新HPCの歩み(第49回)-1973年(a)-
科研費特定研究「広域大量情報の高次処理」が3年間の計画で始まった。日本のその後の情報科学や計算科学技術に大きな影響を与えた。通産省の指導のもと、System/370に対抗して国産各社が進めた努力が実を結びつつあった。 |
社会の動き
1973年(昭和48年)の社会の動きとしては、1/1日本で老人福祉法施行、1/1デンマーク、アイルランド、イギリスがEC(欧州諸共同体)に加盟、1/17マルコス大統領が新憲法発布、1/22米国最高裁Roe vs. Wade判決、1/27ベトナム和平協定締結、2/25大阪ニセ夜間金庫事件、3/13上尾騒乱、3/20小松左京『日本沈没』光文社から刊行、3/29米軍、ベトナム撤退完了、4/4日本の最高裁、尊属殺人重罰規定を違憲と判断、4/4 New YorkのWorld Trade Centerビルがオープン(2001/9/11に破壊)、4/12日本で改正祝日法交付(振替休日を制定)、6/4魚介類PCB汚染発覚、7/17青嵐会結成、7/20日本赤軍らによるパリ発日航機ハイジャック事件、7/20香港のBruce Lee死去、8/8金大中、東京のホテルグランドパレスで拉致(13日ソウルの自宅に出現)、9/7長沼ナイキ基地訴訟で、札幌地裁が自衛隊違憲判決、9/11チリ、クーデター(アジェンデ政権を、ピノチェト将軍の指揮する軍部が武力で転覆)、9/15国鉄でシルバーシートを導入、伊豆箱根鉄道でも、9/18東西ドイツ、国連加盟、10/1筑波大学開学、10/1太陽神戸銀行誕生、10/6第4次中東戦争、オイルショックへ、トイレットペーパーの買いだめなど、10/14タイのバンコックで民主化を要求する40万人のデモ隊が警察・軍と衝突、10/21滋賀銀行9億円詐取事件、10/23江崎玲於奈のノーベル物理学賞受賞発表、11/3 NASAがマリナー10号を水星に向けて打ち上げ、11/25五島勉、『ノストラダムスの大予言』出版(五島は2020年6月16日死去)、11/29熊本市大洋デパート火災、12/14豊川信用金庫事件、12/29映画『日本沈没』公開、など。オイルショックと日本沈没は高度経済成長の終焉を印象づけた。
3年の話題語・流行語としては、「石油ショック」「省エネ」「Small is Beautiful」「せまい日本 そんなに急いでどこへ行く」「順法闘争」「ノストラダムス」「日本沈没」「フレアスカート」「ごきぶりホイホイ」「オセロゲーム」「あんたも好きネ」など。
チューリング賞は、データベース技術への多大なる貢献に対してCharles William Bachman(General Electric社)に授与された。
江崎玲於奈、Ivar Giaever、Brian D. Josephsonの3名は、ジョセフソン効果の理論的予測でノーベル物理学賞を受賞した。化学賞は、サンドイッチ構造を持つ有機金属化合物の研究に対し、Ernst Otto FischerとGeoffrey Wilkinsonの2名に授与された。生理学・医学賞は、個体的および社会的行動様式の組織化と誘発に関する発見に対し、Konrad Lorenz、Karl von Frisch、Nikolaas Tinbergenの3名に授与された。
わたくし事であるが、1973年6月9日に結婚し、9月には「鳥も通わぬ」「陸の孤島」筑波研究学園都市の高エネルギー物理学研究所(KEK)に単身赴任した。今なら東京秋葉原からつくば駅まで「つくばエクスプレス」に乗れば1時間で行けるが、当時は片道半日掛かりであった。5月22日には面接に行き、後述のππ散乱の論文の現象論のプレゼンを行った。面接官には当然実験の方もいて、K教授から「そのππ散乱ってどうやって測定するんですか?」と質問が出た。「one π productionで測定するんです」と答えると、すかさず追加質問、「その(散乱)断面積はどのくらいですかね?」。ここで詰まったら「理論屋も実験のことを知らなければならない」とお説教するつもりだったのであろうが、「2~3ミリバーンでしょう」とハッタリで答えた。当の先生はご存じなかったようで、まわりの人を見まわして「そんなものですかね?」と独り言を言っていた。応募者は何人かいたが、幸い筆者の採用が決まった。高エネルギー物理学研究所理論部の初期の歴史については「素粒子論研究21巻1号(2015)」に収録されている。
