世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

2月 1, 2019

【わがスパコン人生】第9回 金田康正

島田 佳代子
Hideak Shoda

第9回 金田康正
これからもやる気満々で、
色々なことをやろうとしています。

2020年2月11日に金田康正先生は急逝されました。本記事は2019年2月1日に発行されたものです。ご冥福をお祈りします。

円周率の記録を次々と塗り替えていたことでも知られる金田康正先生は、日本中が注目した行政刷新会議による事業仕分けでは、仕分ける側になりました。スパコンを使う立場の金田先生がなぜ仕分ける側になったのか、その発言の真意はどういったものだったのかお聞きしました。

 

「速く」が全ての根本


―先生の幼少期や学生時代のことを教えてください。

 
4歳頃の金田氏
 

出身地は兵庫県揖保郡(現・たつの市)です。今は町村合併されていますが、かつては瀬戸内海を隔てた四国丸亀藩の飛地だった場所で、山陽道の沿線で生まれ育ちました。小学校の頃は算数や理科はできたけれど、記憶力が悪くて国語、社会や地理などの暗記物は全く駄目。体育も駄目でマラソンはいつもビリから二番目でした。ただ、先生に恵まれて楽しくやっていました。子供たちを変に縛り付けることはなく、雪が降れば授業をやめて雪合戦をやるなど、非常に思い出深く、僕の結婚式では主賓に続いて先生にスピーチを頼んだほどです。今ではそのような先生は存在し得ないでしょうね。

母方の祖父らが創った会社のお陰で、経済的には比較的恵まれた幼少期を過ごしました。中学は丸坊主になるのが嫌で、私学の中高一貫校である創立間もない姫路市にある淳心学院へ進学しました。英語が苦手で留年手前まで行きました。いまだに同窓会で言われますが、英語の最初の授業で「I am a boy (私は少年です)」と習い、僕は「なぜ、そう言うんですか?」と聞きました。そういったことに疑問を持つ生徒だったんですよ。英語も結局は記憶力・慣れです。ただ覚えればいいだけ。それが分かったのは高校2年生の時で、その頃から毎週、繰り返し、繰り返し復習をして覚えるようになりました。

関西人にとっての大学は京都大学です。僕も受けましたが、1968年の入試では採点ミスでもあったのでしょうか?合格通知が届かず、翌年もう一度受けようとしましたが、いわゆる東大紛争で東大の入試は中止に。その為京大の入試は激烈になるのは確実。又悪いことに祖父らが興した会社が倒産して、経済的に自宅から通える大学へしか進学できないことになってしまいました。そこで、京都大学経済学部出身で、東北大学経済学部の助教授をしていた叔父(金田重喜、母親の弟)の家から通うことのできる東北大学理学部物理学科へ進むことにしました。

高校の京大出身の国語の先生が自分はAを何単位取ったと豪語していたので、僕もやってやろうとできる限りの授業のコマを埋めて、前期・後期4年間の合計8期の間で、埋められなかった授業コマ数は確か三コマだけ。結局1単位も落とさずに217単位取りました。

実験や演習の単位を取るには普通の授業時間より多くの時間を必要とするので、理系学部で取れる単位数としては上限の単位数だったでしょう。また当時は一コマの授業時間は今と違い二時間でしたが、土曜日の午前中にも授業が二コマ分用意してあったので取れた単位数です。多くの単位を取るために、当時必須単位としての外国語数は二カ国語でしたが、露語、独語、仏語の三ヵ国語で外国語単位を取得しましたし、中学校と高等学校それぞれの理科の教員免許も持っています。卒業後は東京大学の大学院へ進みました。

―なぜ東京大学の大学院を選んだのでしょうか?

