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【わがスパコン人生】第17回 藤井孝蔵

第17回 藤井孝蔵
Wish it, Dream it, Do it!
東京大学を卒業後、宇宙科学研究所(現 JAXA)やNASA Ames研究所で輝かしいキャリアを歩まれた藤井孝蔵先生ですが、ご本人はその人生を「茨の道だった」と言います。その意味とは。また、先生が出会ったスパコンや今後のスパコンの在り方、現在取り組まれている研究のことなどお聞きしました。*本インタビューは感染症拡大の社会情勢を鑑みて、オンライン会議ツールを使用して実施いたしました。
先のことは分からない
―先生のバックグラウンドを教えてください。幼少期はどのようなことに興味があるお子さんでしたか?
出身は山梨県甲府市で高校まで地元で過ごしました。厳しい気候の土地柄ですが、天気が良い日は私の部屋から富士山が綺麗に見えました。
私の専門は航空宇宙工学で大学卒業後、今の宇宙科学研究所(宇宙研)に長くいました。宇宙のことをやっていると、「小さい頃から天体観測ばかりしていたんでしょうね」などと言われますが、そんなことは全くありません。戦後の色が残る時代でしたので、小さい頃は無邪気に戦闘機のプラモデルなどを作って遊んでいました。飛行機は嫌いではなかったかもしれませんね。私が育ったのは、コンピュータどころか電卓すらない、そんな時代です。
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―モノを作ることはお好きでしたか?
はい。むしろ、壊すことがと言った方が正確かも知れませんね。家が鉄屑屋でしたので、変電所などから引き取った機械類が倉庫にいっぱいあって、よくそれをバラしていました。親に聞いたところによると、幼い頃は「発明家になりたい」と言っていたようです。発明家とは何ぞやと(笑)。今も分かりませんが、結果的に、研究開発なる仕事に長く携わってきましたし、未だに社会を変えるきっかけを創るような仕事をしたいと思っています。
中学生の時は卓球部に入っていました。それなりの成績でしたが、むしろスキーの方が「好き」を通り越しています。今も「冬は仕事をしない」と宣言しています(笑)。父が幼い頃に連れて行ってくれたことがきっかけですが、スキーを本格的に始めたのは宇宙研に行ってからです。そこに変わったスキークラブがあって。
今と違って、昔はスポーツを研究しようとすると、「遊んでいるんじゃないか」と言われたんですよ。それで、テニスの本も書かれている宇宙研の三浦公亮先生の声掛けで、一緒にスポーツ工学なる分野を立ち上げました。立ち上げた研究会にはスポーツメーカーの方もいて、一緒にスキーのテストをやらせて頂くこともありました。スキーターンを工学的な視点から捉えて、身体運動にどう活かすかといった本「スキーは頭で滑る!」も書きましたよ。本を読んで上手くなるわけないですけど。
―大学進学後のことを教えてください。
ちょうど学生運動全盛期で、我々の前の年は東大入試がない年でした。結果、何故か倍率が通常より低く、運良く東大に入りました。2年時に学科を選ぶいわゆる「進振り」では、最初機械工学科へ行こうかと思ったのですが、定員が百何十人と多く。積極的な理由ではないのですが、人数が少ないことから航空学科を選びました。
私は22歳で結婚をしていることもあって、大学卒業後は就職するつもりでした。しかし父の助言もあり、大学院へ行くことにしました。ただ、卒論の指導教官から「君は宇宙研へ行くように」と。鍛えられて来いという意味だったのか、出来が悪く側に置きたくないと思われたのか(笑)。結果、宇宙研の辛島桂一先生の研究室へ行くことになりました。
宇宙研というのは今の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の一部ですけれど、元々は東京大学宇宙航空研究所(付置研)です。今は宇宙関連のプロジェクトをやる場所と思われていますが、当時はロケットや衛星を直接担当する先生は2割程度、残り8割は基礎研究の先生方でした。やりたいことを自由にやれる環境で、研究者としての一歩を踏み出せたことは大きかったですね。
―NASA Ames研究所へ行くことになった経緯を教えてください。
