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【わがスパコン人生】第15回 松澤照男

第15回 松澤照男
若い人たちには夢を持ってもらいたい
工学部出身でありながら、その後医学部へ進み医学博士を取られた松澤照男先生に、当時の研究内容や計算機との出会い。また長年携わられている教育について、在任中のエピソードやトップを目指す人材を育てることの重要性など、お聞きしました。
―先生の幼少期やバックグラウンドを教えて下さい
生まれは長野県須坂市で 実家は兼業農家です。ベビーブームの時代でしたが、小学校は1学年2クラスしかない小さな学校でした。小学生の頃から野球をやっていて、中学生(1学年8クラス)の時も野球部に所属して、野球に勤しんでいました。計算機とか、いわゆるアカデミックな話はないような環境で育ちました。
高校は長野高校に進学しました。高校でも野球をやりたかったのですが、せっかく進学校へ進んだから、野球はやっちゃいかんよと母親に説得されまして・・。兄の影響もあり軟式庭球(現ソフトテニス)部に入りました。高校1年生で入部して球拾いから始めたのですが、実は3年生の時にはインターハイにも出ました。その後、国体予選もありましたが、残念ながら敗退しました。インターハイに参加後(8月)ようやく本格的な受験勉強を始めました。
―大学で何を学びたいかは決まっていましたか?
大学を選ぶときにどの学部学科というのはありませんでしたが、高校の時は物理が好きで成績もそこそこでしたので物理関係がいいかなと思って、一期校の応用電子に挑戦しました。残念ながら無残にも落ちてしまいました。運動をやっていたし、1年浪人すればいいと思って予備校のパンフレットを集めていたのですが、親に「お前には弟もいるから」など説得されて、二期校の信州大学を受験しました。工学部の中で安易に募集要項の一番上に書いてある機械工学を受験しました。
機械工学には4つの力学「流体力学」「材料力学」「熱力学」「機械力学」がありますが、空気の流れに興味を持ち流体力学を選びました。指導教員は東大物理出身の大路通雄先生で、乱流や流体力学の応用研究などとても興味のある研究をされていました。熱心に教育をしてくれて、面倒もよく見てもらいました。
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―大学ではどういった研究をされたのでしょうか?また計算機との出会いを教えて下さい。
大学では現在も実現していませんが、核融合に関連する研究をしました。今でも閉じ込めの問題など、いわゆるプラズマをどう制御するかが大きな問題です。もちろん、そんな大規模なことはできないので、実験室でできる高周波誘導熱プラズマの研究をしました。冷却している耐熱ガラス管の周りに高周波電流を流して、発熱させ電離させてプラズム状態を生成させることが目的でした。実験装置の設計から始めて、様々な失敗をしながら、最終的には分光光度計を利用して温度分布を測定することができました。
大学でも1年生から軟式庭球をやりまして、オール信大のキャプテンにもなりました。軟式庭球をしているだけではなく、当時の学園紛争の雰囲気もあり遊んでばかりいました。ある科目ではテストというときに、「私、出席日数足りますか?」って聞いたことがあるほどでしたが、幸いなことに留年することなく卒業でき、しかも大学院へ進学することができました。マスターへ入った時に、計算機を使うようになりました。計算機を使ったといっても、当時は大学に情報工学ができ始めた頃で地方大学には殆どなく、信州大学も設置されたのは私が卒業した後です。だから、教科書なんてありませんし、教えてくれる先生もいなくて、友達に少し教えてもらっただけであとは独学でした。
あの当時、信州大学の工学部には富士通のFACOM 231という計算機が入っていました。修士研究は学部4年で実験していた高周波誘導プラズマの温度分布を求めることを目的とし、モデル化した常微分方程式を数値的に求めていました。プログラムを紙テープにさん孔し、紙テープリーダを通し、コンパイルした結果を磁気テープに保存して、その磁気テープをロードすることで計算していました。デバッグは大変でしたね。紙の無駄にもなるので紙テープのコードを読みながら、ハサミで切ってノリでつけて、そこを正しい文字に変えてノリが乾くまで待たなくちゃいけないんです。計算に時間もかかるので、計算機室で寝泊まりして結果を待ったりする生活をして学位を取りました。
