世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

2月 2, 2021

【わがスパコン人生】第19回 加藤毅彦

島田 佳代子
Takehiko Kato

第19回 加藤毅彦

スパコンとは最高のツールだし、最高の友達

高校生の時に出会った1冊の本がきっかけで、文系から理系へ。そしてアメリカへの留学を決意された加藤毅彦さんにアメリカでのCRAYとの出会い、労働人口が減少し続ける日本における今後の製造業の在り方、教育者そして会社の代表としてこれから必要とされる人材についてなど、お聞きしました。

 

スパコンの7割弱が実は民間利用という事実


―当シリーズは子育て中の方にも多く読んで頂きたいと思っています。どのような幼少期、少年時代を過ごされたか、教えてください。

生まれも育ちも東京の新宿です。といっても、今は高層ビルが建っている辺りには淀橋浄水場があって、その周りでトカゲや蛇を捕まえていましたね。缶蹴りや野球など、外遊びばかりしていました。小学5年生くらいからは剣道に集中していました。

家ではプラモデルが好きだったので、その一環で小学生の頃からラジオ、カメラ、時計、色々と分解しました。ラジオは真空管やゲルマニウムで、やっとトランジスタになった頃かな。二眼レフや一眼レフを分解したときはさすがに親から怒られましたね。全く戻せませんでした。

物を壊すことは簡単だけれど、組み立てるのは凄く大変なんですよ。だから、もしお子さんが物を壊したら、叱るのではなくて、逆にもう一回組み立てるのを手伝ってあげてください。物を分解して、組み立て直すというのはプログラミングと同じですね。他の人が書いたプログラムを最初見ても、なんでこれが動いているんだろうと疑問に思いますが、そこからそのプログラムを分解して組み合わせていくことで問題解決力が付きます。物凄く成長しますよ。

 
   

―中学生、高校生の時に好きだった教科は何ですか?

中学生、高校生の時に好きだったのは現国、日本史、世界史、地理で、完全に文系でした。元々は弁護士を志していました。それが、高校3年生の夏休みに突然、理系へ転向しました。本屋さんでカルマンとビオという有名な先生方の共著「工学における数学的方法」を見たのがきっかけでした。タイトルが美しいと思ったんです。

それまではエンジニアリングというのは、油にまみれて、経験と勘でやると思っていたわけです。ところが、その本には、「全ての工学は数学的に実証できる」と書いてあったんです。その最先端が有限要素法だということが分かり、勉強したいと思いました。ところが、当時の日本ではまだ有限要素法の勉強ができないと知り、最先端の勉強がしたくてアメリカへ留学しました。

―アメリカでの研究のことやCRAY-1との出会いを教えてください。

大学院時代はNASAやアメリカの海軍の研究プロジェクトに参加しました。当時はUNIVACのコンピュータ用に動いているものを、大学のコンピュータセンターの大型汎用コンピュータであるAMDAHLやIBM用に書き換えて計算していましたが、非線形の有限要素解析だったため結果が出るのに1週間ほどかかりました。それでは研究が進まないので、研究室で当時最新のVAX11を導入し、占有して5日ほどになりましたが、それでも研究が進みません。

そんな時に教授が、「CRAY-1を使わないか?」と言ってくれて、電話回線経由で使ってみたらコンパイラエラーで全然計算ができませんでした。完全64ビットだったためメモリ領域の配置の修正に手間がかかりましたが、ある時テストのためにコンパイルして実行し、隣の部屋でコーヒーを飲んで戻ったら、もう計算が終わっていたんですよ。またエラーかと思ったら、答えが最後まで出ていました。それがCRAY-1の凄さでしたね。

他のものとは桁が違いました。特に当時は大柄汎用コンピュータでも実際のメモリが小さくて、ディスクにメモリ空間を拡張した仮想記憶でした。CRAYではそれが全部実メモリに入ってしまうから、数百倍速かったのですね。そこからどんどん論文が進むようになり、有限要素法にはスパコンが必要と確信しました。

―CRAYへ入社された経緯はどういったものだったのでしょうか?

