世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


7月 12, 2021

新HPCの歩み(第51回)-1974年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

この夏、筆者は初めて海外渡航し、フランス、イギリス、イタリア、オーストリア、ドイツ、スイスを計51日間漫遊した。国際会議に出席するとともに各地の研究所を訪問し、セミナーで講演して回った。ユーレイルパスを使って列車で移動し、研究所関連以外は駅前の案内所でその日の宿を探した。各国語で「安い部屋ありますか?」を覚えた。

社会の動き

1974年(昭和49年)はオイルショックの年である。社会の動きとしては、1/11日本政府、国民生活安定緊急措置法の指定物資として家庭用灯油指定、25日トイレットペーパーを指定、1/15軍艦島の炭鉱閉鎖、1/26サウジアラビアのヤマニ石油相来日、2/4アメリカでPatricia Hearst誘拐事件、2/13ソ連がソルジェニーツィン国外追放、2/21「サザエさん」朝日新聞連載終了、2/21ユリ・ゲラー初来日、3/3パリでトルコ航空機墜落、3/8パリのシャルル・ド・ゴール空港開港、3/12元日本兵の小野田寛郎をルパング島から30年ぶりに救出、4/3韓国の朴大統領が「緊急措置4号」を発布、いわゆる民生学連事件始まる、4/8アメリカ大リーグで、Henry Louis (Hank) AaronがBabe Ruthのホームラン記録を破る、4/11-13春闘第3波統一ストライキ(決戦ゼネスト)、4/15誘拐されたPatricia Hearstが銀行強盗に参加、4/20東京国立博物館でモナ・リザ展開催(6/10まで)、4/22パンアメリカン機がバリ島で墜落、5/4堀江謙一、単身無寄港世界一周、5/9伊豆半島沖地震(M6.9)、5/18インド、初の地下核実験、6/26国土庁設置、6/26映画「エマニエル夫人」フランスで公開(日本は12/21)、7/7七夕豪雨(台風8号と梅雨前線により各地で豪雨)、7/7参院選挙、タレント議員多数誕生、7/13金芝河、大統領緊急措置により死刑判決(翌年2月釈放)、7/15韓国の非常軍法会議が、太刀川、早川両名に懲役20年判決、7/16家永教科書訴訟、第一次訴訟、東京地裁は家永の請求を一部認容、7/24ウォーターゲート事件で米最高裁が録音テープの提出を命じる判決、8/8ニクソン大統領、ウォーターゲート事件の責任を追及され、辞任表明し、翌日フォードが米大統領に昇格、8/15ソウルで朴大統領狙撃、夫人が死亡(文世光事件)、8/15津川雅彦長女誘拐事件、8/28ピアノ騒音殺人事件(日本)、8/29『ベルサイユのばら』宝塚初演、8/30三菱重工爆破事件、9/1台風16号により多摩川堤防決壊(狛江水害)、9/1原子力船「むつ」放射能漏れ事故、9/8フォード大統領、ニクソン前大統領に特赦、9/11イースタン212便シャーロット・ダグラス空港(アメリカ、ノースカロライナ州)に墜落、9/13日本赤軍、ハーグ事件、10/6ラロック証言「米艦船は核兵器を搭載して日本に寄港」、10/9立花隆、文芸春秋に「田中角栄研究」、10/9佐藤栄作にノーベル平和賞授賞発表、10/14長嶋引退「わが巨人軍は永久に不滅です」、10/22単行本『田中角栄研究』立花隆、11/1ディジタルウォッチ「カシオトロン」発売、11/18フォード米大統領訪日(現職米大統領として初)、11/20ルフトハンザ機、ヨハネスブルグ空港で墜落、11/23フォード米大統領、ソ連へ、11/26田中角栄首相辞任、12/1椎名裁定、12/9三木内閣発足、12/17韓国最高裁で文世光死刑判決、20日処刑、12/18三菱石油水島製油所で重油流出事故、12/24近江兄弟社倒産、など。

