットなどのコンピュータネットワークがこの頃一斉に始まっていることが印象的である。

日本の企業の動き

日本のメインフレームはさらに上位機種が出て来た。

1) 日立(M-280D、M-280H)
日立は1981年2月18日HITAC M-280D, M-280Hを発表した。M-280HにはIAPが搭載され、1981年10月1日、世界で初めて条件付きDOループの自働ベクトル化コンパイラを実現した(75APUは条件付きループをベクトル化できたが、拡張言語方式によっていた)。ピーク性能は67 MFlops。これと同時に、大規模化したシステム対応してVOS3を拡張したVOS3/SPを発表した。リリースは1982年3月から。アドレスはまだ24ビットである。

2) 富士通(FACOM M-380/382)
富士通は1981年5月28日、FACOM M-380/382を発表した。これはIBM 3081対抗機として開発されていた。31ビットのアドレス空間をサポートする大型機である。

1981年12月7日、富士通は英国ICL社との技術提携契約に正式調印した。

正確な年月は記憶にないが、1980年代前半に、IBMのWatson 研究所のHarold S. Stoneが来日し、筑波大学の学術情報センターでRP3 (Research Parallel Processor Prototype) プロジェクトについて講演した。RP3の売りであったアトミック命令のネットワーク上での結合(combining)関係の質問で、FAA (Fetch and Add)命令が話題になった。その時、Stoneが「ここのFACOM(フェイコム) computerにもあるでしょ」と言ったのだが、筆者には”Fake computer”と聞こえ、IBM互換機をfakeと見下げたのかと思って一瞬凍りついたことを記憶している。すぐ誤解と分かった。Stone氏とはその後親しくなり、1986年にはStone夫妻にアメリカでお会いし、日本料理をおごっていただいた。その後、Stone氏はPrincetonのNEC研究所に移った。

3) 日本電気(ACOS 750、ACOS 650、PC-8801)
1981年6月、日本電気はACOS 750およびACOS 650を発表した。ACOS-6系のACOS 1000の下位機種である。

1981年9月22日、日本電気はPC-8800シリーズの初代機PC-8801を販売した。CPUはμPD780C-1(Z80A、4 MHz相当)で、メインメモリは64KBであった。ディスプレイのドットは最大縦400ライン表示可能。

4) ソニー(マビカ)
世界初の電子スチルカメラ「マビカ」を発売した。記録媒体は2HDフロッピーディスクであったが、アナログ方式で記録した。

5) 生活構造研究所
1981年3月14日、生活構造研究所は、PCを使った3次元グラフィックス・プログラムGLISPを発表した。

6) インテルジャパン社
1981年にインテルジャパン社つくば本社がつくば市東光台に開設された。1976年4月28日、東京世田谷区桜新町にインテルジャパン株式会社が設立されたが、1979年、嶋正利を再び迎えてインテル・ジャパン・デザインセンターを設立し、CPUの開発などを行った。嶋は1972年から1975年まで米国のIntel社で8080の開発を行ったことがある。このあと1981年につくば本社がつくば市東光台に研究開発拠点として開設された。しかし氏はVMテクノロジー社を設立するため1986年インテルジャパンを退社する。なお、インテルジャパンは1997年2月1日にインテル株式会社に商号変更。インテル株式会社は、茨城県つくば市のつくば本社を、2017年1月1日付けで東京本社に統合する。跡地には2018年9月21日、プロロジスパークつくばが竣工し、ZOZOBASEが発足した。

ネットワーク

1981年、インターネットに連なるネットワーク関連のいろいろな動きが起こっている。

1) CSNET
CSNET (Computer Science Network)は、3年間のNSFの支援を受けて、1981年、アメリカのコンピュータ科学者をつなぐネットワークとして発足した。ARPANETは国防省のネットワークだったので、コンピュータ科学の分野ではほとんど使えなかったからである。1981年には、Delaware, Princeton, Purdueの3大学が接続された。1982年には24カ所、1984年には84カ所と拡大した。3年後以降は自主的に資金を出し合って運営したようである。当初は電子メールのみの利用であった。CSNETはその後NSFNETに発展した。日本では、1986年に東京大学が加入しJUNETとのゲートウェイの役割を果たすことになる。

