世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


3月 15, 2021

新HPCの歩み(第35回)-1965年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

Gordon Mooreはこの年、半導体の集積度は1年で倍になると予言したが、10年後には2年で倍と修正した。ベクトル処理(演算パイプライン)を最初に論文発表したのはIBM社のSenzig and Smithであった。同社は1969年に商用の外付けベクトル演算器を売り出す。日本学術会議は、全国8カ所に大型計算機を設置し、ネットワークで接続せよと勧告した。

社会の動き

1965年(昭和40年)の社会の動きとしては、1/3ザ・ベンチャーズ2度目の来日(1/10まで)、1/11東京で日本初のスモッグ警報、1/13佐藤首相訪米、2/7米軍がベトナムの北爆を開始、2/11原水協分裂、原水禁結成、2/21マルコムXが暗殺される、2/22夕張鉱山でガス爆発、3/2映画“Sound of Music”米国で公開(日本は6/19)、3/6山陽特殊製鋼倒産、3/8米海兵隊南ベトナムのダナンに上陸、3/10富士山気象レーダー観測開始、3/14「イリオモテヤマネコ」命名、3/18ソ連のレオーノフ宇宙飛行士、人類初の宇宙遊泳、3/28チリで大地震(M7.4)、3/31淀橋浄水場廃止、4/1戦後初の国産旅客機YS-11日本国内航空で就航、4/24「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」結成、5/9こどもの国開園、6/12東海道新幹線で列車公衆電話サービス開始、6/12家永三郎東京教育大学教授が教科書検定は違憲として提訴、6/22日韓基本条約調印、7/1名神高速道路全線開通、7/4吉展ちゃん事件犯人逮捕、翌日遺体発見、8/3松代群発地震始まる(1970/6/5終息宣言)、8/9シンガポール独立、8/13池田隼人死去、8/19佐藤首相、沖縄訪問、8/26トンキン湾事件発端、9/4アルベルト・シュヴァイツァー死去、9/13パリ国際博事務局、1970年万国博の大阪開催を決定、9/18池谷と関が彗星発見、9/30インドネシアでクーデター未遂、10/5マリアナで静岡県漁船の集団遭難、10/21朝永振一郎、Julian Schwinger、Richard P. Feynmanの3名のノーベル物理学賞受賞が発表される、11/1ひかりが東京・新大阪間を3時間10分で営業運転、11/8深夜番組『11PM』放送開始(1990/3/30まで)、11/9マルコスがフィリピン大統領に当選、11/9北アメリカ大停電、12/8第二バチカン公会議閉会、12/19第三京浜道路全線開通、など。余談だが、筆者は25年後の1990年8月、独立25周年記念に沸き立つシンガポールにたまたま滞在していた。建国の父であるリー・クアンユー初代首相は2015年3月23日91歳で死去した。

流行語・話題語としては、「期待される人間像」「しごき」「スモッグ」など。

朝永振一郎らのノーベル物理学賞の受賞理由は、「量子電磁力学の分野における基礎研究と、素粒子物理学についての深遠な帰結」であった。化学賞は、有機合成化学に対する顕著な貢献に対してRobert Burns Woodwardに授与された。生理学・医学賞は、酵素およびウイルス合成の遺伝的制御に関する発見に対し、François Jacob、André Michel Lwoff、Jacques Monodの3名に授与された。

筆者は4年生となり、1965年冬学期の卒業研究で西川哲治研究室(高エネルギー実験)を希望し配属された。大学院で理論を専攻予定の人は、卒研ではできるだけ実験の研究室に行けという指導があった。西川研究室では、先輩の下でstreamer chamber開発のお手伝いをした。荷電粒子が通る時、ピーク1 MVで幅10 ns程度の高圧パルスを掛け、イオンを加速して軌跡を光らせるものである。高圧発生のためにMarx Generator(1924年、Erwin Otto Marxが提案)を用いた。これは、一口で言えば、多数のコンデンサを並列に充電し、直列に放電することにより高電圧を発生する回路である。1966年春の物理学会で先輩が「Wide Gap Spark Chamber I (速い高電圧パルス発生回路)」という題で発表したが、卒研生2名の名前も入れてくださったので、筆者の最初の学術発表ということになった。当時、物理学科には卒業論文も卒論発表もなかった。