―大学院修了後のことを教えて下さい。
私が所属していた研究室の修士修了生は、工業試験場や高等専門学校(以降、高専)へ行った友達が多く、あまり民間企業へ就職するという雰囲気はありませんでした。1年上の先輩が信州大学医学部(第一生理学教室)の東健彦先生の研究室に助手として入りました。東先生は大河ドラマ「いだてん」にも登場した東京都知事 東龍太郎さんのご子息です。いわゆるバイオメカニクス(生体力学)を医学関係では東先生が、物理関係でいうと国立循環器病センターの所長になられた岡小天先生のお二人が先駆的に始められました。東先生と親しい先生が別の研究室(公衆衛生学教室)で統計ができる人を探していて、私は大学2年生の時に工学部で数理統計(出席人数がようやく足りた科目)を取っていたこともあり、医学部(公衆衛生)の助手として採用され、統計を使いながら疫学を研究することになりました。
あの当時は動脈硬化がなぜ起こるのか、よく分かっていませんでした。動脈硬化は血管全部に起こるわけではありません。硬化するところがあるんです。血管が分岐や分子しているところや、曲がっているところなどに起こりやすい。そこで流体力学の立場から、医者にそのようなところの流れを見せようと、まずは可視化実験をしました。速度分布の測定では、血液の粘性は温度依存で、温度変化が多い環境で行うと数値が変わってしまいます。今のようにエアコンがあればいいですが、当時はありませんので、温度が安定している夜間に実験を行っていました。
そのうちに先輩から「お前、計算機知っているだろ?」と言われて、計算機を使って狭窄や血管の曲がっているところをシミュレーションしようとしたんです。HPの感熱式プリンターつきのプログラム電卓を使って、逆ポーランド法で微分方程式を解いていました。また、材料力学で使われている有限要素法を流体力学、特に狭窄や動脈瘤などの血流解析に適用しようと考えました。当時は共同利用のため旧帝大を中心に全国の大学がブロックに分かれていて、信州大学は東大大型計算機センターを中心としたブロックでした。松本キャンパスにはHITAC-10IIが設置されていて、通信回線(N1ネットワーク)を利用して入出力をしていました。紙テープから紙のカードに変わり、カードを利用してエディットまでしていました。このような流れのなかでスパコンを使うようになりました。その頃使っていたのはHITAC8700/8800やM200H、M-280HなどでMシリーズには内蔵型のアレイプロセッサがあり、高速ベクトル計算が可能だったと記憶しています。引き続きスパコンのSシリーズになり、次の勤務地である沼津高専時代も有限要素法を利用した血液解析の研究を継続しました。もちろん、統計パッケージSPSSを使って本職の疫学研究もしていました。
工学、医学、そして教育の現場へ
―医学部から教育の場へ移られた経緯を教えてください。
その当時の医学部は他学部出身者が長くいることができる雰囲気ではありませんでした。別の先輩から沼津高専の情報処理教育センターに空きポストができると声を掛けてもらい、沼津高専へ移りました。東工大の名誉教授であった慶伊富長先生が校長を務められていました。
慶伊先生は国立高等専門学校協会(国専協)の会長も勤められていて、高専改革に取り組んでおられました。高等教育機関のなかでも高専制度が優れているにもかかわらず設立されて以来ほとんど学科が増設されていませんでした。学科増や学科改組に取り組まれ、そもそも高等専門学校という名称が、他の各種専門学校と間違えられやすい。そこで、専科大学という名称変更に動かれましたが、なかなかうまくいきませんでした。そういったこともあり、慶伊先生が構想から関わられて、1990年に学部を置かない新しい形の国立の大学院大学である北陸先端科学技術大学院大学(新構想の大学院大学、以降、北陸先端大)が開学し、慶伊先生が初代学長となりました。
