世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


9月 28, 2020

新HPCの歩み(第13回)-1955年-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

1955年、UNIVAC 120が東京証券取引所と野村證券に導入された。アメリカのLivermore研究所のEdward TellerはスーパーコンピュータLARCの開発をUNIVACと契約した。IBM社はIBMの商用機として初めてのトランジスタ計算機IBM 608を発表した。

社会の動き

1955年(昭和30年)の社会の動きとしては、1/1トヨタがクラウンを発売、1/2前穂高岳でナイロンザイル切断事件、1/4ビキニ被災補償で、アメリカが $2Mの慰謝料を払うことで公文交換、1/24衆議院解散(天の声解散)、2/4秋葉ダム爆発事故、2/8ソ連のマレンコフ首相が辞任、2/17横浜の聖母の園養老院で火災、3/11糸川英夫教授がペンシルロケットの水平発射を公開実験、3/19第2次鳩山内閣、4/1ラジオ東京テレビ開局、4/7イギリスでチャーチル首相が引退、後任はアンソニー・イーデン、4/16佐世保で安倍鉱業ボタ山崩落事故、4/18インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議開催、4/18 Albert Einstein死去、5/5西ドイツが主権の完全回復を宣言、5/8砂川闘争始まる、?/? 石原慎太郎『太陽の季節』が、『文學界』7月号に掲載、5/11紫雲丸事故、5/14ワルシャワ条約機構結成、5/25岩波書店『広辞苑』初版発行、5/27ヘレン・ケラー来日、6/3京都大学で瀧川幸辰総長が監禁暴行される、6/3モンロー主演『七年目の浮気』公開、7/9後楽園遊園地が完成、7/9 Russell-Einstein宣言、7/15トニー谷長男誘拐事件、7/17アメリカのカリフォルニア州アナハイムのディズニーランド開園、7/20経済企画庁発足、7/25日本住宅公団設立、8/6第1回原水爆禁止世界大会、8/7東京通信工業(現ソニー)が初のトランジスタラジオ発売、8/8長崎の平和祈念像除幕式、8/24森永ヒ素ミルク中毒事件が発覚、10/1新潟大火、10/13日本社会党の左派と右派が再統一、10/26オーストリア議会が永世中立を決議、11/1 UA629便爆破事件、11/3諸橋轍次「大漢和辞典」発刊、11/11世界平和アピール七人委員会結成、11/14日米原子力協定調印、11/15自由党と日本民主党が合併し自由民主党が誕生(社会党統一と合わせ55年体制の始まり)、11/22第3次鳩山内閣、12/1モンゴメリー・バス・ボイコット事件、12/13日本の国連加盟にソ連が拒否権、など。

話題語・流行語は、「月がとっても青いから」「三種の神器」「Aライン、Yライン」「ロカビリー」「ビキニスタイル」「押し屋」など。

筆者が1952年まで住んでいた静岡県元吉原村は、2月11日、吉原市等と合併して消滅した。なお、吉原市も1966年11月1日、富士市等と合併して富士市の一部となり消滅した。

ノーベル物理学賞は、水素スペクトルの微細構造(いわゆるLamb shift)に関する発見に対しWillis Eugene Lambに、電子の磁気モーメントの正確な決定法に対しPolykarp Kuschに与えられた。化学賞は、硫黄を含む生体物質の構造決定と全合成に対しVincent du Vigneaudに授与された。生理学・医学賞は、酸化酵素の性質および作用機序の発見に対しHugo Theorellに授与された。

日本政府関係の動き

1) 電気試験所(ETL Mark II)
通産省電気試験所は、1955年11月、ETL Mark Iの改良機であるリレー式計算機ETL Mark IIを完成した。これは内部二進、1語40ビット、データ用の内部記憶容量200語、使用したリレーの台数は22253個と言われている。Harvard machinesとは異なり、FACOM 128などと同様に完全な非同期式の計算機である。リレーは真空管やトランジスタより不安定で不確実だったため、同期式とするとクロックをかなり遅くする必要があったからである。製造は富士通信機製造。完成後10年間、内外の計算に利用された。

2) (財)電波技術協会(電子計算機調査委員会)
1950年代後半にわが国では事務処理機械化の動きが活発になり、電子計算機産業への関心も高まってきた。1955年4月には(財)電波技術協会に電子計算機調査委員会(委員長 山下英男)が設立され、電子計算機の調査が開始された。2年間の調査をもとにメーカー各社が装置開発を分担する共同開発が計画され、通産省の指導と補助金をうけて分担開発が行われた。この動きが1957年の電子工業振興臨時措置法の制定に向かう。

3) 航空技術研究所
1955年、総理府(現内閣府)科学技術行政協議会は航空技術研究所NAL (National Aerospace Laboratory of Japan)を設立した。1963年からは航空宇宙技術研究所。

