世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


11月 17, 2014

HPCの歩み50年(第17回)-1982年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

小柳義夫(神戸大学特命教授)

この年の動きは日本とアメリカで対照的である。日本では、富士通がFACOM VP-100/200を、日立が同HITAC S-810を発表し、ベクトルコンピュータ全盛時代を予感させていた。他方アメリカではコンピュータ・ベンチャーがまさに「雨後の竹の子」のごとく登場しはじめた。後の並列・超並列の時代を予感させる。これらのベンチャーはほとんど1990年代に消滅するが、残した技術的インパクトは計り知れない。この年に出たアメリカのLax Reportは、アメリカの大学の研究者がスーパーコンピュータをふんだんに使える環境を作れと力説している。この年、日本では情報処理学会「数値解析研究会」が発足する。

この頃の社会的事件は鮮明に覚えている。2/8ホテル・ニュージャパン火災、2/9日航機350便羽田沖墜落(いわゆる「逆噴射」事故)、4/2フォークランド紛争勃発、6/22 IBM産業スパイ事件、6/23東北新幹線開業(大宮・盛岡間)、10/29岡田三越前社長逮捕、11/15上越新幹線開業(大宮・新潟間)、11/27中曽根康弘、首相に、12/13戸塚ヨットスクール事件など。IBM事件の時は、1月から中田育男教授(筑波大学)がアメリカのIBMの研究所に滞在しておられたので居づらいのではと心配した。

わたくし事であるが、2/6に自転車で転倒して左腕を骨折し、4週間のギプス生活を送った。活動はしていたが、左手を吊っていたので不自由であった。「おやなぎさん、その格好は何ですか」と私を笑った某社のSEは、その直後、バイクで自動車と衝突して大けがをした。「救急車の中で小柳さんの顔が浮かびました。」と言っていた。人のことを笑うものではないですね。筆者は12月に、筑波大学電子・情報工学系助教授にやっと昇任した。39歳であった。

日本の学界の動き

1) 情報処理学会「数値解析研究会」
第1回の数値解析研究会は、1982年7月2日に開催された。研究会資料によると4件の発表が行われた。この年度には4回の会合がもたれ、計13件の発表がなされた。当時の予稿集には手書きのものも多く、時代を感じさせる。

発表テーマを見て感じることは、意外にも、数学的な解析よりもコンピュータシステム上の問題が幅広く議論されていることである。丸め誤差の問題はもちろん、仮想メモリ上での大規模計算(メモリ階層の問題)、ベクトル計算機による大規模計算などのテーマが出ている。さらに、応用分野からの発表もいくつか見られる。「地表における観測記録から地下構造を推定する方法」(和知登、石油公団)、「大気の光学的厚さに対する太陽の伝達輝度の反転」(上野季夫、金沢工大)などである。主査が企画したのかも知れない。

1993年から数値解析研究会を発展的に解消し、「ハイパフォーマンスコンピューティング研究会(通称HPC研究会)」となった。

2) 数値解析研究会
自主的に企画している、第11回数値解析研究会(後の数値解析シンポジウム)は、名古屋大学二宮研究室の担当で、1982年5月27日(木)~29日(土)に、近江八幡国民休暇村で開催された。参加者109名。この年だったか次の年だったか記憶ははっきりしないが、筆者がPAXなどの並列計算機に興味を持っているというと、参加していたさるコンピュータ科学者から、「アムダールの法則というのがあるから、高並列計算機は実用にならない。止めた方がいいよ。」と「親切な」忠告を頂いた。今から思うと昔日の感がある。

3) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1982年11月18~20日、森正武(筑波大学)を代表者として、「数値計算のアルゴリズムの研究」という研究集会を開催した。第14回目である。報告は講究録No.483に収録されている。PACSによるGauss-Jordan法、IAPによる数値計算など、並列やベクトルのアルゴリズムが盛んに議論されている。

4) EVLIS

実験的なコンピュータとしては、安井裕(大阪大)らが並列LISPマシンEVLISを稼動させた。

5) 筑波大学星野グループ
筆者はこのころからPAX-32が物理(スピン系や格子ゲージ理論)に使えるのではと直感し、星野研究室に入り浸っていた。筆者は知らなかったが、星野先生が心配して筆者の上司(講座制ではないので、数値解析研究室の教授という意味で)の森正武教授に、「お宅の小柳という若手がうちに来ていますが、いいんですか」と聞いたそうである。森教授は何でそんなことを心配するのか不思議に思ったと言っておられた。筑波大学は講座制を廃し、若手が自由に活動し、分野を越えて連携する環境を作ることを目指していたからである。

星野らはこのころ科研費によりPAX-128を計画していたが(完成は1983)、計算科学に使えるもっと本格的な並列コンピュータを製作するべく種々の可能性を探っていた。そのためにはやはり億単位の予算が必要であり、当時の科研費の枠を越えていた。星野氏によると(「情報処理」2002年2月号)、「つてを頼り、スポンサーを探して東京中を歩き回り、1日に4,5カ所も訪問した」とのことである。筆者も、1982年6月24日には星野、川合に随行して文部省(当時)に陳情に行った。ついでに高エネルギー研の元関係者S氏や元筑波大のO氏などを見つけ相談を持ちかけた。なかなか名案はなかった。

