世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

2月 1, 2022

【わがスパコン人生】第24回 弓場敏嗣

島田 佳代子
Toshitsugu Yuba

第24回 弓場敏嗣

若い研究者たちには、冒険心をもって研究テーマに挑戦して欲しい

今回、工業技術院電子技術総合研究所において計算機のオペレーティングシステム、見出し探索アルゴリズム、データベースマシン、データ駆動型並列計算機などの研究開発に従事された電気通信大学名誉教授の弓場敏嗣先生に、幼少期のことから電総研時代に関わられたプロジェクトのことや定年退職後にチャレンジされたことについてお話を伺いました。

 

幼少期、大学、そして民間シンクタンクへ


―先生のバックグラウンドを教えてください。

太平洋戦争開戦直前の1941年9月、真珠湾攻撃の年に大阪市で生まれました。私が2歳のときに父が亡くなり、一家は戦時疎開の意味も込めて母の故郷である徳島県に転居しました。小学校に上がるまでは吉野川中流の脇町で過ごし、戦争が終わると、母は職(小学校教員)を求めて広島県の因島に移りました。今でいえば戦争難民ですね。私は小学校1年生から高校3年生までの12年間を、瀬戸内海の因島でぼんやりと過ごしたことになります。従って、生まれたのは大阪ですが、私にとっての故郷と呼べるのは因島ですね。

私が住んでいた頃の因島市の人口は4万人余りで、高校は1つしかありませんでした。1980年代後半、日立造船(株)が新造船部門から撤退し、数千人の人員削減を行った結果、企業城下町因島における産業活動は衰退してしまいました。1999年、「瀬戸内しまなみ海道」によって本州の尾道市と四国の愛媛県今治市が橋でつながりましたが、2006年に因島市は尾道市に合併されてしまいます。現在の旧市域人口は2万5千人程度だと思います。

1960年に広島県立因島高校を卒業後は、神戸大学工学部電気工学科に進学しました。なぜ工学部だったのかを考えてみると、当時の日本は高度経済成長が始まる直前で、世の中全体がこれからは理工系の時代だという風潮になっていました。私自身、特に理工系を強く志望していた訳ではなく、世の中の雰囲気に影響を受けた気がします。高校同級生の多くも工学部に進学しました。進路を決める場合、普通は自分の親を見て、どういう職業を選択するのか考えると思うのですが、私にはそういう視点が全くなかったですね。

 

―大学でのことをお聞かせください。

大学院修士課程まで行きましたが、研究テーマは適応過程を有する信号検出論でした。広い意味では情報理論に属する分野です。第2次世界大戦中から戦後にかけて、電子計算機のジョン・フォン・ノイマン、情報理論のクロード・E・シャノン、サイバネティックスのノーバート・ウィーナーという3人の天才が、それぞれの分野で現代の情報技術に連なる重要な業績を残しました。第2次世界大戦下の軍事研究に起因する彼らの研究は、その後の平和時の科学技術研究において重要な意味をもっていました。それらの流れに沿った研究が世界中で行われました。

私が従事した神戸大学の先生もそれに取り組んでいて、私はたまたまその研究室に配属されたという経緯があります。そうした科学技術史観を踏まえて、自分の研究テーマを選んだわけではありません。後から考えてそうだったかと気付くのですが、学生の研究テーマというのは、知らず知らずのうちに時代の流れに影響を受けているのだなという感想をもっています。1960年代中頃は景気がよかったので、学部卒業後、企業に就職する人が多く、同級生で大学院へ進学したのは約45人中6人だけでした。

大学といえば、当時は授業料が安くて、1960年頃の国立大学の授業料は年間9千円でした。今でも授業料免除という制度はありますが、私は母子家庭の特権を利用して、入学時以外の授業料は免除されて助かりました。家庭教師のアルバイトは、貧乏学生の<生活給付金>でした。現在の国立大学は年間授業料として約50万円徴収するようです。60年前の約50倍です。この60年間で物価が50倍になっているものは、他にないと思います。因みに、ウイスキーのサントリー角瓶というのは、昔も今も1,500円程度で価格は変わらないと思います。健康に有害なタバコは消費を抑制するために値上げを繰り返していますが、ピース20本入りで8倍程度の値上がりです。大学の授業料だけが50倍になっているのは、<学問の勧め>ではな<アルコール依存症の勧め>とも受け取れる酷い話だと思います。

―大学卒業後に入社された野村総合研究所ではどういったことをされましたか?

