世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

5月 1, 2018

【わがスパコン人生】第1回 小柳義夫

島田 佳代子

Yoshio Oyanagi

第1回 小柳義夫
夢を次の世代に伝えていきたい

日本のスーパーコンピュータの発展に多大な貢献を果たした人物を紹介していく本連載。
記念すべき連載第1回は小柳義夫先生にスーパーコンピュータの成り立ち、ご自身のバックグラウンドなど貴重なお話を伺いました。

 

「スーパーコンピュータ誕生」


―スーパーコンピュータ(スパコン)とはどのように誕生したのでしょうか?

いわゆるコンピュータ、昔でいう電子計算機は第二次世界大戦中、大砲の軌道計算を主目的に開発されました。弾が飛ぶなんて放物線を描くだけじゃないかと思いますが、風や空気抵抗があり、その上地球が自転していることも考えなければいません。それまでは手回し計算機で表を作っていましたが、電気を使ったら早いだろうと開発が進められ、1946年2月14日バレンタインの日にお披露目されたものがENIACです。今から見れば電卓よりも遅いぐらいですが、人間が計算するのに比べたら驚異的なスピードで画期的な計算機でした。

完成した時には戦争が終わっていましたが、これは商売になると考えた会社があったんですね。大砲の計算をするよりも、企業のお金を勘定する方が需要もあります。そうして主目的が科学技術計算から商業となり開発が続けられることになりました。他方、ロケット、飛行機、自動車、船を高速化するために精密な設計が必要になり、1960年、70年代に入ると科学技術向けの高速計算機が作り始められました。スパコンの父シーモア・クレイがCDC6600、CDC7600、Cray-1といったコンピュータを作りました。それが今のスパコンに繋がっています。最初は周囲もこんな計算機は世界に数台あればいいなんて言っていましたが、実際に使ってみると速いし便利だという訳で世界中に広まりました。

1970年代、まずアメリカで技術が進みましたが、日本も80年代半ばにスパコンを作り始めました。するとアメリカのものよりも性能が高くなりました。1993年に発足した国際的な評価ランキングTOP500ではLinpackのスピードをもとに毎年6月と11月にランキングが発表されますが、第8回目までのうち6回は日本がトップで、そのうちのひとつが筑波大学のCP-PACSでした。

―日本がアメリカに勝った要因はどういったものだったのでしょうか?

アメリカではベンチャービジネスがスーパーコンピュータを開発しました。ベンチャービジネスが伸びていくのがアメリカの良いところでもありますが、日本は日立、富士通、NECという半導体を作ることができる大企業がスーパーコンピュータを開発したのですから、良いものができるわけですよ。そして当時の文部省の政策も素晴らしかったと思いますが、開発されたスパコンを日本各地の主要な大学や研究所に設置しました。それで、日本中の研究者や大学院生がスーパーコンピュータを自由に使って研究できるようになりました。他方、アメリカはスパコン大国だから、当然大学の先生や学生は自由に使えると思うでしょう。違ったんですよ。アメリカのスパコンは、主としてエネルギー省、国防省、NASAなどの国立の研究所に置かれており、大学関係者は自由に使えませんでした。そのような環境では日本が勝ちますね。

―その頃のことで、記憶に残っているエピソードなどがあれば教えてください。

後に文部科学大臣も務められた有馬朗人先生とは東大物理で研究室が隣同士でした。有馬先生は1960年代に計算機を使いたいがためにアメリカへ渡り、そこで計算した厚い数表を大事に持っていました。帰国後、火事になったらまずそれを持ち出すんだと枕元に置いて寝ていたそうです。それが80年代になると逆になりました。アメリカで「計算化学の研究をしたかったら、日本へ行け。計算機が自由に使えるから」なんて言われるようになっていました。

1989年の第2回スーパーコンピューティング会議(毎年アメリカで開催)でのパネル討論会で、ある経済予測家が「ここでアメリカが何百億ドル投資すれば、数年後日本に勝てるが、このままでは永久に日本の後塵を拝することになる」と熱弁を奮っていました。驚いて周りを見渡したら日本人は私だけでね。知っているアメリカ人が私の方を見てニヤニヤしていました。