4) 東京大学原子核研究所
東京大学原子核研究所は、日本学術会議の1953年の勧告に基づき、大型実験設備を持つ全国共同利用研究所として1955年7月1日に東京都田無市(当時)に設立された。後に1959年度予算として1000万円が認められ、パラメトロン計算機INS-1を開発した。1962年1月に稼働した。製作を担当した企業については資料間に矛盾がある。原子核研究所の最初のコンピュータである。

1997年4月に、高エネルギー加速器研究機構の素粒子原子核研究所に統合された。跡地は2005年4月29日、「西東京いこいの森公園」となった。公園内に「原子核研究所址碑」が建立されている。

5) 統計数理研究所
統計数理研究所の研究部門は、1949年から祖師谷の労働科学研究所の施設に置かれていたが、返還を迫られたので、1955年2月には研究第3部が、4月には第1部第2部が、総理府所管の港区麻布富士見町庁舎(現:南麻布)に移転した。写真を見ると既存の建物を利用したようで、外観は風格がある。各地を転々としてきたが、しばし安住の地を得た。1969年10月、同じ敷地に新庁舎が完成する。2009年10月に立川に移転。

日本の学界

1) 東京大学理学部(パラメトロン)
東京大学理学部物理学科の高橋秀俊研究室の院生であった後藤英一は、1954年5月にパラメトロンの原理を発見し、真空管に代わる信頼性の高い論理演算素子として高い評価を得た。1954年12月にはパラメトロン研究所を創立した(日本IBMの『情報処理産業年表』には1957年3月8日設立と書かれている。法人登記か?)。1977年2月に解散。

高橋秀俊著『パラメトロン計算機』(1968年7月31日、岩波書店)によると、「1955年9月にパラメトロンの成果が発表されると同時に、日立製作所、日本電気KK、富士通信機製造KK等のメーカーがパラメトロンの研究を開始した。そうして1957年8月には日立製作所のHIPAC-1が、1958年1月には日本電気KKのNEAC-1101が運転を始めた。」1955年9月の発表が、学会発表なのか、記者発表なのか不明である。

日本企業

1) UNIVAC(UNIVAC 120)
1955年、UNIVAC 120が東京証券取引所と野村證券に導入された。演算もメモリも真空管式の、電子式計算穿孔機であった。プログラムは2面のパッチパネルで行った。大型の商用コンピュータとしては初めてアメリカから輸入された第1世代であった。2月に野村證券に設置されたUNIVAC 120は、株式売買などの業務に8年間使用されたが、2012年に東京理科大学に寄贈され、近代科学資料館で公開されている。情報処理学会の2014年度情報処理技術遺産に認定された。日興証券にはUNIVAC 60が設置された。

アメリカ政府の動き

1) Radiation Laboratory at Livermore(LARC)
1952年に設立されたthe University of California Radiation Laboratory at Livermore(1971年からLLL、1981年からLLNL)のEdward Teller博士は、1955年4月、IBM社とUNIVAC(Remington Rand社のUNIVAC部門)に、スーパーコンピュータLARC (Livermore Advanced Research Computer)の開発提案を要請した。当時のIBM社は、要求された時期に開発することは無理だとして、1年後に$1Mの予算増で、より強力なマシンを作る提案をしたが、これは拒否されUNIVACが契約を獲得した。完成したのは1960年6月である。

2) 数値天気予報
最初の実用的な数値天気予報業務は1954年にスウェーデンで始まったが、アメリカでは、1955年、アメリカ空軍、海軍、気象局の合同プロジェクトJNWPU (the Joint Numerical Weather Prediction Unit)の下に実用的な数値天気予報が始まった。

ヨーロッパの政府の動き

1) 英国の原子力研究所(CADET)
英国HarwellにあるAERE (Atomic Energy Research Establishment)は、1951年に十進法のHarwell Dekatron Computerを開発したが、1953年にはAERE所長のSir John Cockcroft(加速器による核反応の実現により1951年にノーベル物理学賞)は、全トランジスタ計算機の開発を促した。それによりNPL (National Physical Laboratory)で設計された複数ヘッドの磁気ディスクの主記憶に基づき、全トランジスタ計算機を1955年2月に完成させた。主記憶は64kB(Wikipedia “Harwell CADET”による。当時1 byteが何bitであったかは不明)。CADET (Transistor Electronic Digital Automatic Computerの頭文字の逆順)と命名された。これはクロック生成を含め、すべてトランジスタで構成されている。世界初の全トランジスタ計算機とされている。CADETは324個の点接触トランジスタと76個の接合型トランジスタを用いた。

世界の学界

1) フェルミ・パスタ・ウラムの再帰現象
当時研究された問題は、古典力学の決定論的な系が、統計的な平衡状態に到達するかどうかということであった。ロスアラモス研究所では、イタリア出身の物理学者Enrico Fermi(1901-1954)が、非線形相互作用のある格子系ではエルゴード性が成り立ち、時間発展とともにエントロピーが増大し、統計平衡に達し等分配が成立するだろうと予想した。かれはJohn Pasta (1918-1984)やStanisław Marcin Ulamとともに、LASLのコンピュータMANIAC Iを用いて、16個、32個または64個のノードからなる1次元非線形格子のシミュレーションを行った。アルゴリズムを開発したのはギリシャ系の数理物理学者Mary Tsingouである。

