新HPCの歩み(第18回)-1959年(a)-
東大が東京芝浦電気と共同で開発していたTACは、「超スローモーの電子計算機」と糾弾されながらも1959年2月に完成し、学内に一般公開した。学内外の多くの研究で利用された。九州大学では、翻訳実験用計算機 KT-1を開発した。 |
社会の動き
1959年(昭和34年)の社会の動きとしては、1/1日本でメートル法実施、1/1キューバ革命、革命軍がハバナ占領、1/3アラスカがアメリカ49番目の州となる、1/8ド・ゴールがフランス大統領就任、1/14昭和基地に置き去りにしたタロとジロの生存確認、1/25ローマ教皇ヨハネス23世が、第二バチカン公会議開催を発表、1/27荒川連続自転車通り魔殺傷事件、2/11右翼が三笠宮崇仁親王邸に乱入、3/9バービー人形発売、3/10 BOACスチュワーデス殺人事件、3/10チベットで、反中国・反共産主義の民衆暴動、3/15銀座線と丸ノ内線が赤坂見附で接続、3/17週刊『少年マガジン』創刊、3/28千鳥ヶ淵戦没者墓苑が竣工、3/30砂川事件で米軍駐留は違憲とする東京地裁判決、4/10皇太子明仁親王と正田美智子が結婚、4/20東海道新幹線の起工式、4/27劉少奇が中国国家主席に選出、5/4アメリカで第1回グラミー賞授賞式、5/26 IOC総会で1964年の夏季オリンピック東京開催決定、6/3シンガポール、イギリスより自治権獲得、6/30沖縄、宮森小学校米軍機墜落事故、7/14朝日新聞が水俣病の有機水銀中毒説をスクープ、7/24ミス・ユニバースに日本人として初めて児島明子が選ばれる、8/10松川事件、最高裁が原判決(有罪)を破棄差し戻し、8/21ハワイがアメリカの50番目の州となる、9/14ソ連の月探査機ルナ2号が、月に衝突、9/26伊勢湾台風、潮岬に上陸、9/30フルシチョフ首相が北京を訪問し、毛沢東と会談。共同声明は出されず、中ソの対立が表面化、10/7ソ連の月探査機ルナ3号が、月の裏側の写真を撮影する、11/15ドイツ社会民主党がゴーデスベルク綱領を採択、11/16ミュージカルThe Sound of Musicがブロードウェイ初公演、11/19緑のおばさん登場、11/20東洋化工横浜工場で爆発事故、12/1アメリカ合衆国、ソ連邦など12か国が南極条約調印、12/3日本で個人タクシーが許可される、12/4新潟日赤センター爆破未遂事件、12/11第二京浜トラック爆発事故、12/14北朝鮮への在日朝鮮人の帰還事業始まる、12/27第1回日本レコード大賞開催、水原弘の「黒い花びら」が受賞、など。
話題語・流行語としては、「カミナリ族」「トランジスタ・グラマー」「シームレスストッキング」「種なしスイカ」「テトラパック牛乳」など。
ノーベル物理学賞は、反陽子の発見に対しEmilio Gino SegrèとOwen Chamberlainに授与された。化学賞はポーラログラフィーの理論および発見に対しJaroslav Heyrovskýに授与された。生理学・医学賞はリボ核酸およびデオキシリボ核酸の生合成機構の発見に対し、Severo Ochoa de AlbornozとArthur Kornbergに授与された。
日本政府関係の動き
1) 電気試験所(やまと、ETL Mark IV A)
電気試験所電子部では、英和機械翻訳のための専用機「やまと」を開発していたが、1959年2月に完成した。記憶容量820000ビットの大容量磁気ドラムを設置していた。
また、Mark IVを拡張強化したMark IV Aを1959年8月に完成させた。磁気ドラムの周辺が完全にトランジスタ化され、さらにサイクル時間55 μsの磁気コアメモリを1 kW設置し、語長を十進6桁から8桁へ拡大し、インデックスレジスタの新設などが行われた。1960年にはMark Vも製作される。
2) 日本電子工業振興協会(SIP)
すでに述べたように、1958年に設立された日本電子工業振興協会では、国内各社の商用計算機を設置して、電子計算機センターを運営することになった。1959年2月~3月には、「電子計算機とその応用」というプログラマの養成講座が開かれた。
当時はまだアセンブリ言語もなく、(裸の)機械語でプログラミングが行われており、コンピュータが異なれば命令も異なるような状況であった。室賀三郎(通研)の提案により、国産のいくつかの計算機に共通に使用できるアセンブリ言語を決めて、講習会のプログラミング教育を行うことになった。
このため、協会内にSIP分科会(分科会長森口繁一)が設けられ、SIP (Symbol Input Program)を開発することとなった。最初にNEAC-2203のためにSIP 101、HITAC 301のためにはSIP 102を開発した。大阪に設置されたMADIC IIAおよびMELCOM 1101のためにはSIP 301およびSIP 302がつくられた。11種類のSIP言語があるが、教育用SIPもある。このころ、世界的にはFORTRAN、COBOL、ALGOLなど高水準言語の開発が盛んであったが、日本ではアセンブリ言語がプログラミング教育に大きな役割を果たした。以上、浦昭二『電子計算機の利用に関する研究と教育』(情報処理Vol.24, No.3、1983年3月)による。
