世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

8月 1, 2018

【わがスパコン人生】第4回 三浦謙一

島田 佳代子
Kenichi Miura

    第4回 三浦謙一
なんとかあっと言わせてやりたい

1970年代にアメリカのイリノイ大学で誕生した世界初の並列計算機「イリアック4」の開発プロジェクトに参加。以降、富士通で「VPシリーズ」などのハードウェア・ソフトウェアの開発に携わり、2000年代には国立情報学研究所の「超高速コンピュータ網形成プロジェクト」(NAREGI)のプロジェクトリーダーを務められるなど、日米で長年スパコンに携わられている三浦謙一先生にお話を伺いました。

「物理にしようか、天文にしようか 迷っていた少年時代」


どのようなお子さんでしたか?またコンピュータとの出会いを教えてください。

―小さい頃から工作をしたり、望遠鏡で太陽の黒点や月を観察するなど、色々なことに興味がある子供でした。小学校3年生の頃に醤油瓶のおまけについていた逆立ちゴマが、クルっと回すと逆立ちすることを、不思議だなと思ったこともよく覚えています。

とくに興味があったのが理科(物理)と天文で、どちらに進むか迷いましたが、大学では物理学部物理学科へ進学しました。

物理と聞くと難しそうに感じる人もいるかもしれません。でも、物理学者にはおもちゃが大好きな人たちが多いのですよ。20世紀を代表する物理学者のニールス・ボーアが逆立ちゴマを回している写真があります。またアインシュタインが日本に来た時に水飲み鳥のおもちゃに非常に興味を示したという話もあります。

私が大学に入学した頃、中央公論社の「自然」という雑誌に、物理学数人がロゲルギストという同人名で、おもちゃの話ばかりを書いている記事がありました。後に岩波書店から「物理の散歩道」シリーズとして出版されています。そのメンバーには、東大の電磁気学の高橋秀俊先生や流体力学の今井功先生という有名な先生もおられました。
素粒子の理論をやりたいという人は何人もいたけれど、私は大好きな実験ができる研究室ということで高橋(秀俊)・後藤(英一)研究室へ入りました。

じつは親父も物理学者で、戦争中は理化学研究所の仁科(芳雄)研究室にいて、主に宇宙線の観測、戦争が終わってからも名古屋大学や東大の原子核研究所で、宇宙線の研究を続けていました。私が高校生のときに親父がスイスのジュネーブにある世界最大規模の素粒子物理学の研究所であるCERNへ1年ほど客員研究員で行きました。CERNにはシーモア・クレイが設計した大型コンピュータCDC6600が 入っていて、加速器から出てくる膨大な実験データをコンピュータで処理していました。そんな最新の情報を得て帰国した親父は、高エネルギー加速器研究機構の設立にも関わりました。だから私も大学院へ進学しようか、どうしようかというときにはコンピュータを勧められました。

大学院生の時に、アメリカへ渡られましたが、何かきっかけとなる出来事があったのでしょうか?

―のちにノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生がアメリカから帰国して、しばらく原子核研究所におられたので、中学生の頃から存じ上げているのですが、大学院生のときに「けんぼう、いい話があるから一口乗らないか?」というのです。なんでも、小柴先生のロチェスター大学大学院時代の仲間であるジョン・パスタ先生がイリノイ大学計算機学科の学科長で、「一度に64個の計算ができる計算機を作るためのプロジェクトに協力できる大学院生を集めている」とのことでした。

それもハーフタイムリサーチ・アシスタントという50%学生、50%仕事というポジションで募集しており、280ドル(当時のレートで約10万円)もらえるというのです。昭和42,3年頃のことで、当時、原子核研究所の助教授だった親父の月給が8万円弱でしたから、それ以上もらえてしまうわけです。

それに当時は、東大でも学生運動がひどくなりつつある時代で、私が大学院へ進学した頃は非常に荒れていました。そういった時代背景だったこともあり、アメリカへ行くことを決断しました。そして1968年8月、フルブライトの奨学生として渡米しました。今からちょうど50年前の話です。

イリノイ大学で実際に開発プロジェクトに参加されて、どうでしたか?