経歴だけ見ると、うまくいっているように見えるかもしれませんが、そこから先は茨の道でした。私はちょうど団塊の世代の尻尾にあたる世代です。博士課程を修了する頃には研究者のポストはほとんど埋め尽くされていました。今のようにインターネットがあるわけではないので、旧知の先生方を尋ねて回りましたが、職は見つかりませんでした。すでに結婚していましたので、正直困ったなと思いました。
あるとき、宇宙研の某先生から、スタンフォード大学とNASA Ames研究所で行われる数値流体力学の国際会議に行かないかと声を掛けてもらいました。会議はシングルセッションで、すべての発表を全員が聴くんですよ。それまで論文でしかお目にかかったことがない方々が聞いてくれるのです。Ames研究所の方も含めて多くの先導的な研究者の方と直接話す機会になりました。
この時の発表がきっかけで、米国政府のフェローシップによりAmes研究所で仕事をする機会を得ました。もし国内で助手とかの就職口があったら、その機会はなかったわけですよね。運良く(?)職がなかったからこそ、NASA Ames研究所という当時最先端の研究の場へ行くことができました。
私のアドバイザーであったP. Kutler氏のオフィスに伺うと、机の上に航空機のプラモデルが1つ置いてありました。そして、「こういう飛行機は、輸送機などと飛ぶメカニズムが違うんだよ。離着陸の時はこんなところにこんな渦ができてね。これが大事なんだよ。君、これを計算してみない?」と言われたんです。
申請書で私が提案したテーマとは全然違いました。でも、世界中でまだ誰もやっていなかった研究をやったことが、その後、世界中にたくさんの知り合いができるきっかけになりました。彼のこの一言が、若い頃の私の研究を決めたわけです。しかも当時のAmes研究所には世界最初の汎用スーパーコンピュータであるCray-1が導入されたばかりでした。
―先生が初めて使った計算機は何でしたか?また、Ames研究所で使ったCray-1はどのような計算機でしたか?
初めて使ったのは宇宙研の時で、富士通のFACOM230-75です。カード式の時代で、1000枚とか2000枚を計算機室に持って行っては嫌がられていましたね。
Cray-1は、今のスーパーコンピュータと違ってユーザーに優しい計算機でした。ただ、ベクトル化の知識が全くなく、一人だったら上手くいかなかったかもしれません。しかし、Ames研究所にはCray-1用にプログラムを準備してくれる人、質問にすぐに答えてくれる人がいました。また、ベクトル化してないプログラムとベクトル化しているプログラム双方が手元にありました。比べてみると何をどう変えたか分かるじゃないですか。そういったこともあって、すぐに使い始めることができました。
研究者というのは保守的です。世界最先端のAmes研究所も同じで、皆、Cray-1を使おうとしないんです。相変わらずCDC7600を使っている。私はほぼCray-1を占有できました。利用プログラムが異なったため、計算機がすごく速くなったという記憶はないのですが、ベクトル化がどういうものかなどを学ぶことができました。
―Ames研究所での2年間で特に印象的だったことを教えてください。
当時、日本では計算結果から等高線を書くのも簡単ではありませんでした。私の先輩は方眼紙に数字を書き込んで、それをなぞって手で描いていたんです。ところが、アメリカへ行ったら、エバンスサザランド/テクトロにクス社の機械が2台置いてあって、翼の上の周りの流れの画像がぱっと出て来るんですよ。これはショックでしたね。
私の机にはVAX780の端末が置いてあり、今では当たり前ですが、cut、paste、undoといったキーが右側に並んでいました。日本では一行ずつプログラムを組んでいましたから、こんなことができるのかと。道具の違いはものすごく感じました。
それから、日本ではポテンシャルという簡単な方程式を使っていましたが、Ames研究所では、ちょうどナヴィエ–ストークスと称する今では当たり前のように使っている方程式を解き始めている時期でした。私がAmes研究所へ行った頃は、計算機が良くなっただけではなくて、解くべき対象が変わる頃で、時代を先取りできました。
Ames研究所には世界トップクラスの研究環境、世界のトップクラスの研究者、世界のトップクラスの計算機、その全てが揃っていました。そこで2年間過ごせたことは、私のその後の研究人生において圧倒的にプラスでした。しかも、研究テーマが米国にとって大変重要かつタイムリーなもので、最初に私がやったということで非常に評価してもらいました。繰り返しになりますが、日本で職がなかったことが幸運(?)でした。
Wish it, Dream it, Do it!