筆者が1964年にOKITAC 5090で最初に使ったのは、その沖版のOKISIPであった。当時筆者は、これが共通アセンブリ言語(の沖版)だということは全く知らなかった。
3) 気象庁(IBM 704)
気象庁は、予報に使える大型コンピュータを前から要求していたが、1957年に認められ(おそらく1958年度予算として)、1959年初め、IBM 704を設置した。3月12日、数値予報業務を開始。7月、台風5号の進路予想に活躍した。
4) 科学技術会議
政府は1959年2月、科学技術設置法に基づき科学技術政策に関する内閣の諮問機関として科学技術会議を設置した。これまで学術会議の果たしていた役割の一部をなし崩し的に移した。2001年に総合科学技術会議に移行。
日本の大学センター等
1) 東京大学(「高速計算機委員会」設置)
パラメトロン計算機PC-1は1958年3月26日に完成し、真空管計算機TACは1959年2月に完成し、一般公開した。これらの事件と関係があるかと思われるが、東京大学は1959年3月17日に「高速計算機委員会」を全学委員会として設置し、全学の計算機環境について決定する最高機関となった(一井信吾氏から、「東京大学百年史」資料三 p. 304に、この記事があるとの情報をいただいた)。東京大学では、学部を越えた全学レベルの委員会には特別の格がある。実は、筆者が東大に教授として赴任した1991年でも存続しており、委員長を務めたこともあるが、その由来や趣旨はよく理解していなかった。1999年には廃止され、「東京大学情報委員会」が設置された。
2) 京都大学
京都大学では、電子計算機室の1958年度予算が通り、1958年から日立と設計を進めていたが、1959年5月命令体系が確定し、8月に論理設計完了した。10月から磁気テープ装置の設計を開始し(そんなものまで自作かとびっくり)、11月には主要部の製造(設計の誤植か)が完了し、12月には磁気テープ装置、コア記憶装置の設計が完了し製造を開始した。
3) 東京大学原子核研究所
1955年に設立された原子核研究所は、1959年度予算に計算機の設備費として1000万円が認められた。この計算機は約1年遅れ1962年1月に完成した。
4) 早稲田大学(LGP-30)
1959年8月24日、真空管式計算機LGP-30(Librascope General Precision)を設置した。販売は、Royal Typewriter CompanyのRoyal McBee部門、日本の担当は丸善であった。早稲田大学は、1956年4月にBoeing社の低速型アナログコンピュータを設置していたが、これと合わせて全学的な組織として電子計算室を設置し、10月に一般公開した。LGP-30は使用時間が1日平均16時間をこえた時期があるほど学内から利用された。テーマとしては、各種シミュレータの開発、非線形自動制御系の研究、電力系統特性の統計的解析、DP法による貯水池と水力発電所の最適運用、諸種のLP計算、橋梁の設計、論理方程式の簡略化などであった。(『情報処理』1962年7月号)
日本の学界
1) 東京大学(TAC)
1951年に科学研究費により東京芝浦電気と共同で開発が始まったTACは、紆余曲折の末、1959年2月に完成し、一般公開した。学内等の多くの研究で利用された。開発中の1957年10月4日には朝日新聞のコラム「フィルター」欄で、「超スローモーの電子計算機」と糾弾され、学内で大騒ぎになった。1959年2月21日一般公開し、以後学内の計算の求めに応じることとなった。掛けた費用は、1958年度までに校費・機関研究費をあわせて5200万円、東芝から1000万円相当の真空管の寄贈を受けた(『日本のコンピュータの歴史』情報処理学会歴史特別委員会編、オーム社1985年p.90の村田健郎氏のレポートによる)。TACは1962年7月にシャットダウンした。
TACは真空管を7000本、ダイオードを3000本使用し、EDSACの命令体系を持つ。主記憶はWilliams管16本を用い、ランダムアクセスを実現した。中澤喜三郎の設計により、浮動小数の演算装置をハードで実現した。インデックスレジスタも取り入れた。わずかのハードでどうやって実現したのか不思議である。Williams管の主記憶は安定性に問題はあったが、当時標準の磁気ドラムよりははるかにアクセス時間が短く、高速な計算機だったとのことである。
上記の『日本のコンピュータの歴史』p.103にはTACを用いた計算が下記のように34件紹介されているが、数値解析から整数論的計算、命題の証明まで多様である。ユーザは広く理・工・農・経・医に分布している。理学部系が意外に少ないのは、次に述べるように高橋研究室のPC-1が一歩先に動いて、理学部系の人はそちらを愛用したためと思われる。
依頼者と計算者が別であることが面白い。所要番地数(単位は短語)を見ると、よくもまあこれだけのメモリで計算したものかと感心する。成果の発表先は省略した。
項目 |
依頼者 |
計算種別 |
計算者 |
所要番地数 |