倒産で父親が負債を背負って、夜中の11時、12時、時には午前1時まで働いている姿を見ているわけです。奨学金がもらえなければ大学院へ通うことができません。奨学金がもらえるかどうかは入試の結果で判断されます。東北大理学系(原子核実験)、東大理学系(物理学:計算機)、阪大基礎工学系(物性理論)の三カ所受けた大学院の中、僕の感覚で一番良くできていたのが東大でした。大学卒業後の進路として国家公務員(通産省電子技術総合研究所)、中学・高校理科教員(兵庫県)になることも考えて受験しておいたのですが、叔父が大学の教員だったこともあり、結局東大大学院進学に決め、それが結果的に計算機との出会いとなり、今の僕があるわけです。

指導教官は後藤英一先生でした。パラメトロンを発明したことでも知られる後藤先生ですが、ハッシュ法の利用による数式処理の高速化の研究もされており、僕もその研究には関わりました。その頃から速くやる、なんでもいいから速くやりたいとうのが僕のテーマの根本にあります。

―スパコンや円周率との出会いも教えてください。

理学博士号を得た後は3年ほど名古屋大学のプラズマ研究所(いわゆる名大プラ研)附属電子計算機センターで過ごし、1981年5月に東大の大型計算機センター(現・東京大学情報基盤センター)へ移り、そこでスパコンと出会いました。移動後まもなくして東大に国産第一号、一ヶ月遅れでプラ研に国産第二号のスパコンが導入されています。

 
サラミン、ベイリー、ゴスパーと一緒にベイリーの車の前での集合写真

東大大学院の時代にも円周率計算プログラムに関わっていたのですが、名大にいた頃に円周率により強く関わったことが発端となって、今の円周率計算の記録があります。僕は円周率の計算をしているから円周率が大好きであろうと思われているけれど、実はそうではありません。速く計算をする対象として、計算が非常に困難なオイラーの定数、ガンマでも、計算が簡単なルート2でもいいけれど、それらの数を正しく理解できる人はあまりいません。そこで小学校高学年で学び、文系の人でもほぼ分かる円周率だったわけです。

東大に国産第一号のスパコンを入れたとき、日立の人が書いたarctanの公式を使ったプログラムを使い、1983年にほぼ24時間かけて出した1000万桁というのが、計算効率が悪いと考えられていたarctanの公式を使ってのスパコンでの最初の記録でした。実はそのおりにハードウェアの設定に問題が見つかり、運用で起きたであろう問題を事前に回避することが出来ました。その後の1985年にウィリアム・ゴスパー(ビル・ゴスパーとして知られている世界的に著名なハッカー)が出した1752万桁は、ゴスパー自身が再発見した計算効率が良いラマヌジャンの公式でSymbolics社の計算機(Lispマシン)を使っています。僕がこれまでの最後に関係した2002年の1兆2411億桁という世界記録もarctanの公式を使っています。これは計算方法(アルゴリズム)を抜本的に見直し、本計算の裏側で7万9000行あまりのソースにさらに細かな性能向上を加えつつ、時々その性能向上版プログラムに取り替えて計算を継続するという方法を取りながらの、大人数で大変苦労して出せた記録です。このような方法を取った結果、計算開始時のプログラムの計算速度よりも、計算終了時のプログラムの計算速度は優位に(5%以上)速くなっていました。そしてこの時の様子はTBSの報道特集の番組となり、翌年3月に放映されています。ちなみに地球温暖化研究で使っているプログラムのサイズはおおよそ4万行とのことです。

―なぜ円周率の記録を次々と塗り替えることができたのでしょうか?