流行語・話題語は、「狂乱物価」「便乗値上げ」「紅茶きのこ」「諸悪の根源」「晴天の霹靂」「愛国から幸福ゆき」(切符)「電気もちつき機」「ストリーキング」「かもめのジョナサン」「ノストラダムスの大予言」「スプーン曲げ」「腹腹時計」など。

オイルショックであった。高エネルギー研は暖房の重油にも事欠くありさまだった。業者は前年ベースでしか売ってくれないので、前年はあまり人もいず消費が少なかった高エネルギー研は非常に困った。真冬でも午前10時には暖房が消された。またガソリンも不足し、土浦のタクシー運転手が、高エネルギー研まで乗った所員に「早くエネルギーを研究して、俺たちのガス欠を解決してもらわないと」と話していたとか。まさか「加速器はエネルギーを食うだけです」とも言えないし。

チューリング賞は、アルゴリズムの解析やプログラミング言語の設計に対してDonald Ervin Knuth(Stanford大学)に授与された。

ノーベル物理学賞は、電波天文学の開口合成技術に対してSir Martin Ryle、パルサーの発見に対してAntony Hewishに授与された。化学賞は、高分子科学の理論、実験両面にわたる基礎研究に対し、Paul John Floryに受容された。生理学・医学賞は、細胞の構造的機能的組織に関する発見に対し、Albert Claude、Christian de Duve、George Emil Paladeの3名に授与された。また、佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

ヨーロッパ出張

筆者は生まれて初めての海外旅行で、6月28日から8月17日まで51日間ヨーロッパを漫遊した。渡欧の主たる目的はロンドン大学で開かれるICHEP (International Conference on High Energy Physics)(7月2日~8日)に参加することであったが、高エネルギー物理学研究所の上司である川口正昭教授のお勧めにより、会議後にいくつかのヨーロッパの大学や研究所を訪問することにした。当時、国立大学教員が海外に出かける場合、出張でも一般旅券ではあったが、(私用でも)文部大臣の許可が必要であった。この時は研究所の事務の方が文部省に出かけて許可を取り、それを電話で確認した研究所が書類をつくり、筆者はそれをもってその日のうちに水戸の県庁まで行ってパスポートを申請した。

1) Anchorage不時着
当時、ソ連上空は通れないものの北極回りでヨーロッパに行けるようになっていて、その場合アラスカのAnchorageで着陸して給油する。筆者の乗ったAir Franceのボーイング機もAnchorageに着陸した。ところが何時間経っても出発する気配がない。夕日が北の空に斜めに沈み、夕焼けがそのまま朝焼けになって太陽がまた顔を出した。太陽は一瞬地平線に隠れるが、ほとんど白夜であった。

アナウンスによると、エンジンが故障し、部品を(ボーイング社本社のある)シアトルからの便に載せたので、到着して修理するまで出発できないとのことであった。よくも墜落しなかった、と胸をなでおろした。空港では食事が出せないので、乗客を市内のホテルにお連れするというのだが、当然ビザがないので、パスポートを空港に預けて24時間の特別滞在許可を得た。筆者の最初のアメリカ訪問は、ビザなしのアンカレッジであった。ホテルの食事のあと、近くの港まで夜明けの散歩を楽しんだ。空港に帰ってきたが、在外の友人へのお土産であった手荷物の羊羹が引っ掛かった。金属箔で包んであるので金属探知機に反応するし、感じはプラスチック爆弾みたいだ。Japanese cakeとか言ったら、じゃ食べてみろ、と。角をちょっと破って食べ、どうにか通過した。

飛行機はパリのドゴール空港に12時間以上遅れて到着した。実は、フランス滞在中の友人に迎えに来てもらっていたのだが、朝着くはずが夜になり、なんと12時間も待たせてしまった。申し訳ない。

2) ICHEP
ICHEPは2年に1回偶数年に開かれる高エネルギー物理学の主要な国際会議で、アメリカ、ヨーロッパ、ソ連圏を順番に会場としていた。筆者もその後何回か出席している。湯川財団から17万円援助を戴いたが往復の飛行機代に消えてしまった。あとは、各地の研究所から講演謝金や宿泊費などをもらってしのいだ。

