世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

9月 1, 2021

【わがスパコン人生】第22回 川添良幸

島田 佳代子
Yoshiyuki Kawazoe

第22回 川添良幸

基盤部分の開発にお金を
掛けられない日本の現状は悲しい

東北大に55年!(現役最長記録)、東北大学で第1位の出版論文数を誇る川添良幸先生。大学院で原子核の研究をしていた川添先生と計算機との出会い、様々な分野の先生方との共同研究について。長年、教育に携わっているからこそ分かる子どもたちが「疑問を持つことの大切さ」や今後の課題点など、お聞きしました。


研究は何をやるかより、誰と楽しむか!


―先生のバックグランドを教えてください。

生まれも育ちも仙台です。仙台といっても街中ではなく田舎の方なので、川で魚釣りをしたり、カエルを捕まえたり、冬になれば竹でスキーを作ったり。ガキ大将でしたね。我々の頃はパソコンとか、テレビゲームもないですからね。

中学生の時に、理科の先生が私を校庭に連れ出して、砂の上に図を描き、月が地球の衛星ではないことを教えてくれました。その先生は教科書に載っていることが正しいわけではないことを教えてくれました。疑問を持つことの大切さを教えてくれました。古文の先生には、「意味のない言葉はかくはずがない」(枕詞には意味がある)と習いました。これらが私の原点です。

私は、子どもの頃から天文が好きでした。ただ、大学に入る時、天文では卒業生が行く場所も限られていて、就職するのは難しいと考えていました。そこで、天文も物理の一種だよなと思い、物理学科を選びました。物理は「もののことわり」と書きます。対象物はなんでもいいんですよ。

大学は自分が好きなことをできるかどうかで選びました。人の言うことを聞くのは好きじゃないんでね。せっかく仙台に生まれたんだし、東北大学は「研究第一」を理念に掲げています。それで東北大を選びました。

―天文に関心を持っていた先生が計算機に興味を持ったきっかけは?

 
手品が如何に物理的、心理学的に構成されているのかに興味を持ち、講義や講演で多用  

大学院では5年間、原子核の理論研究をしていました。担当だった武田暁先生に当時、研究して気が付いたことを自慢げに報告したところ、「それは川添君にとって初めてのこと?それとも世界にとって初めてのこと?」と聞かれて、研究の独自性に目覚めました。欧米の進んだものを勉強しようとすると、既に誰かがノーベル賞をもらったものの続きのようなことを勉強することになります。そうではなくて、解けていない問題を解きたいと思っていました。

元々天体が好きでしたし、大学院の1年生のときに、三体問題に興味を持っていました。地球、月と太陽といった話です。それに、三体問題は解けていないので面白そうだと思いました。それで、マスターの時は三体問題に取り組みましたが、計算機がないと解けませんでした。それで自分の問題を解くということで、まずはある計算機を使い始めました。それがマスターの1年生の時のことです。

当時の東北大のNECの計算機には仮想メモリがついていなかったんです。それで大きなメモリが欲しいと、東大の計算機センターに通って計算をしました。今のように新幹線がないので電車で通いました。計算機センターへは100万円を払いました。当時のお金ですから相当の額です。理論研で学生にこんなにお金を使わせてくれた武田先生に感謝しています。

ドクターでは原子核の励起状態についての論文を書きました。原子核物理でノーベル賞を取りたいと考えていた時期もありましたが、教養学部の助手として雇ってもらうことになりました。というのも、原子核のドクターを修了して、直ぐに就職できた人は当時の日本にはまだいませんでした。それに、私はすでに結婚していて子供もいたので、教養部の先生になることにしました。教養部は英語で「College of Arts and Sciences」と言います。武田先生から、日本の大学にはartsが欠けているけれど、そのartsが唯一あるのが教養部だと聞いて、教養部が気に入りましたね。諸外国にあって日本の総合大学にないのが美術・音楽です。環境とか医工学とか、直ぐに役に立つのは作るのですが、基礎的な部分の欠落した大学では「大きな学問」は出来ず、上位クラスの専門学校化していると思います。

教養部で教え始めて6年目、東北大学に「情報処理教育センター」が設立されることになり、担当するように言われました。私自身の研究では計算機を使っていましたが、教えることはしていなかったので、勉強し教科書も執筆しました。全学生に対するリテラシー教育も開始しました。これは、日本の大学としては初めてのことで、朝日新聞にも全ページを割いて掲載されました。情報処理教育センターには9年いました。

―学生と接する際に意識していたことなどはありますか?

