世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


9月 1, 2014

HPCの歩み50年(第7回)-1970~71年-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

小柳 義夫(神戸大学 特命教授)

日本の各社はメインフレームの開発を続けたが、1970年にIBM System/370が発表され、対抗策としてその後国産6社が3つの企業連合に編成される。DEC社がベストセラーPDP-11を発売したのもこの年である。今はなきFPS (Floating Point Systems)社も創立された。翌1971年、Intel社は世界初の1チップマイクロプロセッサIntel 4004を発売した。またこの年、CDC初のベクトルコンピュータSTAR-100が発表された。

社会の動きとしては、1970年3/14大阪で日本万国博覧会が開幕した(9/13まで)。その直後、3/31日航「よど号」が赤軍派学生に乗っ取られた。4/8大阪でガス爆発事故、6/22安保条約自動継続、8/2東京で歩行者天国、9/1広中平祐フィールズ賞受賞、10/1寝台特急「あけぼの」が上野青森間運行開始、10/18大森勧銀事件、11/25三島由紀夫事件。大森の勧業銀行で宿直していて殺害された行員は、筆者の高校の同級生であった。「あけぼの」は今年(2014)の3月14日に定期便としては廃止された。

翌1971年は、また航空機事故が続いた。7/3東亜国内航空のばんだい号が函館空港近くで山に衝突、7/30雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突した。6/5西新宿に京王プラザホテル開業、6/5ネズミ講組織「第一相互経済研究所」に強制捜査、7/15ニクソン中国訪問受諾を発表、8/15ニクソン大統領がドル防衛措置、円は変動相場に移行、9/13林彪の乗った飛行機が墜落し死亡、9/18カップヌードル発売、11/19松本楼炎上、12/7沖縄密約疑惑、12/24新宿にクリスマス・ツリー爆弾。

筆者は、1971年3月に博士課程を修了し学位を取得、運よく出身研究室の助手となった。「厳密ではないが任期は3年」と言い渡された。大学院時代から非線形最小二乗法のプログラムを開発し、素粒子物理の研究に活用していたが、このころから、東大大型計算機センターのライブラリ開発に応募し、「Powellの微分不要な非線形最小二乗法」の公開用プログラムを開発した。公開版の名前はPOW2であった。なぜ「2」かというと、Powellの非線形最適化のプログラムを別の人が開発してPOW1と名付けたからである。ライブラリ開発者はサブシステム5020を使うことができ、一晩で結果を受け取ることができた。

日本の動き

1) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1970年11月11~13日、高橋秀俊を代表者として「科学計算基本ライブラリのアルゴリズム」という研究集会を行った。このシリーズでは2回目である。報告は講究録No. 115に収録されている。産業応用に関する講演もあった。
1971年11月4~6日には、同じく高橋秀俊を代表者として「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会が開かれた。報告は講究録No.149に収録されている。この回は比較的数理的なテーマの講演が多い。

日本の企業の動き

前年に引き続き、日本の各社はメインフレームの開発を続けた。

1) 東芝
東芝は1970年2月、GE (General Electric)社のGE600シリーズを国産化したTOSBAC-5600/10, 30, 50(ICメモリ)を完成した。

2) 三菱電機
三菱電機は1970年4月、XDS (Xerox Data Systems)社との技術提携による大型コンピュータMELCOM 7000シリーズ(仮想記憶方式)を発表した。XDS社は1961年9月にScientific Data Systemsとして創立され、1969年にXerox社に売却されXDSと呼ばれた。

3) 富士通
富士通は1970年5月、汎用機FACOM 230-75を発表した。これは高速素子CMLや超高速ICメモリを採用した。1977年に、日本初のベクトルプロセッサ75APUがこれに付加されることになる。

4) 日立
日立は、1970年11月、超高性能電子計算機プロジェクトの成果として、大型汎用機HITAC 8700を発表した。東京工業大学情報処理センターでは1972年10月から、東大大型計算機センターでは1973年1月から稼動した。なお、翌年、HITAC 8800が発表された。

System370

IBM System 370 システムコンソール

(画像出典:Wikipedia)

IBM社、System/370を発表

IBM社はソフトウェアのアンバンドリングを実施した(発表は1969年1月)。ソフトの販売をハードから切り離し、17種類のプログラムを有償化した。それまでIBMの収益の大部分はハードによるもので、ソフトはハードの付属品として一体で販売されていた。これは独占禁止法違反という批判もあった。

