世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


3月 29, 2021

新HPCの歩み(第37回)-1966年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

IBM社のSystem/360のショックは大きかった。通産省は1966年、大型プロジェクト「超高性能電子計算機プロジェクト」を発足させ、System/360に対抗できるコンピュータの開発を計った。日本の各社は論理素子にICを用いた汎用コンピュータを続々開発した。

社会の動き

1966年(昭和41年)の日本は飛行機事故の一年であった。社会の動きとしては、1/11三沢市の大火、1/15「常磐ハワイアンセンター」オープン(現在の「スパリゾートハワイアンズ」)、1/17米軍機が水爆を搭載したままスペイン沖に墜落、1/18早稲田大学、全学スト、1/19インド首相にインディラ・ガンジーを選出、2/3ソ連の探査機ルナ9号月面軟着陸、2/4全日空機が東京湾に墜落、3/4カナダ太平洋航空機が羽田で着陸に失敗して爆発炎上、3/5 BOAC航空機が富士山上空で空中分解、3/31日本の人口が1億を突破、4/1日本で尺貫法完全禁止、4/7千葉大チフス事件、容疑者逮捕、5/15『笑点』放送開始、5/16中国で文化大革命始まる(五一六通知伝達)、5/21国立京都国際会館開館、6/22三里塚闘争始まる、6/25建国記念の日、敬老の日、体育の日が新たに祝日に制定、6/29ビートルズ来日、6/30いわゆる袴田事件、7/4新東京空港を成田に建設することを閣議決定、7/26ライシャワー駐日アメリカ大使辞任、8/5田中彰治逮捕、「黒い霧事件」、8/5毛沢東が「司令部を砲撃せよ」と題した大字報を発表、8/20新清水トンネル貫通、9/25台風26号御前崎付近に上陸、10/16「ベトナムに平和を!市民連合」に名称変更、10/11荒船運輸大臣、急行停車問題で辞任、11/1東京に国立劇場開場、11/13全日空機が松山沖で墜落、12/27衆院、黒い霧解散、など。この年は丙午(ひのえうま)にあたった。

流行語・話題語としては、「一つくらい、いいじゃないか」、「クロヨン」、「こまっちゃうな」、「新三種の神器(3C)」、「全共闘」など。

最初である1966年のチューリング賞は、(ALGOL言語開発における)高度なコンピュータプログラミング技法とコンパイラ構築の分野への貢献に対してAlan Jay Perlis(Carnegie Institute of Technology)に授与された。Perlisは1952年、Project Whirlwindに参加している。このころどうだったかは未確認であるが、最近の報道などによると、実際には当該年の翌年の2月か3月ごろ発表され、授賞式は6月頃らしい。

ノーベル物理学賞は光ポンピング法の発見に対しAlfred Kastlerに授与された。化学賞は、分子軌道法による化学結合および分子の電子構造に関する研究に対し、Robert Sanderson Mullikenに授与された。生理学・医学賞は、腫瘍ウイルスの発見に対してFrancis Peyton Rousに、前立腺がんのホルモン療法に関する発見に対してCharles Brenton Hugginsに授与された。

筆者は1966年4月、東京大学大学院理学系研究科物理学専門課程(当時は専攻といわず専門課程とよんだ)の修士課程に進学した。素粒子論研究室の宮澤研究室に所属したが、指導教官の宮澤弘成先生は、1年間アメリカのChicago大学に長期出張してしまったので、中村誠太郎先生の研究室で素粒子論の勉強を始めた。中村先生は、戦時中に湯川秀樹先生が東大を兼務しておられたころ湯川先生の助手として来られた方である。その後も大変お世話になった。

日本政府関係の動き

1) 通産省大型プロジェクト
通産省電子工業審議会は、1966年3月、「電子計算機工業の国際競争力強化のための施策」を答申した。通産省はこれを受けて、4月、「大型工業技術研究開発制度」(通称大型プロジェクト)を新設した。この制度は、補助金のように開発費の一部を補助するのではなく、技術院が自ら開発を行う一方、一部をメーカーに委託するものである。