でもこのとき、ある文部省幹部が、「でも先生方、消費税が始まればそういうお金はどんどん出ますから」と、消費税を打ち出の小槌のように話していたのが記憶に残っている。消費税は1989年4月から導入された。

6) LINKS-1
筆者がおもしろいと思うのは、大阪大学で大村皓一らが製作したコンピュータグラフィックス(レイトレーシング)用のマルチプロセッサLINKS-1である。10月末に試作完成した。レイトレーシングは自然な並列性をもっている。LINKS-1は最大256台のノードコンピュータを駆動することができた。これは単なる実験的なマシンではなく、多数の動画製作において実用的に用いられた。有名なのは、筑波科学博(1985)の富士通パビリオンで上映された全天周ドーム型3D映像である。筆者も見に行って感激した。筆者の記憶ではFACOM VPも合わせて使用したと思う。1985年4月9日、PAXグループの星野力、川合敏雄、白川友則と筆者は、これが稼動している東洋リンクスという会社(当時)に大村氏を訪問し、マシンを見学したが、並列処理はもちろん、コンピュータも知らないアーチストでも使えるようにソフトが整備されていることに感心した。

日本政府の動き

1) ICOT
なお、1982年6月、新世代コンピュータ開発機構(ICOT)が設立され、第五世代コンピュータプロジェクトが開始された。このプロジェクトは1992年まで11年間継続した。

日本の企業の動き

VP-100-2
FACOM VP-100 (画像提供:富士通株式会社)
HITAC-S810
HITAC S-810(画像出典:情報処理学会Webサイト「コンピュータ博物館」)

1) 本格的ベクトルスーパーコンピュータの発表
日本にもスーパーコンピュータの風が吹き始めた。7月に富士通はベクトル型スーパーコンピュータFACOM VP-100/200を、8月に日立が同じくスーパーコンピュータHITAC S-810を発表した。いわゆるIBM産業スパイ事件の直後であった。出荷は双方とも1983年である。アメリカからは、「自動車では負けたかも知れないが、スーパーコンピュータなんか日本に作れるものか」という反応が伝えられた。

2) 日本電気
1982年10月、16ビットパソコンPC-9801を発売した。CPUはi8086互換のmPD8086であり、メモリは最小128KB、最大640KBであった。全盛期には、日本のパソコンの90%を占めたと言われる。初代PC-9801は情報処理学会から2008年情報処理技術遺産として認定された。

アメリカ政府の動き(Lax Report)

Peter Lax はニューヨーク大学のCourant Instituteの教授であり、ニューヨーク大学のコンピュータセンターのセンター長を務めた。彼は、NSF、国防省、エネルギー省、NASAの支援を得て、“Panel on Large Scale Computing in Science and Engineering”を組織した。このパネルは、12月26日、後にLax Reportの名前で呼ばれる208ページのレポートを発表、次の4点の主要な勧告を行った。

  1. アカデミアの研究者にスーパーコンピュータへのアクセスを改善すること
  2. 計算数学の研究やアルゴリズム開発を推進し、それを使ったソフトウェアを作成すること
  3. 新しいアーキテクチャのシステムの研究開発を増強すること
  4. 数値シミュレーションのための先端計算のユーザを育成すること。とくに学部学生や大学院生に対して。

つまり、DOEやNASAや軍の研究所にはスーパーコンピュータが設置されているが、アメリカの大学にはスーパーコンピュータ施設が不足していること、そしてスーパーコンピュータ利用のできない科学者は計算能力を必要とする問題を避けるようになると警告した。これは種々の研究領域におけるアメリカの科学者の主導的地位を危うくするものである、と述べた。

一番はっきりした効果は、NSF (National Science Foundation) がHPCに資金を提供するようになり、1985~6年、5カ所の大学スーパーコンピュータセンターを設立したことである。

  • The Cornell Theory Center at Cornell University (1985)
  • NCSA at University of Illinois at Urbana-Champaign (1985)
  • The Pittsburgh Supercomputing Center at Carnegie Mellon University and the University of Pittsburgh (1986)
  • The San Diego Supercomputer Center at University of California, San Diego (1986)
  • The John von Neumann Center at Princeton University (1986)

このあと、日本のスーパーコンピュータが予想以上の性能を出し、それが日本の大学環境に多数設置されると、アメリカの焦りはさらに続くことになる。

(タイトル画像 大阪大学 LINKS-1 出典:一般社団法人情報処理学会Web サイト「コンピュータ博物館」)

アメリカの企業の話は次回に回す。Cray ResearchがCray X-MPを発表する。また、Sun MicrosystemsやCompaqがベンチャーとして設立される。

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