他方、360の成功で勢いづいたIBM社は、これに続くSystem/370を1970年6月30日に発表した。System/360との互換性を保ちつつ、ICメモリ(まだSRAM)を採用し、仮想記憶(1972から)、2プロセッサ構成、4倍長浮動小数演算などの新しい機能をそなえた。ただ、互換性のため24ビットアドレスは保持された。この4倍長は、倍精度数2語から成り、下位の指数部には上位の指数部から14引いた数が入っている。正規化の問題を別にすれば4倍精度数はその倍精度数2語の和で表現されている(一種のdouble-double表現)が、上位の指数部が14(つまり16-50)より少ない場合は、下位の指数部はmod 128 で14を引いた数が入っていたようである。互換機での経験であるが、単精度より数十倍遅かったと思う。ソフトで実装されていたのか、マイクロコードだったのかは記憶がない。

370の衝撃は大きかった。直接の影響かどうかは分からないが、直前の1970年5月にはGE社はメインフレーム事業から撤退し、ハネウェルに売却した。また翌1971年9月、System/360の互換機を製造していたアメリカのRCA社もコンピュータ事業から撤退した。

日本では国産メーカ保護のため、大型プロジェクトや補助金だけではなく、輸入制限、高率関税などの障壁を設けていたが、この政策は海外から強い非難を受けるようになり、田中角栄通産大臣は1971年以降これらの障壁を順次取り除くことにした。1972年、これに対応するため通産省は行政指導を行い、国産6社を3つの企業連合(富士通・日立、日本電気・東芝、三菱・沖)に構成し、技術研究組合を創立した。メーカに国際競争力を付けるための補助金制度を設け、1976年までに約570億円の補助金を受けて、富士通・日立はMシリーズ(IBM互換)、三菱・沖はCOSMOシリーズ(IBM非互換)、日本電気・東芝はACOSシリーズ(IBM非互換)をそれぞれ1974年に発表した。

アメリカの他の企業の動き

1) Intel社
Intel社は、1970年世界最初のDRAM 1103(1024ビット)を発売し、1971年11月には世界初の1チップマイクロプロセッサIntel 4004(2300トランジスタ、108 KHz)を発表した。日本のビジコン株式会社は、このチップを用いてストアドプログラム方式の電卓ビジコンi14-PFを開発した。

PDP11

DEC PDP11/10 Minicomputer

(画像出典:Computer History Museum)

2) Digital Equipment社
1970年1月、Digital Equipment社は、ベストセラーの16ビットミニコンピュータPDP-11を発表し、同年前半に出荷した。

3) CDC社
HPCにとって忘れてはならないのは、1971年、CDC社(1957年創業)がベクトルコンピュータSTAR-100を発表したことである。GMが最初の客となると発表された。問題は、ETA10などその後のCDC系のベクトルコンピュータと同様、ベクトルレジスタがなく、メモリ直結のベクトル演算器であったことである。そのためCDC7600の数倍という謳い文句にもかかわらず実効性能はむしろより低かったと言われている。

ベンチャー企業の創業

1) Floating Point Systems社
Floating Point Systems 社は、1970年、元Tektronix社員のNorm Winningstadによってポートランド郊外のBeavertonに設立された。最初、ミニコンピュータのためのVLIWの高速演算器(コプロセッサ)AP-120Bを1976年に売り出し、1981年にはFPS-164、続いて1985年にFPS-264を発売した。その後、並列処理に乗り出して失敗し、1991年Cray Research社に買収された。ソフトウェア部門はPGI (Portland Group Inc.) に移った。これについては後ほど。

2) Amdahl社
Amdahl Corporationは、1970年、元IBM社員でSystem/360の設計チームにいたGene Amdahlにより、シリコンバレーの一角Sunnyvaleで創業した。IBMメインフレームの互換コンピュータを製造した。Amdahl自身は1980年にこの会社を去った。1997年7月に富士通の完全子会社となり、独立した企業としては消滅した。

電子メール

1971年は(マシンをまたぐ)電子メールが始まった年である。Ray TomlinsonというBBN社の研究者がARPANET上の電子メールシステムを開発し、はじめて@マークを用いてユーザ名とマシン名を分離したとのことである。翌年にはUnix mailとして定式化された。

(タイトル画像:CDC STAR-100プレート、画像出展:Computer History Museum)

さて次回1972年は、ILLIAC IVがやっと稼動し、Seymour CrayがCray Research社を設立する。

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