世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


10月 18, 2021

新HPCの歩み(第64回)-1981年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

通商産業省は「スーパーコン大プロ」を始める。10 GFlopsの並列ベクトルコンピュータを試作するという企画は、画期的ではあったがその後の市場の進展に追い越されてしまった。日立製作所の浜田穂積は、データ長独立な実数値表現法URRを提唱する。FP16などが活躍する現在、再注目されてもよいのではないか。

社会の動き

1981年(昭和56年)はロッキード裁判の一年であった。社会の動きとしては、1/1ギリシャがEC加盟、1/15記録的大雪(五六豪雪)、1/19イラン政府、アメリカ人兵士52人を釈放することに合意、翌日解放、1/20レーガン米大統領就任、1/22田中康夫『なんとなく、クリスタル』出版、1/25江青に死刑判決、2/4神戸ポートアイランド合同完工式、2/5ポートライナー開業、2/15『夢千代日記』放送開始、2/18「レーガノミックス」が発表される、2/23ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世来日(26日まで)、3/2中国残留孤児初来日、3/6『窓ぎわのトットちゃん』講談社から発行、3/20神戸ポートアイランド博覧会開幕(~9/15)、3/25常用漢字答申(10/1告示)、3/25三和銀行オンライン詐欺事件(9/5発覚)、3/30レーガン大統領銃撃で重傷、3/31ピンクレディー解散コンサート、4/9米原潜当て逃げ事件(日昇丸事件)、4/12スペースシャトル・コロンビア初飛行、4/22マザー・テレサ来日、5/2アイルランド航空機ハイジャック、ファティマ第3の秘密の公開を要求、5/10仏大統領選挙でミッテランが当選、5/13ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂、重傷、6/5アメリカでAIDS患者が初めて発見される、6/7イスラエルがイラク原子炉爆撃、6/10マハティールがマレーシア首相となる、6/11食糧管理法改正、米穀配給通帳廃止、7/29英チャールズ皇太子、ダイアナと挙式、8/11気象衛星「ひまわり2号」打ち上げ、8/22台湾で国内線飛行機墜落、向田邦子ら日本人18名も死亡、9/8湯川秀樹死去、9/19フランス、死刑廃止、9/27フランス国鉄、パリ・リヨン間でTGV開通、10/1神戸ポートピアランド開園、10/1東京12チャンネルがテレビ東京と社名変更、10/6エジプトでサダト大統領暗殺、10/9『北の国から』放送開始、10/16北炭夕張炭鉱ガス事故、10/19福井健一ノーベル化学賞受賞が発表、10/28ロッキード事件公判で「ハチは一度刺したら死ぬ」、10/29常磐自動車道全線開通、10/30「FOCUS」創刊、11/5小佐野、ロッキード事件で実刑判決、11/13沖縄本島でヤンバルクイナを発見、11/18三浦和義の妻がロサンゼルスで襲撃される(ロス疑惑)12/13ポーランドで「連帯」を抑えるため戒厳令、など。

流行語・話題語としては「ナウい」「なめネコ」「ノーパン喫茶」「フルムーン旅行」「ハチの一刺し」「好きな人のためにやりました」(三和銀行オンライン詐欺事件容疑者)など。ベストセラーは、『吉里吉里人』、『窓ぎわのトットちゃん』、『なんとなく、クリスタル』など。

チューリング賞は、データベース管理システム、特に関係データベースの理論と実用における基本的貢献に対してEdgar Frank Codd(IBM)に授与された。1981年11月9日、Los Angelesで開催されたACM年次総会で贈られた。

エッカート・モークリー賞は、パソコンの嚆矢を開くとともに、ARPANETでも活躍したWesley A. Clarkに授与された。

ノーベル物理学賞は、レーザー分光学への貢献に対してNicolaas BloembergenとArthur Leonard Schawlowに、高分解能光電子分光法の開発に対してKai Manne Börje Siegbahnに授与された。化学賞は、化学反応過程の理論的研究に対して、福井謙一とRoald Hoffmannに授与された。生理学・医学賞は、大脳半球の機能分化に関する発見に対しRoger Wolcott Sperryに、視覚系における情報処理に関する発見に対してDavid H. HubelとTorsten Wieselに授与された。

筆者が計算物理学を本格的に始めたのはこのころのようである。Metropolis法によるスピン系(O(3)など)のシミュレーションから研究を始めた。7月に高エネルギー研で共同研究者と打ち合わせたという記録がある。

前にも書いたように、この年8月24日に筑波研修センターで日本クレイ主催のCray-1説明会が開かれ誘われたが、「小遣いで買えるような代物でないので」とことわった。しかし「とにかく話を聞いてください」というので出席した記憶がある。半田久侑副社長(実質上の社長)や武田喜一郎氏に初めてお会いした。その時に頂いたCray Fortranのマニュアルがあったはずだが、捨ててしまったかもしれない。