私も、「松澤、情報を手伝ってくれ。信州生まれだな。寒いところは大丈夫だな?」と聞かれて、北陸先端大の情報科学センターへ移ることになりました。そういう意味では私はずっと人と人との繋がりなかで、ポストを得てきたと思います。91年は辞令が出ましたが、まだ建物もできていない為、兼務で沼津高専に勤務していました。92年に情報科学の一期生が入学すると同時に北陸へ移動しました。慶伊先生は触媒研究の第一人者で、学長をしながらMathematicaを使いながら理論的な研究を継続されていました。Mathematicaで対応できない計算を私に依頼され、数値計算を駆使して結果を出しました。先生と連名で論文ができたことはこの上ない喜びでした。
情報科学センターは最先端の情報科学の教育研究環境を提供するため、政府の肝入りでできた大学ということもあり、4年サイクルで複数のスパコンを入れることができました。それだけの予算があるのなら、「そういったものを3台も、4台もなぜ入れるんだ。1台大きなものを入れればいいじゃないか」といった声もありました。しかし、大きなものを入れてしまうと、大口の計算ユーザが優遇されてしまいます。ここは教育センターだから、まずは学生たちに自由にどんどん使わせたかったんです。学生が自由に使って良い、そういう環境で、なおかつ自分のプログラムがアーキテクチャの違うマシンでどういう風に速度が違うかということも調べて欲しくて、なるべくバラエティに富んだものをというポリシーでマシンを入れていました。
―1999年にイギリスへ行かれた時のことを教えてください。
イギリスへは文科省の在外研究員として行きました。ずっと血液のモデル計算をやっていましたが、鼻にも興味を持ちまして、ロンドンのインペリアルカレッジで若手の教授と一緒に鼻の流れの計算をやりました。CT画像を処理してそのままシミュレーションをすることが目的でした。この鼻腔のシミュレーションは、世界的にみてもかなり早い段階だったと思います。とにかく鼻腔面をポリゴンで連続した面を作らないと、その中にメッシュが切れませんから最後は手作業で行いました。このような計算で鼻の中の流れが見えてきました。じつは血管は非常にシンプルだけれど、鼻は複雑なんです。
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―チンパンジーの鼻のシミュレーションもされたそうですね。
はい。あるテレビ番組のディレクターが面白い人で、冬場にラーメンをすするとなぜ鼻水が出るのか、動物の鼻はどうなのか聞かれたことがありました。鼻腔の流れから一定の説明ができました。その後、これが縁で同じ霊長類研究所の先生と話す機会があり動物の鼻腔内の流れに興味を持ちました。日本猿やチンパンジーの鼻腔内の流れシミュレーションをやってみたところ、日本猿やチンパンジーの鼻の方がヒトよりも構造が複雑で、機能が高いということが分かりました。
鼻から吸った空気の温度や湿度が高すぎたり、低すぎると肺胞を傷つけてしまいます。だから温度を体温近くまで加熱あるいは冷却をし、鼻の粘膜で湿度を高めてから肺胞に送っているんですよ。人間は家の中にいます。非常に緩やかな環境ですよね。一方のチンパンジーは屋外にいます。より温度調整が必要なチンパンジーの鼻の機能の方が高くなるのでしょう。もしかしたら、人間も昔はそうだったかもしれません。
それから皆さんはよく鼻詰まりと言いますが、じつはいつも二つの鼻の穴から同じ流量で呼吸しているかと言うと、そうじゃないんです。ネーザルサイクルと言いますが、二つの穴でメインの流れが交互になりながら呼吸しています。だから、CTを撮った場合、必ず片方が鼻詰まりを起こしたようになり大きさが違いますがこれが正常なんです。
―ロンドンから戻られた後のことを教えてください。
私のチームがスパコンを始めとするネットワーク上の計算機、実験装置や観測装置といった計算リソースを活用して、時間や空間、分野を超えた遠隔協調可視化環境を構築する研究開発「VizGrid」を行うということで、私が責任者でプロジェクトを行いました。あの当時は例えば画像を送ろうとしてもネットワークが遅く、ハードもついて行けず、GPUをGPUらしく使って可視化をしました。医学部と計算サーバーと数値計算屋がネットワークで可視化を見ながら議論しましょうというものでしたが、それを2003年から2008年頃まで5年ほどやって、そこそこの成果を出せたと思っています。
―印象に残っている学生さんのエピソードなどありますか?