CRAYを使って勉強して、CRAYに憧れて、CRAYのアメリカのユーザー会に参加するうちに、みんなと仲良くなってCRAYに入社することになりました。CRAYに入って最初の仕事が有限要素法の実質スタンダードであるMSC NASTRANを速くすることでした。今、私がいる会社の製品ですよね。計算時間がかかるサブルーチンを抽出し、それを高速化するということを繰り返していました。それを自動車メーカー用や航空機メーカー用のデータで実行してベンチマークをやっていました。

CRAYは世界中で売れていたのに、日本では最初2台が売れた後、全く売れない時代が続きました。1980年初頭かな。CRAYのコンピュータは圧倒的に小型で美しかったんですよ。大きなコンピュータは信号伝達距離も長くなり、実行性能は上がらないというSeymour Crayの哲学を信じ、これを日本で広めたいという気持ちもあり、日本のオペレーションに参加することになりました。

―実際に日本のオペレーションに参加されてどうでしたか?

84、85年頃までは非常に苦労しました。日本には富士通、日立、NECという大きな会社があり、さらにIBMがあって、当時はまだUNIVACも強い時代です。CRAYはまだ世界でも数千人のベンチャーでしたから、そんな会社にいいコンピュータが作れるのか、そう考える人が日本には特に多かったんですね。まずはそれを変えることが必要でした。

80年代後半には日本の自動車メーカーのほとんどがCRAYを導入して、NASTRANで当時としては大規模な強度解析、固有値解析を始めました。いかにコストを上げずに性能や品質、強度を上げるかということをやったわけです。しかし一度大きな問題が起こったことがあります。私が担当したベンチマークの結果に比べ、CRAY導入時にある自動車メーカーに納入されたNASTRANの性能が非常に劣っていたのです。

MSC社により提供されたNASTRANのモジュールがCRAY用の高速化版ではなく普通のモジュールだと判明するまでは、まさに針のムシロ状態でした。その時に担当されていた自動車メーカーの方々とは今も懇意にしていますが、いまだにその時のことでは’騙されたと思った”と突っ込まれます。

同じ価格帯で比較すると、日本の自動車は世界で一番静かです。品質も一番良い。それは明らかにスパコンを駆使した成果だと思います。CRAYも世界的に製造業向けのビジネスが大きかったんですが、当時としては極めて大規模な衝突や固有値のシミュレーションを日本の産業界が率先して活用したこともあり、スパコンの産業利用という視点では、日本の企業が世界で一番うまくCRAYを活用していたといえます。

―CRAYと他のスパコンとの違いは何でしょうか?

なぜCRAYが民間企業で強かったかということが大事です。他のスパコンは俗にベクトル長と言いますが、ループの繰り返しが多い場合は速くなるけれど、少ないときは汎用コンピュータと大して変わらないという特徴がありました。それに対してCRAYは凄く短いベクトル長で速くなります。これは構造解析に向いているんですよね。だから、機械学会で先生方が書いた構造解析のプログラムを流してみても、理論性能は2倍も、3倍も速いはずの日本のスパコンよりも、CRAYが圧倒的に速いことに驚かれていました。構造の違いや、日本のスパコンは流体解析には強いけれど、構造系、有限要素法には向いていないことを説明しました。

流体解析系が速いコンピュータは構造解析系が弱いけれど、構造系が速いコンピュータは流体系も速くなるんですよ。今でも民間で使っている構造解析が速くなるようなコンピュータを作ってくれればと思うのですが、オピニオンリーダーが流体系の先生方が多いので、どうしても流体系が速いコンピュータになってしまうんですね。

スパコンというのは、大学官公庁向けの分野もありますが、実は6割、7割以上は民間の利用です。企業では多くの技術者がほぼ同時にスパコンを使って問題解決をするのが通常の利用法です。自動車メーカー、電機メーカー、それに半導体の解析もそうですね。その場合には、いかに早くすべての利用者の問題を処理するかが、一つの問題を早く処理するよりも重要です。その面からもCRAYの多重プロセッサは現在の並列コンピュータの先鞭をつけたものと言えます。そういった事情もあり、日本のスパコンは、民間では自社グループ外ではあまり広がらなかったようです。

 

転換期にある日本の製造業


―人手不足が深刻化する中、日本の製造業にはどのようなことが必要でしょうか?