2) BITNET
BITNETも1981年7月に発足した。最初に接続されたのはCUNY (City University of New York)とYale Universityとの間であった。日本では、1985年4月、東京理科大学とCUNYが接続され、東京理科大学が日本のゲートウェイの役割を果たした。

3) HEPnet
ECFA (European Committee for Future Accelerators)は、高エネルギー物理学のためのデータ処理や通信について検討を進めてきたが、1981年にECFAのSub-group 5は、高エネルギー物理学のためのネットワークに必要な要件をまとめ、HEPnetと名付けた。はじめはヨーロッパ内だけであったが、すぐ米国などにも広がった。日本でも1984年にはHEPnet-Jが動き出す。

4) MFENET
歴史的には、1977年ごろLLLに導入されたCray-1にアクセスするために設置されたネットワークで、その後、磁気的核融合の研究を行っている組織を結合するネットワークMEFNET (Magnetic Fusion Energy Network)となった。運営はアメリカエネルギー省DOEである。当初はLLLで開発された特殊なプロトコルをもちていたが、TCP/IPに移行した。

1986年、上記のHEPnetと合併し、ESnet (Energy Science Network)となる。

5) SPAN
SPAN (Space Physics Analysis Network)の計画は1980年に開始され、1981年には運用を開始した。NASAが運用している。上位のプロトコルはDECNETを用いている。ほどなく国際的に広がった。

6) N-1ネットワーク
そして日本ではN-1ネットワークが7大学大型計算機センターのメインフレーム計算機を結合し、1981年10月から正式運用を始めた。今から考えると、ずいぶん早い時期に始まったといえる。ただ、当時の電気通信法の制限により電子メールは許されなかった。これが日本の決定的敗因であった。その後国際的にも接続され、1992年の時点で、N-1はNASAと136 kb/sで接続されていた。

7) ネットワーク犯罪
1981年、まさに本格的なネットワーク犯罪が起こったようである。筆者のメモによると、この年の12月4日、アメリカの秀才が集まるので有名なNew York Upper Eastsideの私立校Dalton Schoolの中学生4人が、学校のパソコンを使い、電話を介して多くの企業の計算機システムを不法にアクセスしたとしてつかまった事件である。アメリカ国内だけでなく国境を越えてカナダまで手を伸ばし、合計120企業に侵入を試み、27件は成功した。ある会社では1/5のデータが壊されたそうである。当時の日本では音響カプラーでしかコンピュータに接続することは許されなかったがアメリカではモデムを通して回線に直接接続することが当たり前であり、学校のそういう設備を通して侵入したものと思われる。たぶん当時は、企業でもセキュリティなんてないも同然であったのであろう。この記事を書くにあたりいろいろ調べたが、bit誌1983年11月号の坂村健『ハッカーの研究』に書かれている。またbit誌1985年1月号の一松信『コンピュータ・セキュリティ(1)』によると、「その中の一人は後年大学に進学し、計算機科学の優秀な学生と見られていたが、昔の味が忘れられず、計算センターに“トロイの木馬”をしかけ、大騒動を引き起こしたという。大学側はなんども彼を防衛側に組み入れようとしたが、当人はもはや組織破壊にのみ生き甲斐を感じる過激派になってしまったと伝えられている。」とのことである。

社会の動きのところにも書いたように、三和銀行茨木支店で3月25日にオンライン詐欺事件があり、9月5日に発覚したが、これは伊藤素子行員が勝手に端末を操作して1億円以上を架空送金し横領したもので、銀行のシステムのチェックを巧妙にすり抜けているが、コンピュータやネットワークの高度な技術を悪用したものではなかった。

アメリカ政府の動き

1) Lawrence Livermore National Laboratory
LLL(Lawrence Livermore Laboratory)は、1981年、LLNL(Lawrence Livermore National Laboratory)と改名した。