―中学生の頃、後藤先生が発明したパラメトロンという素子を使った計算機が開発されていましたから、私も計算機のことは聞いていました。しかし、当時は計算機とは一度にひとつのことをするものだと教わったし、そういった計算機しかありませんでした。それが一度に64個の計算です。そんなものは世界にもまだありませんでした。

私が渡米した時点で「イリアック4」の開発はすでに進んでいました。アメリカでは1965年ころからカルフォルニア大を中心にベトナム反戦運動が続いていたのですが、1970年になりさらに盛んになってきました。ニクソンがベトナム戦争を終結させると言って大統領に就任したのにカンボジアに侵攻したことで、反対する学生デモが各地で起こり、オハイオ州のケント州立大学では鎮圧のために導入された州兵によって、学生が4人も射殺されてしまいました。とんでもない話だとそれまで比較的静かだったイリノイ大学のキャンパスまで大騒ぎになりました。

困ったことに、イリアック4の開発には国防省の研究費が入っていたことから、学生運動のターゲットになり、設置される予定であった計算機棟の建設現場に爆弾が仕掛けられる騒ぎにまで発展しました。結局、イリアック4は大学内ではなく、カリフォルニア州マウンテンビュー市の海軍基地内にある、NASAの研究所に設置されることになってしまいました。私たちはイリアック4で使うためのプログラムを開発していましたが、結局一度も自分で使うことはありませんでした。

イリノイ大学を卒業後は帰国せずに、そのままアメリカに残ったのでしょうか?

―イリアック4には結構日本人が関わっていて、電電公社通信研究所から来ていた研究者の他にも日立、NEC、東芝、三菱、沖電気から企業派遣の留学生も来ていました。しかし、富士通からはいませんでした。そこで、イリノイ大学で日本人留学生の世話をしてくださっていた先生が、私のことを富士通に紹介してくれました。そうしたら、富士通の伝説的なエンジニアの池田敏雄さんが役員会議でアメリカに来るというときに、急遽カリフォルニアへ行ってお会いし富士通に入社することになりました。本社採用でしたが、アメリカで仕事をするという条件での入社でした。

1971年、日本では通産省が電算機業界を再編成して補助金制度を設けると、日立と富士通がMシリーズの開発を担当することになりました。しかし、その当時は日本独自の計算機を作るより海外との連携が重要とされており、IBMから独立したジーン・アムダール博士が創業したアムダール社へ富士通からも多くのエンジニアを送り、共同でMシリーズの前身となるメインフレームコンピュータの開発に取り組んでいました。そのプロジェクトの牽引者が池田さんでした。

私は1973年8月に入社し、9月からカリフォルニアへ行きましたが、その時には設計もかなり進んでいました。そして、1974年11月に発表した富士通M190(アメリカではアムダール470V6)は当時の国際標準の汎用計算機としては世界最高のコストパフォーマンスを実現し、日米で売れました。とくにアメリカでは世界シェア7割を誇っていたIBMが焦るほど売れ、後にドイツのシーメンス社が欧州でも販売しました。残念ながら池田さんは、発表の僅か1カ月ほど前に亡くなられてしまいました。51歳でした。

アメリカでの印象的なエピソードがあれば、教えてください。

―良いことも悪いこともありましたが、大変だったのは日米スパコン貿易摩擦の時です。
私は1979年に日本へ帰国し、しばらくスパコンの開発に携わっていましたが、富士通が作ったVPシリーズをアムダール社が売りたいというので、そのサポート組織に加わるために1985年に再び渡米しました。その後、1992年に富士通アメリカ社がスパコンビジネスを引き継いで行うことになり、私は副社長兼スパコン担当事業部長になりました。

その頃、日本メーカー製のスパコンの対米輸出において、民間が対象であれば政治的な問題はなく、実際に石油探査関係でも数台売れていたのですが、大学や政府機関の商談には政治的な圧力がかかりました。特に国立気候研究所(NCAR)の商談ではNECに決まったのですが、ダンピングの疑いがかけられ、NEC製品に454%、富士通製品に173%、など、高額の関税が課せられることになってしまいました。