高圧パルスの回路も面白かったが、毎週開かれる研究室のお茶の時間には欠かさず参加した。このときの人脈は、後に高エネルギー物理学研究所に赴任した時、非常に役に立った。卒研の終わりに、「今からでも遅くないから、(大学院で)うちの研究室に来ないか」と誘われたが、手先が不器用な筆者としては、誘われたという勲章だけで十分であった。もし実験家になっていたら、どれだけ機械を壊していたかわからない。

日本政府関係の動き

1) 日本学術会議(科学研究計画第1次5カ年計画)
1965年10月、日本学術会議は第44回総会において科学研究計画第1次5カ年計画を政府に勧告した。勧告の詳細な内容は、北川敏男編「情報科学講座A・1・2 情報科学の動向I ――欧米の計算機科学・日本の情報科学計画――」(共立出版、1967年8月20日)にも収録されている。勧告は、前文、総括的勧告、本計画説明、科学研究計画第1次5か年計画総括表、付帯勧告からなりたっている。

大型計算機設置の第1次5か年計画としては、全国を4地区に分け、以下のように大型機を配置することとなっている。

第1地区――北日本

北海道:大型機、東北:大型機

第2地区――関東および中部地方の一部

大型機(既設)、超大型機

第3地区――中京、北陸、近畿および中国、四国の一部

中京:大型機、京都:大型機、大阪:大型機

第4地区――西日本、中国、四国の一部および九州

中国:大型機、九州:大型機

全国計

超大型機1、大型機7、ほかに既設1

 

ここでいう大型機とは、東大に設置準備中のHITAC 5020程度で、主記憶65KWの主機と8KWの衛星機よりなる主組織、およびそれに釣り合う周辺装置よりなるシステムであり、超大型機とは主記憶131KWの主機に、8KWの衛星機を接続したものを中心とする主組織で、大型機を副組織として加えたものとしている。上記の4地区分けはその後聞かないが、第4地区の中国地方を別にすれば、1969年からの7大学大型計算機センター体制にほぼ対応している。

計算機とともにデータ伝送計画も提唱され、地区内伝送網としては、地区内の各大学などそれぞれ大型機、準大型機センターに結ぶ伝送網を設け、地区間伝送網としては、各超大型機、大型機、準大型機センターをつなぐデータ伝送網を設けることとしている。この時点でネットワークまで構想していたことは先駆的である。あわせて、特殊分野のためのデータ伝送網も書かれている。米国では、4年後の1969年にARPANETが始まっているが、日本の大学間で計算機ネットワークが運用されたのは1975年7月に東大と京都大がN-1で接続されたのが最初である。

2) 電気試験所(ETL Mark VI)
1965年3月、電気試験所(後の電総研)は、ETL Mark VI計算機(トランジスタ方式)を完成させた。これは、超大型コンピュータのため1959年ごろから研究していたものである。高速記憶装置へのエサキ・ダイオードの採用、高速磁心記憶装置、先行制御、ページアドレス方式、高速演算回路など、野心的なマシンであったが、少し変形したものがHITAC 5020に使用された他、国内のメーカーに技術移転が行われることはなかった。電気試験所での一連のコンピュータ開発はこれが最後となった。

日本の大学センター

1) 東京大学(共同利用体制)
東京大学大型計算機センターは全国から使われるので、共同利用の原則が重要になる。運営方式小委員会(委員長高橋秀俊)でまとめ、1964年11月30日に大型計算機設置準備員会で若干訂正されたものを、12月7日の日本学術会議長期研究計画調査委員会計算機小委員会の報告し了承を得た。また、11月に文部省助成課長から、東大が共同利用施設計算センターを引き受けるかどうか口頭で問い合わせがあった。

