世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

9月 1, 2018

【わがスパコン人生】第5回 河辺峻 

島田 佳代子
Kenichi Miura

第5回 河辺峻

Heaven helps those
who help themselves
(天は自ら助くるものを助く)

日立製作所で32年に渡りコンピュータの研究・開発・設計をされ、大学でも研究・教育に長年携わられた河辺峻先生にスパコン開発時代のこと、大学での経験などをお聞きしました。
 

「速い乗り物から速いコンピュータへ」


―先生のバックグラウンドを簡単に教えてください。

生まれは北海道の根室ですが、父の林野庁の仕事の関係で小学1年生のときに札幌、4年生のときに山梨の甲府、中学3年生の夏に東京へと転校しました。それからは東京です。昭和21年生まれで物もあまりなく、塾もない時代でしたので、外でよく遊んでいてあまり勉強した記憶がないのです。

小さい頃は動くおもちゃが好きでした。分解するのが好きで、元に戻せず怒られていましたが、どういう風になっているのか、動く仕組みに興味がありました。小学校高学年の頃は、手順を考えてこういう風に考えれば解けるんだと算数の鶴亀算や流水算が好きでした。理科系は物理は好きでしたが、生物は好きではありませんでした。一年草、二年草とか多年草とか、中学のときにテストに出て全くできず、植物好きだった母親が嘆いていました。

高校生の頃はまだコンピュータは普及していない時代で、飛行機や電車といった速く動くものに興味があったこともあり、大学へ入ったときは飛行機の設計が面白そうだと、九分九厘、航空工学科へ行こうと思っていました。ところが、飛行機の研究開発が禁止されていた時代もあり、日本ではあまり開発ができないと知ったのと、出始めていたコンピュータに興味を持ち、応用物理系に進みました。

―スーパーコンピュータとの出会いを教えてください。

大学卒業後は日立製作所(以下、日立)へ入社し、ちょうどその頃始まっていた駅のみどりの窓口の座席予約システムの高速化を2,3年やりました。Cray-1が1976年に出荷されましたが、確かその前だったと思います。重要なユーザーである気象庁と東京大学の計算センターでも高速計算のニーズが高まっており、日立でも技術計算の需要がありました。そこで、私もオンラインシステムからは離れ、技術計算に関わることになりました。1970年代中頃のことです。それが私がスパコンと関わることになったきっかけです。

当初は汎用コンピュータに付加した高速演算機構を東京大学に納入して、その研究会で色々と試行した結果を小柳義夫先生などからご意見をいただいていました。Cray-1が出始めた頃に、ユーザーからCray-1は速くて素晴らしい機械だけれど、メモリが小さくて大きな問題が解けないという話を聞きました。最初の頃のメモリが8MBで、しばらくして32MBになったかと思います。

1982年に日立が日本で初めての本格的なスパコンであるS-810に発表しました。1986年には後継機S-820も発表しました。演算性能の高速化はもちろんですが、半導体部門にクレイよりも速い集積度のあるメモリを作って欲しいとお願いし、256MBを達成しました。今でいうとだいぶ小さいですが、当時のクレイからすると8倍でした。1980年代は日本が「Japan as number 1」と呼ばれ、半導体などで世界を席巻していた時代でしたのでアメリカのメーカーからすると、部品レベルから全て作ることができる日本メーカーは脅威だったと思います。

―スパコンを開発される中で苦労された点は?

会社としては気象庁や東京大学といった大きなユーザーを抱えており、開発したいという希望も持っていました。開発資金はありましたが、実は開発する人の余裕がありませんでした。開発部門には私を含めて5人ほどの経験者しか割り当てることができませんでした。そこで、学卒新人を集めることになりました。それも専門がコンピュータではなくても、理科系ならいいよということで、当時の私の上司が苦労して人を集めてくださり、5人の経験者+約25人の新人で始めました。コンピュータの開発は経験がかなり大きなところがあります。例えば論理回路が一時的に正常動作しないときの処理などは経験を積んだ人でないと分かりませんが、演算器の高速化などは学卒新人でも考えて理解できる部分です。最初に苦労したのは人集めですね。

スパコンの父と称されるシーモア・クレイは夜型人間で、昼間みんなに仕事をさせておいて夕方出てきて、問題点を聞くと夜の間に自分で考えて、朝になり出てきた新人たちに宿題を与えるというやり方を行っていたようです。私は夜は苦手なので、新人たちと一緒に開発を行っていましたが。そんなクレイのインタビュー記事を読んだ時に印象に残った言葉に「開発というのは新人を集めて行うのがいいんだ。なぜなら、みんな私の言うことを聞くから」というものがありました。経験者にこれをやれというと、そんなこと無理ですよ!できませんよ!というけれど、新人はそれがどれだけ難しいことかも分かりませんから、できるものだと思ってやるわけです。