(株)野村総合研究所という野村証券系のシンクタンクに入社して、最初にやったのが需要予測調査です。世の中にはコンピュータ、家電製品、鉄鋼、自動車など、様々な商品がありますが、それぞれの業界団体は各商品の需要/将来動向について強い関心をもっています。業界団体は商品の売れ行き、市場の大きさへの関心があり、自社ではもちろん、団体としての市場調査に敏感です。

私が最初に担当したのは、主に業界団体が取りまとめた動向調査データを探し出して、それを集めることでした。需要予測については、使用されている予測手法についても調べましたが、大体がGNPあるいは人口の成長曲線との相関に基づくものでした。その他、当時の計算機に用いられていた磁気コアメモリの需要予測を行いました。今では500円程度の電子式卓上計算機が、その頃は100万円以上していました。その値段がどれくらい下がるのか価格予測もやりました。

経済調査の仕事は面白くはあったのですが、結局はあちこちから色々な情報を集めて分析するだけであることに虚しさを覚えました。それがシンクタンクの役割なのですけど…。つまり、新しいモノを創造するという世界ではなかったですね。シンクタンクにおける研究というのは、理工系の研究とはかなり違うことに気が付きました。その頃、通商産業省工業技術院で大型プロジェクト「超高性能電子計算機の研究開発」が始まりました。大学の先生を介して、当時の電気試験所(その後、電子技術総合研究所から産業技術総合研究所へと名前は変わっています)の求人情報を聞き、面接試験を受けて中途採用してもらうことができました。

 

大型プロジェクトとスパコン開発


―「超高性能電子計算機プロジェクト」について教えてください。

1960年代後半、電子計算機を会社組織の基盤におく情報化時代が到来しました。米国ではIBM、UNIVAC、バロース、NCR、GE、ハネウェル、RCAなどの各社が最新鋭の電子計算機の開発にしのぎを削っていました。中でもIBMのSystem/360が、当時のメインフレーム市場を席巻する状況となっていました。これらに日本が国として対抗するため、通産省が主導した高性能電子計算機の技術開発プロジェクトです。1966年度から5年間、国内の電子計算機メーカー6社(日立製作所、東芝、三菱電機、日本電気、富士通、沖電気)が参加し、各社は最終成果物の構成要素を受けもつ形で研究開発を行いました。全体を取りまとめる主契約企業は日立製作所でした。研究開発予算は、プロジェクト全体で120億円ほどです。その1割が電気試験所(電総研)、残りは各企業へ配分されたと聞いています。

電総研がこのプロジェクトで何を担当したかというと、これからはソフトウェアが重要になるだろうということで、基幹となるオペレーティングシステム(OS)の研究開発を目指しました。電子計算機の利用形態の進展に向けて、今後のOSの主流となると思われるタイムシェアリングシステム ETSSを、延べ20名ほどの研究員で研究開発しました。ETSSを搭載したメインフレームは日立製作所のHITAC8400でした。通信回線を介して遠隔利用する形で運用する環境を構築することができました。

ただし、研究者というのは新しいことが好きで、作ったものをメンテナンスすることを後ろ向きの仕事としてあまりやりたがらない傾向にあります。とくにOSなどのシステムソフトウェアでは、重要なのは作ってただ動かすことよりも、動いたあとに性能を改良したり、利用者が安心して使える保守体制を維持したりすることなのですが、現実にはなかなか難しいものがあります。

UNIXというOSがその後、出てきました。あれはUNIXというシステムのなかに新規性がある訳ではなく、みんなが安心して使えるシステム環境を作って世の中に広く普及させたことが評価されていると思います。UNIXをシステム全体として普及させるためのバックアップ体制を考え、それがUNIXというOS技術の成熟に導いたと思います。