フランス滞在中の友人宅に二泊した後Calaisまで車で送ってもらい、イギリスのFolkestone行のフェリーに乗り込んだ。ロダンの彫刻『カレーの市民』を思い起こした。もちろん、ユーロトンネルはまだなかった。同じ船にアメリカ滞在中の日本人の物理学者の知人が何人かいた。アメリカからヨーロッパ行の安い飛行機を探したら、ルクセンブルクについたので、陸路で来たとか。

会場はロンドン大学で、宿舎は学生寮であった。街の真ん中なのでいろいろ出歩いた。

会議の中で、KEKの諏訪茂樹所長らとともに、LBLのPDG (Particle Data Group)の連中と会談した。PDGはRosenfeld教授が作った高エネルギー実験データの収集、評価を行い、推奨値を発表する組織である。ファクトデータの国際的な収集組織としては、原子核物理とともにかなり早かったと思う。Berkeleyは当時、CERNの同種のグループと協力していたが、KEKが発足したこともあり、日本も加わらないか、という相談であった。筆者は、その後、長くこの活動に参加することになった。

3) 研究所訪問
会議後、パリに渡り、後に訪問予定のSaclay研究所の連中と二三日過ごした。ホテルはSaclayの知人に任せてあったのだが、英仏フェリーを含む列車の時刻表の誤植で、待ち合わせがうまくいかず、夜中のパリに放り出されて路頭に迷った。幸い、いくつかホテルの場所を知人から聞いていたので、地下鉄を乗り継いでたどり着いた。しかし最初のホテルは工事中で営業していなかった。次のホテルはカルティエラタンでどうにか泊めてくれることになった。二つ星程度の安宿で、部屋にビデはあってもシャワーはない。フロントのおっさんに、怪しげなフランス語でシャワーを浴びたいといったが通じない。ゴチャゴチャやり取りしているうちに、業を煮やして英語でひとこと“Tomorrow!”。まあ、欧米人は朝浴びるものらしい。

腹が減っていたので、近くのバールでビールを片手に何かを食べていた。夜12時ごろであったが、外で大きな衝撃音がしたと思うと、血相を変えたおっさんが飛び込んできて電話を借り、「事故だ、大きな事故だ」とフランス語で叫んでいた。こちらも心細かったので印象に残っている。

翌日、Saclayの友人と会うことができた。それ以後は、イタリア・トリエステのICTP研究所(International Centre for Theoretical Physics、ユネスコの研究所)、Max Planck研究所(ミュンヘン)、Saclay研究所(パリ郊外)、Retherford研究所(イギリス)などで講演しては謝礼や滞在費をもらう旅芸人であった。

4) トリエステにて
パリ市内のみどりの窓口みたいなところで、イタリアのトリエステまでの簡易寝台couchetteの予約を取ろうとしてつたないフランス語で苦労した。当時は、今とは異なり、そういうところでも英語はほとんど通じなかった。結局、寝台は取れず、指定席で行くことになった。オリエント急行ほど豪華ではないが、それに似たSimplon Expressという長距離列車(最終目的地はIstanbul)であった。朝8時ころに着くので、それから朝食を取ればいい、と思っていた。ところが、例によって例のごとく、列車はどんどん遅れてしまった。リラもない(共通通貨ユーロはずっと後)ので、水も買えない。親切な隣席の人が、ちょっとした食べ物をくださった。

昼頃駅に着くと、土曜日なので両替所が閉まっている。駅員に聞くと「bancaへ行け」というが、銀行だって閉まっている。そこで、予約しておいたはずのホテルにどうにかたどり着いたが、あなたの予約はありません、と。とにかく月曜まで泊めてくれと頼みこんで、多少の両替をしてもらい、街にでた。場末のレストランに行ったが、書いたメニューがなく、おっさんが早口のイタリア語でできるものをまくしたてるのにはまいってしまった。まあ、なにか食い物にはありついた。