この「ダンピング騒ぎ」が始まってからは本当に大変でした。ワシントン市にあるアメリカ国際貿易委員会(ITC)の下にダンピングの裁定をする特別な裁判所がありますが、そこで私が宣誓して証言をしたのですよ。(HPC wire 1997年9月5日号 参照)。日本でもその様子がニュースで流れたらしく、「いつからNECに転職したんだ?」なんて友人から聞かれましたが・・。結局その商談は流れてしまい、VPシリーズ、VPPシリーズを販売するための現地の組織も2006年末に閉鎖になってしまいました。
 
そして、これは感慨深い出来事ですが、富士通に帰国後の1981年頃に、NASAの研究所に富士通のVPシリーズのスパコンを売り込もうじゃないかという話があり、課長にくっついていったら、そこでまだイリアック4が稼働していました。建物内の特別な区域にあって、カービン銃を持った海兵隊が入口に立っているので、中には入ることはできませんでしたが、窓越しにイリアック4を見ました。その次の年だったか、クレイのスパコンが入り、イリアック4はお役御免になって、今はマウンテンビュー市のコンピュータ歴史博物館にその一部が展示されています。
 
イリアック4の並列計算機の前にフロントエンドといって汎用計算機が付いていて、直径1mのディスクが回っていました。そのディスクは直径が1mもあるのに、データは10MBも入らないんですよ。そのディスクをもらい、ちょうど良い大きさだったのでテーブルを作ってしまいました(笑)。これを持っている人はあまりいないと思いますよ。
Iiac4 Disk Tabla

その後、日本ではどのような仕事をされていらっしゃったのですか?

―1996年は人生最悪の年でした。まず、犬が車に轢かれて死んでしまい、親父が死に、葬式があるから日本に帰国したら、富士通に呼び出されて、「アメリカでのスパコン事業を止める」と・・。

それで1997年初頭に帰国して、新しくできたHPC本部の技師長になり、海外商談でアラブ首長国連邦や中国へ行ったりもしました。そうこうするうちにグリッド・コンピューティングが流行りだして、私はあちこちで調査をして状況報告をしていたら、話がだんだん膨らんで、文部科学省からお金をもらってやろうということになり、2003年に「NAREGI(National Research Grid Initiative)超高速コンピュータ網形成プロジェクト」が発足しました。
 
100億円を超えるプロジェクトの代表者になったことでもあり、国立情報学研究所に移りました。とはいえ、富士通研究所のフェローとして、兼任という形で両方に籍がありました。そのプロジェクトを5年ほど行いました。

2009年にシーモア・クレイ賞も受賞されています。受賞を聞いたときの感想はどのようなものでしたか?

―びっくりしましたね。もちろん私がひとりで開発したわけではなく富士通を代表していただいたのです。 私が富士通アメリカ社にいて富士通のVPシリーズの話をするなど対外的に知られていたためにIEEEの審査側の眼にとまったものかと思われます。自分ひとりでもらうのも気なって山本名誉会長にご相談したところ、「富士通でも若い人の励みになるのでもらってください」と言われたので、代表してもらうことにしました。
 

「物理と天文が合体」


長年、アメリカと日本で仕事をされていますが、日米の学生、子供で大きな違いを感じることはありますか?

―アメリカに家もあり、子供たちもアメリカで生まれて仕事もアメリカでしていることもあり、私も2014年3月に再びアメリカに引越し、今はアメリカに住んでいます。ですから、子供も孫も主にアメリカで教育を受けているのですが、日本とは子供の頃から教育が違っていて、それが先の方まで尾を引いていると感じます。例えばアメリカでは幼稚園でもShow & Tell といって、おもちゃでも絵本でも、自分が興味を持っているものを友達に見せて説明する時間があります。幼い頃から自分の言葉で人に説明する、相手に分からせるという努力を大切にしていて、学校の宿題でも覚えさせることよりも、自分の考えを書かせるものが多かったようです。日本の教育では私自身の経験でもそうでしたが、詰め込んだ知識に頼りすぎている気がします。

日本は安全だし、美味しいものはあるし、外国へ行くモチベーションが他国の学生に比べて低いかもしれませんが、若い人たちには海外で武者修行をして欲しいですね。違う文化、考え方に触れることで、こんな考え方もあるのだと気づくことができますから。
 

今までのスパコン人生を振り返って如何ですか?