 
   

今、日本の製造業が少し傾いていますが、かつて強かったのは、他の国と比べてもシミュレーションをしっかりやってきたことがあると思います。自動車産業や半導体業界が強かったのはスパコンがだいぶ貢献していますよね。あとは材料や、化学メーカーもそうですね。民間でのスパコンを使用したシミュレーションがいかに日本にとって役に立ったか。それを伝える義務は皆にあると思います。それと同時に、昔と同じパターンで物を設計して、シミュレーションするということを変えなければいけない時代が来ていますね。

日本はこれから人口が減っていきます。今でも国民一人当たりの生産性は高い方ではありません。先進国では最下位に近いのです。しかし、悲観的になる必要はありません。私が子供の頃の日本が非常に貧しかったのに比べ、今でも世界3位の経済大国を維持しているわけですからね。

戦後、貧しかった日本がなぜここまで来れたかというと、やはり1950年代後半から60年代にかけて、日本とドイツが世界に先駆けて製造業のオートメーション化を進めたことがあります。戦争で亡くなった方が多く、労働人口が少ないうえに、ほぼすべての工場が破壊されていたため一気に進めることができたわけです。国内に被害のなかったアメリカも戦前からのプロセスを大幅に置き換えました。イギリスは労働組合が強く、オートメーションにより労働者の仕事がなくなってしまうと反対しオートメーション化が進みませんでした、それが英国病の原因の一つだと思います。

それが分かっているから、人口が減って労働人口が減って、働き方改革があって、そんなに働けませんという中で日本はどうなっていくかと考えてみましょう。例えばアメリカ海軍は航空母艦に3Dプリンタを乗せて、戦闘機の補修部品もそこで作ってしまおうとしています。NASAも今後、例えば人を乗せた宇宙船が火星や木星へ行くときに、部品を積んでいくのではなくて、3Dプリンタで部品が作れるように準備しています。そこで作れるものを部品として採用するわけです。そのような流れに大きなヒントが隠されています。

IoTとかDXといっていますが、日本は少し遅れてしまっていますよね。DXって一体何をやればいいのか、結構皆さん苦労されているようです。産業構造をどう変えるか、もしくは製造のプロセス、設計、生産技術、生産、生産したあとの検査、その後の運用、これらをどうデジタル化していくか、どう自動化していくか。AIを絡めてどう自律化するか。人が介在しなくても物が設計できて、生産ができて、検査ができて、その間に問題が起これば、フィードバックして、設計を変更して、次の製品では絶対にその問題が起こらないようにする。それを自動的にシステムが繰り返していく。そういう時代が来るわけですよね。今がキャッチアップする最後のチャンスだと思いますよ。

―会社の代表として、また個人としてこれからしてみたいことを教えてください。

私は個人の目標と会社の目標がほぼ同じ人間ですが、製造業がもう一度大きな進歩をして、我々の子供や孫の時代の日本が、すごく良い国になるように応援したいですね。なぜかというと、我々がそうやって楽しんでこれたから。だから、それを今の若い人たちにも味わって欲しいです。

実験や計測の結果はバラつき、通常シミュレーションの結果はバラつきません。しかし、実際の計測結果とは答えが違うことがあります。これは実際の部品や製品では材料、加工方法、接合方法、境界条件、拘束条件など多くの不確定要因があり、それを設計やシミュレーションに十分に反映できないことが多々あるからです。今までは設計と生産は十分にリンクされず、その差を匠とか擦り合わせとして現場力で埋めてきたわけです。