アメリカは、「スパコンは科学技術の基本的なツールであり、これで負けたら科学技術、産業も学問の世界でも勝てなくなる」と言い出し、1990年初頭に、後に副大統領となるゴア上院議員がHPCC (High Performance Computing and Communication)という技術開発プロジェクトを提唱し立ち上げました。これが成果を上げて1997年6月に日本のCP-PACSを追い抜きました。

その後、日本が臥薪嘗胆で開発した地球シミュレータが2002年6月から2004年6月まで5回連続で1位を取りました。『地球』という名前からも分かるように、天気予報、気候変動、温暖化、2007年にノーベル平和賞を受賞したICPP(気候変動による政府間のパネル)への貢献など、多大な成果を上げました。それだけではなく、産業界でも活躍しました。自動車工業界が地球シミュレータを使って行った衝突のシミュレーションでは、それまでのスパコンよりも桁違いに精密な計算ができたと聞いています。スパコンの計算速度が上がるというのは、ただ単に世界一になるということではなく、様々な分野で段違いの成果が出てくるということが改めて分かりました。

以降、アメリカ以外の国でもスパコンの開発が進められ、2004年はアメリカに負け、ヨーロッパ各国に負け、インドに負け・・日本はTop20にも入らなくなりました。2005年頃から「次世代スーパーコンピュータ」(後に「京」と命名された)の開発を進めていたのですが、忘れもしない2009年11月13日金曜日。13日の金曜日ですよ。事業仕分けがあり、予算は大幅縮減、実質上潰れて全てが終わったと思いました。直後の日曜日からアメリカでスーパーコンピューティング国際会議がありましたが、日本人参加者は皆お通夜みたいにしおれていました。会議そっちのけで対策会議を始めました。幸いその後判定結果の見直しがあり12月16日に予算が復活しました。

そして2011年6月に「京(けい))が日本製で久しぶりに1位になりました。笑い話ですが、昔、コンピュータによる天気予測が始まった頃、解像度は低く、間隔が100キロとか150キロでした。スイスの中に1点も入っておらず、「スイスが無視されている!」とスイスの人が怒っていました(笑)。それが1秒間に1京回(1の後ろに0が16個!)もの計算速度を実現した「京」では、700メートル間隔で全地球の気象予測ができました。積乱雲の細かい構造までシミュレートできました。これには気象をやっている人も驚きましたよ。

―これからの進歩でどういったことが可能になってくるのでしょうか?

ひとつは「丸ごとシミュレーション」です。今までは部分ごとに計算しています。例えば、飛行機のシミュレーションでは翼と胴体を別々に計算していました。今は丸ごとシミュレーションと言って、全体を同時に計算することで現実に近いシミュレーションができるようになりました。今後はもっと現実に近いシミュレーションができるようになります。リチウム電池も発火が報告されるなど、重要な問題になっていますね。京では極板の近くの分子の動きだとか、電解液の振る舞いといったことは別々に計算できますが、次はもっと全体的にやって設計を高度化できると思います。

今後は処理速度の高速化だけではなく、消費電力を低減させることも重要な課題です。京の消費電力は原発一基の1/100で、単純に京の100倍の性能を目指すと、消費電力も100倍となり、原発一基分と同じになってしまいます。そうなるわけにはいきません。純粋にピークスピードを競うTOP500ではなく、省エネ性能を競うGreen500がありますが、2017年度6月のランキングでは上位1-4位を日本勢が独占しました。

 

「物理からスーパーコンピュータの世界へ」


―スパコンの研究開発における長年の多大な功績が評価され、平成27年度には文部科学大臣表彰「科学技術賞」も受賞されていますが、スパコンとの出会いを教えてください。

実は私は元々物理学者なんですよ。筑波大に移った1978年頃、物理学者の岩崎洋一先生たちと東大や高エネルギー研究所の計算機も使い、当時としては大規模な素粒子物理学の研究を行っていました。ある年なんて高エネルギー研のスーパーコンピュータを我々のグループだけで2,000時間使いましたよ。計算機なんて勝手にやらせておけばいいから楽だろうと思うけど、2,000時間も使うと相当体力も必要でしたね。1年は8,760時間ですから、2,000時間は相当な時間ですよね。それでも計算能力が足りなかった。そうしているうちに、物理の計算専用のコンピュータならばもっと安くできるんじゃないかと自分たちで作ろうという話になりました。

そのころはマイクロプロセッサが普及し始めた頃でしたが、筑波大学構造工学系の星野力(つとむ)先生が、マイクロプロセッサをたくさん並べたら安く、高速の計算ができるんじゃないかと並列計算装置PAX-32を京都大学で組み立て、それを持って転任して来られました。