日本政府関係の動き

1) スーパーコン大プロ
通商産業省が主導する大型工業技術院研究開発「科学技術用高速計算システムの研究開発」(通称「スーパーコン大プロ」)は、1980年7月28日に方針が決定され、1981年1月から始まった(4月ではないようである)。電子技術総合研究所(電総研)を中心に多くの日本企業を結集し科学技術用高速計算システム技術研究組合を構成した。リーダーは、電総研電子計算機部長の柏木寛であった。その後、田村浩一郎に代わる。10月の産業技術審議会で、研究開発機関9年間、研究開発費総額は230億円、研究開発目標が定められた。

通産省は開発に参加する企業の募集を1981年10月末で締め切ったが、これに対し、富士通、日立、日電、東芝、三菱、沖の国産コンピュータ6社がそろって応募した。通産省は、技術レベルや資金力などを審査し、1981年中に参加を認めた。日本IBM社もこのプロジェクトに参加希望を表明していることが1981年4月23日に公表されたが、参加は認められなかった。

研究開発の項目として以下のものが上げられている(途中変更がある。最終報告書に基づく)。

(1) シリコン素子に代わる新しい高速論理素子および高速記憶素子
      Josephson接合素子、HEMT素子、GaAs FET素子の開発。なお、電総研は1980年2月にJosephson素子を使った論理演算素子の開発、動作実験に成功している。

(2) 多数の基本プロセッサを同時に動作させる並列処理方式
      資源衛星データ処理のための、大規模並列処理装置(CAP、64×64のSIMD)、高機能並列処理装置(VPP、ベクトル演算を行う8台のPUをGaAs素子のスイッチで結合)、3次元画像表示装置(GP、Geometry Processor 16台をハイパーキューブ結合、ビデオ発生器にはHEMT素子を使用)からなるシステム。

(3) 高速演算用並列処理装置、大容量高速記憶装置、分散処理用並列処理装置からなる総合システム
      10 GFlops以上の高速演算用並列処理装置、容量1 GB以上、転送速度1.5 GB/s以上の大容量高速記憶装置、100 MFlops以上の分散処理用並列処理装置からなる。結果的に開発されたのは、マルチベクター型システムPHI (Parallel, Hierarchical and Intelligent)と外部大規模記憶装置LHS (Large capacity High speed Storage)とデータ駆動システムSIGMA-1であった。
      PHIは4台の市販プロセッサを結合した並列ベクトルコンピュータで5 GFlops + 2 GFlops×3 というヘテロなシステムである。LHSは4 GBの容量、1.5 GB/sの転送能力を持つ。また、並列処理を記述するPhil言語と、問題記述言語Paragramを開発した。このシステムについては、情報処理33巻5号(1992年5月)に「マルチプロセッサスーパーコンピュータPHIの研究開発」という特集(編集責任は鈴木滋と笠原博徳)がある。
    SIGMA-1は電総研のチーム(島田俊夫、平木敬、西田健次、関口智嗣)が開発し、128台のPEから成る世界最大のデータ駆動コンピュータとなる。

1981年といえば、日本ではまだ本格的なスーパーコンピュータ開発の発表もなく(社内では進んでいたであろうが)、そのような時点で10 GFlopsという高い目標を掲げたことは画期的であったといえる。しかし、9年間という歳月はコンピュータ技術にとっては長すぎた。1987年にはピーク10 GFlopsのETA 10が商品として出荷され、研究開発プロジェクトが市場に追い越された形となった。

この通産省のスーパーコン大プロが、日本のスーパーコンピュータ開発にどのような影響を与えたかについてはさまざまな意見がある。市場の動きを抑制したと否定的に見るものもいる。筆者は1990年6月25日に工業技術院共用講堂で開かれた成果発表会に参加したが、田村浩一郎リーダーが「このプロジェクトの真の目的は要素技術の開発です」と強調していたのが印象的であった。本来ならばそんなことは言うべきではないと思う。プロジェクト全体が所定の成果を得られなかった言い訳と誤解されてしまう。

2) 第五世代コンピュータプロジェクト
1979年度から3年間の計画で、第五世代コンピュータプロジェクトのための調査研究が始まっていたが、1991年秋にはまとまった。その成果を世界に問うために、1981年10月19日~22日に、東京経団連会館において第1回第五世代コンピュータ国際会議FGCS’81が開催され、このプロジェクトの計画が広く世界に向けて発表された。全体で300人、海外から80人強の参加があった。元岡委員長の講演は、委員会での意見を八方美人的にまとめたものであった。海外からの参加者は、計画内容が事前に公表されたことに驚くとともに、目標が野心的すぎて、達成は困難であり、半分でも達成すれば大成功であろうという反応であった。そもそも、日本にこのような革新的なプロジェクトを実施できる人材はいるのか、という疑問の声もあった。しかし「日本が官民一体で、高度なAIマシンを開発する」というメッセージは欧米に衝撃を与えた。

