世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

8月 1, 2019

【わがスパコン人生】第12回 平木敬

島田 佳代子
Kei Hiraki

第12回 平木敬
理想の姿を追い求めるのではなく、
ダメなときも現実的に地道にやるしかない

リアルお茶の水博士としてテレビ出演されるなど、幅広く活躍する平木敬先生に、今までに手掛けられた計算機のこと、アーキテクチャ研究からインターネットの研究を始められた経緯や、現在、AIの分野で注目を浴びるプリファードネットワークスでのことなどお聞きしました。
 

限界を知って妥協をして、必要があれば後退することが大事


―先生のバックグラウンドを教えてください。

生まれは東京の三鷹です。父が技術者だったこともあり、自宅には電子部品がたくさんあって、幼稚園の頃から電子部品をおもちゃに遊んでいた記憶があります。物を作るのが子供の頃から好きで、色々なものを作りました。

最初に鉱石ラジオを作ったのが小学校3年生の頃。といっても、最初はキットを買ってきて作っただけです。その後、ゲルマニウムラジオ、トランジスタラジオ、小学校6年生の時には、実用的な真空管のラジオを作って、それを7,8年自宅で使っていましたよ。

ラジオを作るのにも軍資金が必要ですが、子供ですから当然持っていません。そこで、父親と交渉して、私は中学受験はしていませんが、小学校でも模擬試験があるでしょ。それで1番になったらパーツを買ってあげるよと言ってもらい、1位になってパーツを買ってもらいました。

好きだったのは理科と算数で、もう時効だからしゃべって問題ありませんが、小学校の高学年の時の先生が文系の先生だったので、理科の問題は私が作っていました。

そういえば、小学4年の時に父が1年ほど、アメリカの飛行機関係の研究所に行っていたんですよ。その時に私が送った手紙の中に、「可変抵抗器を使って、計算機を作った」という話が書いてあるんですよ。その頃から計算機が作りたかったのかなと思いますね。書いたことは全く覚えていないんですが、手紙の実物は見たのでね。

―中学や高校ではどうでしたか?

両親も上二人の兄には、それなりに勉強しろと言っていたようですが、私は三男だったので、期待ゼロ。中学までは本当に勉強はしませんでしたね。中学校では放送委員会へ入ると、あっという間にはまり込み、放送設備のたいていのものを改造しました。

高校に入ってからもオーディオアンプを作ったり、ブラスバンドをやったり、放送機を改造したり、一般のオーケストラでバイオリンを弾いたりなんてことをやっていたので、大学はあっという間に浪人しましてね。さすがに浪人をしたときは本当に勉強しました。そのおかげで、数学と物理と化学だけは誰にも負けないくらいになったので、大学へ入ることができました。

―大学では何を専攻されたのでしょうか?

大学では、分からないことがいっぱいあって面白そうな物理を選びました。ただ、物理を学んで、何を専門にするか決めなくてはいけないんですが、やっぱり正直、電気が好きなんですよ。成績も「電」が付くものは良かったけれど、付かないものは悪かった。それで、卒業研究の配属になるときに、研究室を色々と見て回りましたが、高橋秀俊先生の研究室に引き込まれて、計算機の入出力インタフェースを創ったのが計算機屋になったきっかけです。

―最初に創られたものはどういったものでしたか?

学部の卒業研究でテレビカメラを取り込むためのミニコンピューター用のインタフェースを作りました。いわゆる画像キャプチャー装置ですが、結構良くできたので、その後10年程、5月祭のアトラクションで使われていました。それで、計算機系のものを作る現実を遂にみましてね。設計するのは楽しいですよね。でも、それから先はひたすら一万本位を配線するという修行が待っているわけで、1日配線出来てせいぜい100本、200本なので、すっごい時間がかかるんですよ。それができて動いたので良かったですけれど。

高橋先生は定年で慶應に移られたので、私は高橋先生のお弟子さんの石田晴久先生の研究室へ移りました。そこで石田先生から、高橋先生が作ったパラメトロン計算機を、最新の半導体を使って作り直してみないかという話がありまして、それを修士論文のテーマにして、夏位から、来る日も、来る日も、来る日も、配線の毎日。規模も大きかったので、配線がかなり大変になりましてね。誰も計算機の作り方も、配線のことも教えてくれないから、ノイズがすごくて、その結果1分は動かないくらいの計算機でした。でも、そのマシンは動いたということで、私の黒歴史1号ですけれど、すごく学ぶものもあり、無事修士もいただきました。

―その後、所属された後藤研究室でのことを教えてください。

修論の審査の先生のおひとりであった後藤英一先生から、「4月からうちの研究室に来なさい」と言われて、博士では後藤研究室でFLATSという計算機を作ることになりました。そうやって、私の計算機人生は始まりました。

 

これが本当に大変でね。やっぱり計算機って動くように作らないと動かないんですよ。でも、研究者はあまり向いていないんですよ。設計は図面を描くと、どうしても、もっと良いプランがあるんじゃないかと、それより動かない方向に向かうんですよ。物を動かすときに一番大事なのは、「限界を知って妥協をして、必要があれば後退すること」。それができない人は物が動かせません。限界にチャレンジしちゃいけないんです。