後でわかったことだが、研究所は筆者のホテルを変更し、それを日本の筆者に手紙で連絡したようだが、すでに出かけた後であった。

川口教授がTrieste郊外には大きな鍾乳洞(Grotta Gigante)がある、と教えてくれたので、週末にバスで行ってみた。ユーゴスラヴィア国境に近い。今ならスロベニア国境である。案内の少年はイタリア語しかしゃべらなかったが、雄大な洞窟を満喫した。ところが帰る段になって、市内行のバスが来ない。どうも午後はストライキのようである。怪しげなイタリア語で、Dove e la fermata a Trieste? (トリエステ行きのバスの停留所はどこですか)とか叫んでいたら、親切なイタリア人が私を引っ張って別の方向に引っ張って行った。なんと、市内とつながるケーブルカーの駅で、これは動いていた。

トリエステのICTPには2週間(7月13日~27日)滞在した。ICTPは町はずれにあり、バスを1回乗り換える必要があり、それがわかるまで苦労した。最初バスの中で親切なイタリア人が「centro fisicoか、オレに任しとけ」というのだが、一向に着かなかった。いかにもイタリア人らしい。

まあどうにか着いた。研究所の食堂は夕食もやっているので、毎日だいたいそれを利用した。コップ1杯のワインが50円だったか。コカ・コーラより安い。当時、500リラ硬貨(約50円)が払底していて、電話のジュトーネで代用したりしていた。食堂のおばさんが「なんだ500リラ持ってないのか、きのうおつりであげたではないか」「さっき、バスでつかってしまった」「あげた500リラ貨は、使わずにちゃんと持ってこい」なんて、無理な話である。

そのころチェコスロバキアから若手の物理学者が2名滞在していた。若い方がもう一人に、「いったいいつになったらプラハに春がやって来るんだろうか」というと、年長の方が、「明けない夜はない」とか慰めていた。ソ連軍がチェコに侵攻したのは6年前、1968年8月20日であった。私が理解できたので英語で話していたようだ。私に聞かせるためだったのか? その時は、20年も経たないうちに鉄のカーテンが崩壊することなど、想像もつかなかった。

偶然、物理学者の三田一郎氏(当時Rockfeller大学、その後名古屋大学、神奈川大学)と出くわした。三田氏とは1970年末に東大でお会いしていた。トリエステで1週間ほど過ごしたところで、三田氏と、アジア系とみられるアメリカ在住の天体物理学者がやってきた。日本人がなつかしかったが、連れがいたので英語でしゃべっていた。しばらくして、その3人目も日本人であることが分かり、大笑いして、その後は日本語で話した。

三田氏は奥様を連れていて、奥様が筆者に「トリエステの後、どちらにいらっしゃいますか」と聞くので、正直に「パリです」というと、奥様が目を吊り上げて三田氏に向かい、「あなた、パリには大学や研究所はない、って言ったじゃない。嘘ね。」と御不満のご様子。三田氏は、奥様をだまして、パリを避けていたようである。奥様曰く、「パリに行けば、ショッピングもできるし、おいしいものもあるし……」と残念がっていた。まずいことを言ってしまったようだ。まあ、パリに大学や研究所がない、と言われて信じるのもどうかと思うが。

 
   

ある日の夕食後、街の小高い丘をひとりで散歩していたら、山頂のCattedrale di S. Giustoという教会(司教座聖堂、写真)のあたりに行列ができていた。何だかわからずに並び、いくばくかの入場料を払って入った。暗くてよくわからなかったが、会場は隣の古城らしい。入り口には“Il lago dei cigni”という看板が出ていた。イタリア語はわからないが最後の単語ははくちょう座Cygnusに似ている(複数)。そうだ、lagoはlakeだ、つまり「白鳥の湖」のバレー公演であった。ドサ回りのバレー団が来ていたようである。筆者はもちろんいい加減な服装であったが、会場では正装の紳士淑女がしゃなりしゃなりと歩いていた。トリエステ市の一大イベントなのであろう。悪魔が出てきそうな古城の屋上でのバレー「白鳥の湖」はおもしろい趣向であった。

7月20日(土曜日)には、鉄道でVeneziaに行き散策した。何もわからずに駅から歩きだしたが、自分がどこにいるかもわからない。途中の本屋で地図を買った。サンマルコ広場の近くにいたらしい。丸一日歩き回った。