―たまたま勉強しに行ったものが大当たりというか人生を大きく変えたわけですが、スパコンは科学の発展のための道具としては必要不可欠なものです。特に産業界、自動車は衝突シミュレーションなど、スパコンなしには設計ができません。日本は石油産業がないからあまり知られていませんが、世界的に見たら民間企業でスパコンを一番持っているのは石油業界です。油田を探すための計算(サイズミックプロセッシング)や、探し当てた油田からどうやって油を搾り取るかを計算するリザボアシミュレーションなどに使われています。スパコンは単なるサイエンスのためだけではなく、産業界の道具としては欠かせないものです。

私は計算機を作る立場だった時期もありますが、最近はいかに使いこなすかに興味があって、そちらを中心にやっています。50年前、1が64並列になるということにびっくりしましたが、今や100万並列、1千万並列なんて話になっています。しかし、いくら計算機をたくさん並べても、性能が伴わないと意味がありません。そこで、100万並列、1千万並列に耐えられる計算のやり方(アルゴリズム)は何だということに興味を持って取り組んでいます。
特にモンテカルロ法といって乱数を使って確率的に解を求める手法があります。計算機が最初に作られた頃からあったアイディアですが、特殊な応用分野に限られていると思われてきました。しかし並列度や局所性が非常に高いので超並列に向いていて、またいろいろな分野で復権するんじゃないかなと考えています。なんとかあっと言わせてやりたいなと思っているところです。もうひと働きしたいですね。

50年間、振り返ってみると、もちろん嫌なこともありましたが、タイムリーに次から次へと面白いことが出てきたのはラッキーでした。子供の頃に物理にするか、天文にするか迷ったと話しましたが、じつはそれもだいぶ後になってから合体したんですよ。1981年に長野県の八ヶ岳の麓にある国立天文台野辺山観測所で口径45mの電波望遠鏡と、口径10mのアンテナ5基からなる電波干渉計の開発が始まりました。これらを組み合わせると、直径400mの電波望遠鏡に相当する解像度が得られるという理論があり、そのデータ処理系を富士通が担当することになりました。
電波天文学者の森本雅樹先生がリーダーで、実際には近田義広先生が考案された方式(FX)向けの専用機開発のため、私が富士通側のインターフェースとして天文台へ行きました。エレクトロニックスと天文が見事にくっついたわけです。不思議なものだけれど、興味があるものは色々とやっておくべきです。

アップルコンピューターの創業者である故スティーブ・ジョブス氏がスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチの中に「Connecting The Dots」、点と点を繋ぐという話があります。彼は大学では落ちこぼれで、ポートランド市にあるリード・カレッジ(大学)を中途退学しているけれど、リード・カレッジにいたときに、カリグラフィー(文字を美しく書く技法)に興味を持って取り組んでいました。だからアップル社を作った時に、マッキントッシュには最初から色々なフォントが入っていました。 それは大学時代にカリグラフィーに興味を持ったからだと話していました。点と点が繋がって線になったわけです。
 
今年の4月にはイリノイ大学の工学部が、Distinguished Alumni Award(卓越した業績を残した卒業生を表彰する賞)をくれるというんですよ。こうやって私のキャリアに大きな影響を与えたイリノイ大学とも色々なところで繋がります。非常に嬉しいことです。

 

三浦謙一氏 略歴

1968年 東京大学理学部物理学科卒業
1973年 米国イリノイ大学計算機科学科博士課程修了
1973年 富士通株式会社入社
1992年 富士通アメリカ社副社長兼スーパーコンピュータ部門長
1998年 富士通株式会社コンピュータ事業本部技師長
2000年 九州大学情報基盤センター客員教授
2002年 株式会社富士通研究所フェロー
2003年 情報・システム研究機構国立情報学研究所教授
2005年 国立天文台客員教授
2009年 IEEE Computer Society Seymour Cray Computer Engineering Award
2011年 情報・システム研究機構国立情報学研究所名誉教授
2013年 情報・システム研究機構国立情報学研究所 退職
2013年 統計数理研究所客員教授
2014年 高エネルギー加速器研究機構客員教授
2014年 米国ローレンスバークレー研究所 Affiliate(客員研究員)
2016年 富士通研究所名誉フェロー
2018年 米国イリノイ大学 Distinguished Alumni Award/td>