使用時間 |
固体内の励起子 |
|
定積分 |
三村博 |
|
|
光学系におけるskew ray |
日置隆一 |
函数計算 |
中澤喜三郎 |
|
|
クーロン場における正負電荷対の束縛状態 |
|
変分 |
井口道生 勝浦寛治 三村博 |
850 |
|
放射線照射した高分子の固有粘度の変動 |
|
函数計算 |
井口道生 勝浦寛治 |
|
|
放射線照射した高分子の固有粘度 |
|
定積分 |
勝浦寛治 |
1000 |
|
眼鏡レンズの非点収差とコマの計算 |
久保田広 松居吉哉 |
|
雨宮綾夫 |
|
|
水晶の振動 |
古賀逸策 |
超越方程式の根 |
森口繁一 |
910 |
35 |
開水路乱流の統計 |
|
統計計算 Fourier変換 |
日野幹雄 |
1000 |
60 |
数値解析 |
|
常微分方程式 |
松谷泰行 |
150 |
20 |
軸対称流の澱み点 |
|
常微分方程式 |
吉沢能政 |
150 |
40 |
地磁気ダイナモ |
|
常微分方程式 |
行武毅 |
650 |
15 |
開水路の分流 |
|
連立方程式の根 |
緒形博之 |
550 |
8 |
産業連関分析 |
中村隆英 |
逆行列 |
森口繁一 |
450 |
7 |
アーチダムの振動 |
|
行列の固有値 |
清水留三郎 |
500 |
10 |
構造物の伝達函数 |
|
Fourier解析 |
伯野元彦 |
200 |
25 |
LKによる証明 |
|
命題の証明 |
岩村聯、他 |
1024 |
5 |
丸い数 |
清水達雄 |
整数論的計算 |
森口繁一 |
365 |
20 |
産業連関分析 |
竹内啓 |
行列の固有値 |
清水留三郎 |
500 |
10 |
数値解析 |
|
常微分方程式の固有値 |
井上謙蔵 |
550 |
16 |
結晶中の転位 |
|
函数計算 |
池田泰明 |
800 |
20 |
気体電子回折 |
|
Fourier変換 |
飯島孝夫 |
600 |
5 |
電力系統の負荷分析 |
|
連立一次方程式 |
豊田淳一 |
700 |
50 |
パタンのフーリエ解析 |
|
Fourier変換 |
山口楠雄 |
600 |
13 |
熱中性子利用率 |
|
モンテカルロ法 |
安成弘 |
890 |
7 |
鉛片によるγ線の散乱 |
石井威望 |
モンテカルロ法 |
清水留三郎 |
1024 |
30 |
捩振動の固有振動数 |
|
行列の固有値 |
三浦宏文 |
220 |
2 |
数値解析 |
|
線型計画法 |
大橋明 |
300 |
10 |
2次元パネルフラッタ |
|
代数方程式の根 |
小林繁夫 |
280 |
12 |
診断 |
高橋晄正 |
行列の固有値 |
清水留三郎 |
1024 |
5 |
分布の推定 |
|
モンテカルロ法 |
吉村功 |
600 |
10 |
KCIの伝導帯 |
|
定積分 |
大山精一 |
980 |
20 |
神経のモデル |
南雲仁一 |
偏微分方程式 |
大橋明 |
500 |
10 |
アーチダムの振動解析 |
|
|
伯野元彦 |
1020 |
|
2) 九州大学(KT-1)
九州大学は我が国初の日・英・独3カ国語相互実験翻訳のため、間接翻訳方式の言語処理用計算機として翻訳実験用計算機 KT-1を開発した。論理設計は主に九州大学が行い、製作は三菱電機が行った。主記憶には10万ビットの高速磁気ドラムを使用し、論理回路にはトランジスタによるダイナミックフリップフロップ方式を採用した。国立科学博物館は、2013年、第6回重要科学技術史資料に登録した。情報処理学会情報処理技術遺産に認定されている。
3) 科研費「数理科学総合研究」
1959年4月に、京都大学数理解析研究所(1963年設立)設立の準備段階として、弥永昌吉を代表とする科学研究費「数理科学総合研究」(4年間)がはじまったが、第IV班「計算機のプログラミング」の分担代表者は山内二郎であった。この班のメンバーには、大泉充郎(東北大)、高橋秀俊(東大)、森口繁一(東大)、喜安善市(通研)、宇野利雄(日大)、黒田成勝(名大)、城憲三(阪大)、清水辰次郎(阪府大)、柴垣和三雄(九大)など、そうそうたるメンバーがそろっている。この班で、計算機でやってほしい問題の提供を求める会合が数回開催されたが、1959年6月の第1回会合で、黒田成勝は定理の証明を提案した。これは日本における記号処理研究の出発点と言われる。
この班の成果を発表するために、1960年からプログラミングシンポジウムが開催される。
山内二郎、森口繁一、一松信共編『電子計算機のための数値計算法I~III』(培風館、数理科学シリーズ、1965年)も、この総合研究の成果の一つである。
東京大学では、工学部のTACとともに、理学部のPC-1が学内外に公開され、驚くほど広い分野に活用された。日本の各社はトランジスタ式計算機を続々開発する。速度を要求されるところでは、まだパッチボードが使われているところがおもしろい。
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