これまでに10回以上記録を更新し、その全ての記録で同じプログラムを使ってはいないのですが、最初の記録から1兆桁までスパコン自体が速くなったとはいえ、いかに計算方式に知恵を絞るかが重要です。実は物理で基本知識として習う、高速フーリエ変換の性質を使ったやり方がヒントとなり、長い桁数の数の乗算計算のやり方を考え出せたことで円周率計算桁数の記録を計算機の性能の伸びにほぼ合わせて更新することができるようになりました。高速フーリエ変換が使えることに気が付いて論文として公にしたのはどうやら僕が最初で、プライオリティーを主張できるユニークな成果です。

 
  1984年版ギネスブックに掲載の写真付記事

後藤先生の恩師で高速フーリエ変換サブルーチンを世に知られる前に作られていた高橋秀俊先生も、「整数計算を浮動小数点演算である高速フーリエ変換で行う」のは実に面白いと。今やアメリカ人が書いたプログラムを使って樹立した記録が20兆とかになっているようですが、基本は長い桁数の数同士をいかに速く掛けることができるかですからね。それが見つかっていなければ、今もって兆の桁は越えていないはずです。

2002年の記録では日立のSR8000を使いましたが、僕が日立製品の高速フーリエ変換ルーチンのソースの手直しをして性能を約5%上げることができました。5%ってたいしたことは無いと感じるかも知れませんが実は効果は大きいですよ。総計算時間が600時間にもなる計算の約半分が高速フーリエ変換時間ですから。

日立のFORTRANコンパイラのみ、ソースコードの解析情報をオブジェクトに埋め込むことができました。ソース解析情報が入っていることで、後にコンパイラのバグが見つかったときや、実行するハードウェアの細かな違いを利用者に意識させることなくシステムが自動で対処できる、というすぐれた効果が得られます。ただしこの機能を生かせたのは日立が独自の優れたOSを開発・運用していたからです。その機能を持ったのは唯一日立のコンパイラだけでした。その後そのような機能を持つコンパイラが存在したとは聞いていません。それは僕のアイディアで国際特許をとり、実際にその機能を組入れたと後に聞きました。

ところで、FORTRANの性能・機能向上といえば、分散並列計算機で使うMPIルーチンで、その機能を基本的なものに限定し、さらにサブルーチン呼び出しの無駄を省いた形のMPIルーチンを、RDMA(Remote Direct Memory Access)ルーチンを利用して2000行ほどのFORTRANで書いたことがあります。このルーチンを日立が提供したMPIルーチンの代わりに使って実行してみた所、円周率の計算時間が詳しくは忘れましたが、3割ほど短縮できました。MPIのランタイムルーチンを取り替えるだけで、全体の計算時間が3割のオーダーで短縮できるというのは驚異的なので、さっそく日立に状況を伝え、機能は基本的機能に限定されるが実行性能が既存のものより十分に高いMPIルーチンを開発してもらったこともあります。

僕自身、そういったコントリビューションがあったから、その後に日立がスパコン開発から撤退してしまったことは残念ですね。苦労しながらも、技術を蓄積してソフトやハードを作ったのに、それを捨ててしまうことになってしまい、非常にもったいないとは思います。ただ、今はコスト競争が激しく、まともな新製品チェックもしないで世に出して、壊れたら取り替えますという時代です。僕が経営者だったら、そういう判断も仕方ないのかなと思うけれど、過去の貴重な知見や経験はしっかり残して欲しいですね。

―思い出に残っているエピソードを教えてください。

こちらから申請はしていませんが、1982年に838万8576桁の記録を出した際に、イギリスのギネスブックの編集長ノリス・マクワイター氏から資料や写真を送って欲しいと連絡があって、1984年度版ギネスブックに掲載されました。ギネスブックに掲載してもらうためにはかなり高額の料金を支払うようですが、私の円周率計算記録に関しては、そのようなことはありません。そもそもギネスブックに私が出した記録を保証してもらう筋合いのものでは全く無く、むしろ「ギネスブックに書いてある私に関する記録は正しいことを保証する」というのが私の昔からのスタンスですから。

