新HPCの歩み(第89回)-1989年(a)-
日本ではいくつかの実験的並列コンピュータが登場している、筑波大学のQCDPAX、東大のGRAPE-1、京都大学のADENA IIである。Hitachiアカデミックシステム研究会(HAS研)の設立総会および第1回研究会が行われた。円周率の競争はずっと続いているが、1989年11月、金田・田村組はS-820/80を用いて10.7億桁を計算した。 |
社会の動き
昭和天皇が1月7日に逝去され、1月8日に「平成」と改元した。バブルは崩壊寸前だったがそれに気づいていた人は少ない。そして、鉄のカーテンも一挙に崩壊へ。日米貿易摩擦も再び燃え上がる。1989年(昭和64年/平成元年)の社会の動きとしては、1/?盛田昭夫・石原慎太郎共著『NOと言える日本-新日米関係の方策』発行、1/18ポーランド「連帯」合法化、1/20ブッシュ(父)が第41代米大統領就任、1/24経済企画庁長官がリクルートから政治献金を受け取っていたとして辞任、2/2ソ連、アフガニスタンから撤退開始(2/15完了)、2/4日本で金融機関が土曜日休業、2/7民社党委員長がリクルートコスモスの未公開株を譲り受けたとして辞任、2/9手塚治虫死去、2/10オウム真理教男性信者殺害事件、2/13リクルート前会長の江副浩正を逮捕、2/14ホメイニがラシディに死刑宣告、2/17日本で「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」施行、2/22吉野ケ里で大規模な環濠集落が発見される、2/24昭和天皇大喪の礼、3/6リクルート事件で、NTTの真藤恒を逮捕、3/13世界中で大規模な磁気嵐が発生、3/23 Martin FleischmannとStanley Ponsが常温核融合に成功したとの発表、3/28リクルート事件で元文部事務次官を逮捕、4/1日本で消費税3%スタート、4/11川崎市の竹藪で1億円発見、4/11竹下登首相がリクルート社から1.5億円もの資金提供を受けていたことを公表、4/12中国の李鵬首相来日、4/12中国の胡耀邦前総書記死去、4/20朝日新聞珊瑚記事捏造事件、4/25竹下首相退陣表明、4/26竹下首相秘書自殺、4/27松下幸之助死去、5/2ハンガリー政府がオーストリア国境の鉄条網の撤去に着手、5/29東京地検特捜部、リクルート事件捜査終結宣言、6/2竹下内閣総辞職、宇野宗佑、自民党総裁に、6/3宇野内閣発足、3日後、女性スキャンダル表面化、6/4天安門事件、6/4ポーランド上下院で「連帯」圧勝、6/24美空ひばり死去、6/27家永教科書裁判、第二次訴訟差し戻し審、東京高裁は(家永勝訴の)第一審判決破棄、7/14-16第15回サミット(パリ)、フランス革命200周年、7/16阿蘇山噴火、7/23第15回参議院選挙、日本社会党第一党、「山が動いた」、宇野首相辞意表明、7/23宮崎勤逮捕、7/31静岡地裁、島田事件再審無罪、8/10海部俊樹、首相に、8/26礼宮、川嶋紀子との婚約発表、8/26内閣官房長官、女性問題で辞任、後任は森山真弓、8/30三井銀行と太陽神戸銀行が対等合併と発表、9/27横浜ベイブリッジ開通、10/2「サンデー毎日」がオウム教団の批判キャンペーン始める、10/3家永教科書裁判第三次訴訟(国家賠償請求)、東京地裁は国に10万円の賠償命令、10/9幕張メッセ開場、10/14田中角栄が政界引退を表明、10/17 Loma Prieta地震(17:04 PST)でサンフランシスコ一帯被災、10/17東ドイツでホーネッカーが失脚、10/23ハンガリーが社会主義体制を放棄、10/31三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収、11/4坂本弁護士一家殺害、11/9鄧小平、中央軍事委員会主席を辞任、11/9ベルリンの壁崩壊、東西交通自由化、11/22「連合」発足、11/24チェコスロバキアでビロード革命、共産党政権が崩壊、12/1東ドイツで一党独裁が終焉、12/1ルーマニアのコマネチがアメリカに亡命、12/3ゴルバチョフとブッシュがマルタで会談、冷戦の幕引き、12/20アメリカ、パナマ侵攻、12/22ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊、12/29東証の大納会で史上最高の日経平均株価(38957.44円)、バブルの最後の花であった。
流行語・話題語としては、「お局(つぼね)さま」「セクシャルハラスメント」「濡れ落ち葉」「オバタリアン」「山が動いた」「一杯のかけそば」「24時間戦えますか」など。
チューリング賞は、数値解析への基礎的貢献に対してWilliam Morton Kahan(UCB)に授与された。
エッカート・モークリー賞は、Seymour Crayに授与された。
