世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


11月 30, 2020

新HPCの歩み(第21回)-1960年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

 

通産省は、IBMと国産メーカーとの特許契約を後押しする一方、「電算機国産化5カ年計画」を策定した。国際学会連合IFIPの設立に合わせて、日本でも情報処理学会が設立された。京都大学(KDC-I)、東京大学(PC-2)など、大学と企業とによるコンピュータの共同開発が進められた。

社会の動き

1960年(昭和35年)の社会の動きとしては、1/1カメルーンがフランスから独立、1/9アスワン・ハイ・ダムの建設始まる、1/16岸首相渡米阻止のため、羽田空港に全学連500人が座り込み、1/19岸首相、ワシントンで日米新安保条約などに調印、1/20 John F. Kennedyがアメリカ大統領選に出馬表明、1/24民主社会党結成大会、1/25三池炭鉱で全山ロックアウト、2/1ノースカロライナ州Greensboroでシット・イン、2/7東京23区の電話局番が3桁に、2/13フランスがサハラ砂漠で初の原爆実験、2/18カリフォルニア州Squaw Valleyで冬季オリンピック開幕(28日まで)、2/23浩宮誕生、3/30映画「ベン・ハー」が日本公開、天覧上映(一般公開は4/1から)、4/12日産がセドリックを発売、4/19韓国で李承晩打倒を叫ぶ市民が決起、4/23麒麟麦酒が缶ビールを発売、4/27韓国の李承晩大統領辞任、4/30ソニーが世界初のトランジスタテレビを発売、5/1 U-2撃墜事件、5/3池田大作が創価学会第3代会長に就任、5/10松本清張『日本の黒い霧』単行本発行、5/16雅樹ちゃん誘拐事件発生、5/20安保条約、衆院で強行採決、5/22チリ地震発生(M9.5)、翌々日、日本にも津波が到着し被害、5/28グアムから元日本兵2名(皆川文蔵さんと伊藤正さん)が帰国、6/1国鉄列車の座席が3等級から2等級へ、6/8苫米地事件(7条解散の是非)、最高裁判決、6/10ホワイトハウス報道官James Hagertyが、羽田で安保反対派のデモに取り囲まれ、ヘリコプターで救出、6/15安保改定阻止で全学連が国会に突入、樺美智子死亡、6/19新安保条約が自然成立、6/23安保条約批准書交換、7/14後継首相に池田勇人が指名された直後、岸首相が暴漢の襲撃により重傷を負う、7/15岸内閣総辞職、7/17雅樹ちゃん事件、容疑者逮捕、7/19池田内閣成立、7/27 OECD創設、8/19ソ連が2頭の犬を乗せた宇宙船を打ち上げ、22日回収、8/25ローマ夏季オリンピック(9/11まで)、アベベがマラソンで優勝、9/10日本でカラーテレビ本放送開始、9/14 OPEC結成、10/12浅沼稲次郎暗殺事件、10/24衆議院解散(安保解散)、11/8アメリカ大統領選挙、John F. Kennedyが僅差で当選確実、11/11南ベトナム、軍事クーデター未遂事件、11/20衆院選挙、民社大敗、11/29ラジオ東京が、東京放送(TBS)に社名変更、12/2石原裕次郎と北原三枝が結婚、12/16アメリカの国内線旅客機2機がNew York上空で衝突、12/20南ベトナム解放民族戦線結成、12/20道路交通法施行、12/27池田首相、所得倍増計画を発表、など。

話題語・流行語としては、「家つき、カーつき、ババア抜き」「三種の神器」「声なき声」「寛容と忍耐」「私は嘘は申しません」「所得倍増」「黒い霧」など。

ノーベル物理学賞受賞は、泡箱の発明に対しDonald Glaser (UCB)に授与された。化学賞は、炭素14による年代測定法に対しWillard Frank Libbyに授与された。生理学・医学賞は、後天的免疫寛容の発見に対し、Frank Macfarlane BurnetとPeter Medawarに授与された。