MITのタイムシェアリングシステムMulticsの規模や機能を小型化して実現したという点では、UNIXと電総研のETSSは似た部分があります。しかし、最後の詰めの部分で、ETSSは技術的な継承を図る努力をしませんでした。日米でソフトウェア技術に対する思い入れが違っていた気がします。ETSSの技術開発で得たノウハウを引き継ぐ形で、OS技術の継承が為されなかったことは、私自身もったいなかったと思っています。

データ駆動型スーパーコンピュータSIGMA-1
記号処理用データ駆動計算機EM-4
出典:一般社団法人 情報処理学会Webサイト「コンピュータ博物館」

―1993年まで在籍された電総研で、他に印象に残っている研究を教えてください。

ETSSの研究開発では、磁気ディスクベースのオンラインファイルシステムを担当しました。電子計算機のデータ処理応用では、情報であるデータを格納して、それを後から検索することが繰り返されます。その場合、データに見出しを付けてファイルに格納した後、それを効率よく探索しデータを取り出すことが大切となります。ETSSというシステム造りを行った後、私の関心は見出し探索の最適化の技法という理論的な研究テーマに向かいました。

電総研には色々なタイプの研究者がいましたが、テーマについても同じ関心をもつ人がいました。そうした人たちと問題意識を共有し、議論することで共同研究することができました。当時、私自身は数学的なバックグラウンドがなかったのですが、宮川正弘さんという数学を専門とする研究者と交流し、計算機における見出し探索の最適化技法について彼と研究を進めることができました。その研究を学位論文にまとめて東京大学の元岡達先生に提出して、工学博士(情報工学)の学位を頂きました。

電総研では、年齢や研究室長、研究部長といった職制によって研究上の役割が変わってきます。私が1982年に電子計算機部計算機方式研究室長になってからは、研究室に負託された研究テーマの遂行に研究管理者としての責任があります。同時期に、通産省工業技術院の推進する大型プロジェクト「科学技術用高速計算システムの研究開発」が開始されました。これはスーパーコンピュータ市場を席巻していたクレイ・リサーチ社のCRAY-1を凌駕する性能をもつ計算機を開発することが目的でした。

電総研はプロジェクトの基礎的な技術開発を担当し、命令水準の細粒度並列処理が可能なデータ駆動型スーパーコンピュータの研究開発を行うことになりました。電総研ではそれまでも、磁気バブルデータベースマシンやLISPマシンなどの計算機研究を細々と続けていましたが、ここにきてデータ駆動型並列計算機の研究開発という新しい局面を迎えることになりました。計算機方式研究室では、科学技術計算用データ駆動計算機SIGMA-1に加えて、記号処理用データ駆動計算機EM-4/EM-Xの研究開発も行っており、1982年から10年余の期間、データ駆動型並列計算機研究の世界の中核といえる存在になったと思います。

HPC-Wire『わがスパコン人生』として、HPCの話題の中心となる予定であったデータ駆動型並列計算機の話にやっと到達しました。しかし、インタビューの時間切れで内容となるはずの話は飛んでしまいました。この研究の内容については、産工会HPの『AIST研究秘話』を参照ください。私が2018年に書いた秘話の内容は、ETSS関連を含めて上記の産工会HPで参照できます。「計算機方式研究室におけるデータ駆動型並列計算機の研究開発」の第4章研究室人物列伝、第5章研究室余話の記述では、このインタビューシリーズに登場した平木敬さん、関口聡嗣さんなどの名前が出てきます。この辺りは気楽に読めると思います。中でも、第5章4節の学会における交流と戦友への謝辞、においては、当該研究開発を活性化するために重要であった日本国内の学会環境(データフローワークショップ、並列処理シンポジュウムJSPPなどの研究会活動)について記述しています。研究室での研究行為だけでなく、その成果発表の場における<戦友>との議論、相互評価の存在がよい研究成果を上げるためには不可欠でした。それによって、研究者は自分の立ち位置が確認され、ヤル気が加速されたと思っています。

―電総研における研究部長の役割について教えてください。

先ほど、電総研では職制によって果たすべき業務あるいは役割が異なると話しましたが、研究部長というのはなかなか難しい役回りです。研究室長の場合は、研究と研究管理の二役を兼ねることができます。研究部長となると、研究予算の獲得、人事、および部全体の研究の進捗管理が業務となり、それらに専念することになります。通産省傘下の研究所なので、研究予算獲得のために、当時は大型プロジェクトを常に走らせなければいけませんでした。1つの大型プロジェクトが終わると、次のプロジェクトをすぐに立ち上げねばいけないので、数年前から霞が関の通産省役人と一緒になってその準備をします。これが電総研の研究部長の重要な仕事となります。