他のエピソードとしては、1984年6月から1985年8月にかけてケンブリッジ大学の計算機研究所(コンピューター・ラボ。元数学研究所。EDSACを開発)に客員研究員として滞在しましたが、BCPL (Basic Combined Programming Language)という1960年代にケンブリッジ大学のマーティン・リチャードが作った、Cの祖父にあたる言語プログラムがあります。そのコンパイラに僕が手を入れて、ケンブリッジ大学で使っているコンパイラより性能が良いコードを出したことがあります。東洋人がここまでやるのかと高く評価してもらいました。イギリスは産業革命の国だけあって、そういったことは正当に評価してくれます。当時からコンパイラをやっていたアラン・マイクロフトは教育用の超小型PCを開発したラズベリーパイ財団の創設メンバーのひとりで、今はコンピューター・ラボの教授です。

ケンブリッジ大学の学長は日本でいう学長ではなく、副学長(Vice-Chancellor)になり、当時の本当の学長(Chancellor)はエディンバラ公フィリップ殿下でした。私を客員研究員として受け入れてくれたコンピューター・ラボの教授(教授は通常学科に一人程度と少なかったが、コンピューター・ラボでは特別に二人いた。彼は主に管理担当の教授)が後にケンブリッジ大学のPro vice-chancellor(日本における副学長)になったこともあり、当時のセンター長と一緒に交渉を行って東大とケンブリッジ大との大学間協定を結ぶことになったのも良い思い出です。

又私がコンピューター・ラボに在籍していたこともあり、1990年代に日立がソフトウェアによるヴェクトル処理機構を世界で初めて実現したスパコンSR2201をケンブリッジ大学に納入したおりに色々と協力したのですが、その時のオープニングセレモニーでは出席されていたエディンバラ公と数分間話をさせて頂いたことは僕にとって思い出ですね。90年代、エディンバラ公は既にインターネットをやっておられましたよ。

 

日本中に知られることになった事業仕分けのこと


―金田先生は行政刷新会議の事業仕分けでは仕分けをする方に回られました。スパコンを使っている金田先生がなぜ、仕分ける側に回られたのでしょうか?

実は似たような価値観を持つ人の定期的な集まりが当時あって、そのメンバーの中に事業仕分けの事務担当者がいたことから、急な依頼でしたが僕に話がありました。その前から人を探したけれど、どうも他には引き受ける人がいなかったようです。それはそうでしょう。日本の場合、その後に影響があるかどうかを別にして、文科省とある意味喧嘩をすることになります。科研費をもらう立場の人間で、それでメリットがある人なんていませんよ。僕はそういったことは考えなかったから、迂闊にも引き受けてしまったわけです。

あまり知られていませんが、仕分け本番の前の10月末から事前に仕分け人と仕分けられる側で討論をしていたのですが、僕はこの事前討論には一切参加していなくて、実は3回目の討論となったあれ(「2位じゃダメなんでしょうか?」で知られることになった11月13日の行政刷新会議)が最初でした。事前討論に参加していれば、もっとどうだこうだと色々と言えたこともあったでしょうが、僕が参加したのはあれが最初でした。仕分ける側であった僕は、結果的には干されましたが、それは僕にとって非常に良かった。

―良かったというのは?

雑用が何もふってこなくなりましたから。僕の時間を全て自由に使えて、給料は下がることも無くもらえるんですよ。僕の仕事の定義は時間を売って対価をもらうことですが、大学に就職後時間を売った覚えはほとんどなくて給料を30数年間もらい続けることができたなんて、こんな恵まれた人は他にはないと思いますよ。

その後マスコミにも色々と書かれましたが、僕が書いたわけではないですからね。中には僕がこういったと書かれていたものもあったけれど、ニュアンスを変えられて正確ではないものがありました。そもそも、事業仕分けの報道では切り取られた一部分しか報じられないから、誤解された部分もあったかと思いますが、70分程の録音や録画を学生にも聞いてもらうと、「仕分け人の言うとおりです」という人が大半でしたよ。

―「京」に対する当時の先生のお考えを教えてください。

 
 