川添研はドクターを34人出しました。17人が日本人で、17人が外国籍です。「川添研では、好きなことを勝手にやらせてくれたから良い」というのが今も付き合いがある人たちからの評判です。私は、好きなことをやりなさい、オリジナルなことをやりなさい。今まで誰もやったことがないものをやるのが研究者です。教科書が全て正しかったら研究者は要りませんと話していました。

効率は悪いかもしれません。ソフトウェアも買ってきて使えば済みます。もとから作るって大変ですから。でも、そうではなくて、プログラムを書くのもスクラッチからサラサラ書いてしまうような人を育てるべきだと思います。私の研究室には私の話を聞いて分かってくれる出来の良い人が多かったのは幸せです。

今、東北大以外のある大学で基礎物理を教えています。18歳の女の子たちに、「物理は好きですか?」と聞くと全員「嫌いです」と言うんです。では、「なぜこの授業を取っているのですか?」と聞くと、「必修だから」。始めはそうですが、半年もすると「面白い」と言ってくれる学生がたくさんいます。

学生さん達が皆、昔から理科が嫌いだったわけではないはずです。学校の先生は指導要領に沿ってやるしかないので、しょうがないのかもしれませんが、なぜ子どもたちが理科嫌いになるような指導をするのでしょうか。子どもが疑問を持っても、「そういうものだから」で片付けてしまう。そして子どもたちは理科とは原理や法則を覚えるものだと信じ込んでしまうことは問題でしょう。国語では「文章を良く読んで、内容を理解し、感想を書く」ということをやらせます。理科も同様なのですが、「棒磁石は半分に切ると、2つの棒磁石になる。」これをちゃんと説明するのは難し過ぎるのです。難し過ぎることを教えるには、覚えさせるしかない。これが理科嫌いを生む原因だと思います。

―先生は「研究は何をやるかより、誰と楽しむか!」をメインにしてきたとのことですが、印象に残っている研究を教えてください。

 
  20年前に立ち上げたアジア計算材料学コンソーシアムACCMSの会議の懇親会でギター演奏

教養部では色々な専門家の先生と面白い研究がたくさんできました。産婦人科の周産管理のプログラム(何グラムで何週なら出す)は私が作ったものが今も使われています。赤ちゃんは大きく育って、お母さんのお腹の中にずっと入っていれば良いというわけではありません。東北大学産婦人科の佐藤章先生は、胎児が何グラム、何ヵ月の時に出産するのが良いか研究をされていました。早産は多いのですが、逆に重くて長く入っている例はめったにありません。それでグラフにすると重くて長い方が良いみたいな感じだけしか分かりませんでした。

佐藤先生にお願いして約1万6千事例集めてもらいました。それでやっと数例重くて長く入っていたのに死産だった例をいくつか得ました。私は元々原子核物理の理論をやっていたので、分かっていたのですが、少数例のサンプリングと言うテクニックがあるんですよ。それを使って、最適な周産管理ができるグラフを作成しました。そのグラフは今でも産婦人科での分娩の判断基準として使われています。

あるとき、産婦人科の先生方が成果を発表することになりました。「川添さんがやったんだから、川添さんの名前を入れますよ。ただし、学会で発表するのは、日本産婦人科学会員でないといけません」と言われて。実は今も産婦人科学会員です。

それから、インド仏教が専門の塚本啓祥先生は色々なところへ相談に行ったけれど皆に断られて、私の所へ来ました。昔の文献からお釈迦様が何と言ったか調べるために、梵字をローマ字にして処理したいけれど、量があるので計算機で処理したいという相談でした。私が凄いじゃないですかと言うと、「5人までは文化勲章がもらえるから。川添さんの名前も入れるからやってください」と誘われました(笑)