「第五世代コンピュータ」の後継プロジェクトは、1992年に開始された「リアルワールドコンピューティング(RWC)」です。単純に高速性能をもつ計算機を開発するのではなく、計算機の機能を強化、柔軟化することによって実世界の応用局面を拡大することを目的としていました。私も新規プロジェクトを立ち上げる役割を担っており、産学官が協力した委員会を組織化し、外国の大学、研究機関とも連絡を取りながら活動しました。

当時、電総研内部では、第五世代コンピュータプロジェクトの評判は相当に悪いものでした。何故かといえば、同プロジェクトの推進機構ICOTに研究テーマと研究員をもっていかれたうえ、電総研には同プロジェクトから研究費がこなかったからです。そこで、霞が関との折衝を経て、研究費については新プロジェクトから電総研への新たな流入策を考えました。また、研究員の出向については、リアルワールドコンピューティング(RWC)プロジェクトを実施するプロジェクト推進機構RWCPへの電総研からの出向者の便宜を考えて、その研究拠点を筑波に設立することにしました。

研究員の物理的な研究環境を世界水準とし、研究員の出向意欲を高めました。第五世代コンピュータの場合、渕一博さん(元電総研パターン情報部長)というカリスマ性のあるプロジェクトリーダが存在し、10年間に渡ってICOT研究所長を務められました。RWCプロジェクトの場合、渕一博さんに相当する<余人をもって代えがたいプロジェクトリーダ>は期待できませんでした。それで、もう少し気軽に、カリスマ性がなくてもリーダを引き受けられるようなRWCP組織とすべく画策しました。

RWCP研究所を電総研内部に取り込んで、プロジェクトリーダと研究員の多くを電総研職員とする方式です。結果的には、第五世代コンピュータプロジェクトの影響が大きく、RWCプロジェクトの推進機構RWCPはICOTという前例を踏襲した形で発足することになり、島田潤一さん(元電総研光技術部長)が電総研を離職しRWCP研究所長になりました。10年間継続したRWCプロジェクトは、通産省プロジェクトとしては世界的な注目度も低く、国内的にも存在感の乏しいものとなりました。よくも悪くも、世界に向けて激震を走らせた第五世代コンピュータとは異なる終わり方をしたと思います。

電総研を辞職する直前の3年間ほど、私はRWCプロジェクトの立ち上げのために奔走しました。第五世代コンピュータプロジェクトの反省を踏まえ、RWCP研究所を筑波に設立し、RWCプロジェクトからの研究費を電総研に流入させることができました。しかし、官僚や企業の論理と付き合いきれない現実に直面して、継続してRWCプロジェクトと関わることの難しさを感じていました。それで、プロジェクトが実際に始まる頃に次の人にバトンタッチしたいという意向を上の方に伝えていました。そうした引継ぎを終えて、1993年、電気通信大学大学院情報システム学研究科に移りました。こうした苦労話は、30年の年月を積み重ねた故に、昔語りの愚痴が昇華され、自分の口から話すことができます。これらのことが、RWCプロジェクトの隠れた記憶として継承されることを願っています。

 

大学教員へ


 

―電気通信大学でのことを教えてください。

電気通信大学では、1993年から2007年までの14年間、教員を務めました。その間、博士前期課程(修士)の学生は、延べ80名ほど研究指導を担当しました。博士後期課程の学生については、博士の学位取得者は5名です。他に論文博士が1名、単位取得退学者が2名います。退学者についてはいろいろな事情でそうなったのですが、指導教員の立場からすると何とかできなかったかと今でも反省しています。大学で一番重要なことは、それぞれの学生に適切な論文を書かせることです。研究目標を決めてテーマを継続的に立ち上げるという、電総研での研究の取り組み方との違いを痛感しました。

助手(現在は<助教>と呼ばれています)の方たちにお世話になりましたが、皆さんは5年という任期付きポジションです。その結果、長期的な研究計画を立てて、その枠組みの中で研究を進めるという訳にはいきません。5年以内に研究成果がでるようなテーマを設定せざるを得ないですね。本来、大学での研究は1つのテーマを20年ぐらいの期間で考えられればいいのでしょうが、現実的にはなかなか難しいことに気づかされました。その点、当時の電総研は恵まれていました。

―先生にとっての計算機とはどういったものでしょうか?