これに対抗すべく、各国で以下のような政府主導の種々の対策が始まった。

・イギリス:Alvey project (1984-88、1100億円)

・EC:ESPRIT project (第I期 1984-88 3100億円)

           (第II期 1988-92 5300億円)

・アメリカ:コンピュータと半導体メーカがMCCを組織

・アメリカ:DARPAが戦略コンピュータ計画(SCI)を開始 (1984-93 2400億円)

 

日本のプロジェクト自体は、1981年12月27日の閣僚折衝により4.26億円の予算が認められ、翌1982年4月に開始される。

3) ERATO
新技術開発事業団(JST科学技術振興機構の前身の一つ)は、1981年度からERATO (Exploratory Research for Advanced Technology)を開始した。最初の年度は、「西澤完全結晶プロジェクト」「緒方ファインポリマープロジェクト」「増本特殊構造物質プロジェクト」「林超微粒子プロジェクト」であった。

日本の大学センター等

1) N-1ネットワーク
7大学大型計算機センターのメインフレーム計算機を結合するN-1ネットワークは、1975年頃から試験を行ってきたが、電電公社によるパケット交換網DDXサービスの上で、1981年10月から正式運用を始めた。

2) 東京大学(M-200H×8)
東大大型計算機センターでは、2台のM-200Hのマルチプロセッサ4ノードがディスクベースで疎結合されたシステム(CPUは合計8台)を設置し、1981年1月5日から稼動した。メモリはノード当たり16MB、合計64MBである。6台のCPUにはIAP(統合型アレイプロセッサ)が搭載されている。IAPはれっきとしたベクトルプロセッサであり、性能(加速率)はほどほどであったが、TSSからも使用することができ、筆者の愛用したマシンの一つであった。国産大型機として、FORTRAN 77が実装されたのはおそらく初めてであろう。HITAC 8800/8700で実用化したオ-プン・バッチ方式をさらに強化し、ラインプリンタではクレジットカードと同じ形の磁気カードを使う(写真は当時の筆者のトークンカードの表と裏。横85mm。だいぶくたびれている)。

 
 
   

VOS3はIBMのSystem 360/370と同様に、TSSはコマンドで、バッチ処理はJCL (Job Control Language)で制御するが、東京大学大型計算機センターでは、HITAC 8800/8700以来のTOOLコマンド体系を継承してTSSでもバッチジョブでも利用できるようにした。

年間レンタル予算は7億円から12億円に増額された。TSSは常時500台の端末からアクセスできる。

前年のところに書いたように、同時に、DEC社のVAX 11/780をサブシステムとして導入しBerkeley版Unix OS(3 BSD, 4.1/4.2 BSD)を搭載した。

3) 筑波大学(FACOM M-200)
筑波大学学術情報センターの研究用計算機を、1981年4月、ACOSからFACOM M-200に機種変更した(要確認)。

4) 長岡科学技術大学(ACOS 450)
1981年4月、長岡技術科学大学は計算センター設置、翌年ACOS 450設置。

5) 千葉大学(HITAC M-170)
1981年4月、工学部情報処理センターを千葉大学情報処理センターに改組した。11月には、HITAC M-170に主メモリを2 MB増設して6 MBとし、磁気ディスクも1台増設。

6) 豊橋技術科学大学
1981年4月、豊橋技術科学大学は計算機センターを設置。

7) 和歌山大学
1981年4月、和歌山大学は学内共同利用計算機センターを設置した。翌年ACOSシステム350を導入。

8)広島大学
1981年4月、昭和56年省令第16号に基づく施設として、総合情報処理センターを設置した。

9) 山口大学
1981年8月、計算センターを情報処理センターに改称。

10) 東北学院大学
1981年4月、情報処理センターを設置した。

11) 上智大学
上智大学電子計算機室は、1981年3月、電子計算機センターと改称した。2014年4月に情報システム室に改称し、旧事務システムグループと統合する。

12) 九州産業大学
九州産業大学計算センターは、1981年10月1日、情報処理センターと改称した。

13) 高エネルギー物理学研究所(M-200H×3)

 
   