高エネルギー物理学研究所は、1971年に田無の東京大学原子核研究所を仮の場所として発足し、1972年から筑波(正確には、茨城県筑波郡大穂町)に移転した。今年(2021年)は50周年である。運命のいたずらで、筆者はその理論部門の初代助手として転任した。紳士協定で任期は5~7年ということであった。当時は珍しかった任期付きの助手を東大とKEKと2回続けて経験したことになる。妻が東大に通っていたので当初は単身赴任した。高エネルギー研は定期バスも通らない陸の孤島であった(正確に言うと少し離れた所を国鉄バス「南筑波線」(Wikipedia参照)がたまに走っていた)。運転免許を持っていなかったので、竹園の宿舎から研究所まではKEK雇い上げのバスで通った。東(ひがし)大通りもまだ片側しか完成せず、しかも砂利道で、共同溝は建設中であった。雇い上げの通勤バスから見ていたら、10月1日朝、宿舎と研究所とのちょうど中間に、筑波大学の看板が上がっていた。学生が来たのは翌年4月であった。
日本政府関係の動き
1) 「広域大量情報の高次処理」
日本のその後の情報科学や計算科学技術に大きな影響を与えた、文部省科学研究費特定研究「広域大量情報の高次処理」が日本学術会議の推薦により1973年から3年間の計画で始まった。これに続き1976年から1979年までの4年間は「学術情報の組織化と情報システムの形成」という特定研究が走る。N-1ネットワークもこの動きの中から生まれた。
2) IBMとの特許契約
日本のコンピュータメーカは、1960年、通産省の仲介により、米IBM社との間で基本特許契約を結んだ。契約期間は5年であった。その後、5年毎に更新したようである。1971年には基本特許使用料の値下げと日本側共有特許の使用とがバーターで取引されたとのことである。1973年9月、国産メーカ各社とIBM社は基本特許契約変更で合意した。内容は不明。
日本の大学センター等
1) 東京大学(HITAC 8700/8800)
HITAC 8700/8800は、1973年1月東京大学大型計算機センターで稼動し、4月から利用開始された。HITAC 8800×2+HITAC 8700×2 の異機種混合マルチプロセッサであった。共有メモリはコアで3 MBである。その後HITAC 8800×3+HITAC 8700×1に増強されたようである。1973年3月、千葉大学に初のリモートステーションが設置された。
バッチジョブとTSSが同一のコマンドで操作できるのはよかったが、TSSとしては必ずしも使いよくはなかった。理由はいろいろあるが、最大の欠点は、ユーザファイルがホームディレクトリの下に階層構造なしにフラットにぶら下がっていたことである。構造らしいものは、ソースプログラムファイルの中のregionだけである。ファイル名をドット”.”で区切ることはできるが、それはファイル名の一部でしかなかった。当然、カレントディレクトリというような概念もなかった。そこで、東京大学大型計算機センターでは、1975年頃、Unix-likeなユーザインタフェースTOOLを自主開発し、ユーザに提供した。これにより、Unix風のトリー構造の(に見える)ファイルシステムが提供された。また、主要なコマンド・パラメタについては、記憶の機能をもたせた。これにより、1975年9月から利用可能になった低速の公衆電話回線からも使いやすくした。
また、OS/7のTSS用のエディタSEDITでは、ソースプログラムを記録するシンボリック・ライブラリ・ファイル(一種のリスト構造であったと思われる)を直接編集していたが、編集を繰り返すと、内部構造がスパゲッティ状態になってしまい、アクセスが遅くなる。TOOLでは、編集の際は作業用のファイルに一旦コピーしてから編集する方式に変えた。コピーすると内部構造がきれいになり、アクセスも速くなる。編集が気に入らなければリセットすることもできる。TOOLは、会話的処理以外はバッチジョブでも使うことができた。
2) 千葉大学(MELCOM 9100/30F)