京については昔から言っていますが、計算機というのはあくまでも単なる道具であって、どう使いこなすかどうかが鍵です。性能が一番でなければ成果がでない、成り立たないなんておかしいでしょう。日本全体に本当の意味でスパコンの利用者が一体何人いますか。1000人もいません。500人もいるかどうかですよ。スパコンを使いこなすノウハウを持つのには時間も経験も必要だし、非常に難しいことです。スパコンの利用をサポートできる人間もほとんどいません。

京のことで、一度立ち止まって考えさせたかったのは、ソフトウェアを大事にしたいということです。いくら性能が良いコンピューターがあっても、ソフトがなければ、それはただの箱です。一番を追求しただけのハード作りも、誰も使わないソフト開発も意味がありません。作る人間が使わないことも大きな問題です。使う人間はどこが問題を考えながら作っていくから、使えるものができていくけれど、作るだけの人間は良いデザイン、こういう機能があると面白い・便利だからと、誰も使わない機能を一生懸命作っていきます。

それから人材育成のこと。今もそうですが、文科省は結果として研究者の養成しか頭にないんですよ。民間にこそ人材を供給して、民間の活力を高めるような人材育成を目玉にしないといけません。できないものをできるようにするソフトウェアを作るのも、ソフトを評価するのもすべては人間です。そういう人の能力を見極めて高給で雇うようなシステムを用意して、その成果を使ってユニークな製品製作、経営効率や研究開発効率を上げるような仕組みを民間が作らなければいけません。その様な目的や考えが全くないことが、一番の問題です。ただ単に世界一を目指すのではなく、「スパコンの技術と人材を日本の将来へ繋ぐ」という重要なポイントが欠けてしまっています。

利用者が減ったというのは、大半の人があんな大規模なものではなく、研究室で買えるようなスケールの計算しかやっていないということが主な理由です。今の所大規模なスパコンを必要とするのは、天文だとか、素粒子だとか、非常に特殊な分野の人達だけ、さらに、そういった普通では作れない難しいソフトを開発できる貴重な能力を持っている人たちの評価が学界できちんと行われない、という大きな問題があります。

もうひとつの問題点は、大きな消費電力を必要とするスパコンの開発においては、省エネが鍵になることもあの段階では分かっていたはずなのに、なぜ省エネにもっと注視しないのかということです。ピーク性能しか頭になかったというのはおかしいと思いますよ。

そういったおかしな点を見直して、再スタートを切れればと思ったのですが、ご存知のように、立ち止まることはできませんでした。事業仕分けについては、今でも残念だったと思いますよ。せっかく一度立ち止まって見直す絶好のチャンスだったのに。あれだけのお金があったら、人文社会学系など、どれだけの人が助かるのか。明らかに税金の無駄遣いだったと思います。

僕は「最先端」、「性能」なんてことは言いません。ただ、納税者を説得するにはそれしかないと考える行政側のことも分かるつもりです。ソフトがどうのこうのと言っても政治家含めて、分かる人は少ないですから。別の説得の方法もあるんだろうけれど、自分たちが計算機を使っていないから、そういう知恵が出せなかったんだろうなと思います。

―2020年度から小学校でもプログラミング教育が必修化されます。地方自治体などにアドバイスされている先生のお考えとはどういったものでしょうか?

文科省はプログラミング教育は「論理的思考力を高めるため」と言っているけれど、単純にプログラミング教育をすれば論理的思考力が高まる、というのは誤りでしょう。論理的に正しいプログラムを書いたとしても、正しく動作しないことがよく起こり、その対策に四苦八苦するからです。僕はプログラミングは文科省が言っているようにはならないと思っているけれど、少なくとも子供たちのやる気を起こす、学習意欲を高めるという点では意味があるでしょうと話しています。