チリ地震津波のとき、筆者は栄光学園高等学校の2年生であったが、当時の校舎が横須賀の長浦湾に面しており、旧日本海軍の岸壁まで数十メートルであった。休み時間のたびに海面を見にいったが、上昇するとほぼ上面すれすれになり、潮が引くと見たこともない海底が現れた。海面は何度も上下した。

日本政府関係の動き

1) IBMとの特許契約
1960年11月、日本電気、日立製作所、富士通信機製造、沖電気工業、東京芝浦電気、三菱電機、松下電器産業、北辰電機製作所がIBMとの間で基本特許契約の仮調印を済ませ、同年12月20日の外資審議会にて、IBMと日本IBMの間の技術提携契約とあわせて認可された。契約内容は、IBMは国産メーカーに対して、現在および将来にわたって特許の使用を許諾し、料率はシステムやマシン本体は5%、構成部品は1%で、契約期間は5年とされた。最終的に横川電機製作所、島津製作所、芝電気、シャープ、谷村新興製作所、東京電機音響などもIBMとの間で契約を結んだ。

通産省はコンピュータ産業育成のための組織の設立、法整備に注力していたが、商用化を目指した国産メーカーにとって、コンピュータに関する基本特許は必ず抵触する部分で、IBMの持つ「電子的装置に関する改良」特許(1948)等の使用許可を得ることなく、日本のメーカーが日本の国内外でコンピュータを製造したり、これを販売したりすることはできなかった。監督官庁の通産省が間に入り、1956年からIBMとのクロス交渉が行われた。激しい交渉の末、1960年10月末にIBM側の提案をすべて飲むことで、IBMの持つ基本特許の国産メーカーに対する使用許諾を認めさせた。背景には、1950年に活動を再開した日本IBM社の本国送金問題があった。当時、外為法では国外の送金が原則禁止されていたが、日本側は、外資法の特例として日本IBMの海外送金を認めることを交換条件にして、基本特許契約を結んだ。

2) 通産省
通産省は、前項に合わせて、1960年10月17日、「電子計算機国産化5カ年計画」を策定した。1960 年 7 月から輸入自由化品目を拡大していた通商産業省は、いずれは電子工業製品の自由化も避けて通れないと予想していた。10 月に「電子計算機国産化5カ年計画」を掲げ、「電子計算機の開発はわが国電子工業振興のための鍵となるものであり、したがってその国産化は焦眉の急務と考えられる」とし、コンピュータ生産を5年後に5倍にするという目標を掲げた。とはいうものの、米国との技術格差は大きかった。

3) 電気試験所(ETL Mark V)
電気試験所(その後の電総研、産総研)は、ETL Mark IVの成果に基づき十進浮動小数方式のトランジスタ計算機として1958年にETL Mark Vを計画していたが、1960年5月に完成した。製作は日立製作所。クロックは230 kHz、記憶装置は磁気ドラムで4000語であった。日立製作所はこれをもとにHITAC 102として製品化した。また、設計に参加した慶応義塾大学工学部(小金井)の北川節と都築東吾は、大学の研究室でトランジスタ式計算機K-1(別名KCC)を開発した(別項参照)。

4) 航空技術研究所(B205)
航空技術研究所NAL (National Aerospace Laboratory of Japan)は、1960年、大型遷音速風洞のデータ処理のため、Burroughs社の本格的真空管コンピュータB205を導入した。1963年からは航空宇宙技術研究所(NAL)。

日本の大学センター等

1) 京都大学(KDC-I)

 
   

1958年からETL Mark Vをベースに日立製作所と共同開発していた(ゲルマニウム)トランジスタ式の京都大学ディジタル万能型電子計算機第1号KDC-I (Kyoto-Daigaku Digital Computer 1)は、1959年12月から製造を開始し、1960年3月に工場での検収を完了した。4月には工学部1号館地下の電源室と2階の電子計算機室の附帯工事を開始し、7月には完成した。8月には、電子計算機本体と入出力装置を搬入し、組み立て調整を開始した。9月に第1期工事が完了し、第1期受入検査を実施した。10月には磁気テープ記憶装置と磁気テープ制御装置を搬入し調整を行った。写真はKDC-Iの論理パッケージ(情報処理学会コンピュータ博物館)。