昔から、大学の先生が計算機を創って動かないパターンというのは、過去の素晴らしい論文の切り抜き帳のようなものを作るんですよ。そんなものは普通動かないんです。一箇所、すごく難しいことをするのはいいんですよ。二箇所でもかなり難しいんですが、どこもそこも難しいことをしたようなものは普通は動かないんです。

後藤先生は天才肌の人で、難しいことをすごくやりたがるので、それにブレーキをかける毎日でした。「そんなことしたって、動かないですよ」、「動くようにするには、それはダメですよ」とはっきりと言いましたから、後藤先生と私が激しく口論するというのは一号館中で有名でしたよ。今から考えたら単なる院生が偉そうなことを教授先生に言っているわけですから・・。先生に何を言われてもいいからと、私は最初に図面と仕様書を作っちゃうんですよ。作ってから、先生に持っていくと、怒るんですけれど、徐々に徐々にという感じで。3年でできるかと思ったら、3年ではできず、後藤先生も「動くまでは学位はやらん」というので、4年かけて完成させて、学位を頂きました。

―大学へ残るという選択肢もあったと思いますが、電総研を選ばれたのはICOTがあったからでしょうか?

いえ、私は将来のことはあまり考えない人なので・・。実家は公務員系で、兄も父も公務員なので、電総研を受けました。当時の電子計算機部長だった柏木寛さんに、うちでも計算機を作ろうじゃないかと、あっという間に、計算機方式研究室に配属されました。

そこで作ったのがSIGMA-1です。データフローマシンは誰も作ったことがないので、まずはプロトタイプを1年半くらいで創り、それができたので数年かけてプロセッサ128台、構造メモリ128台構成のSIGMA-1を1988年に完成させました。高並列システムを作るのは難しく、修正するのも1台はいいんですよ。128台だと、パッチを入れるのにも、3,4日かかるんですよ。なんだかんだいって、SIGMA-1は大変だったけれど、達成感はありましたよ。ハードウェアはほとんど独力で作りましたから。誰も創り方を教えてくれないから、落ちるところまで落ちて、痛い目にもたくさんあっていますしね。

 

アーキテクチャ研究から、インターネット研究へ


―その大変だったSIGMA-1の後は、どうされたのでしょうか?

IBMの研究所に誘っていただいて、2年ほどアメリカに行きました。その後、アメリカの大学からも話があったのですが、東大から電話があって、東大人生が始まりました。当時の東大はお金がなくて、研究室も空っぽの部屋があるだけで何もないんですよ。年間の公費が8万円だったので、色々な人にお願いして、古いマシンをもらって研究室らしくしました。

最初に手掛けたのが、大学の連合で創ったJUMP-1というマシン。メジャープレーヤーは京都大学、慶應大学と東京大学で共有メモリを使って超並列計算機を作ろうというものですが、これがまた日本のメーカーの実情にも悩まされてすごく苦労しました。プロセッサの部分とネットワークの部分とASICをふたつ創りました。

―そこから、なぜインターネットの研究をされることになったのか、その経緯を教えてください。

JUMP-1を最初にやって、その後も小さいプロジェクトをやったんですけど、1999年頃から、アーキテクチャにお金が回ってこなくなり、お金がないと研究もできません。そこで、隣を見たら、インターネットというのがあるんですよ。高速なインターネットが日本中に張り巡らされているというんだけど、誰も使っていないという現状があって、これはもしかして、お金のソースかなと思い、インターネット屋さんになったんです。インターネット屋になったのは単純にお金がなかったからです。

それで、日本中をネットワークでアクセスするという実験をして、その実績を積んだところで、科学技術振興調整費に応募して、世界中の研究所や加速器センターを超高速インターネットで結び、もはや郵便で磁気テープを送らなくていいというプロジェクトを書きました。

―その時の周囲の反応はどういったものでしたか?

「5年後にそんな速いネットワークがあるなんてウソをついているんじゃないか」と、さんざん言われましたけれど、5年後にはそれよりもずっと速いネットワークになりましたから。

それまでは、大陸間といった長距離でデータ転送をするのは難しいという考えがありましたが、幸い私にはハード屋のバックグラウンドがあったので、その技術を活かし、データ転送は基本的には距離は関係ないということを実践的に証明しました。ある意味、今日、世界中が超高速でTCPで繋がっている基礎を作ったと私は自負をしています。

それである程度、お金が回るようになったので、次に牧野淳一郎先生と組んでGRAPE-DRというプロジェクトを立ち上げました。チップの設計は牧野先生が担当して、その周辺や交渉事を私が担当して、完成したものは、一回は省電力の計算機として世界一省電力な計算機となったので、良かったと思います。私が創った計算機の中でも、最も良く動いた計算機の一つです。

―京コンピュータにも深く関わっていらっしゃるとか?

