提 供
【わがスパコン人生】第11回 関口智嗣
若い方にはとにかく色々なものに興味を持ってもらいたい
今でこそ広く使われ、知られるようになった「クラウド」。その先駆けとも言える「グリッドコンピューティング」研究・開発の第一人者であり、今年還暦を迎えられた関口智嗣さんに、グリッドのこと、現在手掛けられているAIに特化したスパコン「ABCI」についてお聞きしました。
「HPCとの出会い きかっけは数値計算」
―幼少期のことなど、バックグラウンドを教えてください。
兵庫県の姫路市で生まれ、1歳から中学までは広島の福山市で過ごしました。高校からは東京です。小学生の頃は、電子ボードや電子ブロックがあった時代でしたので、部品を組み合わせて何かを作ったり、6年生の時だったと思いますが、アマチュア無線の免許も取りました。中学生の時には局免(無線局免許状)、コールサインをもらって遊んでいました。真空管やトランジスタのラジオも作っていたので、そういった意味では最初はラジオ少年でしたね。
高校でもアマチュア無線同好会に入って、無線で遊んでいましたが、その頃にLSIがでてきたのですが、電卓のチップに興味がありましたね。大学は東京大学の理科一類へ入学し、進学振り分けでいろいろありましたが、結果的に理学部情報科学に進学しました。当時、「情報」というとやはり諜報のイメージがあったのでしょうね。親からは「そんなところ行ってつぶしが効くのか?」と聞かれましたが、「まだ、あまりやっている人いないから、いいんじゃない」と答えたような気がします。コモドール社のパーソナルコンピュータPET(Personal Electronic Transactor)を触る機会があり、BASICを使いましたが、プログラムの通りに動くコンピュータって面白いなと思ったのがこの道に徐々に巻き込まれていったきっかけです。
―実際に進学されてどうでしたか?
情報科学科は僕が進学した時が4期生、まだ新しい学部で定員も15名ほどでした。学生が使える計算機が1台あり、UNIXが動いていて、私は使い方がわからなかったところを同級生の佐藤三久氏(現在、理化学研究所)に教えて頂きました。授業の演習はHITAC8700を使っており、まだカードパンチャーでプログラムを打ち込んでいましたね。課題はデータ構造とアルゴリズムなどをPascalで習っていました。
土曜日には当時日立にいらっしゃった村田健郎先生による数値計算の特別授業がありました。数値計算の基礎を教えて頂き、Fortranでプログラムを書くこともしました。そこで数値計算を教えていただいたのが、僕のHPCにつながる最初のきっかけでした。
まだネットワークはない時代でした。村田先生などが、企業で大型計算機をどう使うのか研究をしている世界があり、画像の認識、パターン認識を研究している世界があり、計算機の中身を作る研究をしている世界があり、言語、理論的なことを研究している世界がありました。今でこそ、その全てが繋がってきていますが、当時は情報科学と言っても別の、違う学問でしたね。
―大学卒業後のことを教えてください。
数学が好きだったので、数値のことをやりたいと思いました。数値計算はコンピュータができたときからある歴史のある学問ですが、人と違うことをやってこの世界でやっていくにはどうすれば考えたときに、コンピュータがたくさん並んで一つの問題を解いたらどうなるんだろうか?いわゆる並列処理を考えました。それができるのが筑波大だったこともあり、大学卒業後は筑波大の大学院へ進みました。
1982年頃からやっていたというのは、当時はまだ並列計算機は世界でもあまりなかった時代でしたので、それに触れられるだけでも非常に良かったですし、星野力先生や小柳義夫先生からもご指導頂くなど、色々なきっかけを作ることができたのではないかと思います。
大学院修了後は希望していた電子技術総合研究所(電総研)に採用して頂くことができました。並列計算機や数値計算のアルゴリズムを知っていたので、電総研でのプロジェクトの役に立てるかなと考えていました。
―電総研では最初にどういったプロジェクトに携わられたのでしょうか?
