世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


7月 5, 2021

新HPCの歩み(第50回)-1973年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

ENIACに関する特許はSperry Rand社が継承していたが、これに対しHoneywell社が訴訟を起こし、一部を無効とした。Burroughs社はBSPの設計を開始した。ソヴィエト連邦では、4代目のコンピュータElbrus 1が作られた。

標準化

1) Ethernet
アメリカXerox社のPalo Alto研究所 (PARC) において、1972年頃からRobert Metcalfeを中心にEthernetを開発していたが、1973年5月22日特許として登録した。伝送速度は2.94 Mbpsであった。Xerox社はその後特許を開放してオープンな企画としてIntel社とDEC社を開発に加え、1979年、10 MbpsのDIX仕様を制定する。

性能評価

1) ACM/NBS Workshop 1973
各国政府はコンピュータの大顧客であるが、選定に際しどのように性能を評価すべきかが問題になっていた。商用の評価システムは色々あるが、政府購入にこれを使うことには批判もある。アメリカでは標準化政府機関であるNBS(National Bureau of Standards、現在のNIST)が、1972年7月にコンピュータ性能評価に関する委員会を発足させた。1973年3月にはカリフォルニア州San DiegoにおいてACMとの共催でワークショップ“Computer performance evaluation”を開催し、専門家を集めて詳細な議論を行った。その184ページにわたる報告が1975年にNBS Special Publications 406として公表されている。その15ページ目からのWorkshop Summaryを見ると、「性能測定とは、システム側とユーザ側のインタフェースである」という図が書かれていて、われわれがずっと後に、知らずに同様なことを偉そうな顔をして言っていたことが恥ずかしくなる。

なお、bit誌1973年11月号の山本欣子(日本情報処理開発センター)の記事「コンピュータ・システムの評価(2)」によると、同様な動きがイギリスやフランスなどでもあるとのことである。

国際会議

1) ISSCC 1973
第20回目となるISSCC 1973(1973 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1973年2月14日~16日にペンシルバニア州Philadelphiaで開催された。これまでは大学とホテルで分散して開かれていたが、この年からMarriot Hotelだけで開催した。主催はIEEE Solid-State Circuits Council、IEEE Philadelphia Sections、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はSol Triebwasser (IBM Research)、プログラム委員長はVirgil I. Johannes (Bell Labs)であった。この年はトランジスタ発明の25周年であった。会議録はIEEE Xploreに置かれている。

2) 核研シンポジウム
第1回核研(東京大学原子核研究所)シンポジウムが1973年7月23日~27日に東大理学部の1220号講義室で開かれた。筆者はS事務局長の補佐役を務めたが、日本ではこの分野で久しぶりの国際的な学会なのでいろいろ苦労があった。

アメリカには1960年からJASONという科学者による政府諮問機関があり、30から60人のメンバーでさまざまな問題について科学技術の立場から政府に答申を出していた。現在でも続いているようである。参加者も内容も秘密であったが、当時はベトナム戦争の最中であり、「いかに効率的にベトナム人を殺すか」などということも議論されていると暴露された。招待を予定していたうちの一人のB博士がそれに加わっていることが分かり、国内からこんな人の参加するシンポジウムは止めろ、と強い批判があった。大議論の末、B博士の招待を取り消し、開催にはこぎ着けた。

さらに難問が待ち受けていた。この会には中国が数名の物理学者を送り込んできた。前年1972年9月29日、田中角栄と周恩来が日中共同声明に調印したばかりであり、日本政府はピリピリしていた。まだ四人組の時代である。公安の警護はついたが、会場まで入れるわけにはいかないので、苦労した。万一、右翼でも乱入した場合を考えて、逃げ道や隠れ場所を用意し図上シミュレーションを行った。出席者の一人楊振寧教授(C. N. Yang, City University of New York)は、以前に「尖閣諸島は中国のもの」などと発言していたが、アメリカ国籍なので警察の頭になかった。われわれは楊振寧の方が右翼に狙われるのではないかと思い、屈強の若手物理学者を護衛につけた。彼は面倒がって警護を巻いてしまい、あまり役には立たなかった。また、中国代表団との懇談会を行ったが、その席で日本側が、高エネルギー物理学研究所の場所の決定に苦労した、と述べたところ、中国側が不思議な顔をして、「政府がここに造ると決めればいいじゃないか」と一言。国柄の違いを感じた。台湾からの出席はなかった。多分、招待しても来なかったと思う。中国・台湾の問題は1978年に直面する。