プログラミングに限らず、子供は好きなことだったらいくらでも一生懸命やるじゃないですか。鉄棒の逆上がりもそうです。何かをやるときに、目標、ターゲットを設定して、失敗しながらも達成することで、達成感を感じてやる気を起こします。その経験をプログラミングを通じて得てくれれば、それは教育的効果があると考えています。

小学校の頃は予習をしようとすると、教科書を見るくらいしかできなくて、深く調べようとすると、辞書を調べたり、本を読んだりすることになりますが、そこまではなかなかできません。だから基本的には復習を一生懸命やった方が良いと思いますが、プログラミング教育に関しては、今は情報の検索が簡単にできる世の中です。先生がICT機器を使った教材を用意することになると思いますが、事前に用意してある教材を生徒に渡すと予習ができます。

今までは先生から一方的に教わり、復習をしていた生徒たちが、事前に予習をすることで、生徒同士がディスカッションをして、意見を出し合うようになるでしょう。どうやら子供たちは先生に聞くのは恥ずかしいけれど、友達に聞くのはそれほど恥ずかしくは無いようなので、子供たちに事前に予習をさせ、教室でわいわいがやがや討論させることで教育の質が変わるから、十分に教育方法を検討する価値があります。

知識というのは今やパソコンで簡単に調べられてしまう時代で、調べた内容が正しいかどうか判断できる能力を獲得することがより大事で、下手すると先生以上に知識を生徒が持つ可能性があります。その時に先生がどう対応するのか。教育のやり方が変わるし、変わらないといけません。教育のやり方が変わる良いチャンスだと思います。

もうひとつの問題はICT機器を使った教材を作るのがものすごく大変になることでしょう。教材を色々な人が作るけれど、それを共有して使えるようにして、他の人が著作権や利用の可否等を気にせずに自由に利用・変更できるような仕掛けを作った方がいいですよとも言っています。今や多くの最新技術はICTの時代です。時代が変わったんです。変わったのなら、人の評価も変えるべきだし、教育も変わるべきでしょう。

―学者になるための必須条件とは何でしょうか?

 

自分自身の経験から、小中高の成績が悪いからといって、何も恐れることはないと親御さんたちに伝えたいです。ただ、落ちこぼれないように、自分はできないとは思わせないようにすることが一番大事で、それが僕自身が学者になるための必須条件だったと思います。他の人とは生まれも育ちも違うのはあたりまえ。最近ではダイバシティー、即ち多様性を重要視するようになってきています。他の人と同じ考え方というのは、実はとてもおかしいのだ、という事を理解できるかどうかでしょうか。

何かやってできなくて落ちこぼれるようでは何もできません。大学の先生は、他の人が思いつかないこと、考えられないようなことを考えられる人でないと務まりません。極端な言い方をすれば大学は特異な人の為の施設です。大学に入るにはある程度の学力は必要ですが、小中高の成績はあまり関係ありません。子どもの能力を見抜いてそれを伸ばすようにしてあげるのが良いでしょう。僕の両親は成績に関しては一切何も言いませんでした。成績が悪かった中学以降は勉強しろとも言われませんでした。今考えると、それは実にありがたいことだったと思いますよ。

今の教育は明らかにおかしい。小学校、中学校は仕方ないのかもしれないけれど、ただ知識を教え込むことがメインになってしまっています。知識量=記憶力が良くないと成績が悪い。だから、記憶力のある人はその時はいいけれど、大学へ行ったら今度は自分で考えなければいけないでしょ。記憶のトレーニングばかりしていると、記憶や情報ばかりに頼り自分で考えることをしなくなってしまいます。なぜそうなんだろうかと考えるようになってもらいたいですね。