アメリカの学界の動き

1) CalTech (Cosmic Cube Project)
この頃、CalTechにいたイギリス生まれの素粒子理論物理学者Geoffrey C. Foxは並列コンピュータ開発のCosmic Cubeプロジェクトを始めた。これは、Intel 8086/87プロセッサと128 KBメモリからなるノード64個をハイパーキューブ結合したものである。このアイデアは後にIntel iPSC/1 (1985)として商用化される。Foxは以前、筆者と同じような高エネルギー分野(Regge Pole現象論など)の研究を行っていたが、「イギリスのコンピュータが遅くてしょうがない」と物理の論文で嘆いていたのを覚えている。

前にも述べたように、筆者は国際共同プロジェクトPDG (Particle Data Group)に1973年ごろから加わった。1974年頃、LBNLで高エネルギー物理文献・データを記述するために、PPDL (Particle Physics Data Language)という言語と、PPDS (Particle Physics Data System)というデータベース管理システムが開発されていることを聞いたが、PPDSの開発もFoxを中心に行ったそうである。トリー構造のデータベースで、なんとFORTRANで書かれていた。今ならXMLを使ったであろうと思われる。その後のG. C. FoxのHPCやグリッドでの活躍はご存知の通り。

2) Stanford大学(MIPS)
前年に始まったBerkeley RISCに続いて、1981年にはStanford大学のJohn L. Hennessyを中心としてMIPSプロジェクトが始まった。MIPSは“Microprocessor without Interlocked Pipeline Stagesに由来する。このプロジェクトは1984年まで継続し、1984年にはこの成果に基づくプロセッサを開発するためMIPS社が設立された。

国際会議

1) ISSCC 1981
第28回目となるISSCC 1981 (1981 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1981年2月18日~20日にNew York市のThe Grand Hyatt Hotelで開催された。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE New York Section、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はJ. A. A. Raper (General Electric)、プログラム委員長はBl Wooley (Bell Labs)であった。Jerome J. Suran (General Electric)が“Technology Thrust of New Era Electronics”と題して基調講演を行った。Intel社のiAPX432を始め、各社は高い性能の32ビットマイクロプロセッサを競って発表した。会議録はIEEE Xploreに置かれている。

2) CONPAR 81
第1回のCONPAR 81: Conference on Analyzing Problem Classes and Programming for Parallel Computingは、1981年6月10日~12日にErlangenで開催された(Nürnbergという記事もある)。会議録はSpringerのLNCS 111として出版されている。第2回は1986年。

3) VAPP I
VAPP I (International Conference On Vector And Parallel Processors In Computational Science)は、1981年8月25日~28日にイギリスのChesterで開催された。会議録は、Computer Physics Communications Vol 26, #3-4として出版されている。

4) ICPP 1981
第10回目となるICPP 1981 (International Conference on Parallel Processing)が開催された。日時、場所などは不明である。

アメリカの企業の動き

1) IBM社(CEO交代)
IBM社は、1981年1月1日、1973年からCEOを務めていたFrank T. Caryが60歳の定年で退任し、代わりに、1974年2月から社長を務めていたJohn R. OpelがCEOに就任した。

2) IBM (mainframe)
アメリカでは、1981年10月21日、IBM社がアドレス空間を31ビットに拡張したSystem/370-XAアーキテクチャに基づく3081Kを発表した。日本IBMは12月3日に発表。同時に入出力チャンネル関連の機能も増強した。1982年8月に1号機を出荷した。このアーキテクチャのためのOSとして、MVS/XAとVM/XAが設計された。IBM互換路線を取っていた日立と富士通にとって大きな脅威であった。

3) IBM (PC)
他方、IBM社は8月12日(アメリカ時間)、IBM Personal Computer 5150(いわゆるIBM PC)を発表した。基本構成で$1565であった。OSとしては、最初はCP/MのDigital Research社に外注しようとしたが交渉が成立しなかったので、1981年2月にMicrosoft社と開発契約を結んだ。短期間に高い要求を実現するために、Seattle Computer Systems社が1980年4月に開発した86-DOSと呼ばれたシステムのライセンスを購入し、それをベースに開発した。IBMはこの OSをPC-DOSとして採用した。これは最初に採用されたOSであるが、当初は標準搭載OSというわけではなかったようである。それまではパソコンといえばApple IIやCP/Mマシンが独占していたが、IBMは参入するやたちまち商業的に成功した。メインフレームもそうであったが、IBM社はパソコンにおいても後からやってきて市場を席巻するという経過をたどった。1993年の高並列システム参入においても同じパターンが再現した。しかし23年後の2004年12月、IBMは全PC事業を中国のLenovo社に売却することを発表することになる。