では、これからどうするかというと、計測した結果のバラつきをきちんと見て、それがなぜそうなっているかを分析して、シミュレーションでも同じようなバラつきが起こるようにして、その両方の差を最小化します。つまり、シミュレーションと計測がほぼ一致するように、設計と生産技術、生産、計測、運用保守、それらを全て繋げていく。そこにAIを活用するわけですね。そうすると生産性も上がるし、品質も上がります。これがDigital Twinであり、製造業のDXとなるわけです。

その時には技術者の仕事の一つはPCやタブレット、スマホの画面を見てプロセスの進捗を確認し問題発生時にボタンを押すことになるでしょう。あとは全部システムがやってくれる。これからは昔とは違って、特に多品種少量生産になっていきます。そうすると、毎回人間が設計を行なうのでは間に合いません。従来の少品種多量生産の設計、生産システムが通用しない時代になります。だからシステムが自動的に設計変更をし、性能、品質、コストが確認され、すぐに3Dプリンタ等で生産されて顧客に出荷される。そういう時代になりますね。

―従来の方法では通用しなくなるんですね。大きく変わりますね。

じつはこの技術と自動運転の技術は一緒なんですよ。自動運転はGoogleとかTeslaが路上で走って、事故も起こしていますよね。それはなぜだか分かりますか?

路上で走っていても、想定した事故には、ほとんど遭遇しません。今のペースですべての状況を認識して安全な完全自動運転化には400年もかかるという説もあるくらいです。ではどうするかというと、過去の色々な事故の流れを全部シミュレーションでシナリオにして、それをAIに教えてあげます。そうすると、どんどん、どんどん賢くなっていきます。路上の運転でわざわざ新しい事故を待つことにより学習する必要はありません。天気が悪い日、霧の日、雨や雪の日、路上が滑りやすい日、そういうことが歴史上ずっとあるわけで、それをシナリオにして、シミュレーションをし、AIに強制的に学習させればいいわけですし、世界の交通状況を把握し、そのシナリオを毎日増やし技術者とAIが対応策を検討すればいいわけです。

製造業でも過去に色々な問題が起こってきました。設計と生産が違う。これも実はシナリオ化できるわけですよ。そのシナリオをAIに入れてあげて、より多くのシナリオがカバーできれば、どんどん製品の品質と性能が上がっていきます。

初めから色々なシナリオを作っておいて、それを反映させていくだけです。もし、新しい課題が出てきたら、新しいシナリオを作って入れる。全てをゼロから設計する必要はないんですよね、そういう時代が来ます。だから、AIが非常に重要になってきます。

技術者の仕事はシステムでは想定されていない、より広い範囲での可能性と解決案を追求しシナリオ化し、そのシナリオの実現性を実証していくような業務になっていくかもしれません。

MSCは世界最大手の測定機メーカーであるHexagonの傘下に入り、日本の製造業に関する部門は私が担当する形になりました。それは、シミュレーションしたものと、計測したものをきちんと比較、検討して、設計や製作にフィードバックするシステム構築をしたいという両社の思惑が一致した結果です。一貫性を持たせ、シミュレーションと計測、生産技術、生産、運用保守の全てが連携するシステムを作るのが、我々の仕事です。

 
   

―スパコンと出会って良かったですか、また今後のスパコンに期待することを教えてください。

もちろん、良かったですよ。出会っていなかったから、私の人生は全く違ったものになっていましたよね。産業界の問題解決とか経営とは、かけ離れた世界でいまだに有限要素法の理論をやっていたかもしれません。スパコンとは最高のツールだし、最高の友達かな。自分が扱っているスパコンはいい相棒だと思っていましたね。可愛くてしょうがなかった、CRAYではみんなでスパコンを擬人化していました。