1964年11月、大型計算機設置準備委員会は広報教育小委員会を設けた。

1965年2月、東京大学評議会は、東京大学大型計算機センター規則および同運営委員会規則を承認した。大型計算機センター規則の制定理由にはこう述べられている。全学の賛同を得るためか、学問の全分野で役立つことが強調されている。

「近年、学問諸分野の発展に伴い、自然科学分野のみならず、人文社会科学分野においても大型計算機を利用して能率的に学問の実を上げることができるようになった。このたび本学でもその利用体制を整備するとともに、これを全国の研究者の便に供する目的をもって全国共同利用の大型センターを置くものである。」

1965年3月、東京大学総長が6大学に関係地区の協議会の世話を依頼した。大型計算機世設置準備委員長からは次のような書面が送られている。

「今般東京大学に全国共同利用を目的とした大型計算機センターが設置されることとなりました。日本学術会議 長期計画調査委員会計算機小委員会では、各地区利用者の便宜を計ると共に、上記センターの運営を円滑にするため、各地区に地区協議会を置くことが適当であるとの結論に達した旨連絡を受けました。同小委員会よりの依頼もあり当委員会としてもこの趣旨に沿って準備を進めたいと存じますので貴地区において地区協議会の設置につき気大学のご尽力をお願いいたします」

地区協議会は、法的な裏付けもなく、まだ予算もなかった。1965年に10月に開催された七大学事務局長会議や七大学経理部長会議で、事務的な詰めが行われたようである。各大学に連絡所を置き、そこでとりまとめて大型計算機センターに送るというようなシステムも、この時に作られたものと思う。準備委員会広報1号の地区協議会区分図によると、第1地区は北海道、第2地区は東北6県、第3地区には関東一都六県と新潟、長野、静岡が含まれ、第4地区には愛知、岐阜、三重が含まれ、第5地区には京都、滋賀、福井、石川、富山、鳥取、島根が含まれ、第6地区には大阪、奈良、和歌山、兵庫、岡山、四国4県が含まれ、第7地区には九州の他、山口、広島が含まれていた。ちぐはぐな感じもするが、7地区に区分するとこうなるのであろう。なお当時沖縄はまだアメリカの統治下にあった。

利用者から計算費を取るかどうかについては、運営方式小委員会で検討していたが、1964年7月11日の委員会では、サービスを期待する以上は使用料金を取るべきで、コマーシャルベースの10%程度、私立大学、公立大学等、国費によらないものについては30%増にするという案が出された。問題となったのは、もともと大型計算機センターは光熱水料等の運転経費の予算が最初からつけられているので、本来無料にすべだという議論である。それに料金を徴取するための事務量がかかる。また、料金は歳入として大蔵省に入るため、入った料金を大型計算機の運用に充てることができるとは限らない、という問題もあった。

この料金の問題は、1965年4月のセンター発足時にも解決されておらず、6月26日の「東京大学大型計算機センター利用に関する原則」においても、「穿孔料金計算料金は依頼者および計算の種類によって区別せず、一律とする。」となっていたが、「ただし、この大型計算機が、国費によって運営されているという事情から、国費以外の利用に対しては30%以下の割増料金をとることもあり得る。」と書かれていた。これに対しては私立大学から強硬な撤回要求が寄せられた。

一方、設置した計算機の能力が想定より高かったため、光熱水料やラインプリンタ用紙等の消耗品が予算では賄えないことが明らかになった。このため、運転費の不足分を利用者の教官当り積算校費でまかなうことが検討され、国立学校の教官(当時)が利用した場合には、当該教官の所属の大学の校費を大型計算機センターに移算し、センターの経費に充てることになった。異なる国立大学の間で行うには、文部省の協力が必要であった。