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―日本へ帰国されてからのことを教えてください。
延長することもできたのですが、1983年10月、予定通り2年間のアメリカでの生活を終えて日本へ帰国しました。出発前に話があり、それをあてにして帰国したんですが、用意すると言われていたポストが諸事情で消えていました。妻子を抱えてまたもや頭を抱えることになりました。
当時、私たちのスキークラブに指導に来てくれていたプロのインストラクターがスキー学校の校長をやっていました。ちょうど冬が始まる時期だったので、一冬イントラをやらせてくださいと頼んだら、いいよと言ってもらえて。それはそれで幸いと思いました。
実は渡米前にもうひとつ別の話がありました。航空宇宙技術研究所(航技研:現 JAXA 調布)のある方が、「来ないか」と言ってくれたんです。ただ、NASAへ行く直前だったので実現しませんでした。職のためとかではなく、単にその方に帰国の報告をすべきだと思い、航技研に伺いました。
本当に偶然だと思うのですが、ちょうど部長が3人一緒にお茶を飲んでいて、アメリカではこんな方程式を解いて、スパコンというものを使っていましたと話したら、「取ろう!」と。なんと、4月から航技研へ行くことになりました。実は、その「ある方」は三好甫さんでした。後に日本スパコンの父とも言われ、この業界では誰もが知る方です。
―航技研ではどういった研究をされましたか?
航技研へ移って間もなく、数値風洞として開発中のスパコンの話が具体的になってきました。富士通さんが世界最高速の1 GFLOPS、256MBという世界最速、世界最大メモリの計算機VP400を開発しつつあって、三好さんがそれをリード(?)されていたんです。
当時、Boeing737の後継機を開発しようとするボーイング7J7、日本では通産省のYXXというプロジェクトがあり、日本は民間機の開発、主翼の開発担当を取ろうと考えていました。三好さんの指示で、まだ工場にあったVP400を利用し、MHIさんの協力で翼のシミュレーションを行いました。夕方すぎになると、社員が帰宅する中、研修生として私のところに来ていた東大の大学院生と二人で富士通の川崎工場へ行っては朝まで計算です。朝になるとデータをMT (マグネティックテープ)に納めて調布に戻り、ひたすら解析する生活でした。結果、胃を壊しました。ちなみにこの仕事を一緒にやった研修生は現在東北大流体研の教授の職にある大林茂氏です。
大変な作業でしたが、その成果が3 次元実用遷音速翼のナヴィエ・ストークスシミュレーションに結びつき、1987年度の米国Aerospace America の年間トピックスにも取り上げられました。国内新聞各紙でも取り上げて頂きました。
もしAmes研究所に留まっていたり、予定通りの就職口があったら、この機会はありません。なくて、航技研へ挨拶に行ったことがきっかけで、日本で世界最高速、しかも出荷前のスパコンを使う機会を得ることができました。
更にその2年後にAmes研究所へもう一度来ないかと誘ってもらえて。その時は調布に籍を置いたままAmes研究所へ行きました。そこで出会ったのがCray-2です。OSがUNICOSに変わっていて、また皆使わないんですよ。Cray-2をひとりでリアルタイムに使っていました。当時富士通さんがアムダール社と組んで、アムダール2000としてVP200を米国内で販売しようとしていました。サンノゼにあったマシンを使ってみないかと言ってもらえて、凄い量の計算をさせてもらいました。これも大きな成果に繋がりました。
ただ、1年半後に帰国したら、航技研の私の席が片隅に追いやられていまして(笑)。たまたま,名古屋大学から数値流体力学の集中講義を頼まれたこともあり、他にやることがないので、数値流体の計算法を整理しました。それが数年後の東大出版会の書籍となりました。とても難しい本ですが、幸いにも9刷までいっています。ある意味これも幸運でしたね。
うまくいかないなと当時思ったことが、あとから考えたら、幸運に繋がっている。学生にも、就職などうまくいかなくても、あまり気にしなくていいよ。先のことは分からないからといつも言っています。