最初の3プロジェクトの一つとして、コンピュータ関係では、1966年4月、大型プロジェクト「超高性能電子計算機プロジェクト」を発足させ、System/360に対抗できるコンピュータの開発を計った。通産省として最初のコンピュータ関連の大型プロジェクトであった。5年間に101億円が投入された。工業技術院電気試験所の指導の下、日立が全体を統括し、日本電気、富士通、東芝、三菱電機、沖電気の5社が集積回路や周辺装置の開発を担当した。プロジェクトは1972年まで続いた。このプロジェクトでは、仮想記憶(ページング方式)、キャッシュ、共有メモリ型マルチプロセッサ(4プロセッサ)、パイプライン処理などが開発された。1972年8月に試作機が完成し、成果はHITAC 8800/8700 (1972)として製品化された。(高橋茂『通産省と日本のコンピュータメーカ』参照)

2) 日本ソフトウェア
前項の大型プロジェクトの一環として、1966年10月1日、日立・日本電気・富士通信機の3社が均等出資し、日本興業銀行も加わって日本ソフトウェアを設立した。通産省としては、3社間で互換性のある共通化したOSを開発することを期待したが、実用になるものは出来ず、1972年12月に解散した。解散後、技術者二十数名が集まり、日本アルゴリズム株式会社を創立した。

3) 電信電話公社(DIPS-0)
通信回線と情報処理装置を直結し、データ伝送をおこなうデータ通信サービスが、1966年5月に、当時の郵政省から公衆電気通信役務として承認された。また、1967年8月には、情報処理を行うサービスも承認された。電電公社通信研究所では、通信と情報処理の融合を目指す研究を加速し、TSSによる共同利用方式を早期に実現し、ソフトウェアの問題を解決することを狙いとしたDIPS-0計画を企画した。これは、2台のHITAC 8400をマルチプロセッサ構成に改造したものであり、これを用いてTSS共同利用実験を行った。この実験は1968年10月に終了した。 なおDIPSという名称は”Dendenkosha Information Processing System”に由来するらしい。

多彩なデータ通信サービスの全国展開を実現するには、処理能力が高い統一アーキテクチャのコンピュータが必要であるとして、DIPS-1の開発につながる。これとは対照的に、同じころアメリカでは、1968年DARPAが、「統一アーキテクチャ」ではなく、全米にまたがる「多機種のコンピュータ」をつなぐARPAネットワーク計画を作成し提案を公募している。最初のメッセージは1969年10月29日に送られ、これが現在のインターネットの原点となった。電電公社も1974年から異機種間を相互接続するDCNAを開発するが、実用になったのは、DIPSによる「アーキテクチャの統一」の方であった。これだけ研究投資を行いながら、なぜ日本からインターネット的なものが生まれなかったが、考えさせられるものがある。

4) 日本電信電話公社(NTT)(CM-100)
NTTは、1960年に電話料金計算のためのパラメトロン計算機CM-1を開発したが、これをトランジスタ化し、マルチジョブ並列処理方式を適用したCM-100を1965年開発した。1967年頃からは、電話交換業務用DEXと情報処理業務用DIPSが開発されるようになる。

日本の大学センター

1) 東京大学(正式稼働)
東京大学大型計算機センターでは、前年7月と9月に設置したHITAC5020システムが1966年1月、正式稼働したが、3月末までは試用期間で無料であった。1966年4月5日付の文部省令第22号による国立大学設置法施行規則の一部改正により、第20条の2の第2項に「国立大学の教員その他の者に研究のために共用させる施設として別表第7の3のとおり全国共同利用施設を置く」と明記され、別表第7の3に「東京大学大型計算機センター」という欄ができ、法制化された。後の6大学大型計算機センターは1969年の文部省令第18号による。

 
   

利用はバッチ処理によるクローズド処理であった。ユーザは輪ゴムでしばったカードデックを預け、センターの職員がこれをカードリーダに掛ける。計算結果はラインプリンタに出るが、これと対応するカードデックを見つけ出し、両者をひとまとめにして輪ゴムで止める。これをすべて人間が手で行った(写真は1965年のパンフレットから)。結果は棚に置かれ、ユーザが持っていく。これは前述のUNICONの方式に倣ったものであろう。カードリーダをユーザが自分で操作するのは後のHITAC 8800からである。カード出力には印字されないので、ユーザ毎の区切りが見つけにくいが、表紙カード上部のY-X-0ゾーンのさらに上部に穴(Zと呼ばれたと思う)を開け、これが半分カードの外にはみ出すことからデックを上から見て区切りを見つけたとのことである。

料金は当初CPU使用1分が200円だったと思う。ちなみに、「京コンピュータ」の産業個別有償利用の料金は、1ノード時間(秒でも分でもない)が十数円であり、隔世の感がある。1ノードの性能の違いは言わずもがなであるが。