人間のプロ囲碁棋士に勝ったAI、AlphaGo(アルファ碁)を開発したディープマインド社CEOのデミス・ハサビスはケンブリッジでコンピューターサイエンスを、ロンドン大学で認知神経科学を学んだ人間ですが、頭の神経の動きを見て似たものを作ったところ、結果的に強いものができたそうです。「国家の品格」で270万部以上の大ベストセラー作家となった、お茶の水女子大学名誉教授で数学者の藤原正彦先生によると、20年程前すでにゲームプログラムで大金持ちだったハサビス氏がケンブリッジ大学在学中にお茶の水女子大学の研究室を訪問したことがあったそうです。その時、碁ゲームプログラムを作りたいと言う彼の話を聞いて、藤原先生は、「碁は大変に難しいゲームなので脳の研究をした方が良い」と話をしたとのこと。その結果としてAlphaGoがあると言えます。その後開発されたアルファゼロではゲームのルールも教えずに、対局を見て、ルールを学んで強くなるというものを作っているんですよ。そういう発想をする人間をどう見つけて育てるかが鍵なのに、そのことを分かっている人は日本にはほとんどいません。知識じゃないんですよ。ある種知識は必要かもしれません。だけれど、知識が災いすることもあるんです。知らないというのはある意味良いことかもしれないんです。日本はそこにもっと問題意識を持つべきです。

―先生にとってスパコンとは?スパコンと出会って良かったですか?また今後、どういったことをやっていきたいですか?

スパコン、即ち計算機、とは僕にとって究極のおもちゃ。それ以外の何物でもありません。古希、70歳になろうとしている今でもプログラムを書いて楽しんでいます。道具なんですから。研究の対象でもありません。どう使いこなすかという面白みはありますし、速い計算機を使うことができたという意味ではスパコンに出会えて良かったですよ。ただ、それがたまたまスパコンというだけの話で、それが色々な問題も起こしているということです。計算をもっともっと速くしたいという気持ちも当然ありますが、世界一でなくても、今あるもので何とかやりたい、ある環境の中で最大限なにがやれるかが重要でしょう。

今までの人生、色々とありましたが、いずれにしろ面白い人生です。これからもやる気満々で、色々なことをやろうとしています。日本には数多くの博物館がありますが、科学技術系の博物館は多くはありません。実物を目の前で見ることのインパクトが教育上あると思うのと、広い意味で計算に関する技術を伝承してゆく為、また科学史の研究の為に博物館を作りたいと思っています。博物館を作るために不十分ですがそれなりのコレクションを持っています。磁気コアメモリー、IBMカードパンチャー、実際に使ったarctanの公式に基づく円周率200万桁記録樹立したパンチカードによるソフトウェア、Tektronix 4014管面記憶型ディスプレー、多段シフト日本語キーボード、オープンリール磁気テープ装置、磁気ドラム、NEC PC-9800シリーズ各種パソコン、シャープ X68000パソコン、各種 Apple パソコン、sun-1を含む各種Sunワークステーション、東芝プラズマディスプレー・ラップトップ・パソコン、関連書籍に資料など。スパコンの本体2台もありますよ。後藤英一先生の若い頃からの研究ノートも預かってありますからね。多くの場合、保管スペースの関係もあってのことか、重要なものがどんどん捨てられてしまっています。輸送費を持ってでも集めて保存しておきたいし、そういった組織を作りたいと思っています。

 

金田康正氏 略歴

1973年 東北大学理学部物理学第二学科卒業
1978年 東京大学大学院理学系研究科博士課程修了
1978年 名古屋大学プラズマ研究所附属電子計算機センター助手
1981年 東京大学大型計算機センター助教授。
1984年 英国ケンブリッジ大学計算機研究所客員研究員(Senior Visitor)として滞在(1985年8月まで)
1997年 東京大学大型計算機センター教授
1999年 組織替えに伴い、東京大学情報基盤センタースーパーコンピューティング研究部門教授
2015年 東京大学定年により退職
2015年 東京大学名誉教授
2016年 タイ環境研究所財団理事長付顧問(Advisor to President of TEI)
2016年 千葉工業大学惑星探査研究センター招聘主席研究員
2018年 静岡県ICT戦略顧問

(写真)小西史一