この会議で、我々のグループはA. Ukawa, M. Fukugita and Y. Oyanagi:“A Study of Duality of the ππ Scattering Amplitude”という発表を行いM2の宇川彰が登壇した。当時、この論文はさる外国のレター雑誌(物理ではレター誌の方が、緊急性があるとされ原則的にレベルが高い)に投稿していたが、査読者から文句がついていた。長文の反論の手紙を書いたら、じゃあそれを論文に入れろという。レター誌はページ数制限があり、そんなには入らない。文句を言ったら、査読者から「つべこべ言うと出版が遅れるばかりだぞ」と恫喝の手紙。やむを得ず別の通常雑誌 (Nuclear Physics B) に投稿しなおし、翌年出版された。著者の頭文字をとってUFO論文(?)と言われた。

3) ICPP(第2回)
1973年、第2回目となるSagamore Computer Conference on Parallel Processingがニューヨーク州のSyracuse大学で1973年8月22日~24日に開催された。 ICPP (International Conference on Parallel Processing)と呼ばれるのは1975年からである。

4) National Computer Conference
AFIPS (American Federation of Information Processing Societies)は1961年以来、春には春季合同コンピュータ会議(SJCC, Spring Joint Computer Conference)を、秋には秋季合同コンピュータ会議(FJCC, Fall Joint Computer Conference)を開催してきたが、1973年から統合して年1回のNatonal Computer Conference (NCC、全米コンピュータ会議)となり、1973年6月4日~8日にNew Yorkで開催された。 アメリカの国内会議であるが、海外からの参加者も少なくない。参加した石田晴久(東京大学大型計算機センター)が、bit誌1973年9月号に参加報告を書いている。石田は、「ネットワーク(ARPANETなど)」「マイクロプログラミング」「1チップCPU」「周辺機器(磁気ディスク、フロッピーディスク、音声応答装置など)」「ソフトウェア開発」「コンピュータアート(絵画、映画、音楽)」「データ通信とコンピュータ犯罪」などに興味をもったとのことである。

ソヴィエト連邦の動き

1) Elbrus 1

 
 

Elbrus 1

(出典) Mikhail (Vokabre) Shcherbakov from Moscow, Russia – Moscow Polytechnical Museum, Elbrus, soviet supercomputer, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=63901517

   

ソ連のLebedev Institute of Precision Mechanics and Computer Engineeringは、1973年、ソ連の第4世代コンピュータ(LSI使用)としてElbrus 1を製造した。設計のチーフはアルメニア系のBoris Artashesovich Babayan (またはBabaian、1933/12/20~)であった。タグ付きアーキテクチャを採用し、システム記述言語としてALGOLを用いた。一種のsuperscalarらしい。ちなみにElbrusはコーカサス山脈の最高峰の名前である。Babayanは1987年Lenin賞を受賞している。余談であるが、アルメニア人の姓の語尾は-ianや-yanが多い。作曲家のKhachaturian、小説家のSaroyan、政治家のMikoyan、ロッキード社重役のKotchianなどは、アルメニア人またはアルメニア系である。父称に由来するそうである。

1966年ごろ設計が完了したBESM-6は、1980年代にElbrus 1の開発の副産物としてIC化されElbrus-1K2と呼ばれた。

その他の政府の動き

1) CSIRO (オーストラリア)
オーストラリア政府の研究所CSIRO (The Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation)は、1973年7月13日、CDCのCyber 76を設置した。既存のCDC 3600をフロントエンドとした。Cyber 76の利用法を習得し、CDC 3600で動いているプログラムをどう移植するかについて、ユーザは大変苦労したそうである。Cyber 76はCSIRONETに接続され、国内30か所から利用された。1985年に運用を停止した。

世界の学界

1) roff
Bell研究所のJoseph Frank Ossanna, Jr. は、1973年、Unixのための文書整形システムroffを、PDP-11のアセンブリ言語で開発した。1975年にはC言語で書き直した。