ノーベル物理学賞は、分離振動場法の開発、およびその水素メーザーや原子時計への応用に対しNorman F. Ramseyに、イオントラップ法の開発によりHans G. DehmeltとWolfgang Paulに授与された。化学賞は、RNAの触媒機能の発見により、Sidney AltmanとThomas Robert Cechに授与された。生理学・医学賞は、レトロウイルスのがん遺伝子が細胞起源であることの発見に対し、J. Michael BishopとHarold E. Varmusに授与された。
日本政府の動き
1) 学術情報センター
1986年に設置された学術情報センター(所長猪瀬博)は、1988年4月から電子メールサービスNACSIS-MAILを運営してきたが、1989年1月、NSFのネットワークと国際接続した。1990年にはイギリスと接続する。
日本の大学センター等
1) 北海道大学(HITAC M-682H+S-820/80)
北海道大学大型計算機センターは、1989年2月、スーパーコンピュータをS-810/10からS-820/80に変更し、HITAC M-682H+S-820/80(主記憶320 MB)の構成とした。
2) 東北大学(SX-2N)
東北大学大型計算機センターは、1989年2月、SX-2Nの運用を開始した。
3) 筑波大学(キャンパスネットワーク)
筆者のいた筑波大学では、これまで各部局の自主努力によって学内コンピュータ回線が整備されてきたが、ネットワークの普及、利用の高度化により、容量や機能が不足してきた。また、ガバナンスも課題になって来た。そこで、ネットワークを飛躍的に増大する計画を立て、あわよくば概算要求に載せようということで、筆者が安藤和昭学術情報処理センター長からワーキンググループ案の策定を依頼された。当面の任務としては、学内ネットワークの運営や学外ネットワークとの接続に関する技術的諸問題の検討とともに、今後のネットワーク整備計画の策定、そのための他大学視察、予算がついてからの実施、運営などであった。筆者の当時の問題意識は、趣意書の次の文章に要約されている。
全国的に見ても、また国際的にも、学術ネットワークは一つの転機を迎えております。「草の根」レベルからボランティア的に盛り上がったシステムが、利用の増加・高度化とともに、よりグローバルな組織化を必要とする段階に来ているように思われます。しかし組織の巨大化が、硬直化を引き起こさないように、ボランティア的運営のよい面を取り入れつつ、バランスを取って行くことが重要であります。この点につきましても、関係各位の英知と御見識を期待いたしております。 |
第196回評議会(1989年9月28日)において統合情報ネットワーク設置準備委員会設置が決定された。第1回会合(1989年11月9日)において、ネットワークの設置計画およびその運用等について具体的に検討するために専門委員会を設置した。専門委員会は、国内諸大学の視察を行い、また情報通信技術の動向を見定めた上で、筑波大学統合情報ネットワークの構想をまとめ、これを受けて本準備委員会は、中間答申を策定した。中間答申では、持つべき特徴を以下のように述べた。
①オープンネス
②セキュリティ
③集中・分散管理
④UTV(学内テレビ)との結合
⑤学園都市ネットワークへの寄与
⑥他大学のキャンパス・ネットワークとの結合
専門委員会は、その後、学内各部局に対し、アンケート調査を行い、同時に業者ヒアリングを実施した。筆者の印象は、日本製のネットワーク機器は、ハード的には優れているが、それを稼働させるソフトが遅れているという感じであった。本最終答申はこれらの作業の上に立って、90年代のネットワークにふさわしい設備を提案した。
当時のlanの末端はYellow CableのEthernetであった。今では「それ何ですか?」であろうが、主として黄色(いろんな色もある)の特殊な太目の同軸ケーブルで、これに特殊な道具で針を刺してネットワークに接続するものである。学内のすべての建物のサイズや接続端末数などから、必要なケーブルの本数を算出したが、これが結構大変であった。また、筑波大学は、キャンパス内の3地区に大きな学生寮団地があり、居室に電話もなかったので、電話とネットを同時に引ける富士通のディジタル電話システムで見積を行った。当時ISDNは64 kb×2+16 kbだったが、富士通のディジタル電話は64 kb+16 kbで、安かったからである。(正確にはkb/s)
全体として10億円以上の総工費に加え、「情報担当副学長」まで要求した。ハードやシステムだけではなく、人間のシステムも重要だからである。
詳細な図面付きの最終答申を出して、筆者は筑波大学から転出したが、ほどなく1994年の補正予算でキャンパスネットが張れることになり、その時の概算要求作成に大いに役立ったとのことである。もちろん、規模はずっと小さくなったが。
4) 北見工業大学
1989年1月、北見工業大学は情報処理センターを設置。
5) 小樽商大
1989年1月、計算センターを情報処理センターに改組拡充し、前年12月に搬入したFACOM M-760/6システムを2月に稼働。
6) 新潟大学