1960年10月21日に完成披露を行い、翌22日には一般公開した。12月27日には磁気テープを含む全システムの調整が完了し、28日、第2期受入検査を実施した。学内サービス開始は1961年4月である。

KDC-I論理パッケージは、情報処理学会から2015年度情報処理技術遺産に認定された。『オーラルヒストリー 矢島脩三インタビュー』情報処理Vol. 57, No. 7 (July 2016) 参照。

2) 九州大学(MELCOM 2200)
1960年頃、工学部で「計数装置委員会」設置した。1960年3月、MELCOM 2200設置。

3) 日本大学(FACOM 128B)
1960年、理工学部にリレー計算機FACOM 128Bを設置した。現在、富士通沼津工場に動態保存されているFACOM 128Bは15年間の使用後、日本大学から移設したものである。

4) 東京理科大学(FACOM 201)
1960年7月、パラメトロン計算機FACOM 201を設置した。

日本の学界

1) 情報処理学会の設立
1959年6月ユネスコがパリで開催した国際情報処理会議ICIPが成功だったので、これを今後定期的に開催したいという参加者の希望を実現するため、1960年1月にIFIPS(International Federation of Information Processing Societies情報処理国際学会連合)が発足した。わが国もこれに加盟することにしたが、当時この分野を代表する学会がなかったので、山下英男、和田弘などが有志を募り、3月1日に発起人会を開催し、1960年4月22日に情報処理学会を設立した。初代会長は山下英男。1963年5月24日には社団法人となった。当初は、「情報」からはスパイ活動、「処理」からは汚物処理を連想するので「計算機学会」の方がよいという反対意見が多くみられた。和田弘は、「それなら、電気学会といわずに発電機学会というのか」と反論した。

2) 慶応義塾大学(K-1)
慶応義塾大学では、1958年からトランジスタ計算機K-1(KCCとも呼はれる)の開発を進めていたが、1960年6月稼働を開始した。翌1961年、工学部(小金井)内に計算センターが設けられ、K-1が設置された。

 
   

同大学では、1958年に創立100周年記念事業の一環として、トランジスタを用いた十進法計算機Keio Mark I (K-1)の開発を企画した。KCC (Keio Centennial Computer)ともよばれる。K-1の開発設計のため、工学部計測工学科教員北川節と、大学院生都築東吾が電気試験所に派遣され、ETL Mark IVをベースに開発中のトランジスタ計算機ETL Mark Vの設計に参加し、論理設計の実習を行った。その後、北川らは大学に戻り、ETL Mark IVをモデルに、科学技術計算に適するよう、語長を6桁から12桁に増やし浮動小数演算機能を追加するなど仕様変更を行った。コンピュータ博物館には、「Mark Vの設計をもとに」とあり、また高橋茂の「ETL Mark IV」(『日本のコンピュータの歴史』情報処理学会歴史特別委員会1985、オーム社)にも同様な記述があるが、実際にはMark IVがベースのようである。設計は1958年に着手し、11月には研究室の学生5名も加わって組み立て配線を開始し、1960年6月に稼働を開始した。(山田昭彦『黎明期に慶応義塾大学が開発した全トランジスタ式計算機K-1について』HEE-19-016参照。)情報処理学会の情報技術遺産では1959年6月に稼働と書かれているが、山田昭彦によると、これは完成の時期のようである。写真を見るととても手作りとは思えない外観である。どこかの企業に製造を依頼したのかもしれない。電気試験所のMark IVと外観が一部似ているところもある。

K-1の記憶装置は記憶容量1200語(1語12桁)の高速磁気ドラムを使用しているが、Mark IVとは異なり完全トランジスタ化した。また、稼働後に語選択方式の高速磁気コア1000語が増設された。主要部品はトランジスタ900本、ダイオード11500本である。