高エネルギー研には1981年8月、M-200Hが3台(主記憶は16MB+16MB+8MB)導入され、1985年8月まで稼動した。

このころからTSS端末が整備され、パンチカードを使うことは少なくなった。とはいえ相変わらず端末は特定の端末室に集中設置され、そこに出かけて行って利用する形態であった。ローカルネットワークやインターネットが普及するのはだいぶ後のことである。出力は連続紙のラインプリンタであったが、これも集中設置され、各ユーザに交付されたカードで溜まった出力を印刷して取り出していた。

ところが、高エネルギー物理学研究所では粒子の方向を曲げるため強力な磁石があらゆる所に使われており、うっかり持って近づくとカード上の磁気記録が消えてしまう。いつのころからか記憶がないが、写真のようなホログラムカードが導入された。透明な窓に16か所の小さなホログラムがあり、そこがユーザのIDを表している。実は磁気ストライプも裏面にある。商品名はSANYO HOLOGRAM CARDとあるが、現在は作られていないようである。今はホログラムカードというと、クレジットカードの偽造防止用ホログラムを指すので全く違う。このカードは研究所に返却すべきだったのであるが、機を失ってしまった。

日本の学界の動き

1) 円周率πの計算

 
   

1981年7月10日、三好和憲(筑波大)と金田康正(東大)は稼働したばかりの筑波大学のFACOM M-200を137時間18分用いて200万桁(正確には2,000,036桁)求めた。使用したのはKlingenstierna公式である。Machin公式による検証計算には143時間18分掛かったとのことである。筆者と中田育男と佐々政孝の3人が証人として署名(写真、三好和憲氏提供)してギネスブックに申請し、「最も精度の高い数字」ということで登録された。日本人としてギネスブックに円周率が載った最初だと思う。直後にフランスのGuilloudが2,000,050桁求めたそうである。詳細は分からないがCDC7600を使用したと思われる。でも14桁だけ追い越したなんてせこい。

2) URR
日立製作所システム開発研究所の浜田穂積は、情報処理学会論文誌22巻6号(1981年11月)pp.521-526掲載の論文「二重指数分割に基づくデータ長独立実数値表現法」において、後にURR (Universal Representation of Real numbers)と名付けられる、任意ビット長で値に応じて指数部の桁数が変化する実数値表現を提案した。当時用いられていたIBM表現や、1979年に提案されていたIEEE 754(正式決定は1985年)などとは異なり、数値の大きさに応じて指数部と仮数部の境界が自然に移動するところが特徴である。実用化はされなかったが、半精度(16ビット)浮動小数が話題になっている現在、もっと注目されてもよかったと思われる。

3) 「計算機と化学・生物学の会」
1981年3月20日、東京・神田の山の上ホテルにおいて、発起人会を開き「計算機と化学・生物学の会」設立準備会を開いた。代表者は佐々木慎一豊橋技術科学大学教授、事務局は東京都臨床医学研究所に置くこととした。4月に「計算機と化学・生物学の会設立準備事務局を開設し、代表として神沼二眞を選出した。現在の情報計算化学生物学会(The Chem-Bio Informatics Society)、通称CBI学会である。

4) 慶応義塾大学
慶応義塾大学工学部は、1981年、理工学部に改組し、従来からの工学分野の学科に加えて、理学分野の数理科学科(数理工学科からの改編)、物理学科、化学科を設置した。

5) インフレーション宇宙論
1981年5月発行のMonthly Notices of the Royal Astronomical Societyにおいて、京都大学の佐藤勝彦はインフレーション宇宙論を提唱した。

6) 湯川秀樹死去
湯川秀樹先生は前立腺がんを発症し療養されていたが1981年9月8日死去された。葬儀には行けなかったが、京都に出張した際、9月22日に湯川邸を弔問した。京都式の黄白水引の香典袋を初めて使った。なお、湯川博士が亡くなるまでの24年間過ごした左京区下鴨泉川町の住宅と敷地は、2021年に京都大学に寄贈された。

国内会議

1) 数値解析研究会
自主的に企画している第10回数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)は、名古屋大学二宮研究室の担当で、1981年5月28日(木)~30日(土)に、愛知県労働者研修センター(瀬戸市定光寺)で開催された。参加者は106名。100名を超えたのは初めてであり、その後大体この規模で開催されている。筆者も参加した。

2) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1981年11月19日~21日、今回は森正武(筑波大学)を代表者として「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を開催した。第13回目である。報告は講究録No.453に収録されている。数理的な話題が多いが、浜田穂積のURR、星野力のPACS、野木達夫のADINAなど計算機システム寄りの話題も目立つ。

日立製作所はIAP搭載のHITAC M-280Hを発表する。世界で初めての条件付きDOループの自動ベクトル化コンパイラを実現する。富士通は、31ビットのアドレス空間をサポートするFACOM M-380/382を発表する。

 

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