数値流体力学の研究室として、従来の計算手法の並列化やHPC 研究、また実在の流れ、例えば私の研究分野である生体内流れから、当時大きな問題になった重油流出事故の重油の流れ、焼却炉内の流れなど様々な流れに挑戦しました。例年、私の研究室には毎年3~4人は入っていたので修了生は100人近く、ドクターは2~30人が修了しました。面白い学生はたくさんいましたが、流体の最適化問題に取り組んでいた学生もいましたね。例えば翼の最適化なんてことをするんですよ。飛行機というのは上向きの揚力と、後ろ向きに抵抗が働きます。揚力は大きく、抵抗を小さくというように目的関数が2つあります。これを最適化しようと計算をしましたが、なかなかNASAの実験データのような翼にはならなく非常に難しいんです。ひとつのことを最適化するのは楽だけど、2値の最適化は難しい。3つ、4つになるともっと難しくなります。
例えば将棋は勝つことだけが目的だったら、それはある意味で楽なんですよ。でも、実際には勝ち負けもあるし、一方面白さを追求する将棋もあるでしょう。AIでやる将棋は面白いかというと、勝つことは勝つけれど、面白みがあるかどうか。評価基準が変わりますよね。
工学でも目的関数がひとつだと楽です。ただ、何を最適化するか、何を良くするか、2つも3つも、いっぱいあるんです。それをどこまでやれるか、それはAIでも同じだと思いますが難しい問題です。彼はその後、ホンダでF1か何かの設計をしているはずです。
―松澤先生にとってスパコンとはどういうものでしょうか?
これはやっぱり計算する道具ですよね。私は信州大学医学部や沼津高専までは、もっぱら東大センターの計算機(S-810や S-820)を使っていて、典型的なユーザでした。アーキテクチャは詳しくないし、作る方の立場ではありませんでした。ずっとソフトに関わっていました。北陸先端大へ行ってからは、ユーザから教育の立場へ移り、自分たちの計算機を学生が使うことをサポートする立場になりました。
ユーザの立場からいうと、スパコンは速ければ速いほどいいんだけれど、モデル化をもう少し真剣に考えなくてはいけないと思っています。計算機が速くなっても絶対モデル化というのはついてきます。いかにモデルを作って、それを微分方程式なりなんなり計算できる状態にするということが一番重要で、その上でスパコンは速ければ速いほど嬉しいねと、そういう考え方です。
―若手研究者に向けてのアドバイスと、先生がこれからされたいことを教えてください。
若い人たちには夢を持ってもらいたいですね。ただの論文書きにはなって欲しくない、というのは若い人に言うと酷なのも分かるんだけれど、小細工しながら早く結果が出るように論文を書くというのは感心しません。もう少しじっくり結果を出しても良いから、ちゃんとした論文を書くつもりでしっかり考えて、計算なら計算をじっくりして、サムシングニューを出すような、そういった努力をして欲しいと思います。
今、地方大学は計算センターがなくなってしまいました。パソコンを使うとか、多少速い計算機と使って結果を出す研究者が増えましたが、トップを目指すような人材をどうやって教育するのでしょうか。計算機のユーザは京でも富岳でもいいですよ。でも、そういう計算機を使う人たちを育てるところがないじゃないですか。
本格的にやる人がいません。だから、欧米のソフトを使って結果を出すだけで、なかなか日本発のソフトウェアがないし、そういう人材がいません。ナンバー1のマシンを作るのは良いかもしれませんが人材をどうするのか。将来どうやって学生さんを育てていくのか。そこもしっかり考えなければいけないと思います。
今は私自身がプログラムを作る力はありませんが、モデル化については考えてみたいなと思っています。それから、私事になりますが、私は3つの黎明期、創成期に関わることができました。1つはバイオメカニックスの日本での立ち上げ、2つ目は北陸先端大の創生、3つ目は触れてきませんでしたが、高専の学生を対象にしたプログラミングコンテストです。30年続いていますが、こちらも立ち上げから今日まで関わっています。これらの経験を伝えていくことも重要だと思います。これまでの教え子たちや長年高専プロコンに関わっているので、高専の学生さんがどう育っていくのかも楽しみですね。
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松澤照男氏 略歴 |
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写真:小西史一
1件のコメントがあります
松澤先生
ご無沙汰しております。ちょっとご相談したことがあって、アドレスを探していたのですが、とりあえず、これも行けるかと思い、書きました。詳細についてご相談でできればと思い、ご返信頂ければ幸いです。
草そう、 臼井支朗