Microsoft社は、1982年6月、IBMとの共同開発契約に基づき、IBM社以外のメーカにMS-DOSの名前でOEM提供を開始する。

4) Floating Point Systems社(FPS-164)
また1981年、Floating Point Systems社(1970年創業)は64ビットのFPS-164を出荷した。

5) BBN Technology社(BBN Butterfly)
BBN Technology社(1948年、Cambridgeで創立)は、1981年並列計算機BBN Butterflyを出荷した。512個以内のCPU(第一世代はMC68000、第二第三世代はMC68020)をButterfly Networkで結合し、非対称共有メモリの並列計算機であった。100システム以上が販売されたが、価格性能比が低く、販売は振るわなかった。

6) Tandem Computers社
1981年、Tandem/16 (NonStop I)に変わってNonStop IIを開発した。

7) NAS社(AS9000DPC、AS9000N)
NAS (National Advanced Systems)社は、1981年1月にIBM 3081対抗のAS9000DPCを、2月にはIBM 3033U対抗のAS9000Nを発表した。

8) Intel社(iAPX432)
Intel社は1981年2月、初めての32ビットマイクロプロセッサiAPX432を発表した。名称は、“intel Advanced Processor arCHitecture”に由来する(Xはギリシャ文字のχ(ch)を表現)。3個のチップで構成されている。Intel社は、これにより従来のx86アーキテクチャを置き換える計画であったが、1チップに実装できなかったので、性能が出なかった。また、OSの機能をハードウェアで行おうとし、オブジェクト指向とガベージコレクションをチップにサポートさせたため、ハードウェアが複雑化した。そのため性能が非常に悪く、商業的には失敗した。1985年頃製造中止になった。

なお、Intel iAPX86は、Intel 8086とも呼ばれ、iAPX432の開発の遅れを補うために1978年に発売された16ビットプロセッサである。

プロセッサiAPX432開発がうまくいかず中止になったことに不満を抱いた18人の技術者と経営者はIntel社を辞め、1983年Sequent Computer Systemsを創立する。

9) National Semiconductor社(NS32016)
同社は主としてアナログ半導体を作ってきたが、1981年2月、32ビットマイクロプロセッサNS16032を開発した。後にNS32016と改称。このチップは16ビット外部データバスと、24ビット外部アドレスバスを持ち、当初から完全な32ビット命令セットを持っていた。

10) Zilog社(Z800)
1981年5月、Zilog社は8ビットのZ80と16ビットのZ8000の間のギャップを埋めるため、Z80と上位互換性のあるプロセッサZ800を発表した。出荷は当初1982年第2四半期と発表されていたが、1985年に延期され、結局大量生産されなかった。32ビットのZ80000の開発を優先したためと言われる。Z80が得意とした組み込みシステムとしては、Z800は過剰性能だった。

11) 32 bit processors
ISSCC 1981では、いくつかの32ビットVLSIプロセッサが発表された。上記のIntel iAPX432やNS16032のほかに、Hewlett-Packard社からは45万トランジスタのCPUプロトタイプが、Bell LabsからはMAC 32と呼ばれるCMOSマイクロプロセッサが発表された。

12) COMDEX/Spring
1979年から毎年11月にLas VegasでCOMDEXが開催されているが、1981年ニューヨークでCOMDEX/Springを開催した。その後1982年にAtlantic Cityで開催し、1983年~1988年まではジョージア州Atlantaで春の展示会を開催し、その後はAtlantaとChicagoとで交互に開いた。最後の春の展示会は、2003年4月のChicagoであった。