1973年3月、千葉大学工学部電子計算機室のHIPAC-103を三菱電機MELCOM 9100/30Fに機種更新した。4月には、東京大学大型計算機センターのリモートバッチステーションを開設した。
3) 京都教育大学(OKITAC 4500)
1973年3月、京都教育大学附属教育工学センターにOKITAC 4500システムを導入した。
4) 慶応義塾大学(UNIVAC 106)
1970年に設置された情報科学研究所(全学計算センター)に、1973年、UNIVAC 1106を導入した。同時にカフェテリア方式を採用した。
5) 上智大学
上智大学電子計算機室は、1973年3月、IBM 1130に浮動小数点演算装置(FPS社、FP-02)を設置した。
6) 青山学院大学
1973年3月、電子計算センター(青山、世田谷)を計算センターに改称。
7) 東京大学原子核研究所
原子核研究所では、1971年に導入したTOSBAC-3400/41が、バッチ処理とオンライン実験とで共用されていたが、利用状況は急速に活発となり、処理能力は飽和状態に達した。1971年にディスク1台の増設、1973年12月に磁心32KWの増設と、高速磁気ディスク4台の更新を行って来たが、1974年3月には、モデル41から51へのグレードアップを行った。オンラインの端末機器は、低エネルギー部ではPDP-9およびTOSBAC-40Cであり、高エネルギー部ではTOSBAC-40C×2である。
8) 高エネルギー物理学研究所(HITAC 8700)
高エネルギー物理学研究所には1973年1月からHITAC 8700(メモリ0.5 MB)が設置されていた。まだTSS端末はなく、ユーザファイルもなかった。周辺機器としては9トラックの他に7トラックのオープンリール磁気テープとか、紙テープとかが使われていた。「高エネルギー研では7トラックしか読めない」という誤った情報がアメリカに伝わり、アメリカからKEK-PDG(後述)に大量の7トラックテープのデータが送られてきて変換が大変だった想い出がある。その後1977年2月にHITAC 8800×2に増強。
日本の学界の動き
1) 小林・益川理論
小林誠(当時京都大学)と益川敏英(当時京都大学)は、1973年、Progress of Theoretical Physics誌の論文において、もしクォークが3世代以上存在すれば、CP対称性の破れが説明できる可能性があることを示した。この業績に対し、2008年、両氏は南部陽一郎とともにノーベル物理学賞を受賞した。
2) M. Jacob博士来日
高エネルギー現象論の大家であるCERNのMaurice Jacob博士が日仏文化交流か何かで来日し、日本各地で講演を行った。大学関係はもちろん英語であったが、11月7日の東京の日仏会館(当時は駿河台にあった)での講演は当然フランス語であった。通訳を頼まれた久保寺国晴氏は筆者と同学年で語学堪能であったが、かれの専門は原子核理論で博士とは少し違うので、筆者が少しお手伝いした。博士から講演原稿(もちろんフランス語)をもらい、二人で日本語訳を作成した。私は、フランス語は多少読める程度でほとんどできないので、久保寺氏が通訳をすることになっていた。しかし、なんと直前に大怪我をして出られなくなってしまった。
筆者は「いやだ」と言ったのだが、時間がないので、と日仏会館での通訳を押し付けられてしまった。「講演は(原稿があるので)ともかく、質問はどうするの?」と言ったら、「英語で僕に伝えればよい」とJacob博士が言うので、しぶしぶ引き受けた。ところが、物理屋の常で、原稿の通りに講演するわけがない。私が当惑していると、Jacob博士は、原稿を指さして、「ここだ」というので、その部分の日本語を読み上げた。あとのパーティーで聴衆のだれかに、「Jacob博士の講演と小柳さんの講演と、二つあったみたいですね」とからかわれた。
質問も、日仏会館で質問を英語に通訳するなど言語道断で、聴衆から笑われた。そのうち、通訳が頼りないので、聴衆の一人がフランス語で質問し、Jacob博士がフランス語で直接答えていた。どうにか理解できたので、「ただ今の質問は……で、Jacob博士は……と答えました。」と紹介した。口の悪い某先生が、「小柳さんもちょっとはわかるんですね?」散々であった。