入所した頃に、当時の通商産業省が主導する通称大プロと呼ばれた科学技術用高速計算システムの研究開発プロジェクトが立ち上がりました。まさにその部署に配属をして頂き、島田俊夫先生、平木敬先生、西田健次先生と僕の4人でSIGMA1という計算機を作りました。今考えたらハードウェアから言語から4人しかいなくて作ったんですよね。
僕の役割はいくつかあって、最初はコンパイラを作る担当になり、データ駆動型という新しいタイプの計算機に並列の原理を入れて、どういうプログラム言語が適しているのか。それを機械に理解させるにはどう変換していくのか。そういった研究をやらせてもらいました。それに加えて、計算機が後ろ側にいますが、表側のワークステーションから後ろのSIGMA1にデータやプログラムを送って、ジョブを実行する制御ソフトのようなものを作っていました。
1988年、昭和の最後に僕はそういったプロジェクトをやりながら、かたや日米貿易摩擦にも関わることになりました。日米の貿易不均衡を是正するための日米構造協議が開始され、アメリカからスパコンを入れることになりました。とはいえ、スパコンを触ったことがある人は多くありません。そこで、少しではありましたが、スパコンを触ったことがあった僕のところに、話が来たのです。当時まだ25,6歳でした。
―それはどういったプロジェクトだったのでしょうか?
スパコンを導入することになり、いくつかチャレンジしたいことがありました。それまでのアメリカのスパコンの使い方というのは、いわゆるフロントエンド。フロントで色々と作ったプログラムを後ろのスパコンに投げて、処理したものが、再びフロント戻ってくるという使い方をしていました。しかし、時代はネットワークだよと。。どこからもアクセスできて、普通のコンピュータのように使えるようにはできないかと考え、今でいうIPネットワークの基礎となるTCP/IPを慶應にいらっしゃる楠本博之先生と僕で役割分担して設計をしました。
スパコン本体はCray-2を入れるとか新聞にリークが出たり、色々と議論がありましたが、冷静に運用コストなどの評価を行って結果的に、CrayのX-MPを入れました。それが思ったように使えるのか、CrayのUNIXであるUNICOSが本当に働いているのか。クレイジャパン社の人たちからはまともな回答が得られず、米国クレイ本社から動作の映像をビデオで送ってもらいました。その開封するときのドキドキ感。確かにそれらしく動いていることが確認できましたね。スパコンからワークステーションまで、全てTCP/IPネットワークでアクセスできるようなスパコン環境を作ったのは、恐らく世界でも初めてに近いものだったと思います。
昭和とともにスパコン大プロが終わる頃、「結局私たちが携わってきたものはどう評価する/されるのがよいのだ?」という根源的な問題に立ち戻りました。世の中のベンチマークの目的と手法、そして限界などを知り、議論する勉強会を立ち上げました。日本自転車振興会の補助金も入れてもらいましたが、事務帳票から納税・支払い・検査までほとんど自分で処理しましたね。いい社会勉強でした。
性能評価は作った側の論理でハードウェアの中身を比較するのと、ユーザー側の論理で実行時間や精度などサービスの質を比較するのがあるのですよ。それらを考えているうちに、ユーザーに大事なのは自分が投げたジョブが、処理されて正しく答えが返ってくることで、満足するのだということに気が付きました。
当時、コンピュータがスパコン、ミニスーパー、ワークステーション・クラスタなどの色々なアーキテクチャのものがありました。数値計算ライブラリを最適化するにはそれぞれ違う手法でプログラムを鍛えていました。でも、ユーザーはプログラムを書きたいのではない。目をつぶっていても自分が投げたジョブの計算結果を誰かから返してもらいたい。この要望を実現するにはどうすればいいか?と考えたのが「ネットワーク数値情報ライブラリ Ninf」というシステムです。その後のグリッドコンピューティングに繋がっていったのはご存じの通りです。
―Ninfについて教えてください。また、どのように新しいアイデアが浮かぶのですか?
みなさんが電灯を点けるときに、その電力の発電元について場所も方式も経路も気にしていないでしょう。スイッチをオンにするだけで期待に応えてくれる。1996年にアイデアを公開したNinfは、ユーザーにとって知らなくてもよい電力線の向こう側を隠蔽するようなレイヤーでインターフェースを設定しました。実際に、計算機システムやライブラリ毎にデータ配置やパラメータが違いますので、インターフェースではこうした差異をアダプタとして吸収することが必要です。各自で全部プログラムを書くのではなく、システム側であらかじめ数値計算ライブラリを事前に実行形式で用意し、ユーザーはそれを簡単なプログラムで遠隔操作すれば、計算結果が戻ってくるという仕組みです。これで、面倒な最適化はシステム側にお任せで、ユーザーは自分の他の本質的な計算に注力できるわけです。
面白いのは、私が電気を点ける説明をしたのと、ほぼ同じコンセプトで Information Power Grid という言葉が米国から出てきました。彼らは、トースターを例にしていましたけれど。
Ninfの音は妖精(Nymph)から取ったんですよ。やりたいことを「お願い!」というと、後ろの方でパタパタと願いを叶えてくれる。ただ、入力が結構大変なのでNinfとしましたが、Nymphの方がよかったかも。
僕の場合は、制約条件がつくと、そんな中でこれをどう解決しようかとアイデアが出てきます。同世代に立派な研究者がたくさんいらっしゃる中、僕は凡人でしたので、画期的な何かで世界を驚かしてやろうといった野心は全然ありませんでした。タイミングもよかったのでしょう、僕がやりたいなと思うことがたまたま人がやっていないことでした。同じ環境を与えられて、同じようなレベルのバックグラウンドを持っていれば、みんな考えることは似たようなものだったのですね。
こうして、海外の同じようなアイデアを持つ人たちと交流を深めていきました。シュツッツガルト大学(ドイツ)やマンチェスター大学(英国)やNCHC(台湾)といったグループと一緒に世界中のスパコンを繋いで、ネットワークでデータを動かし、日本からドイツのスパコンと連携して計算処理をグルグル一回りしたらどうなるか、そういったことを楽しんでいた時代でしたね。
―電総研は独立行政法人となりましたが、何か変化はありましたか?
