世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


10月 6, 2014

HPCの歩み50年(第11回)-1976年-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

小柳 義夫(神戸大学特命教授)

Cray-1の1号機がLANLに納入された。名実ともにスーパーコンピュータ時代の幕開けである。同じ年、Floating Point Systems社は最初の製品としてAP-120B array processorを発売した。日本では、IBMのFuture Systems Projectに触発され、超LSI技術研究組合を設立し、大型集積回路の製造技術を開発した。その結果1980年代に日本がDRAMの大量生産で世界を席巻したことは大きな成果であるが、マイクロプロセッサでは完全に出遅れてしまった。

ロッキード事件で明け暮れた1年であった。2/5(日本時間)、米国上院の小委員会でロッキード社が日本などの有力者に多額の賄賂を送ったことを暴露、6/25新自由クラブ結成、7/27田中角栄逮捕、10/22鬼頭史郎判事補のニセ電話事件発覚、12/5総選挙自民党大敗、三木内閣退陣、12/24福田赳夫首相に。その他、2/4インスブルックオリンピック、7/17モントリオールオリンピック、7/20バイキング1号、火星に着陸、8/24四色問題解決、9/6ミグ25でベレンコ中尉亡命、10/6中国で四人組逮捕、10/29酒田大火など。

筆者の勤務していた高エネルギー物理学研究所(現在の高エネルギー加速器研究機構の前身の一つ)において、陽子加速器の建設が進み、3月には8 GeVまで、12月には12 GeVまで加速に成功した。なんで8 GeVが一里塚かというと、transition energyと言って、そこで加速のメカニズムが変わり不安定になるので、そこを越えて加速するには技術が必要なのである。筆者は理論部門所属で加速器建設には直接関係していなかったが、所内全体が祝賀のムードに包まれていたことを思い出す。

アメリカ企業の動き

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当時のCRAY-1マニュアル

(画像提供:Computer History Museum)

1) Cray-1

記念すべき事はCray Research社のCray-1の1号機がLANL (Los Alamos National Laboratory)に納入されたことである。Seymour Crayが開発したものであるが、高い性能を実現した。クロック80 MHzで、クロック毎に64ビットの加算と乗算を発行できたので、ピークは160 MFlopsである。STAR-100とは異なり、ベクトルレジスタを持ち、ベクトル演算はレジスタ間で実行される。使用されたICは、ECLによる高速のNANDゲート2個のIC、MECLによるやや低速のNANDゲートIC、レジスタ用の高速小容量(6 ns、16×4ビット)SRAM、主記憶用の1024×1ビットのSRAM (50 ns)であった(日本語版wikipediaによる)。OS (COS)や自働ベクトル化Fortran compiler (CFT)のリリースは1978年ということなので、当初は裸で、サブルーチンでベクトル演算を記述したのであろうか。筆者は使ったわけではないが、当初のコンパイラは非常に使いにくいもので、内積や総和は64個(ベクトルレジスタのワード数)しかサポートされず、しばしばサブルーチンコールが必要だったということである。しかし、筆者がすばらしいと思うことは、アメリカのユーザが、このようなベータ版とさえ言えないようなマシンを、競って使いこなしたことである。日本でこんなマシンを売り出したら、「味噌汁で顔を洗って出直してこい」と、誰も使わなかったのではないか。

その後1978年ごろ、日本ユニバックが窓口になりCray-1の気象庁気象研究所への導入を目指したが成功しなかった。1979年6月に日本クレイ社が創立され、1980年1月にCRC(センチュリリサーチセンタ)に納入され、続いて6月には三菱総合研究所に設置された。後者のマシンは筆者も後日訪問し、「世界一高価なベンチ」に腰掛ける経験をした。