ヨーロッパの企業の動き

1) ICL社
イギリスのICL (International Computers Limited)社は精力的にメインフレームを発表し、1981年2月にはIBM 3033グループS対抗の2977を発表した。しかし経営は思わしくなく、6月にはイギリス政府から日本政府に対してICL救済協力を要請した。これに対し富士通は経営再建への協力に合意し、12月7日には技術提携契約に正式に調印した。イギリス政府は、ICL社に対する債務保証を2年から5年に延長した。

2) Nixdorf Computer AG (8890/70)
1981年10月、Nixdorf Computer AGは、IBM互換の大型モデルNixdort 8890/70を発表した。

企業の創立

1) Pyramid Technology社
1981年、Hewlett-Packard社(1947年創業)を退職した人々が、RISCベースのミニコンピュータを開発するためにPyramid Technology社を設立した。対称型共有メモリ並列コンピュータの98x (1985)やMIServer (1989), Nile (1993)などを開発したが、1995年にSiemens社(1847年創業)に吸収された。並列ベンチャーの走りの一つと言えよう。

2) Weitek社
1981年、Intel社を退職した3名の技術者G. Fong、C. S. Wang、E. SunがWeitek社を設立し、他社のCPU向けにFPUの開発を始めた。1064と1164はMotorola 68000シリーズのためであり、1067はIntel i286のためであった。Intel i386のFPUの設計が大幅に遅れたので、Weitek社は1167を提供した。これはその後2167、3167、4167と進化した。

いろいろなワークステーションに使われた他、HPCの分野では、Alliant FX (1985)やCM-2 (1986)、 FPS T-series (1986) の浮動小数演算器として利用されたことで知られる。後に述べる格子ゲージシミュレーション専用機のうち、Columbia大学のマシン、イタリアのAPE、IBMのGF11、FermilabのACPMAPSなどほとんどがWeitekのFPUを用いている。また、ドイツの国家プロジェクトSUPRENUMも用いている。1995年頃経営不振となり、1996年、Rockwell’s Semiconductor Systemsに買収された。

3) Mercury Computer Technology社
マサチューセッツ州Chelmsfordで、組み込みシステム(軍用など)のための並列システム開発するために設立された。

4) 集積回路設計ソフト会社(Silicon Compiler, Mentor, ECADなど)
ICの設計技術がこのころ飛躍的に発展した。1980年代に、さまざまなカスタムCPUの並列コンピュータが続々登場する背景にはICの設計技術の進歩がある。David L. Johannsen、その指導教授Carver Mead、およびEdmund K. Chenは、1981年にSan JoseにおいてSilicon Compiler Inc.を創業した。Silicon Compilerは、Cに似た抽象度の高い言語で仕様を記述すると、それを自動的にIC上の回路に変換するソフトである。余談であるが、あるときSilicon Compilerの講習会に参加した筑波大学の同僚板野肯三氏は、感激して帰ってきて、「実に簡単だ。サルでも小柳さんでもICを設計できる」とのたまった。筆者は思わず、「サルだけ余計だ」と怒鳴った。

同じ1981年、電子系設計ソフトウェアのMentor Graphics Corp.がオレゴン州Wilsonvilleで創業された。ECAD Inc.(Cadence Design Systems社の前身の一つ)は翌1982年にSanta Claraで創業した。

Silicon Compiler Inc.は、1987年4月にSilicon Compiler Systems Corp.と名前を変え、1990年3月23日にMentor Graphics Corp.に買収された。

企業の終焉

1) Itel社
Itel社は経営が悪化し、1979年10月にコンピュータ部門をNS社に売却して再建を図ったが、1981年1月20日、San Francisco連邦地方裁判所に連邦破産法11章(Chapter 11)の適用を申請したことが明らかになった。負債総額は$1.6Bであった。

次回1982年、日本ではベクトルスーパーコンピュータがやっと姿を現すが、他方アメリカでは並列処理などのコンピュータ・ベンチャーが雨後の筍のごとくに登場する。

(アイキャッチ画像:Caltech Cosmic Cube 出典:Computer History Museum)

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