7月23日(火曜日)には、川口教授の紹介で、Padova(Padua)大学のG. Costa教授に会いに行った。

ある日、トリエステ市内の公園を歩いていたら、二人連れのイタリアの若者の一人が近づいてきて、「キニーゼ・オ・ジャポネーゼ?」(中国人か日本人か?)みたいなことを聞いてきた。むっとしたが、「ジャポネーゼ」と怒鳴り返した。そいつはもう一人のところに戻り「俺が勝った」みたいな動きをしていた。二人で、筆者が中国人か日本人か賭けていたらしい。けしからん。以前にそんな話を聞いたことがあったなと思っていたが、調べたら岡倉天心であった。1903年、岡倉が同僚とボストンの街を歩いていたとき、若者に冷やかされた。

“What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?”

そこで岡倉は憤然として、

“We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?

と反撃したとか。さすが岡倉である。

5) イタリア経済
当時イタリアは国家経済が破綻に瀕し、リラが暴落していたが、トリエステの人々はゆったりと生活していた。夕方、海に面した公園で、アドリア海に落ちる夕日を背に、人々がコーヒーやビールをゆったりと飲んでいる様子を見て、これぞイタリア生活と感激した。国家(イタリア)なんてわずか100年の歴史しかないが、都市や、教会や、大学などは千年もの歴史を持っている。国なんてその程度のものという認識であろう。ICTP研究所からの滞在費が出たのはだいぶあとで、前半1週間は持っていったドルで生活していた。そこで余ったリラを、上限を越えてこっそり持ち出したが、国外では二束三文であった。

6) Max Planck Institute
ユーレイルパスを持っているので、夜行列車でアルプス越えをして、Münchenに向かった。週末(7月27日~28日)はオーストリアのInsbruckで観光した。

夜中にVeronaで乗り換えなければならないが、ちょっとうたたねをして、どこを走っているのかわからなくなった。車掌が来たので、英語で“What is the next station?”と尋ねたが英語はわからない様子。そこで、とっさに“proxima fermata?”と叫んだ。Fermataはバスなどの停留所(音楽記号にもあるが)、proximaはapproximationなどから連想したあやしげなイタリア語であった。驚いたことにこれが通じて、列車がどこを走っているか分かった。あとから調べたら、正しいイタリア語はprossimaであった。まあ、当たらずと雖も遠からず、であった。

Münchenには7月29日~1日に研究所のゲストハウスに宿泊した。セミナーで、例の”A Study of Duality of the ππ Scattering Amplitude”という講演を行った(というか、この旅行では唯一の演目で、各地で同じ講演をした)。

当時、論文の図は自分で書くのが普通で、そのためにロットリング社(ドイツ)の器具を持っていた。文字は、ステンシルという文字形に穴のあいた板を使って書く。ローマ字のステンシルは日本でも買えたがギリシャ文字がない。ドイツ製のものがあるという話だったので、ミュンヘンの大きな文具店をめぐって探した。研究所の人が、“Schablonen mit griechischen Buchstaben”(ギリシャ文字のステンシル)と教えてくれたので、何とかの一つ覚えで店を回り、どうにか見つけた。その後コンピュータ描画が普通になってしまい出番がなくなってしまった。

夕方街を歩いていたら、Englischer Gartenの一角にビアガーデンがあったので、座って「半リットル」と(ドイツ語)で注文した。ウェイターがむにゃむにゃ言って分からなかったが、周りの人が英語で「ドイツには1リットルしかないよ」と教えてくれた。もちろん、1リットルのジョッキを注文した。今のドイツなら500でも300でもいろいろあるが、ビアガーデンだったからか。

7) CERN
途中、ドイツのDarmstadtに滞在中の友人の家を訪ねた後、8月3日~10日はGeneve郊外のCERNに滞在した。フランス語地区なので、努めてフランス語を使おうとしたが、通じなかったり、英語で返事が返ってきたり散々であった。当時、日本人の物理学者が5人も滞在しており、楽しく過ごした。最終日の8月10日(土曜日)には、足を延ばしてマッターホルンの麓に行こうとしたが、Interlakenで曇っていたので、あきらめてLuzernに向かった。美しい街であった。