2001年、中央省庁の再編に伴い、電総研は経済産業省から分離し、いまでは独立行政法人である国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)となりました。メリットの一つは運営費交付金では予算細目を問われなくなったことです。これによって、海外へ交渉や調整に行ったり、一緒にプロジェクトを推進する仲間を作り上げていくことが増えました。アジアの仲間を固めようと、特に初期には韓国、台湾、中国、タイ、シンガポール、などへ訪れることが多かったです。
独立行政法人になって間もなく、日本政府の方でもグリッドコンピューティング技術への期待が高まってきました。産総研ではこうした動きを察知し戦略的に受け皿をきちんと作ろうと、2002年1月にグリッド研究センターを設立しました。終了までの6年間センター長を務めさせて頂きました。この間、サイエンスグリッドといった科学技術への応用と、ビジネスグリッドでのビジネスへの応用のプロジェクトをみなさんと一緒に推進できたのは楽しかった思い出です。さらに、グリッドコンピューティングのフォーラムで海外の有力な研究機関や政府系の関係者など、ネットワークを広げさせてもらったことが、現在の産総研の国際担当理事としても大いに役に立っていますので感謝したいです。
―何かよく覚えているエピソードなどがあれば教えてください。
1992年に生まれた長女がまだ1歳くらいの時に、たまたまMOSAICを広げていた僕のパソコンでマウスをクリクリしたら、なにやら画面が変わりました。それまでのコンピュータは、アカウントを申請して、許可をもらって初めて使うことができます。ところが、娘はアカウントもなく、アノニマス(匿名)ですけれど、クリックひとつで、ネットの先のコンピュータが確かに反応したのですよ。もう、誰でもネットワークとコンピュータから便益が得られる時代になったんだなぁ、と感じたことを覚えています。Ninfを考えた頃は、携帯やスマホもいまとは比べものになりませんが、ネットワークコンピューティングのような時代がくると確信していました。実際、そういった時代になりましたね。
「AI時代のスパコン これからを読み解く」
―最近では「グリッド」と同じコンセプトの「クラウド」という言葉がよく使われていることをどう思いますか?
こだわりが無いと言えば嘘になりますが、「所有から使用へ」というのがグリッドの基本コンセプトです。ビジネス方面で著名な妹尾堅一郎先生と2006年に上梓させていただいた「グリッド時代 技術が起こすサービス革新(アスキー出版)」の主題がこのパラダイムチェンジでした。いまでは、「クラウド」や「シェアリングエコノミー」など一般のビジネス人にも普通に使われていることはニヤリとしますね。
「クラウド」を推進していた人たちが、技術主導から、事業主導に転換したのは先見性があったと思います。我々研究者にはできませんからね。言い訳すれば、グリッドの次の形態は「グリッドデータセンター」と喝破してのですが、インフラビジネスは資本力がすべてですから、GAFAには太刀打ちできませんでした。せっかく、ビジネスグリッドをやっていたのですから、日本の企業がもう少し早く着手していればと思えば、残念です。
「所有から使用へ」がまだ十分に浸透していない頃、「なぜ、それをやるんですか?」と聞かれました。私はこう答えていました。なにか、ビジネスにしろ生活にしろ、始めるにはまず部屋を借りますよね。電気・ガス・水道も使用の契約だけです。なぜコンピュータは所有していたのでしょうか?家電量販店でスクラッチカードを買ってコンピュータが使えたら、いいですよね。我々は夢想していただけかもしれませんが、クラウドが現実のものとしてくれています。
―現在はどのようなプロジェクトに携わっていますか?