1966年4月からの正式運転では、国立大学に所属する利用者に対しては負担金(計算時間1分100円、出力LPは1ページ4円、出力カードは1円)を課すことになった。これは本来の「料金」ではないので、「負担金」と呼ぶ。逆に、公私立大学や国立研究機関の利用者は課金されなかったため、無料で利用できた(そんな一時期があったとは知らなかった)。これはあまりに不公平ということで、国立学校関係以外には同額の料金を課し、支払われた料金は一般の歳入として処理されることとなった。科研費も同様である。歳入として入金された分は、大蔵省に入り、センターが使うことができない(翌年の予算配分で考慮するという話もあったような気がするが、期待薄であろう)。後のことであるが、科研費による利用が増えると、このことが問題になった。

1982年ごろ、総務庁の行政監察において、利用料金を省令化すべきとの指摘があり、2年かけて跳ね返した。もしこれが通れば、国立学校からの負担金も国庫に入ってセンターが使えないことになるところであった。

3月末、4月からの運営委員会の発足を前に、大型計算機設置準備委員会は解散した。

2) 東京大学(センター設置)
1965年4月、東京大学に全国共同利用施設として大型計算機センターが発足した。翌年1966年4月5日付の文部省令第22号による国立大学設置法施行規則の一部改正により法制化された。発足に伴い、大型計算機設置準備委員会は解消した。建物(現在の旧館)が竣工したのは5月で、それまでは理学部1号館の計算センター(1962年5月設立の学内センター)の地下(前田英次郎助手の研究室)に間借りをしていたそうである。1965年4月、第1回運営委員会が開かれた。初代の運営委員(1965/4/1~1967/3/31)は以下の通り。助教授の方が何人かおられる。

学内委員

大型計算機センター長

教授

高橋秀俊(委員長)

教養学部

教授

小野周

経済学部

助教授

宮下藤太郎

理学部

教授

小谷正雄(1966/3/31まで)

理学部

教授

森野米三

理学部

助教授

後藤英一

工学部

教授

森口繁一

工学部

教授

渡辺茂

工学部

助教授

元岡達

地震研究所

教授

佐藤泰夫

宇宙航空研究所

教授

穂坂衛

本部

事務局長

鶴田酒造雄/藤吉日出男

学外委員

北海道大学理学部

教授

田中一

東北大学電気通信研究所

教授

大泉充郎

名古屋大学工学部

教授

有住徹弥

京都大学工学部

教授

清野武

大阪大学工学部

教授

城憲三

大阪大学基礎工学部

教授

高木修二

九州大学理学部

教授

北川敏男

学習院大学理学部

助教授

米田信夫

明治大学工学部

教授

後藤以紀

立教大学理学部

助教授

一松信

理化学研究所

研究員

桜井敏雄

 

東京大学大型計算機センター広報2号(1965年5月)で高橋秀俊センター長は、悲壮な覚悟を語っている。

「HITAC 5020はオリジナルな設計による純然たる国産機であるが、その点で外国の大メーカーの機械とくらべて、ソフトウェアの面で大きいハンディキャップを背負っていることは認めざるを得ない。しかしこのことは、機種を決定した瞬間からすべての人が覚悟をした筈のことであり、…… 単なる利用者から見ればいろいろ歯がゆいことが起こると思うが、このような努力が結局日本の計算機技術のプラスであったと思う時が将来あることを期待したい。」

(陰の声:「高橋先生、その日はちゃんと来ました。安らかにお眠りください。」)

 
   

7月と9月にHITAC 5020 (16 KW)とHITAC 5020 (32 KW)が設置された。ちなみにHITAC 5020では 1 W=32 bitsである。正式稼働は1966年1月。HITAC 5020 (16 KW)は1966年11月にHITAC 5020E (65 KW)にアップグレードされた。

3) 東京大学(指導員講習会)
6月から8月にかけて、プログラム指導員講習会が5回開催された。各回は月曜から木曜か金曜まで、朝から晩まで行われた。プログラムは大略以下の通り。HARPは日立が開発したFORTRAN IV準拠のプログラミング言語である。8月中旬に、森口繁一著『FORTRAN IV入門――HARP 5020に即して――』が東大出版会から発行された。写真は、その改訂版である『JIS FORTRAN入門-HARP 5020に即して-』の下巻である。筆者が1969年購入。

 