―JAXA発足時のエピソードなどありましたら、教えてください。
これも色々あって、1987年にアメリカから航技研に戻って3か月位で古巣の宇宙研へ戻ることになりました。しばらくは好き勝手をやらせてもらっていたのですが、2000年を過ぎ、ちょうど宇宙科学情報解析(PLAIN)センターのセンター長を任されていた2003年10月に宇宙3機関の統合によってJAXAが発足しました。統合する1年半ほど前に所長から呼び出され、突然「経営企画の担当だから」と言われて。暇だと思われたんでしょうね。実は、JAXAの最初の中期計画の草案も書きましたよ。
情報関連も担当したので、スパコン統合の議論もしました。統合することが必ずしも良いとは思いません。分散した方が良いこともあります。ただ、当時PLAINセンターの先生方は忙しすぎて、運用やサポートに無理がかかっていたので、強いサポート部隊を持つ調布の力が有効です。結果、数年後のスーパーコンピュータの統合につながりました。
2年後の2005年にJAXA情報・計算工学(JEDI)センターが発足しました。私が名付けたのですが、一生懸命考えたんですよ。ちょっと無理がありますが、JAXA’s Engineering Digital Innovation Center 略してJEDIです。センター長として、JAXA最初のスパコンJSSの調達もやりました。京や富岳に繋がる最初のFXシリーズ、FX-1です。調達より少し前の時期は富士通さんが独自の開発を止めるかと迷われていた時期で、当時副社長だった伊藤千秋さんと何度かお話しました。(千秋日記:http://itochiaki.jp/senshu/?p=560)
JAXA内では様々な役職をやりましたが、組織運営よりも研究に戻る方が楽しいし、社会にも貢献できると思ったので、定年を期に2015年4月、東京理科大へ移りました。我儘ですけれど、役職はやらないと言う約束で。ただ,その後M先生が学長で来られ、いつの間にか大学の仕事が増えている気はします...。
途中Ames研究所や航技研には出ていますが、大学を卒業して定年まで、全体で見ると私の研究生活の大半は宇宙研でしたね。
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―先生にとってはスパコンとは?また、これからのスパコンの在り方について、先生のお考えを教えてください。
難しい質問ですね。人生を助けてくれた有難い装置かな。その都度、その都度、良いスパコンを使える立場にいて、さらにいつも優れた研究者と一緒に仕事ができました。それが全てのもとになっていて、感謝しかないですね。
今後のスパコンについて言うと、HPCIの仕組みができたことで、一般的にはトップ計算機が開発・利用できる環境が整い、それによってアプリの異なる分野の人たちの顔が相互に見えるようになりました。
最近、「富岳」が世界一となり話題になっていますが、大切なことは「京」とそこでのアプリ開発プロジェクトの貢献です。それがあったからハードウェアとしての「富岳」も富岳上のアプリも生まれています。これらの成果をさらに発展させなければいけません。そのためには個別の課題だけではなくて、この課題のこの部分と全く別のあの課題のあの部分を繋ぎ合わせたらすごく面白いかもとか、分野を跨いでせっかく繋がった人の輪を生かし、さらなる成果に繋げて欲しいと思っています。
同時に、スパコン利用の敷居を下げてリアルタイムで使われることを期待しています。コンピュータの歴史を学ぶと、最初は弾道計算から始まりました。でも今、コンピュータは社会の中に埋もれていますよね。宇宙研にいらっしゃった穂坂衛先生がみどりの窓口などこの手の話の先駆者ですが、オンラインで色々な装置が繋がっていて瞬時に切符が出て来ます。裏でコンピュータが動いていますが、買う人はそんなことは意識していませんよね
社会生活の後ろで(有効に)スパコンが動くような姿になれば、スパコンのパイは10倍、100倍に拡がります。どこのセンターをどこの会社が取ったとか、同じパイを奪い合っていても利用層は拡がらないですよね。社会に根付くスパコンの利用のひとつの姿として、2005年頃からずっとリアルタイムという使い方を訴えています。是非、施策的にもこういった利用を推進して欲しいですね。
