世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


11月 10, 2014

HPCの歩み50年(第16回)-1981年-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

小柳義夫(神戸大学特命教授)

この年の大事件は、通商産業省が「科学技術用高速計算システムの研究開発」(通称「スーパーコン大プロ」)を始めたことである。革新的な開発が含まれていたが、10 GFlopsの並列ベクトルコンピュータを試作するという企画は、その後の市場の進展に追い越されてしまった。他方、CalTechにいたイギリス生まれの素粒子理論物理学者Geoffrey C. Foxは汎用プロセッサによる並列コンピュータ開発のCosmic Cubeプロジェクトを始めた。あと、CSNET、BITNET、HEPnet、N-1ネットなどのコンピュータネットワークがこの頃一斉に始まっていることが印象的である。

社会ではロッキード裁判の一年であった。1/20レーガン米大統領就任、2/23ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世来日、3/20神戸ポートピア博開幕(~9/15)、4/12スペースシャトル・コロンビア初飛行、4/22マザー・テレサ来日、7/29英チャールズ皇太子、ダイアナと挙式、9/8湯川秀樹死去、9/27フランス国鉄、パリ・リヨン間でTGV開通、10/16北炭夕張炭鉱ガス事故、11/5小佐野、ロッキード事件で実刑判決など。この年、福井謙一がノーベル化学賞受賞。佐藤勝彦はインフレーション宇宙論を提唱。「なめネコ」と「ノーパン喫茶」が流行語であった。

(タイトル画像 SIGMA-1 独立行政法人産業技術総合研究所提供)

筆者が計算物理学を本格的に始めたのはこのころのようである。Metropolis法によるスピン系(O(3)など)のシミュレーションから研究を始めた。7月に高エネルギー研で共同研究者と打ち合わせたという記録がある。現在ではMCMC (Markov Chain Monte Carlo)として、経済学にまで応用されている。

前にも書いたように、この年8月24日に筑波研修センターでCray-1の説明会が開かれ誘われたが、「小遣いで買えるような代物でないので」とお断りをした。しかし「とにかく話を聞いてください」というので出席した記憶がある。その時に頂いたCray Fortranのマニュアルがあったはずだが、捨ててしまったかもしれない。

日本の学界の動き

1) 数値解析研究会
自主的に企画している第10回数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)は、名古屋大学二宮研究室の担当で、1981年5月28日(木)~30日(土)に、愛知県労働者研修センター(定光寺)で開催された。参加者は106名。筆者も参加した。100名を超えたのは初めてであり、その後大体この規模で開催されている。

2) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1981年11月19~21日、今度は森正武(筑波大学)を代表者として「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を開催した。第13回目である。報告は講究録No.453に収録されている。数理的な話題は多いが、浜田穂積のURR、星野力のPACS、野木達夫のADINAなど計算機システム寄りの話題も目立つ。

3) 円周率の計算
三好和憲(筑波大)と金田康正(東大)は筑波大学のFACOM M-200を137時間用いて200万桁求めた。筆者が裏書きしてギネスブックに申請し、「最も精度の高い数字」ということで登録された。ギネスブックに円周率が載った最初だと思う。

スーパーコン大プロ

通商産業省が主導する大型工業技術院研究開発「科学技術用高速計算システムの研究開発」(通称「スーパーコン大プロ」)が1981年度から始まった。電子技術総合研究所(電総研)を中心に多くの日本企業を結集し科学技術用高速計算システム技術研究組合を構成した。リーダーは、電総研情報科学部長の田村浩一郎であった。10月の産業技術審議会で、研究開発期間9年間、研究開発費総額は230億円、研究開発目標が定められた。研究開発の項目として以下のものが上げられている(途中変更がある。最終報告書に基づく)。

  1. シリコン素子に代わる新しい高速論理素子および高速記憶素子
    Josephson接合素子、HEMT素子、GaAs FET素子の開発
  2. 多数の基本プロセッサを同時に動作させる並列処理方式
    資源衛星データ処理のための、大規模並列処理装置(CAP、64×64のSIMD)、高機能並列処理装置(VPP、ベクトル演算を行う8台のPUをGaAs素子のスイッチで結合)、3次元画像表示装置(GP、Geometry Processor 16台をハイパーキューブ結合、ビデオ発生器にはHEMT素子を使用)からなるシステム。
  3. 高速演算用並列処理装置、大容量高速記憶装置、分散処理用並列処理装置からなる総合システム
    10 GFlops以上の高速演算用並列処理装置、容量1 GB以上、転送速度1.5 GB/s以上の大容量高速記憶装置、100 MFlops以上の分散処理用並列処理装置からなる。結果的に開発されたのは、マルチベクター型システムPHI (Parallel, Hierarchical and Intelligent)と外部大規模記憶装置LHS (Large capacity High speed Storage)とデータ駆動システムSIGMA-1であった。PHIは4台の市販プロセッサを結合した並列ベクトルコンピュータで4 GFlops + 2 GFlops×3 というヘテロなシステムである。LHSは4 GBの容量、1.5 GB/sの転送能力を持つ。SIGMA-1は電総研のチーム(島田俊夫、平木敬、西田健次、関口智嗣)が開発し、128台のPEから成る世界最大のデータ駆動コンピュータであった。