ここ数年はマネージメントの比率が高まっていますので、直接に研究プロジェクトを主導することはできていません。産総研の情報・人間工学領域の研究者と色々な研究のディレクションを検討しています。2015年は人工知能(AI)をキーとしてサイバーフィジカル、IOTやビッグデータ等のキーワードが跋扈した年です。こうしたムーブメントの受け皿として、「人工知能研究センター」を設立しました。辻井 潤一先生が日本の現状をなんとかしたいとセンター長として着任いただいたのがありがたいことでした。
ビッグデータと呼ばれる大規模なデータをどうやって集めてくるか、集めたデータをどう処理するかと、そういったことによって、人が集まってくる場を作ることが非常に重要で、拠点形成を考えたわけです。スケールは違いますが、グリッド研究センターと同じようなポジションです。
特に最近フロントで宣伝させていただいているのが、2018年に立ち上げたABCI(AI Bridging Cloud Infrastructure AI人工知能処理向け大規模・省電力クラウド基盤)です。現在、Deep Learning などによるデータドリブンの人工知能(AI)は特に計算パワーに依拠したAIです。AIは現実の社会に適用していかなければいけませんが、実際の社会のデータ構造はすごく複雑ですよね。複雑なものを理解し、その先を予測するには計算機のパワーはいくらあっても足りません。少なくとも、計算資源がないことを言い訳に研究はしていけないと思い、立ち上げたプロジェクトです。
―常に次の世代を読んでこられた関口さんですが、今後スパコンやAIはどのようになっていくのでしょうか?
1980年代半ばに第五世代コンピュータのプロジェクトがありました。この同時期に私はデータ駆動計算機の研究をやっていましたが、これはスパコンを目指した革新的なプロジェクトでした。ともに現実の世界を理解するという遠い目標は同じだったと思うのですが、人工知能の研究者が対象としている世界と、スパコンの研究者は90度アプローチが違いました。これが、第三次の人工知能ブームになってお互いにかなり近づいてきた、というかむしろ交差してしまったのでは無いかと思います。ABCIを通じて人工知能の技術とスパコンの技術がひとつになってきているのかなと思います。
激しい世界競争をしていますが、先日、富士通研究所が世界一のデータを出してくれました。また、ソニーさんとの共同研究ではソニーさんが作られたWebUIを通じてABCIを意識せずに使えるようになりました。もっと、もっと皆さんに身近に使ってもらえる、気がつかずに使ってもらえるよう仕掛けたいですね。
―今までを振り返られて如何ですか?また、若い人たちへのアドバイスがあればお願いします。
なかなか、同じ経験をされる人はいないと思うのですが、国の機関という立ち位置で若いときから研究以外の活動もやらせてもらいました。工業技術院でCRAY-XMPを導入したときはまだ20代でしたが、補正予算でのスパコン調達なども担当しました。また、日米科学技術協定の中で提案された「スパコンの性能評価に対する協力要請」への対処方針策定など、外務省経由で通産省に来た話が、スーッと僕の所へ降りて来ます。返しとしての提案が揉まれながら上がっていく。民間企業では、このような経験はなかったと思います。そうした得がたい体験をしたのは振り返っても非常に面白いポジションだったなと思っています。もちろん、いまとは環境が違うのであまり参考になる話ではないでしょうね。
僕自身は専門性を深めていく学究型ではなく、むしろ横に広く色々なことを経験させてもらうことをよしとしていました。その経験から、若い方にはとにかく色々なものに興味を持ってもらいたいと思います。それは人との付き合いでも同じです。多様な職種、業種、の人々と、チャンスを見つけては色々なお付き合いをしてもらいたいと思います。私もまだまだ勉強の途上です。
日本は欧米、中国、最近ではシンガポール・インドなどと比べて、人材の流動性も少ないですし、技術者の育成が効率的ではない部分もあります。研究開発環境にこれだけ投資してきているのですから、もっとリターンが期待できるようなエコシステムを形成することに貢献していきたいです。
関口智嗣氏 略歴 |
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1982年 東京大学理学部情報科学科卒業 1984年 筑波大学大学院修士課程理工学研究科修了 2011年 東京大学大学院情報理工学研究科博士後期課程修了 1984年 工業技術院電子技術総合研究所(現産業技術総合研究所)入所 2001年 産業技術総合研究所情報処理研究部門副研究部門長 2002年 産業技術総合研究所グリッド研究センター長 2008年 産業技術総合研究所情報技術研究部門長 2012年 産業技術総合研究所 副研究統括 情報通信・エレクトロニクス分野 2015年 産業技術総合研究所 情報・人間工学領域領域長 2017年 産業技術総合研究所理事 |
(写真:小西史一)