1966年4月からは正式運用となり、前項に述べたように負担金を取るようになった。当初は閑散としていて、「有料では使ってくれないのか」とセンター関係者をやきもきさせたが、ほどなく滞貨の山ができるほどに戻った。

旧計算センターは、「データ処理センター」に名称変更した。1972年5月からは教育用計算機センター。

前述のように、1966年11月には主システムを5020Eにアップグレードした。5020に比べると回路もかなり複雑で、予定通り動くかどうか危ぶまれ、最後まで薄氷を踏む思いであったが、ギリギリ予定の日に稼働できた。ジョブの中身にもよるが、5020より平均6~7倍性能が高く、しばらくは滞貨もなく即日処理の日が続いた。日立は面目を施し、東大側も機種選定に誤りがなかったと胸をなでおろした。もちろん計算性能に応じて需要も増え、あっという間に再び滞貨の山となった。

2) 京都大学
1966年、学内組織として計算センターが設立された。前年導入されたKDC-II (HITAC 5020)との関係は不明。1968年12月にはFACOM 230-60を設置。

3) 九州大学
1967年2月、大型計算機センター設置の内示。1969年1月稼働開始を予定していた。中央計数施設を中心に、大型計算機センター設置の準備を進める。1967年12月、箱崎キャンパスで大型計算機センター建屋の建設が始まる。翌1968年6月2日、工事現場に米軍ファントム偵察機が墜落することになる。

4) 帯広畜産大学(NEAC-1210)
1966年10月帯広畜産大学で電子計算機室発足。NEAC-1210システム稼働。

5) 室蘭工業大学(FACOM 231)
1966年4月、室蘭工業大学に電子計算機室発足、FACOM 231設置。

6) 岩手大学(FACOM-231)
1966年3月岩手大学に電子計算機室設置。FACOM-231によるサービス開始。

7) 山形大学
1966年4月山形大学は米沢地区に計算センター設置。

8) 群馬大学(OKITAC 5090C)
1966年3月、群馬大学工学部に電子計算機室発足、OKITAC 5090C稼働。

9) 信州大学(FACOM 231)
1966年1月、信州大学に電子計算機室発足、FACOM 231稼働。

10) 徳島大学(TOSBAC-3400)
1966年5月徳島大学に電子計算機センター発足、TOSBAC-3400設置。

11) 愛媛大学(HIPAC 103)
1966年3月、愛媛大学に電子計算機室(学内共同利用施設)発足。HIPAC 103導入。

12) 宮崎大学
1966年4月宮崎大学工学部に電子計算機室設置。

13) 東京大学原子核研究所(PDP-8)
1962年1月から稼働しているパラメトロン計算機INS-1は、1966年ごろから配線関係の劣化が出はじめ、稼働時間より修理に消費する時間が多くなった。1966年度予算で、高エネルギー部に1285万円認められ、PDP-8を設置した。

日本の企業の動き

このころ日本の各社は、ICを論理素子とする第3世代コンピュータの開発にしのぎを削った。

1) 三菱電機(MELCOM 3100)
1966年1月、三菱電機は、ファミリー形態を採用したMELCOM 3100シリーズ(18ビット語長、磁気ディスク採用)を発表した。

2) 日立(HITAC 8210)
1966年8月、日立は全面IC採用の中型汎用機HITAC 8210(磁気ディスク採用)発表。また、日立は1966年9月、トランジスタ計算機HITAC 5020を高速化したHITAC 5020E/Fを開発し、1966年11月、東大大型センターの2台の5020の一方を5020Eに更新した。

3) 日本電気(NEAC-2200/500)
1966年10月、日本電気は大型機NEAC-2200/500(全面IC採用)が完成した。初期のNEAC-2200シリーズはHoneywell社が1963年11月に発表したH-200シリーズのノックダウン輸入であったが、モデル500は日本電気独自開発の完全IC化コンピュータであった。発表は1965年5月。大阪大学は1967年9月NEAC-2200 model 200を導入し、1968年1月、日本初の本格的タイムシェリングシステムを構築した。

日本電気府中事業場に保存されているNEACシリーズ2200モデル500論理パッケージは、情報処理学会から2015年度情報処理技術遺産に認定された。

4) 沖ユニバック(OUK 9400)
1966年12月には、沖ユニバックがOUK 9400(全面IC、ディスクOS採用)を完成させた。

アメリカのANSIはこの年FORTRANの米国規格を制定したが、これは後にFORTRAN 66と呼ばれることになる。日本も翌年「電子計算機プログラム用言語FORTRAN」の規格を制定した。

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