9:00

10:30

12:00

 

13:00

14

15

16:30

挨拶

HARP5020説明書について

 

演習

例題解説

Softwareについて

 

演習

見学

 

 

モニターについて

 

演習

初心者教育について

指導要領について

 

研究懇談会

 

受講者は各回10名程度とし、受講後、各地区において初心者講習会の講師となり、またその後の指導に当たる人を対象とする、とされている。つまり、指導員の指導員を育てる計画であった(広報第2号)。実際には計65名が受講した。

 
  出典:東京大学大型計算機センター10年のあゆみ
   

4) 東京大学(システム稼働)
副システムの稼働は7月で、モニターIの下で連続ジョブの処理ができた、とパンフレットの年表に書かれている。モニターとは、初期のOSのことであり、バッチジョブを管理した。モニターIは入出力と内部処理との並行処理は出来ておらず、完全に逐次処理であった。またFORTRAN(HARP 5020)はともかく、ユーザ用のアセンブリ言語HISAPはとても公開できるものではなかった、と当時のセンター長高橋秀俊教授は書いている。というのは、日立社内のシステム開発のためにはSYSSAPという別の言語を用いていたからであった。

1965年9月、主計算機システムの設定が完了し、稼働に入った。モニターIに課金の機能が組み込まれ、使用実績が自動的に記録されるようになった。10月11日からは、一般利用者の試用受付を開始した。広報第3号によると「連絡所を経由した利用に限る」となっている。また10月には、入出力の同時処理を行うモニターIIが稼働した。これは磁気テープを入出力のバッファとして使用し、カードからテープ、テープからラインプリンタのコピーを演算と並行して(マルチプログラミングで)実行できるようになった。磁気ドラムでなく磁気テープであったようで、手作業も大変だったのではないか。下の機器構成にあるように、入出力専用機が用意されていて、12月からは、モニターIIIによる主機と入出力機の同時運転が始まった。10月30日には開所披露が行われた(写真は『東京大学大型機センター10年のあゆみ』より。多くの有名人が写っているようであるが判別は困難)。

主システム

主機

HITAC 5020

65536W

入出力機

HITAC 5020

8192W

副システム

 

HITAC 5020

32768W

 

東京大学大型計算機センターの1965年度予算の中には、IBM 7090の10時間分の予算が含まれており、早急に計算結果を求めることが学術上必要であり、なおそのプログラムをHITAC 5020用に書き換えて公開する予定のあるものに限り申請することができた。前述のUNICONもまだ続いていた。

5) 京都大学(HITAC 5020)
1960年に導入されたKDC-Iに続いて、1965年、HITAC 5020(1号機)がKDC-IIとして導入された。東大より前であった。7月稼働。大型計算機センター設置は1969年。

6) 横浜国立大学
1965年9月、横浜国立大学において電子計算機室発足、翌年NEAC-2230稼働。

7) 富山大学
1985年2月、前年12月に竣工した計算センターの建物に、OKITAC 5090 Cを設置し、3月、富山大学計算センターを設置した。

8) 滋賀大学
 1965年4月滋賀大学は経済学部計算センターを整備。詳細は不明。

9) 広島大学
1962年4月に理学部内に設置された電子計算機室が、1965年4月13日、学内共同利用施設として発足した

10)山口大学(FACOM 231)
1965年3月、山口大学は工学部電子計算機室にFACOM 231導入、学内共同利用。

11) 鹿児島大学
1965年、電子計算室が発足した。翌年OKITAC 5090を導入した。

12) 東京大学原子核研究所
パラメトロン計算機INS-1には、磁気ドラム2台(4096語×2、1語=40ビット)が設置された。また、核研の手で、INS Symbolic Assemblerや各種ライブラリを開発した。

次回では、富士通信機製造株式会社が科学技術計算用およびリアルタイム処理を目的としたFACOM 270シリーズを発表する。日立製作所は東大にHITAC 5020を2台設置する。日本電気はワン・マシン・コンセプトのNEACシリーズ2200を発表する。

 

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