 
 

京コンピュータのプロジェクトが立ち上がるときから、最後に至るまで、ずっと裏から見ているという仕事だったんですよ。途中から、誰が見てもベクトル部分はできないんじゃないかという状況になってきたわけです。でも、良識ある先生方はそうはっきりと言わないので、その悪役が回ってきましてね、評価委員会ができて、すごくもめました。通常は、そういった委員会の議事は秘密なんです。国家機密を扱っていますから。ですから、私も公開されることもないだろうと、「ベクトルはこの計測システムが世界一になるのに、何の貢献もないから、直ちにやめた方がよい」と意見書をはっきりと書きました。

それが突然、民主党に政権が移ると、いわゆる事業仕分けがやってきまして、「NECが撤退した状況を知りたいから、秘密文書を全て公開しろ」といったんですよ。文科省は議事録を公開しました。今でもウェブページに載っています。取扱注意・機密と書かれたものが公開され、私は日本中に恥をばらまくことになりました。酷いですよね。署名もきちんと入っていますから。そういう関係から、ポスト京にも絡んでいて、プロジェクトの進捗状況を最初からチェックしています。

そうこうしているうちに東大を定年で辞める前に、リアルタイムの細胞計測装置を作るプロジェクトにいつの間にか組み込まれて、リアルタイムで1秒間に1,000~2,000個の細胞を流して、それを画像とか、スペクトルとか、いろいろな計測をして、高度な弁別処理、一種のAIをして、良い細胞か悪い細胞か取り分けるセレンディピターという装置を創りました。

―そこから、現在所属されているPFNへ入社された経緯は?

プリファードネットワークス(PFN)という会社が秘密裏(現在は公開)にプロセッサを創っていると聞きましてね。プリント基板の設計とか、物理と電子工学の中間のところというのは、なかなか電子工学の知識だけではできないんですよ。それで、なんとなく関係を持つうちに、抜けられなくなってしまい、PFNに入ってきました。

こうやって、プロセッサを作るのは楽しいですよ。大変なことでもあるけれど、プロセッサを創るのは一番楽しい。そういった意味では、未だに創らせて頂いていることにはとても感謝しております。

―先生にとってスパコンとは?

私はスパコンと意識したことはないですが、コンピュータはやっぱり面白いですよ。私たちが作っている計算機、それはANDゲート、ORゲート、NOTゲートしかないんですよ。それにメモリがあるだけ。それだけなんですよ。それだけだけど、1秒間に1京回なり、10京回なり計算して、不思議に動くじゃないですか。

人工知能というと知能があるように見えても、ゲートが動いているんですよね。そのゲートが動いているだけで、ここまで来るのはすごいことだと思います。

―物を創る時に心掛けていたことはありますか?

物を創ることは苦労も多いですが、地道にやるしかないんですよ。計算機を作る人は誰でも10回でも20回でも、これはもう永遠に動かないと思ったことがあると思いますよ。うまくいかないときも、あんまりね、こうしようとか思わないことですね。理想の姿を追い求めるのではなく、ダメなときも現実的に地道にやるしかない。そうすることで、開けてくることもありますから。原理を知って、そこから積み重ねて何かを作ることは本当に
面白いですよ。

―今、一番興味があることを教えてください。

それは今作っている計算機を動かすことですよ。PFNが人工知能に関する商売をやっていて、非常に優れた人を集めて、非常に優れたソフトウェアができていて、次に考えているのは、それを更に推し進めるためのハードウェアとの協調ですよね。

今の1万倍の速いスパコンができたからといって、台風予想がどれだけよくなるかというと、だいぶ限界効用に達しているので、大したことはないんです。それに対して、人工知能の世界には限界効用なんてものはない。今から千倍速い計算機でも大丈夫。千倍じゃ足りないので、100万倍くらい速い計算機が欲しい。

今まではHPC屋さんに任せておけば速いコンピュータを作ってくれたんですよ。その時代が去りつつあると思います。もちろん、NVIDIAさんの計算機も使いますが、PFNでは汎用型ではなく、深層学習特化型のものを作っています。そういった棲み分けが始まっていると思います。PFNには素晴らしい若い方がいますが、足りていない経験の部分を補って、ちゃんと動く、形あるものにすることが私の仕事だと思っています。

―これからの夢を教えてください。

私がそれを見る日があるかは分からないし、それができたからって何ができるかと言ったら、そんなに大したことはないと思いますが、今手掛けている計算機を足場に、ともかく人間並みのコンピュータを創って、人間並みのことをやらせたいですね。消費電力に関しても、人間という1日にハンバーガー数個で動くという良いモデルがいるじゃないですか。2040年には人間に並ぶコンピュータができると思います。

 

平木敬氏 略歴

1976年 東京大学理学部物理学科 卒業
1982年 東京大学理学系研究科物理学専門課程博士課程修了(理学博士)
1982年 工業技術院電子技術総合研究所
1991年 東京大学理学系研究科・情報理工学系研究科 助教授・教授
2017年 東京大学名誉教授、東京大学理学系研究科特任研究員
2019年 株式会社Preferred Networks

 

写真:小西史一