このときの縁で、翌年、CERNに行ったとき、Jacob博士が休暇中の研究室を1週間使わせていただいた。
国内会議
1) 「数値解析研究会
第2回の「数値解析研究会」は、1973年5月16日(水)~18日(金)に山梨大学清里寮で開催された。世話役は高澤嘉光(山梨大)と平野菅保(東芝)で、参加者22名。
1973年は、もう一回、第3回が1973年11月16日(金)~18日(日)に熱海の来宮の双柿舎(坪内逍遙の旧居)で開催された。参加者39名。
数値解析研究会はその後、ほぼ年1回開催されている。最初は二三十人のこぢんまりとした会合であったが、1979年から名古屋大学二宮市三研究室が中心となって100人が参加する大シンポジウムに発展させた。1984年の第13回からは「数値解析シンポジウム」と名称を変更した。筆者も1980年の第9回から何度か参加した。2007年からは日本応用数理学会共催となっているが、最初から2006年まで長い間ボランタリーな会合として開催された。
なお、前に書いたように、「プログラミングシンポジウム」は1960年1月を第1回として毎年開催されている。1984年から情報処理学会が主催しているが、最初の4回は科研費総合研究主催のシンポジウムであった。初期の講演テーマを見ると、数値解析関係の講演も少なくない。この数値解析研究会が始まってからは、プログラミングシンポジウムのテーマはソフトウェア科学の分野が中心になったようである。
2) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1973年10月31日~11月2日、高橋秀俊を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会が開催された。第5回目である。報告は講究録No.199に収録されている。この回は、Fortranプログラムの最適化や仮想記憶を意識したプログラミングなど、計算機システム寄りの話題が多い。
日本の企業の動き
通産省の指導により、System/370対抗のため、国産6社が1972年3月に3グループに編成されたことは前回述べた。
1) 日立(HITAC 8800/8700、システム開発研究所)
日立は、1966年IBMのSystem/360に対抗して通産省が力を入れた超高性能電子計算機プロジェクトで開発したHITAC 8800/8700が1972年8月に完成し、10月からは東京工業大学情報処理センターで、翌年1月東京大学大型計算機センターで稼動し、東大では4月から利用開始された。東工大はシングルプロセッサであったが、東大はHITAC 8800×2+HITAC 8700×2 の異機種混合マルチプロセッサであった。その後HITAC 8800×3+HITAC 8700×1に増強されたようである。
1973年2月、川崎市麻生区にシステム開発研究所を設立した。東京原子力産業研究所と武蔵工業大学(現、東京都市大学)原子力研究所に隣接する。2010年8月に閉鎖された。
2) 富士通(FACOM 230-8、国際研)
富士通は、IBM System/370-158, 168の仮想記憶機構に対抗して、1973年8月、仮想記憶方式を採用した中~大型汎用機FACOM 230-8シリーズを発表した。
富士通は、富士電機・松下グループと、1973年7月2日にパナファコム(現PFU)を設立した。ミニコンピュータの開発はパナファコムに移管された。
1973年4月1日、富士通国際情報社会科学研究所を開設した。所長は3月末に九州大学理学部を退職した北川敏男名誉教授。
3) 日本電気(μCOM-4)
日本電気は、1973年4月、オリジナルな4ビットの1チップマイクロプロセッサμCOM-4 (μPD751)を発表し、9月に発売した。Intel 4040とは異なり、アドレスバスとデータバスが分離されている。
4) 東京芝浦電気(TLCS-12)
同社は、1973年、12ビットマイクロプロセッサTLCS-12を開発した。フォードの車載用エンジン制御に用いるため、12ビットの命令セットになった。TLCS-12Aは改良版で1975年に発表した。
次回は、アメリカやソ連の活動について述べる。
![]() |
![]() |
![]() |