1989年5月、総合情報処理センターを設置した。
7) 茨城大学(HITAC M-660H、M-620H)
情報処理センターでは、1989年2月に機種更新を行ない、日立地区はHITAC M-660Hに、水戸地区、阿見地区(農学部)にはそれぞれHITAC M-620Hを導入した。日立地区・水戸地区間の回線は64kbpsに、日立地区・阿見地区間は14.4kbps×2回線になった。
8) 工学院大学(ACOS 930)
1989年、新宿校舎大学棟が竣工し、ACOSシリーズモデル930を導入した。学内LANを構築し、EWSを研究用に40台配置。
9) 東京電機大学(VP-100E)
東京電機大学は1989年VP-100Eを設置した。
10) 法政大学(VP-100E)
法政大学は1989年VP-100Eを設置した。
11) 慶応義塾大学
全学に計算サービスを提供するために1970年に設立された情報科学研究所は、1989年4月1日に解散した。情報科学研究所の目的の一つであった全学に対する情報処理教育の機能を、新たに設置された全学組織「情報処理教育室」に移管した。なお情報処理教育室は、2013年3月31日にその役割を終えた。
12) 青山学院大学
1989年2月、全学のネットワークシステム(Sun-4)を導入。4月、厚木キャンパスのパソコンシステム(PC-9801)入れ替え。
13) 九州産業大学(FACOM M-760/10)
九州産業大学は、1989年9月、FACOM M-760/10を導入した。
14) 統計数理研究所(HITAC M-682H+M-660D)
1989年に、これまでのHITAC M-280Hを、大型汎用計算機 M-682H(55MIPS、256MB、IAP付)と中型汎用計算機 M-660D(5.3MIPS、64MB)に更新した。1988年まではあったハイブリッド計算機S-300はなくなったようである。
15) 高エネルギー物理学研究所(S-820/80)
1989年3月、高エネルギー物理学研究所は、S-810/10をS-820/80( 512MB)にリプレースした。選定の経緯は1988年のところに書いた。4月1日、所長に理論部門の菅原寛孝教授が就任した。
16) 分子科学研究所(S-820/80)
分子科学研究所は、1989年、S-810/10をS-820/80をリプレースした。
17) 国立天文台(VP-200E)
国立天文台野辺山宇宙電波観測所は、1989年VP-200Eを設置した。
日本の学界の動き
1) 東京大学(GRAPE-1)
東京大学の杉本らは、1989年9月重力多体問題用の専用計算機GRAPE-1を完成した。精度は低いが高速に演算ができた。
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2) 筑波大学(QCDPAX)
1989年度は、筑波大学の岩崎洋一、星野力らにとってQCDPAX開発の最終年度であった。半導体の値段が思ったほど下がらないので、予算が足りなくなり、数千万円の追加を申請してどうにか432ノードを用意した(当初の計画は480ノードだった)。アンリツが製作した六角形に配置した筐体(写真。前の女性はモデル)が納入された。1990年4月6日に完成記念記者会見および披露会を行い、有馬朗人先生や菅原寛孝先生も駆けつけてくださった。1990年3月には格子ゲージの計算を始めていたが、ハード・ソフトのバグ取りや調整のために、本格利用までにはさらに約1年の歳月が必要であった。これには金谷と吉江が不眠不休で尽力した他、1989年に日立から筑波大学教授に着任した中澤喜三郎教授の助言が非常に有効であった。「さすが、メーカでものづくりに命を掛けた人は違う」と感嘆した。ピーク速度は単精度で 13.75 GFlopsと称しているが、これが実現するのはベクトルの二乗和だけであった。
調整の最中に、データ並列の同じ演算が、逐次処理とベクトル処理でたまに答えが違う事件が起こった。演算ハードウェアは共通である。筆者が心眼をもってhexadecimal dampをじっと眺めた結果、違いはすべてbit 16で起こっていることを発見した。プリントボード設計をチェックしたところ、何とbit 16の配線だけがものすごく遠回りしており、雑音を拾っていることが判明した。自動配線ソフトのポカであった。原因は突き止めたが、これに対処するために、何百枚ものボードのその配線を切って針金の配線に置き換えるのは大仕事であった。筆者はやらなかったが、超並列の恐ろしさを痛感した。
アーキテクチャ研究者に言わせると、「1秒動けば論文が書ける」そうだが、物理学など実用の計算機はそうはいかない。1日24時間、年365日動かないと仕事にならない。これは、手作りに毛の生えたようなコンピュータにとっては過酷な要求であった。しかし、QCDPAXは1999年3月まで約9年間稼働し続け、研究に活用された。
このような経験に基づいて、1989年11月29日に東京大学情報科学教室で「並列計算機と数値シミュレーション」というセミナーを行った。