実際、クレイの言う通りで、新人にこういう風にやるんだよというと、それは一生懸命やってくれましたね。そして、出来上がったものを見て、「こんな凄いことをやらされていたんですか?!」と驚いていました。スパコンが完成すると、せっかく育てた新人たちは別の忙しい部門へ移ってしまい、また次の開発のときには新人を採用しました。ひとつの機械を作るのに3年前後かかりますが、スパコンの人たちは新人を育てるのがうまい!とおだてられ、まるで新人養成所のようになっていました。他部門に移った人もそこでリーダー格になってくれますので、それはそれで嬉しかったですけれど。

―日立に在籍されていた間に、印象に残っているエピソードを教えてください

日立には32年いて、そのうちの20年以上はスパコンの開発に携わりました。その間には色々なことがありました。科学技術計算には繰り返し演算というのがあります。このベクトル演算と呼ばれる繰り返し演算の部分をとにかく速くしようというのが、最初のスパコンの目的で、この部分をいかに速くするかを考えてやっていました。メモリは共用するタイプでしたが、性能に限界が出てきて、メモリが分散する並列処理ができれば、もっとスパコンの性能を上げることができるのではと考えましたが、ユーザーからはメモリが分散する並列はプログラミングがなかなか難しいという声も聞かれました。

小柳先生は昔から先駆的な考え方をなさる方で、小柳先生を含む筑波大のグループが並列処理ですごく先行していまして、一緒にやることになりました。ずっとメモリ共用のベクトル演算をやってきまして、メモリが分散する並列処理に移行したことで社内でも色々と議論がありましたが、完成したCP-PACSは1996年の世界のスパコントップ500で1位を獲ることができました。嬉しかったですね。

 
  1988年頃、NASA AmesにスーパーコンピュータHITACHI S-820の説明で訪問。
講演の後、技術者、研究者と議論をしましたが、
皆さんフランクで好意的な⽅ばかりでした。(本人談)

日本のスパコンが脚光を浴びてきた頃、NASA Amesという、NASAでも有名な研究センターから講演依頼がありました。アメリカの人はすごく合理的で、海外で良い製品がでてくると、こうやって呼んで話を聞いてくれました。昔から速い乗り物が好きだったこともあり、まさかNASAの中へ入ることができるとは思ってもいませんでしたから、嬉しくて記念写真も撮りました。色々な事情があってアメリカには日本のスパコンは入りませんでしたが、技術者同士は非常にフランクに話すことができました。

それから、イギリスのケンブリッジ大学へ開発した並列コンピュータの説明に行きましたら、アイザック・ニュートン記念館で話をしてくれと言われて、びっくりしました。専門家数人の方相手に話をするのだと思っていましたら、学部長、教授といった大勢の方々の先生の前でお話をさせて頂くことになり、冷や汗をかきました。その結果、ケンブリッジ大学にはCP-PACSを製品化したHITACHI SR2201を入れて頂きました。どちらも良い思い出です。

―1990年代にはパソコンが一般家庭にも普及し始めました。スパコンにも影響はありましたか?

インターネットとWebの登場は革命的でしたね。パソコン画面のGUIが改良されたことも大きな要因でしょう。マイクロソフトのWindows95の発売も社会現象となりました。
1990年代後半にはパソコンが一般の家庭にも爆発的に普及しました。パソコンの心臓部はインテルがマイクロプロセッサを作っていて、ひとつのチップできるようになってしまいました。それにより、安くコンピュータができるようなりました。初期のコンピュータは部品点数が1万点、スパコンになると10万点以上もあり、スパコンはすごく高く売れたんですよ。それが、秋葉原へ行けばいくつかの部品は買えるようになってしまいました。当然、高く売ることはできず利益率も減りました。スパコン部門でも、性能の高い特徴あるマイクロプロセッサを開発したり、部品を共通化してコストを下げるなど、変化に対応しなければいけなくなりました。

―京のプロジェクトに参加された経緯を教えてください

NECにいらっしゃった渡辺貞さんが京のプロジェクトリーダーになって文科省に所属されました。1980年代の初期のスパコンの世界は狭い世界で、小柳先生も含めて20人くらいしかいませんでした。ですから、スパコンに関して議論しようとすると、小柳先生、NECは渡辺さん、日立は私と、ずいぶん前からお話をさせて頂く機会は多かったんです。コンペティターではありましたが、スパコンの開発者は割と真面目で地味な人間が多いですし、ライバルというよりは、healthy competitor、そういう関係でしたね。