1981年といえば、日本ではまだ本格的なスーパーコンピュータ開発の発表もなく(社内では進んでいたであろうが)、そのような時点で10 GFlopsという高い目標を掲げたことは画期的であったといえる。しかし、9年間という歳月はコンピュータ技術にとっては長すぎた。1987年にはピーク10 GFlopsのETA-10が商品として出荷され、研究開発プロジェクトが市場に追い越された形となった。

この通産省のスーパーコン大プロが、日本のスーパーコンピュータ開発にどのような影響を与えたかについてはさまざまな意見がある。市場の動きを抑制したと否定的に見るものもいる。筆者は1990年6月25日に工業技術院共用講堂で開かれた成果発表会に参加したが、田村浩一郎リーダーが「このプロジェクトの真の目的は要素技術の開発です」と強調していたのが印象的であった。

日本の企業の動き

M280H
HITACHI M-280H
M382
FACOM M-382

上記2画像 出典:

一般社団法人情報処理学会

Web サイト「コンピュータ博物館」

FPS164

FPS-164
pyramid-98x
Pyramid Technology 98x
上記2画像出典:Computer History Museum

日本のメインフレームはさらに上位機種が出て来た。

1) 日立
日立は2月HITAC M-280D, M-280Hを発表した。M-280HにはIAPが搭載され、世界で初めて条件付きDOループの自働ベクトル化を実現した(75APUは拡張言語方式)。ピーク性能は67 MFlops。
前に述べたように、高エネルギー研には8月M-200Hが3台(主記憶は16MB+16MB+8MB)導入され、1985年8月まで稼動した。

2) 富士通
富士通は5月、FACOM M-380/382を発表した。

アメリカの学界の動き

1) Cosmic Cube Project
この頃、CalTechにいたイギリス生まれの素粒子理論物理学者Geoffrey C. Foxは並列コンピュータ開発のCosmic Cubeプロジェクトを始めた。これは、Intel 8086/87プロセッサと128kBメモリからなるノード64個をハイパーキューブ結合したものである。このアイデアは後にIntel iPSC/1 (1985)で商用化された。Foxは以前、筆者と同じような分野(Regge Pole現象論など)の研究を行っていたが、イギリスのコンピュータが遅くてしょうがない、と物理の論文で嘆いていたのを覚えている。

HPCと直接の関係はないが、PDG (Particle Data Group)関係で1974年頃、LBNLで高エネルギー物理文献・データを記述するために、PPDL (Particle Physics Data Language)という言語と、PPDS (Particle Physics Data System)というデータベース・システムが開発されていることを聞いたが、この開発もFoxを中心に行ったそうである。トリー構造のデータベースで、今ならXMLを使ったであろうと思われる。

アメリカの企業の動き

1) IBM社
アメリカでは、10月、IBM社がアドレス空間を31ビットに拡張したSystem/370-XAアーキテクチャに基づく3081Kを発表した。IBM互換路線を取っていた日立と富士通にとって大きな脅威であった。

他方、IBM社は8月12日、IBM Personal Computer 5150(いわゆるIBM PC)を発表した。OSにはMicrosoft社のMS-DOSをPC-DOSとして採用した。それまではパソコンといえばApple IIやCP/Mマシンが独占していたが、IBMは参入するやたちまち商業的に成功した。メインフレームもそうであったが、IBM社はパソコンにおいても後からやってきて市場を席巻するという経過をたどった。しかし23年後の2004年12月、IBMは全PC事業を中国のLenovo社に売却することを発表した。ついでに、1993年の並列システム参入においても同じパターン(後からやって来て市場を席巻)が再現した。

2) Floating Point Systems社
また1981年、Floating Point Systems社(1970年創業)は64ビットのFPS-164を出荷した。

3) BBN Technology社
BBN Technology社(1948年、Cambridgeで創立)は、1981年並列計算機BBN Butterflyを出荷した。512個以内のCPU(MC68000など)をButterfly Networkで結合し、非対称共有メモリの並列計算機であった。

ベンチャー企業の創立

1) Pyramid Technology
1981年、Hewlett-Packard社(1947年創業)を退職した人々が、RISCベースのミニコンピュータを開発するためにPyramid Technology社を設立した。対称型共有メモリ並列コンピュータの98x (1985)やMIServer (1989), Nile (1993)などを開発したが、1995年にSiemens社(1847年創業)に吸収された。並列ベンチャーの走りの一つと言えよう。