だから、顧客先のスパコンを見せてもらって、ペタペタ触って「よく頑張ってるな」とつぶやいたり、お客様からの成果を発表していただくと、そのスパコンを「よくやったな!」と誇らしく思ったりしていました。特に1990年代後半に私が担当した最後のCRAYのスパコンであるT90シリーズが日本の民間企業に数多く導入され、ある顧客から”パンドラの箱が開いてしまった”とのコメントをいただいたときには、スパコンビジネスのやりがいを心から実感しました。

今後のスパコンに期待することは、普通のプログラムをきちんと理解して、そのコンピュータで全性能を導き出せるようなコンパイラ技術ですね。コンパイラが未だに昔と変わらないんですよ。人間がプログラムを書き直して、速くなった、遅くなったと。これは私が昔NASTRANでやった時と変わっていません。普通にプログラムを書いてコンパイルしても、今のスパコンは普通のパソコンと変わらないんですよ。なぜその部分をもっとAI化しないのでしょうね。

私がCRAY-1を使ったときは、自分で普通にプログラムを書くだけで自作のパソコン、当時チップは8ビットのZ80だったかな、に比べて10万倍速いんですよ。今、そういう感激を味わえる人はいないですよね。だから、色々なチューニングパターンとか、マシンにあったコーディングパターンをきちんとAIに入れておいて、プログラムを入れたら、全部解釈して、そのコンピュータの性能をフルに発揮できるようなコードをHPCに出せるようにして欲しいですね。もちろん、そのためにはコンピュータのアーキテクチャの検討もさらに必要だと思います。プロセッサやメモリの数の勝負だけではなく、質の面でも先進性の面でも普通のコンピュータとは大きく違いを出せるのが本当のスパコンだと信じていますから。

―教育者として、また会社の代表として、これから必要とされる人材とは?また、この業界を目指す人たちへのメッセージをお願いします。

二つのソウゾウリョク、すなわちCreativity(創造力)とImagination(想像力)を持った人ですね。アメリカで航空宇宙工学科にいたときに、ほとんどの学生がスタートレックのファンだったんですよ。ほぼ全員ですよ。つまり、自分たちの中に、未来はどうあるべきかというイメージがあって、それを実現したいと思って、入ってくるわけですよね。

未来の人類はこうなる、22世紀、23世紀はこんな世界がくるに違いないと楽観的に確信していました。最近のSFは悲観的なものが多いですが、スタートレックの素晴らしさは他の星の生物も一緒になった、明るい夢のある人類の未来ですね。

我々は教育もそうだし、企業としてもそうだけれど、夢のある未来を築くために今、何をすべきか。到達点はどこにあるのか。そして、その到達点を越えたら、再び何をすべきかということをずっと自問自答しなければいけないと思うんです。だから、二つのソウゾウリョクが非常に大事になるでしょう。

悲観的な姿勢だと何も進みません。私もずっと楽天的にやってきました。CRAYに入社した時も、日本で全然売れていないときも、絶対日本で売れるに違いないと信じていましたからね。自分たちの未来を信じて、その未来を実現する為に勉強して、研究して仕事をする。これからも明るい未来を信じて進んでいきましょう。

 

Takehiko Kato

加藤毅彦氏 略歴

東京新宿生まれ
1982年 ペンシルバニア州立大学大学院卒業
1983年 Cray Research Inc. MSC Nastranの高速化に従事
1987年から1991年 東京大学原子力工学科講師
1989年 日本クレイ(株) マーケティング部長/社長補佐
1995年 日本クレイ(株) マーケティング担当取締役
1996年 日本シリコングラフィクス・クレイ(株)取締役マーケティング本部長
1998年 米国Engineous Software Inc. 副社長
エンジニアス・ジャパン(株)代表取締役社長
2010年 米国MSC Software Inc. 上席副社長
エムエスシーソフトウェア(株) 代表取締役社長
2020年 Hexagon Manufacturing Intelligence 上席副社長
Hexagon Manufacturing Intelligence Japan 代表取締役社長
(エムエスシーソフトウェア(株)代表取締役兼務)
日本機械学会フェロー、日本工学アカデミー会員