近年では社会課題への利用が益々増えています。東北大の小林先生などが頑張っておられる災害のシミュレーションや最近の新型コロナもそうですよね。モノ作りだけではなくて、社会課題に使われるようになっています。その部分は更に発展してもらいたいです。
―現在取り組まれている研究について教えてください。
例えば車の設計をするときに、抵抗を減らしたい。となると、スポーツカーのような流線形になりますよね。でも、視野の良い、運転しやすい車となると、四角い車ですよね。両立しないじゃないですか。また、飛行機の世界も、今や抵抗を1万分の1減らすといった小さな変化を議論する時代に入っています。新幹線やリニアの車両設計にも協力させていただいてきましたが、全く同様です。
なんでもそうだけれど、99%までは割と何とかできても、最後の1%が本当に大変で、凄く努力しなくてはいけません。そこでは、苦労の割には得るものはとても小さくなります。
ではどうすべきかというと、発想の転換です。形状を工夫して抵抗を減らすといった考えをやめるところが出発点です。バリア放電により生成されるプラズマを利用した流体制御技術(プラズマアクチュエータ)の研究を2005年頃から始めました。これはTBSの「夢の扉」でも取り上げて頂きました。
0.1-2ミリほどの厚さのプラズマアクチュエータを貼り付けるだけで空気の流れを変え、性能を上げることができます。飛行機、車、ご家庭のエアコンなど対象は多岐です。本格的な実現は30年、40年先でしょうが、局所的な利用でも性能の改善が図れます。HPCI (革新的ハイパフォーマンス・コンピューティング・インフラ)の戦略プログラムの中でもこの研究を4年間やらせてもらいました。その成果を元に、複数の企業と共同研究も進んでいます。最終的には形状を工夫する設計ではなく、こういったデバイスで性能を上げる設計を実現したいです。
一から学び直しですが、授業でもPythonを使い始めていて、秋にはオーム社から「パイソンで学ぶ流体数値シミュレーション(仮)」という本が出る予定です。上述の本は専門家の解説が必要でしたが、これは学部生レベルでもある程度理解できる、分かりやすいものにしています。プログラムは誰でもダウンロードできるようにGitHubで公開する予定です。
研究者としての思想ですが、特許とかよりもオープンにして私はその先へ進みたい。オープンにすれば皆さんが良くしくれますから。その方が全体としては発展します。抱え込むようなことはしたくないと思っています。
―最後に若い研究者へのメッセージをお願いします。
アメリカの大学で講演を頼まれたときに、近くの商店街の古道具屋で「Wish it, Dream it, Do it!」 と書いてある古ぼけた板切れを見つけました。部屋に飾ってありますが、私の標語のひとつになっています。
この宇宙研らしい「Do it」 が凄く大事で、色々思うんだけれど、自分から手を動かすことなく、終わってしまう人が多いですね。失敗してもいいし、リスクがあってもいいから、やってみましょうよ。まずは手を動かすということを進めたいです。間違ってもいいんです。プログラムなんてどうせ間違いがありますから(あぶない、あぶない)。小さいことでいいから、まず手を動かしてやってみましょう。
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藤井孝蔵氏 略歴 |
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(写真:小西 史一)
1件のコメントがあります
大変、有難い、為になる話しありがとうございました。いろんな過程で大変な苦労が有ったかと思いますが、まずやってみる、手を動かしてみると言うところに惹かれました。私は農業やってますが、やはり草取り作業とかとなると、あたり一面草だらけの状態になっていると、草にのみ込まれて、どこから手をつけたらいいか迷いますが、古い人は、言いました。目は 臆病で、手は鬼だと話してました。まず 恐れないで手を動かせと言われたおぼえがありました。わかりやすく話せばこう言う事でしょうかねー。