8) Saclay
8月10日の夜行列車でパリに向かった。なかなか着かないので、車掌にフランス語(のつもりで)「列車は何分遅れていますか」と聞いたが、“10 o’clock”と英語で到着時間の答えが返ってきた。残念。パリ郊外のSaclay研究所では3日ほど滞在して、セミナーで例の講演をおこなった。同時に物理屋仲間と、パリを散策した。パリの町中を皆で歩いていた時、仲間の若手のフランス人物理研究者が、ニクソン弾劾の新聞記事が新聞社に張り出されているのを見て、「なんでアメリカ人は大統領に完璧を求めるのだろう。政治家なんて汚いに決まっているのに。」とつぶやいた。さすがフランス人、と感心したのを覚えている。トランプ時代にはどう思っているのであろうか?

日曜日はタダなのでルーブル美術館に行った。モナ・リザが見つからないので、係員に「ジョコンダはどこだ」と聞いたら、「あんたの国じゃないの?」と。そうか、でも実際には次のモスクワに行っていた。

9) Rutherford Laboratory
帰りの飛行機は、到着と同じくパリ発だと思っていたが、reconfirmしたら、なんとロンドン発に変わったという。当時の安切符はこんな状態であった。幸い、イギリスのRutherford研究所(Oxford近郊)の滞在中の稲見武夫氏(東大での同級生)から、そんならうちに来てセミナーをしないかというので、8月14日~16日に訪問することにした。ヒースロー空港まで、タクシーを差し向けるというので安心していたら、見つからない。しょうがないので、場内アナウンスでどうにかタクシー運転手を見つけることができた。運転手は(下町訛りで十分理解できなかったが)、「日本人なんて、どうせ少数だからすぐ分かるとタカをくくっていたら、日本人ばかりだった」と笑っていた。

タクシーは、テームズ川ぞいの研究所の宿舎に着いたが、遅くなって晩飯は終わっていた。しょうがないので、近くを散歩するとパブがあったので、そこに入り込んだ。おっさんに、なにか食べるものあるか、と聞いたら、ボリュームのあるプッディングを出してくれた。茶色の生暖かいビールでそれを流し込んだ。

ここでも同じ講演を行ったが、関連の研究をしている人が何人かいて、有益な議論をすることができた。当時、イギリスもオイルショックで、研究室ではお茶の時間の砂糖が入手難とのことであった。イギリス人にとっては一大事である。

翌日、昼過ぎに日本行の飛行機がでるというので、ロンドン市内の集合場所まで列車と地下鉄で行ったが、地下鉄が途中で止まってしまい、あわててタクシーで駆けつけた。

10) ヒースロー空港にて
最後、ヒースロー空港で日本行きの飛行機にチェックインしようとした時、行列の前の方に日本人の団体がいて手間取っていた。係員と話が通じていないようなので、頭に来て通訳を買って出ると、「この荷物は機内持ち込みか預けるのか?」というだけのことであった。「何の団体ですか」と聞くと、「中高の“英語”の先生の団体です。」と。

11) 新粒子
ロンドンでのICEHPでは公表されなかったが、実は、大発見が進行していた。1974年11月に、 SLACのB. Richterと、BNLのS. Ting(丁肇中)が独立に新粒子J/ψを発見したことが報告され、高エネルギー物理学は急に賑やかになった。その後の新粒子ブームの幕開けであった。この2人は1976年にノーベル賞を受賞した。筆者らも新粒子関連ではいろんな論文を書いた。ただ、高エネルギー研の加速器はこのエネルギー領域には届かず、日本の実験屋は指をくわえて見ているより他なかった。

自分のことばかり書いてしまったが、次回は本題に戻り1974年のHPCの状況をまとめる。富士通のFACOM 230-75が北海道、京都、九州の大型計算機センターに導入された。他方、System/370に対抗する富士通・日立のMシリーズ、日本電気・東芝のACOS、三菱電機・沖電気のCOSMOの開発が進む。

 

left-arrow   new50history-bottom   right-arrow