法華経の写本43種類のうち、内容が同じと言われている箇所を抜き出して計算機で読み取り比べるなどしました。インドの文字の自動認識を世界で初めてやったのは私たちです。今のように、山ほど溜めてAIではなく、ひとつひとつ、今でいうフォワードプリディクションで。うちの最初のインド人留学生にも手伝ってもらいました。インドの文字の認識だけではなく、派生することは色々とやりましたね。

「観音様が観自在菩薩に変わった」という説を、科学的に検証することにも成功しました。これはインドでヒンズー教が仏教と混淆し、踊るイシュバラ神が発音の似ている観音(衆生の言うことを聞いてくれる、アバロキテーシバラ)と混じったことを、中国語訳をした人が正しく反映させた結果だったのです。これは、我々の前までは、単なる「説」だったのですが、43種類の原本を比較対象し、ヒンズー教混淆の時代と観音の名前が変わった時代がピッタリ一致することを示しました。出版するため、当時はタイプライター型の印字機しかなくて、ボール型の交換できる部品の特注品として、デーバナーガリ文字用を独自に作りました。

生物学の嶋田一郎先生とはハエの摂食行動を調べて、ハエの味覚についての研究を行いました。餌が少なければ甘くなくても飲むことを理論も作り、実験で検証して論文発表しました。

その後、東北大学金属材料研究所(金研)の教授になりましたが、そこでも違う分野の先生たちと多くの共同研究ができました。

 

スパコンは自分のパソコン


―京についてのエピソードを教えてください。

日米の貿易摩擦などありましたが、日本でも電子産業を強化するという政府の方針があって、尾身幸次さんが、これからはスパコンが世界の科学技術に非常に重要になるから、日本もトップを目指すべきだと、2004年にスーパーコンピュータ推進議員連盟が発足しました。

日本はアメリカや、最近では中国とも比べられないほど、研究者にとって計算機の利用環境はいいんですよ。今のHPCIのように無料で使える(もちろん応募して研究内容を審査されて競争的にゲット)、そのような国って世界でも日本しかありません。それは、政策的に日本の計算機メーカ育成があったからです。

計算機をいっぱい使っている私と、理化学研究所の姫野龍太郎先生が自民党本部に呼ばれて、スパコンの現状と未来についてプレゼンを行いました。計算にはベクトル計算機が良いとか、話をしたんです。どこまで理解していただいたのかは分かりませんが。ベクトル計算機で計算し、富士通の並列機を結果の可視化用に使い、日立が繋ぎをする設計をしたんです。それだったら、世界一のものが作れると。その後、プロジェクトから日立が下りて、NECもおりて・・。

もともと私と姫野先生のパソコンとして活用しようと設計しましたが、1024億円もするのだから皆で平等に、「委員会が審査した課題を」実行となり、納得はできないものになってしまいました。

―先生にとってスパコンとは?

スパコン=パソコンで使わない限り意味がないものでしょう。今の人たちは、スパコンというのはどこかにあって、少し分けて使わせてもらっているものだと思っているかもしれません。しかし、私たちの頃は、何にもないところから計算機をやってきて、スパコンも自分で使うためのいわばパソコンでした。

スパコンには経産省が決めた何ギガフロップス以上と言った定義があるんですよ。速いというのは総合処理能力ですからね、誰かのパソコンとしてスパコンを使ったときに速くなるというのが、私の一番の定義です。

そのスパコンに関する定義も、アメリカの当時の最高の物を真似して定義して、いつまで経っても定義した時に決まったものを使っているんですよ。そんなことはないだろうと思うけれど、日本の中はそうやって暮らしているので、遅れてしまうんです。

―先生が考える今後の課題について教えてください。

何もないところから作り上げるというのが私たちの世代です。何でも自分で作っていたんですよ。だから修理もできました。計算機も初めはZ80(アメリカ ザイログ社製の8ビットマイクロプロセッサー)をいくつも買って、基板も自分で作って並列計算機を作りました。並列Cコンパイラも作りましたが、誰かが文献を調べてくれたのですが、それは日本で最初の並列Cコンパイラのようです。大学院の頃、自分たちで一からプログラムも作りました。