現在の情報化社会を支えるインフラストラクチャですね。スマホだって立派な高性能計算機ですし、SNSも欠くべからざる社会的インフラストラクチャです。社会的インフラストラクチャであるがために、プライバシーやセキュリティ面でさまざまな問題が出てきています。私自身にとって、計算機は自分の生存のためのインフラストラクチャであり、インフラストラクチャは空気みたいな存在です。空気も汚れていたり、色がついていたり、希薄なところがあったりするように、インフラストラクチャも広告に埋もれていたり、フェイクニュースに曝されるなど、嫌なところが沢山あります。そういったところが改善されて、誰もが気持ちよく使える環境になって欲しいですね。

―先生がこれからやってみたいことを教えてください。

難しい質問ですね。この歳で研究ができるか、できないかということがありますね。生半可な覚悟で研究に取り組めるものではないことはよく分かっています。研究をやって得られることの虚しさも分かっているつもりですので、もう新たな研究に挑戦することはないでしょう。ただ、自分が若いときは「研究は暇つぶしだ!」と粋がっていましたが、若い研究者たちには、冒険心をもって研究テーマに挑戦して欲しいです。研究に没頭するという時間の過ごし方は、対象が何であれ人生の贅沢であると思います。アカデミアとの接触も久しくなりましたが、未知に挑戦する野心に期待しています。

私は定年退職後に、四国遍路1,200kmを3回に分けてですが、全部歩きました。それで自信を得て、スペインのサンチャゴ巡礼800kmを歩きました。富士山頂にも登りました。人間は歩くとき何を考えるでもなく、脚を右、左と動かしているだけです。動かさないと目的地に到達できません。ぼんやりと地球の表面を無心に移動しているだけです。歩いているとき、昔あった腹立たしいことや嫌な記憶が、<泡>みたいな感じで脳裏に浮かび上がってきました。でも、歩いていて肉体的に疲れてくると、だんだんそれが昇華されて薄らいでいきます。これこそが、遍路という修行によって得られる<悟りの境地>であると思うことにしました。歩いたのは今から10年ほど昔のことで、これからまた出かけるのは無理ですね。

最近は「現在の趣味は何ですか?」と尋ねられると、無難に、読書と映画と答えています。国内外の旅も好きでしたが、コロナ禍のせいもあり、このところ趣味といえる実績がありません。読書対象は雑多ですが、本を読んだら<書評>と称して、感想文を書くようにしています。極限状態における人間の心理状況に惹かれるものがあり、映画だと最近はホロコースト関連の外国映画を結構多く観ていますね。脳の強化学習のために、自己満足の<映画評論>も書いています。これらは、ここしばらくは続けていきたいですね。

 

弓場敏嗣氏の経歴

Toshitsugu Yuba
 

1966年、神戸大学大学院工学研究科修士課程修了。(株)野村総合研究所を経て、1967年、通商産業省工業技術院電気試験所(その後、電子技術総合研究所に改名、現在は特定研究開発法人産業技術総合研究所)に入所。以来、計算機のオペレーティングシステム、見出し探索アルゴリズム、データベースマシン、データ駆動型並列計算機などの研究開発に従事。その間、計算機方式研究室長、知能システム部長、情報アーキテクチャ部長を歴任。1993年より、電気通信大学大学院情報システム学研究科教授。2007年、同大学を定年退職、名誉教授。工学博士。情報処理学会、電子情報通信学会、各フェロー。退職後、国際キリスト教大学非常勤講師の他、居住地域への社会貢献として、千葉県我孫子市の社会教育委員、小学校評議員、平和事業推進市民会議委員、ひとり親・児童福祉推進市民研究会委員を務めた。

 
 
 
 
 
 

写真:小西史一