3) 京都大学(ADENA II)
京都大学の野木達夫らは、1983年に開発したADENA 1 (16プロセッサ)に続いて、256プロセッサの並列計算機ADENA IIを製作した。このため松下電器と共同で1984年から独自開発の2命令同時実行スーパースカラのマイクロプロセッサOHMEGAを開発した。クロックは40 MHzでピーク性能は80 MFlopsである。256個で1 GFlopsの実効性能を達成した。松下電器は1964年に汎用コンピュータ事業から撤退したが、これによって再参入を果たすかと思われた。1990年中に製品化の予定であった。このマシンを最適利用するために、ADETRANというFORTRANライクな言語も開発した。後に野木等は、この言語をVPP500に実装することを試みている。
4) NTT(R256、AAP-2)
この頃、NTTのLSI研究所(厚木)の深沢等は、デバイスシミュレーションなどの科学技術計算を目的として、R256を開発した。CPUは自主開発で、IEEEの80ビット拡張浮動小数の演算を実装した。ネットワークは16×16の2次元クロスバである。
研究所は、このころ1 bitプロセッサの2次元アレイであるAAP-2を開発した。256×256で、ニューラルネットワークなどを目的としている。1986年ごろ開発したAAP-1の改良版である。
5) HAS研設立総会
Hitachiアカデミックシステム研究会(HAS研)は、1988年12月6日に設立懇談会を開いたが、この時の議論に基づき、1989年3月14日、設立総会と第1回研究会を開催した。プログラムは下記の通り。
設立総会 ・幹事報告及び会則審議 ・役員選出及び挨拶 ・事業計画 ・来賓挨拶・・・株式会社日立製作所 三浦 武雄 |
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第1回研究会 |
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VOS3-JUNET間のメール転送機能について |
京都大学 八村 広三郎 |
プログラム作成・実習用エディタ |
広島修道大学 富岡 恒雄 |
ASPEN対応の端末プログラム |
電気通信大学 岡野 豊 |
高エネルギーネットワークでのHITAC大型機 |
高エネルギー物理学研究所 小笠原 隆亮 |
11月21日には、第2回研究会を開催した。
学術情報ネットワーク -学術情報流通の基盤通信網として- |
学術情報センター 飯田 記子 |
私立大学間ネットワーク(PUNnet)の現状と展望 |
関西学院大学 雄山 真弓 |
LAN間接続について |
高エネルギー物理学研究所 一井 信吾 |
電子メールシステムUMAILの紹介 |
ファコム・ハイタック株式会社 野村 泰嗣 |
情報処理教育分科会、WS&ソフトウェア分科会が設置された。
6) ISR(CPU 提供制度)
リクルートISRは、これまでアカデミアに対する「CPU 提供制度」を実施して来たが、今回(1989年1月~3月)は大規模な計算にしぼり、4件(明治大学、金材研、東北大・京大・阪大、阪大の4グループ)を採択した。提供したのはSX-2Aの計算時間100時間である。
7) 円周率
1987年から1989年にかけて、金田康正(東大)と田村良明(緯度観測所)のグループと、Chudnovsky兄弟とで、円周率の桁数について抜きつ抜かれつの競争が続いたが、1989年11月19日、金田・田村組はS-820/80を用いて10.7億桁を計算した。検証を含めて160時間を要した。その後も円周率計算の競争が続き、2009年4月、高橋大介他がT2Kを用いて2.57兆桁まで計算する。円周率は、この頃まではスーパーコンピュータのある種のベンチマークの役割を果たしていたが、2009年以後は、マイクロプロセッサの高性能化とディスクの大容量化により、時間さえ掛ければ個人のPCクラスタで計算できるようになった。
8) David Kahaner
アメリカのNIST (National Institute of Standards and Technology)にいた数値解析研究者Dr. David Kahanerが、1989年11月に、Office of Naval Research Far Eastのスタッフとして来日した。最初2年の予定であったが、もう1年延長し、その後は東京他にATIPを組織して、それを中心に活動している。当時、日本国内の研究会や国内国際会議に精力的に出席し、(日本語はあまりわからないはずなのに)、われわれの理解をはるかに超える精密なレポートを書いていたので驚いた。
次は国内会議や国内企業など。第1回のJSPPが開催され、第2回のSWoPPが、「1989年並列処理に関する『指宿』ミニシンポジウム」の名称で開催される。日米構造協議が始まる。
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