2) Weitek社
1981年、Intel社を退職した技術者がWeitek社を設立し、他社のCPU向けにFPUの開発を始めた。いろいろなワークステーションに使われた他、HPCの分野では、Alliant FX (1985)や FPS T-series (1986) の演算器として利用されたことで知られる。後に述べる格子ゲージシミュレーション専用機のうち、Columbia大学のマシン、イタリアのAPE、IBMのGF11、FermlabのACPMAPSなどほとんどがWeitekを用いている。また、ドイツの国家プロジェクトSUPRENUMも用いている。1995年頃経営不振となり、1996年、Rockwell’s Semiconductor Systemsに買収された。

3) Mercury Computer Technology社
マサチューセッツ州Chelmsfordで、組み込みシステム(軍用など)のための並列システム開発するために設立された。

4) 集積回路設計ソフト会社(Silicon Compiler, Mentor, ECADなど)
ICの設計技術がこのころ飛躍的に発展した。1980年代に、さまざまなカスタムCPUの並列コンピュータが続々登場する背景にはこういう事情がある。その一つとして、David L. Johannsen、その指導教授Carver Mead、およびEdmund K. Chenは、1981年にSan JoseにおいてSilicon Compiler Inc.を創業した。Silicon Compilerは、Cに似た抽象度の高い言語で仕様を記述すると、それを自動的にIC上の回路に変換するソフトである。余談であるが、あるときSilicon Compilerの講習会に参加した筑波大学の同僚I氏は、帰ってきて、「実に簡単だ。サルでも小柳さんでもICを設計できる」と感激していた。筆者は思わず、「サルだけ余計だ」と怒鳴った。

同じ1981年、電子系設計ソフトウェアのMentor Graphics Corp.がオレゴン州Wilsonvilleで創業された。ECAD Inc.(Cadence Design Systems社の前身の一つ)は翌1982年にSanta Claraで創業した。

Silicon Compiler Inc.は、1987年4月にSilicon Compiler Systems Corp.と名前を変え、1990年3月23日にMentor Graphics Corp.に買収された。

ネットワーク

1981年、インターネットに連なるネットワーク関連のいろいろな動きが起こっている。

1) CSNET
CSNET (Computer Science Network)は、3年間のNSFの支援を受けて、アメリカのコンピュータ科学者をつなぐネットワークとして発足した。ARPANETは国防省のネットワークだったので、コンピュータ科学の分野ではほとんど使えなかったからである。1981年には、Delaware, Princeton, Purdueの3大学が接続された。1982年には24カ所、1984年には84カ所と拡大した。3年後以降は自主的に資金を出し合って運営したようである。当初は電子メールのみの利用であった。CSNETはその後NSFNETに発展した。日本では、1986年に東京大学が加入しJUNETとのゲートウェイの役割を果たした。

2) BITNET
BITNETも1981年7月に発足した。最初に接続されたのはCUNY (City University of New York)とYale Universityであった。日本では、1985年4月、東京理科大学とCUNYが接続され、ゲートウェイの役割を果たした。

3) HEPnet
ECFA (European Committee for Future Accelerators)は、高エネルギー物理学のためのデータ処理や通信について検討を進めてきたが、1981年にECFAのSub-group 5は、高エネルギー物理学のためのネットワークに必要な要件をまとめ、HEPnetと名付けた。はじめはヨーロッパ内だけであったが、すぐ米国などにも広がった。

4) N-1ネットワーク
そして日本ではN-1ネットワークが7大学大型計算機センターのメインフレーム計算機を結合し、1981年10月から正式運用を始めた。今から考えると、ずいぶん早い時期に始まったといえる。ただ、当時の電気通信法の制限により電子メールは許されなかった。日本の決定的敗因であった。

5) ネットワーク犯罪
1981年、まさに最初のネットワーク犯罪が起こったようである。筆者のメモによると、この年の12月4日、アメリカのDalton校の13歳の生徒4人が、学校の電話からカナダの120の企業に侵入を試み、27件は成功した。ある会社では1/5のデータが壊されたそうである。当時の日本では音響カプラーでしかコンピュータに接続することは許されなかったがアメリカではモデムを通して回線に直接接続することが当たり前であり、学校のそういう設備を通して侵入したものと思われる。たぶん当時は、セキュリティなんてないも同然であったのであろう。この記事を書くにあたり、webをいろいろ調べたがこの事件についての情報は得られなかった。

次回1982年、日本ではベクトルスーパーコンピュータがやっと姿を現すが、アメリカでは並列処理などのコンピュータベンチャーが雨後の筍のごとくに登場する。

 

left-arrow 50history-bottom right arrow → 右

特別スポンサー