私は日立から明星大学へ移っていましたが、渡辺さんから京プロジェクトを一緒にやりませんか?と電話を頂きました。私は明星大学へ移ったばかりでしたので、文科省の技術参与ということで、週に1回一緒に議論するようなことをやりました。

国家プロジェクトである京の開発を推進するために設けられたアドバイザリーボードには、東大や筑波大の学長や立花隆さんなど、著名な方々が参加してくださいました。世界一のスパコンができると、解ける問題が格段に違ってきますから、そういった意味では日本全体、皆さんが一緒にやろうと協力してくれたと思います。たとえばスパコンを知らない人に、1週間後の天気をあの確度で予報できるのはすごいことなんだよといっても、「ふーん。当たり前じゃないの」と言いますが、じつは1週間後の未来を正確に予測できるのは凄く難しいことなんですよ。
 

「今後の日本を支える技術者を育てたい」


―日立を退職された後は、明星大学へ移られました。大学でのことを教えてください。

57歳のときに明星大学から声を掛けて頂き、2016年3月末に定年退職するまで13年間いました。日立でも、新人を育てながらプロジェクトを行っていた経験をして、技術者を育てていかなければいけないという思いがありましたし、教えることも嫌いではなかったので、転職することにしました。開発はひとりではできません。多くの技術者が必要です。そういった意味でも、今後の日本を考えると、中間層の技術者を育てていくことが極めて重要です。

大学へ移った頃、学生たちに、「どうして情報学部に来たの?」と聞くと多くの学生が「ゲームプログラマーになりたいんです」と言っていました。ゲームプログラマーというと華やかですが、社会インフラのような地味だが重要な仕事もあるんだよという話もしました。1,2年生はコンピュータシステム入門、論理回路、コンピュータアーキテクチャといった基本的なことを、高学年になるとアンドロイド系のwebプログラミングを教えていました。入学したときには、コンピュータに関するなんの知識もない学生も少なくありませんが、それは関係ありませんでしたね。いかに興味をもたせるかが大事でした。ですから、講義形式ではなく、学生個人とも話ができる実験、プログラミング演習を行うなど、なるべく対話型にしました。私の大学時代にはそういったことは少なかったので、今の私立大学の方が丁寧だと感じます。

―先生が学生によく伝えた言葉などはありますか?

人間は必ずどこかで努力をしなければいけませんが、学生たちを見ても努力するきっかけがつかめた人は大きく伸びていきました。そのきっかけは個人で異なりますが、それをどう作るかは私の重要な役割でもありましたね。成長は直線的ではなく、実はあるところで急にぐーんとカーブして伸びます。学生たちの成長を見るのは楽しかったです。

学生たちによく言っていたことに、私の座右の銘でもあるイギリスの古いことわざ「Heaven helps those who help themselves」(天は自ら助くるものを助く)があります。実はこのことわざは中学生の頃、英語の先生に暗記するように言われて、当時は意味が分からないなと思っていたのです。意訳すると一生懸命やると良いことがあるよということでしょうか。日立にいたときもスパコンは収益的には決して良いものでもなかったのですが、例えばユーザーの方々だったり、会社の中でも文句ばかり言っていた思いもかけない人が突然味方になってくれたり。大勢の方に助けてもらいました。だから学生たちにも、たとえ地味でも一生懸命やっていると、それを見てくれている人が必ずいるよということを伝えたくて、「Heaven helps those who help themselves」なんだよと話していました。

―最後に、河辺先生にとってスパコンとはどのようなものでしょうか?

最初のきっかけはたまたまコンピュータの高速処理は面白そうだということで入りましたが、振り返ると、すごく面白いものでした。コンピュータは1946年から70年以上に渡ってずっと進化し続けていて、興味が尽くせません。今は並列処理が進んで、いかにたくさん並べてその間を繋げるかという技術になってきていますが、それぞれの要素技術は均等には進歩しません。必ず、ギャップがでてきます。そのギャップを埋める技術を開発するのが技術者の腕の見せ所だと思います。世界の課題はたくさんありますが、科学技術で解決できる問題は多くあり、スパコンの技術でかなりの部分がカバーできると思います。地味な仕事ですが、世界の中でも日本はアメリカと並んでスパコン技術に関しては高く評価されていますから、それは何とか維持して欲しいと願っています。

 

河辺峻氏 略歴

1969年 東京大学 工学部 計数工学科卒業
1971年 東京大学 工学系研究科 修士課程 修了
1971年 (株)日立製作所中央研究所 入社
1992年 (株)日立製作所汎用コンピュータ事業部 RISC開発部長
1997年 (株)日立製作所中央研究所 主管研究員
2003年 明星大学情報学部 教授
2007年 明星大学情報学部 学部長 (4年間)
2016年 明星大学 名誉教授
2018年 (株)データインテンシブテクノロジーズ 取締役