 
40年近く前に基板ごと並列計算機を自作  

今は私たちのように基板ごと作ったり、コンパイラを作っている人も少ないですよね。皆さん使うだけという話になっています。確かに、教材もなくなってしまい、学校の中で実験も十分にできません。それに、複雑で高速になってしまったため、しょうがないのかもしれませんが、少なくとも学校では今流行りの何年持つか分からないことだけではなく、しっかり基礎から教えるべきでしょう。

小学生にプログラミングなどはその最たるもので、計算機の中での処理は一切ブラックボックスで、ゲームを作る?働かせやすい人を養成しているとしか思えません。ゲームも高速に動かす部分は機械語で書くのですが、それは限られた人しか必要ないのです。現状のやり方は新ブルーカラー育成で商売をするのです。Pythonも同様で、AIプログラムとか言いますが、例えば膨大な顔の写真を比較したりしている部分の元は昔からfortranで開発されたサブルーチン群を使っています。ここから開発しないと抜本的な進展はないのです。もっとも現状以上というのは難し過ぎて、実用上はこれで良いという判断なのだと思います。ただ、基盤を変えればもっとずっと高速化でき、内容も向上することは知らないといけません。

結局、今はあるものを使って作る人ばかりになってしまったから、銀行のプログラムにしても、なぜ止まるか知っていますか?銀行が統合した際に、それぞれが使っていたバラバラのソフトに、上掛けのプログラムだけ足して作るからですよ。元が分かって全てできるという人が減りました。そういう人を育てていません。2千年問題の時、COBOLのプログラムの書き直しをするために、同級生が随分働きました。若者はCOBOLを知らないので修正出来なかったのです。ブラックボックスとして扱えば、いつになっても不具合は発生します。

計算機を立ち上げることを、電気を入れることだと思っているかもしれません。IPL(Initial Program Load)という言葉さえ知らないかもしれませんが、昔と同じことを今でも計算機の中でやっているんですよ。私たちは何をやっているか分かるので(自分でIPLして使っていたので)、どういう故障が起これば、中でどういうことが起こっているのかも分かりますが、今の人たちはそういうところをふっとばしてしまっています。だから進歩できる部分もあるのでしょうが、違う世界になってしまったがために、昔のことが分からないのは良くないですね。私たちが自作していたプログラムに「通信プログラム」があります。このレベルから研究者が作らないと計算機は使えなかったのです。WebもスイスのCERNのデータを実験が終わって帰国した後も使える様にするために、原子核物理学者が作りました。

今時、物性理論や理論化学といっても、アメリカやヨーロッパで作られた誰かのプログラムを使って計算している人ばかりです。文科系の統計処理も同様です。これでは大学の教育として駄目ですね。日本発のものはないのかと。同じアジア人でも、中国人は自分たちでWeChatとか作っていますよね。私も中国人と毎日使っているのですが、お金のやりとりまで出来ます。日本は開発能力といった意味では完全に遅れてしまっています。テレワークになってよく使っているZoomだってなんだって日本発じゃないんですよ。遠隔で授業をする、となるとGoogle Classroomとかを使うだけ。それどころか、ワープロも表計算も何もかも・・・同様になってしまっています。グローバルとか言いますが、こういう基盤部分の開発にお金を掛けられない日本の現状は悲しいです。今のままではこの先もないでしょうね。

開発という意味では、大学も結局上掛けのソフトウェアしかやっていないんですよね。計算もハードからやらないと速くならない。失われた10年どころか20年、クロックは上がっていないじゃないですか?かつて日本には独自技術があったのに、CPUの開発をやめて、アメリカからIntelのチップを買うようになってしまいました。

アメリカのi-なんとかも私は嫌いです。iモード(インフォメーションモード)って、アナログ回線をデジタル回線として最初に使ったのは日本のNTTですからね。日本人が最初にやったのに、そのことを知っている人は少ないですよね。

日本のような半端な状態はまずいと思いますよ。日本がまた飛行機を作って攻めて来るとまずいから、戦後、GHQによって飛行機の製造、運用や研究の全てを禁じられましたよね。今も翼は作らせるけれど、全部は作らせません。ずっとやっていなかったから、今も三菱が作ろうとしているけれど、うまくいっていません。失われた数十年は大きいです。