いつの頃か記憶ははっきりしないが、「スーパーコンピュータ」なるものが欧米にある、という噂が、筑波の田舎まで聞こえてきた。「われわれがそんなものを使う時代が来るのだろうか?」とため息をついた記憶がある。1981年8月24日には、筑波研修センターでCray-1の説明会が開かれた。日本クレイの営業の方から当時筑波大学にいた筆者に電話があったが、「ちょっと小遣いで買えるような代物でないので」とお断りをした。しかし「とにかく話を聞いてください」というので出席した記憶がある。

2) AP-120Bの出荷

Floating Point Systems社が1970年にオレゴン州Beavertonに設立されたことは前に述べたが、奇しくもCray-1と同じ1976年に最初の製品としてAP-120B array processorが発売された。これはPDP-11などのミニコンピュータに対する38ビットのコプロセッサで、アーキテクチャはいわゆるベクトル処理ではなくパイプライン化されたVLIW (Very Long Instruction Word) であった。命令長は64ビットなのでLIWを言った方がいいかも知れない。sinやcosのテーブルをもち、高速に計算できた。ホストの主記憶とはDMA (Direct Memory Access) によって転送を行った。

その後、1981年にはFPS-164(64ビット)を、1985年にはETLを使ったさらに高速なFPS-264を出荷した。値段も手頃だったので、大学や研究所にも多数導入された。これらのマシンは、地震波解析(石油探査のための)、計算化学、暗号解読などに使われた。

Z80

Zilog Z80 CPU

(画像提供:Computer History Museum)

3) Zilog社

1976年、Zilog社(1974年創業)はIntel 8080の上位互換の8ビットプロセッサZ80を発売した。初期のPCで使われるとともに、種々の機器の組み込みCPUとして使われた。Z80には当時使われ始めたDRAMのリフレッシュ動作専用のカウンタが内蔵されていた。

日本の動き

1) 特定研究

1973年に始まった文部省科学研究費補助金特定研究「広域大量情報の高次処理」は終了し、新たに4年間の特定研究「情報システムの形成過程と学術情報の組織化」が始まった。これらは500人の研究者を結集し広い分野をカバーしているが、その一つとして、いくつかのの大型計算機センターを接続するN-1ネットワークの実証実験が行われている。1981年10月からは正式な運用が始まった。

2) 数値解析研究会

自主的に組織している数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)の第6回は、1976年6月10日(木)~11日(金)に、山梨大学清里寮で開催された。

3) 数理解析研究所

京都大学数理解析研究所は、1976年11月4~6日、高橋秀俊(慶應義塾大学)を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を行った。第8回目である。報告は講究録No.310に収録されている。1976年なのに、「クレイ」のクの字もないところが印象的である。

4) 超LSI技術研究組合

IBMのFuture Systems Project(1971年~1975年、ディスクを含む単一レベル記憶、マイクロコードによる複雑な命令セットなどにより革新的なコンピュータを開発するプロジェクトであったらしいが、詳細は不明)に触発され、1976年、超LSI技術研究組合が設立された。4年間のプロジェクトで、参加した企業は、コンピュータ総合研究所(富士通、日立、三菱電機)と日電東芝情報システム(NEC、東芝)の2グループ5社であり、「次世代電子計算機用大型集積回路開発促進補助金制度」から290億円の補助金が出資された。このプロジェクトで開発された高性能電子ビーム露光装置などの製造装置により、1980年代後半において日本がDRAMの大量生産で世界を席巻したことは大きな成果であるが、その結果アメリカのメーカがCPUなどの論理LSIの開発に力を注ぐことになり、CPUに関して日本は出遅れた。IBMのFuture Systems Projectはコンピュータ「システム」を目指したものであったのに、それに対抗して日本が要素技術であるDRAMに注力したのは不思議な感じがする。

Cray-1の出荷された翌年の1977年、日本初のベクトルコンピュータFACOM 230-75 APUが航空宇宙技術研究所に納入され運用が開始される。

(タイトル画像 Cray-1 画像提供:Computer History Museum)

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