私はそれを見て「これだ!」と直感しました。星野先生に弟子入りして、物理や計算機の研究者たちと最初に作った大きなものが、QCDPAXという並列計算機です。QCD(量子色力学)は、私たちが研究していた理論で、PAX(PACSと表記されることも)は星野先生のシリーズに付いている名前です。3年間で2億円弱もらって作りましたが、予算獲得も簡単なものではありませんでした。文部省科学研究費特別推進の審査委員会へ星野先生、岩崎先生と3人で行き、審査員の前で「専用計算機を使って物理の計算をしたい」とプロジェクトの説明をしました。そしたら審査員が「君たちは物理をやりたいのかね。それとも速い計算機を作りたいのかね」と聞くんですよ。これは想定質問でした。もし「物理がやりたい」と答えたら、「計算機を作ろうなんて思わずに買ってくればいいじゃないか」。もし「速い計算機が作りたい」と答えたら、それこそ「記録のために作るのは無意味」だと言われてしまい、どちらと答えても審査を通らないようになっています。そのことも分かっていたから、私が「その両者が分かちがたく結ばれているところにこの提案の特徴があります」と答えたら、委員一同怒りだしてね。大論争になって、審査員と大喧嘩して席を辞しました。これで終わりだと3人でやけ酒。当然その年は審査に落ちました。翌年、何とか審査を通って採択され、QCDPAXが完成したわけです。

―2020年より小学校でもプログラミング教育が必修化されることもあり、現在小学生向けのプログラミング教室も大盛況です。長年コンピュータに携わっていらっしゃる立場として、この流れをどのように感じますか?

今は多くの人がワードやエクセルといった既存のソフトを使っています。しかし、コンピュータがどうやって動いているか少しでも知った上で使うことが大事だと思っています。一番困るのが、コンピュータは魔法で動いていると思ってしまうこと。魔法に見えてしまうと思考が停止してしまいます。

私が筑波大へ移った頃、筑波大は当時としては 珍しく全学生にコンピュータについての学習を義務付けていたため、指導教員としても働きました。コンピュータを触ったことがある理系の学生もいれば、触ったことがない体育専門学の学生もいるんですよ。体育会系学生の指先の反射は凄かったですね。この通り入力してみなさいというと速い!ただ、体が大きいから当時は足元にあったフロッピーデスクの装置のレバーを膝で押してしまったり(笑)

筑波大でそうやって全員に基礎を教えた経験からも、将来的に全員がプログラミングやるわけではないにしろ、基礎を知っておくのは大事だと考えています。プログラミングの基本は筋道だった思考力ですからね。これは生きていく上で何にでも役に立つと思います。

―最後に、小柳先生にとってスパコンとはどんなものでしょうか?

1970年代の終わりころ、あるセミナーで「アメリカにはスパコンというものがあるそうだ」という話を聞いて、自分がそんなものを使う時代はまさか来ないよな、と思っていたことを思い出します。

スパコンを手作りしたことは大変でしたが、QCDPAXを完成させたことでそれまで解けなかった素粒子の陽子、中性子、中間子だの、そういったものを基本原理から構成できました。自然を素粒子に還元することもでき、物理学者を志した最初の意向がある意味で実現したともいえます。そういった意味では私の人生としても良かったなと思っています。それに私の最初の修士学生が地球シミュレータでも、京コンピュータでも中心になって開発に携わりました。教え子たちが頑張ってくれていることも先生としては嬉しいですね。

若いときにスパコンがあったら良かったのになと思いつつも、スパコンを作るお世話をして、「次の世代が活用していい成果を出してくれないかな」「私の夢を次の世代に伝えたい、提供したい」というのが私の今の想いですね。

 

 

小柳義夫氏 略歴

1971年東京大学理学部博士課程修了(理学博士)、東京大学助手
1973年高エネルギー物理学研究所助手
1978年筑波大学電子・情報工学系講師
1982年筑波大学電子・情報工学系助教授
1988年筑波大学電子・情報工学系教授
1991年東京大学理学部情報科学科教授
2001年東京大学情報理工学系研究科教授
2006年工学院大学情報学部長
2011年神戸大学大学院システム情報学研究科特命教授
2018年一般財団法人高度情報科学技術研究機構