アメリカの企業の動き

アメリカではスーパーコンピュータに向かう動きが次第に見えてきている。

1) Burroughs社(BSP)
ILLIAC IVを担当したもう一つの会社Burroughs社(1886年創業)は、1973年頃から並列コンピュータBSPの設計を開始したと言われている。その背景には、Burroughs社でのICBM迎撃のための専用並列計算機PEPE (Parallel Element Processing Ensemble)の開発があったようである。各社により何タイプかのPEPEが開発された。

2) IBM社(System/370)
IBM社は、1972年8月2日に発表されたSystem/370-158、168に、1973年2月、蜜結合マルチプロセッサを追加した。また、channel-to-channel adapterを付加することにより、他のSystem/360やSystem/370と疎結合システムを構成することができる。

3) CDC社(Cyber 170)
CDC社は1973年、CDC 7600の後継である汎用コンピュータCyber 170シリーズを発表した。7600とは異なり、演算素子にICを使用し、メモリは半導体メモリであった。

4) CDCのIBMに対する訴訟
IBM社がCDC 6600に対抗して、System/360 model 91を発表したが、しばらく出荷しなかったため、CDCが1968年12月、損害賠償を訴えていたが、1973年1月に和解が成立した。IBM社はCDC社に子会社SBC (Service Bureau Corp.)を無償譲渡し、併せて$101Mの賠償を支払うことになった。このSBCは1956年の司法省との和解で、IBM機器のサービスを行うために分離した子会社であった。この件に関する1969年1月の司法省からの訴訟の決着は1982年2月になる。

5) Sperry Rand社(UNIVAC 90)
UNIVAC部門は1973年UNIVAC 90シリーズを発表した。ローエンドとしては90/25、90/30、90/40などがあり、OS/3というオペレーティングシステムで動く。中位機は90/60と90/70である。ハイエンドの90/80は1976年に発表される。90/60以上のシステムは、仮想メモリオペレーティングシステムであるVS/9で動く。90シリーズは、UNIVAC 9000およびRCA社から買い取ったSpectra 70シリーズの後継として位置づけられている。

6) Honeywell対Univac特許紛争
ENIACに関するEckertとMauchlyの特許は1947年に出願され、1964年に成立していた。この特許はUNIVAC部門をもつSperry Rand社が継承していた。これに対しHoneywell社が訴訟を起こし、1973年10月19日Minneapolis連邦地方裁判所は、この特許の一部を無効にした。その理由の一つは、ENIACの開発者の一人のJohn Mauchlyが1941年6月にAtanasoffを訪問し、詳しく語り合ったことがAtanasoff本人の証言から明らかになったことであった。ちなみに、アメリカ合衆国は1952年の米国特許法(35 U.S.C.、Title 35 of the United States Code)成立以来、先願主義ではなく、先に発明した人に特許を与える先発明主義を採用している(2011年まで)。争いになると、どちらが先に発明したかを証明する必要が生じる。2013年からは先願主義に変わった。

もちろん、何年もの実用計算に耐えたENIACの意義が薄れたわけではない。AtanasoffらのABCコンピュータは実用にはならなかったが、優れた要素技術のアイデアを含んでいたということであろう。

企業の創業

1) ESI Group
1973年、Alain de Rouvrayが、Jacques Dubois, Iraj Farhooman and Eberhard Haugらとフランスのパリで創立。製造過程におけるプロトタイプ製作をコンピュータシミュレーションによって代行する(virtual prototyping)を目指した。最初はヨーロッパの国防、航空、原子力工業のコンサルタントを行っていたが、1978年5月にドイツ国内の学会で戦闘機と原子力発電所との衝突シミュレーションのプレゼンを行い、後のPAM-CRASHの開発に連なる。

企業の終焉

1) Interdata社
1966年に創立されたInterdata社は、1973年、Perkin-Elmer社に買収された。

次回は1974年、通産省の補助金により日本の各社は続々メインフレームの新機種を登場させる。一方、CDCはベクトルコンピュータSTAR-100をLLLに納入する。ネットワークでは、IBMがSNAを開発し、これに対抗して電電公社ではDCNAの研究を始める一方、ARPANETではTCP/IPへの動きが始まる。

 

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