特記すべきことは、1961年春、工学部(小金井キャンパス)内に計算センターが設けられ、K-1が学内で共同利用されたことである。手作りのコンピュータを共同利用した例としては、東大理のPC-1、東大工のTACがあり、企業と共同開発したマシンとしては、東北大のSENAC-1や京大のKDC-Iや東大のPC-2などがある。

K-1は長く行方不明となっていたが、2018年に横河電機金沢事業所に保管されていることがわかり、7月に慶応義塾大学に返却された。2018年度情報処理学会情報処理技術遺産に認定された。

3) パラメトロン計算機
このころまで、日本では産官学を挙げてパラメトロン計算機の開発を進めていた。1960年に完成したものを示す。資料は、Wikipedia「パラメトロン」、「日本のコンピュータの歴史」(情報処理学会歴史特別委員会編)オーム社1985年、情報処理学会コンピュータ博物館など。[]は納入先(『情報処理』1961年5月号)。

日本電信電話公社(電気通信研究所)

1960

MUSASINO-1B

MUSASINO-1と同じアーキテクチャで、眼鏡型パラメトロンを使用。富士通信機製造と共同開発

東京大学(高橋研究室)

1960/8

PC-2

励振6 MHz、動作60 kHz、48bit浮動小数、13000個のパラメトロンを使用、8台の磁気テープ装置を駆動、富士通信機製造で製作。

富士通信機製造

1960/3

FACOM 201

MUSASINO-1Bを製品化。[電電公社電気通信研 60/3、東京理科大1960/6]

富士通信機製造

 

FACOM 202

PC-2の商品化。ALGOLIPが使えた。[東大物性研1961/3]

日立製作所

 

HIPAC 101

42bit語、固定小数、メモリは磁気ドラム2048W。[日立中研(1959/3)、日本科学技術研修所(1960/8)、日立本社(1960/9)、日立中研(1960/10)、日本ビジネスコンサルタント(1961/3)]

日本電気

 

NEAC-1103

NEAC-1102に磁気コアメモリを1024~2048W付加、磁気テープやラインプリンタを追加。[防衛庁技研(1960/3)、日本電気多摩川事業所(1960/3)]

光電製作所

1960

KODIC-401

科学計算用。メモリは磁気ドラム。試作実験機。製品は1963年完成のKODIC-402である。

 

 
   

MUSASINO-1Bは情報処理学会2008年度情報処理遺産(写真)に認定された。東京理科大のFACOM 201も2012年度情報処理技術遺産に認定されている。Computer History MuseumにアーカイブされているNEAC-1103のパンフレットによると、十六進数の10から15のうちの5個の数字を、[D, G, H, J, K]と表現するようである。これは憶測であるが、もしタイプライタのキーの配列とすると、10から15を、[D, F, G, H, J, K]と表記したのではないか。当時の標準かどうかは不明。今の表記[A, B, C, D, E, F]とはずいぶん異なる。

上記『日本のコンピュータの歴史』p.120で引用されている浅野摂郎の経験談によれば、氏は物性研のFACOM 202を用いて固体中のバンドエネルギー計算を行ったが、この計算機は当時アメリカの大学で使われていた計算機と比べて同程度の速度であり、世界一級の計算ができたとのことである。まさに、当時のスーパーコンピュータであった。

4) プログラミングシンポジウム
1959年4月に、京都大学数理解析研究所(1963年設立)設立の準備段階として、弥永昌吉を代表とする科学研究費「数理科学総合研究」がはじまったことは以前に述べたが、その第IV班「計算機のプログラミング」(分担代表者山内二郎)主催のシンポジウムとして「プログラミングシンポジウム」の第1回が1960年1月10日~12日に大磯ホテルで開催された。参加者54名(大学関係34名、会社関係20名)。初期の講演テーマを見ると、証明問題などとともに数値解析関係の講演も少なくない。その後毎年開催され、1984年からは情報処理学会が主催している。通称「プロシン」。1964年からは若手を中心に夏のシンポジウムも開催されている。

次回は、日本企業でのコンピュータ開発について述べる。各社ともトランジスタ型のコンピュータを開発した。

(画像出展:情報処理学会コンピュータ博物館

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