最初に最低エネルギーのモードにエネルギーを与えると、一時的に他のモードにエネルギーが移行するが、等分配されることなく、一定の時間が経つと最初のモードに戻ってくることを発見した。この結果はフェルミの死後1955年に発表された。当初の予想に反して、このように単純な系では統計平衡には到達しないことが分かった。これをフェルミ・パスタ・ウラムの再帰現象と呼ぶ。

2) 反陽子発見
Emilio SegrèとOwen ChamberlainはCalifornia大学Berkeley校の加速器Bevatronにより反陽子を発見した。1955年10月18日に発表された。2名は1959年にノーベル物理学賞を授与された。

アメリカの企業

1) IBM社(IBM 608、Stretch)
IBM社は1955年4月、IBMの商用機として初めてのトランジスタ計算機IBM 608を発表した。この計算機は3000個のゲルマニウムトランジスタを使用している。メモリは磁気コアで、40個の9桁の数(おそらく十進)を記憶できた。アキュムレータは18桁。発売は1957年12月。

Livermoreから提案を拒否されたIBM社は、この提案にあったSiloという高速メモリシステムとPlantationという高速プロセッサをNSA (National Security Agency)に提案した。それも断られたが、Stretchというコード名で開発を計画した。IBM社は、1955年11月に、LASL (Los Alamos Scientific Laboratory)に対し、IBM 704の100倍~200倍の性能を出すという提案を行った。LASLはLivermoreと同様LARCを導入する可能性があったが、LASLはこの提案に乗り気で、IBM社も1956年1月に開発プロジェクトを開始した。同年11月には契約が行われた。(大原雄介氏の記事による)

2) Remington Rand社
1955年6月30日、Remington Rand社はSperry社と合併しSperry Rand社となった。これに伴い、UNIVAC部門はSperry UNIVACと改称した。

3) Burroughs社(E101)
E101は、デスクサイズのプログラム可能な計算器で、128ステップの命令をピンボードで与えることができた。条件分岐も可能。磁気ドラムで100個の数値を記憶した。真空管160本とダイオード1500個とリレーを20個使用していた。1秒間に20回の加算または4回の乗算ができた。出力は、12桁の数値を1秒に2語印刷できた。1954年にE101のプロトタイプが完成し、おそらく1955年には市場に出たと思われる。日本では1959年にトヨタ自動車販売が購入している。

企業の創立

1) Shockley Semiconductor Laboratory
1934年に発明したpHメーターを元にBeckman Instrumentsを創業したArnold Beckmanは、1955年にBeckman Instrumentsの子会社としてMountain Viewに新たに創設した研究所をShockley Semiconductor Laboratoryと名付け、William Shockleyを所長に任命した。BeckmanはLos Angeles近郊の場所を考えていたが、ShockleyはStanford大学も近い、この場所を選んだ。Mountain ViewにShockley Semiconductor Laboratoryができたことは、その周辺地域一帯がシリコンバレーとして半導体産業のメッカとなる契機の一つであった。

2) Datamatic社(後のHoneywell Information Systems)
Honeywell社は、1885年のButz Thermo-Electric Regulator Companyに始まるが、様々な合併を経て、1927年、Minneapolis-Honeywell Regulator Companyとなった。1955年4月12日Reytheon社(1922年創業)との合弁会社Datamatic社を設置してメインフレーム事業に進出した。翌年Reytheon社の出資分を買収して、自社のHoneywel DATAmatic Divisionとした。最初の製品は1957年のDATAmatic 1000である。1語48ビットで、十進12桁、または英数字8字を格納した。2,000語の磁気コアメモリを持つ。1958年にはHoneywell 800 (H-800)を発表し、1960年に出荷した。Honeywel DATAmatic Divisionは1960年にElectronic Data Processing division に、続いてHoneywell Information Systemsと改名した。1965年、本社は”Minneapolis-Honeywell Regulator Company”から”Honeywell”に改名した。

その後は、1970年にGEのコンピュータ事業を吸収し、1975年にはXerox Data Systemsを買収した。1986年、Honeywell Information SystemsはGroupe Bullと合併し、日本電気との協力の下Honeywell Bullとなった。1991年にはコンピュータ事業から撤退。

1956年、電気試験所では点接触型トランジスタ計算機ETL Mark IIIを完成、東京大学と日本電子測器はパラメトロン計算機PD 1516を開発、富士写真フイルムはFUJICを完成する。アメリカのダートマス会議では人工知能AIという言葉が使われた。

(アイキャッチ画像:ETL Mark II 操作卓  出典:国立科学博物館   )

 

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