元から全部分かってできる人が減ってしまいました。根本的なことがこうなんだと分かって、スクラッチからスラスラかける人がいなくなってしまいました。小学校でもタブレット端末を渡されて絵をかいたりしていますが、元から分かる人を育てるべきでしょう。

―先生の長い研究生活の中で最高の瞬間を教えてください。

磁性の根源解明に成功して、アメリカの理論物理学者ジョン・クラーク・スレイターが導き出し、どの教科書にも載っている磁性原理が誤りであると証明した瞬間ですね。

ハバードモデルも全て間違っていると発表したら、日本の物理学会は私の発表を朝一番の誰も来ないようなところにセットしたんですよ。そこに来ていたのは、相対論が間違っているという怪しげなおじさんだけでした。「川添さん、あんたは原子核じゃあないの?気でも狂ったの?」とも言われました。もう二度と物理学会へは行ってやらないと思いましたね。

結局、私たちの正しい理論を今は日本応用磁気学会や、電気学会の人たちが分かり始めています。それから化学系の先生たちも分かり始めて、結局、最後の最後まで日本の物理学会だけが自分たちが間違っているとは認めなせん。彼らの半分くらいは、間違っていたから明日から変えようと言ってくれますが、半分は「俺たちが今までやっていたことを間違っているというのか」と。

それはしょうがないけれど、「学生には嘘を教えないでね」というとすごく困られるんです。「今更違うものを教えられない」と。それでも彼らは変えません。京でもハバードモデル用に相当使っています。文句を言うと、僕を排除しようとしますからね。

これが一番面白かったというか生きがいがありましたね。別に喧嘩もしませんよ。アメリカへ行って認められたら、日本は認めるしかない。そういうものだと思っています。

―先生が今後やってみたいことを教えてください。

 
  コロナ禍で外国に行けなくなった東北大の材料系修士学生さん達を名誉教授ドットコム株式会社として支援。私のトモダチのインペリアルカレッジロンドンの教授と学生さんとオンライン授業中

私たちがまずいと気が付いたことを浸透させる必要がありますよね。物理の教科書の多くが嘘を教えています。出来の良い子たちがそれに騙されて、お釈迦様の掌の中で働く人が多いとすると、嘘を教えると嘘の中で派生的な仕事をして、京の相当部分も間違った計算をしています。そういったことは絶対に直して欲しい。若者には嘘を教えて欲しくないです。

大学の教科書を書き換える話だけではなく、私は天文が好きだったので、小学生に地球の周りを月が回っているといった嘘を教えていることをどうにかしたいと思っています。

それから、私たちが作った東北大の独自のTOMBO(TOhoku Mixed Basis Orbitals ab initio program)というプログラムをきちんと使える形にして、お客さんを増やすことまでしたいですね。

今までに多くのトモダチに恵まれてきましたが、彼らの多くも既に退職し名誉教授です。そこで国内外名誉教授の智恵とネットワークを活用、国内外企業・組織の業務支援やオンラインワークショップ・セミナー実施。東日本大震災後の東北地区復興への寄与を目的に、昨年の4月に「名誉教授ドットコム株式会社」を設立しました。また彼らを講師とする「伊達な大学院」も立ち上げましたので、こちらもご期待ください。

 

Yoshiyuki Kawazoe

川添良幸氏 略歴

1975年 東北大学理学研究科原子核理学専攻博士課程修了・理学博士
1975年 東北大学教養部物理学科助手
1981年 東北大学情報処理教育センター助教授
1990年 東北大学金属材料研究所教授
1993年 北陸先端科学技術大学院大学併任教授
2005年 国立情報学研究所併任教授
東北大学情報シナジーセンター長
東北大学情報シナジー機構副機構長
東北大学本部事務機構情報部長
東北大学CIO補佐官
2012年 東北大学名誉教授
2013年 ロシア科学アカデミー・メガグラントリーダー
2015年 東北大学未来科学技術共同研究センター教授
2017年 インド国SRM大学Abdul Kalam Distinguished Professor
2018年 東北大学未来科学技術共同研究センターシニアリサーチフェロー
2019年 タイ国スラナリ工科大学Distinguished Professor
2020年 名誉教授ドットコム株式会社代表取締役