世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

7月 4, 2022

【わがスパコン人生】第26回 メンデス ラウル

島田 佳代子
Raul Mendez

第26回 メンデス ラウル

「スパコンとの出会いで、研究の世界から事業の世界へ、そして日本、まさに私の人生が変わりました」

アメリカのカリフォルニア大学バークレー校応用数学の博士課程(Ph.D.)を修了後、アメリカ海軍大学院大学の数学科助教授としてスーパーコンピュータを用いた流体解析の計算を手掛けていたラウル・メンデスさんが、リクルートスーパーコンピュータ研究所所長に就任した経緯や、1993年に設立した株式会社インターナショナルシステムリサーチのこと、2008年にサービスの提供を開始した「CloudGate」などについて、お聞きしました。


コロンビアからアメリカ、そして日本へ


 

―メンデスさんご自身の幼少期からの話をお聞かせください。

生まれはコロンビアです。もともと器用なタイプではなく、子どもの頃も物を作ったりというタイプではなく、11歳頃までは近所の子どもたちとよく外で一緒に遊んでいましたね。

コロンビアは首都ボゴタが標高2600mにありますが、私が住んでいた町も標高が高くて星がよく見えたんです。そういった環境で育ったこともあり、子どもの頃は星、天文学に興味がありました。

12歳頃から数学に興味を覚えて、高校から大学まではずっと数学を学びました。高校まではコロンビアにいましたが、大学はアメリカのPurdue Universityで数学と物理を専攻。大学生のときはアルバイトもしていましたし、勉強がとにかく忙しかったですね。

大学卒業後はカリフォルニア大学バークレー校へ進学し、博士課程では応用数学を学び、流体力学やいろいろな物理の計算のために、大学の近くにあったローレンス研究所のコンピュータを使うようになりました。

最初に使ったのはCDC6400で、まだスーパーコンピュータというネーミングもなかったころです。その後のCDC6600 からスパコンという言い方が始まったと記憶しています。博士論文に必要な数値計算のためにFORTRANも覚えました。

博士課程を修了した後は、カリフォルニア州モントレーにあるアメリカ海軍大学院大学・数学科の助教授として、スパコンを用いた流体解析の研究をおこなっていました。当時使っていたのはIBM3033で、NASA Amesで使ったのはCRAYの1Sでした。

スパコンの黎明期からCDC、IBM、Crayを使いましたが、使い勝手はどれもそんなには変わらなかったと思います。

大きな計算をするときには、時間や予算がオーバーしないよう、生産性を上げるためにアルゴリズムの勉強はしましたし、流体力学の計算の仕方を改善したり、工夫したりしながら、シミュレーションを行っていたんです。

―アメリカにいたメンデスさんと、日本との接点はどういったものだったのでしょうか?

アメリカでは何人かの日本人の先生たちとのご縁がありました。たとえば、1960年代半ば、ニューヨーク大学で研究をされていた東京大学の高見穎郎先生が提案した計算方式によって、私は色々な流体力学の問題を解くことができました。1970年代後半には、高見先生の教え子でもある桑原邦郎先生が客員研究員としてNASA Amesにいてお会いする機会もありました。

また、海軍大学にいたときに、防衛大から客員研究員として来ていた岸先生と数学科の同じ建物で、色々話をするうちに日本に興味を持ち始めたんです。海軍大学は講師を防衛大へ派遣して、数値計算のセミナーを行うプログラムがありましたから、私は1983年11月にそのプログラムを利用し2週間ほど横須賀の海軍基地に泊まりながら防衛大へ通ったこともあります。

初めて日本を訪れたのはその半年ほど前。日本語を勉強したいと思い、ICUで勉強しました。そのときは、桑原先生が大変フレンドリーな方で空港まで迎えに来てくれて、ご自宅にも泊めていただきました。

1980年代というのはまだ、“インターネット”という言葉もありませんでしたが、米国防総省の高等研究計画局(ARPA)がコンピュータネットワーク「ARPANET」を1983年に導入すると、間もなくして私も使い始めました。そんな時代でしたね。

1985年に、私のことを論文で知ったという日本の研究者から、日本のメーカーが開発したスパコンの性能試験をして欲しいと依頼がありました。もちろん、興味がありましたから、私が使っていた流体力学のシミュレーションをプログラムとして持ってきて、東大でベンチマークを行いました。

横須賀の海軍ベースには非常に安い金額で泊まることができたので、横須賀に泊まって昼は防衛大学で授業をして、夜は本郷でベンチマークを行い、また横須賀へ戻るということを1週間ほど続けたんです。1回、横須賀までの終電が終わってしまって…。線路沿いを3時間くらいかけて歩いて帰ったこともあります。今となっては良い思い出ですね。

ベンチマークの結果、いくつかの計算では日本製のスパコンの方が、アメリカ製のものを上回ることが分かり、これを論文にまとめて発表したところ、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載されて、大きな反響を呼びました。

 

リクルート スーパーコンピュータ研究所所長に就任


 

―リクルートに入社された経緯など、お聞かせください。

日米を何度か行き来する中で、日本に対する興味がより高まり、周囲にも日本へ行きたいと話していました。

そう言えば、まだ私がコロンビアにいた頃でしょうか。太平洋戦争の終結後もフィリピンのルバング島で一人戦い続けていた小野田寛郎さんの記事を読んだことがあって、日本人の真面目さに驚き、日本人に対するイメージがずっと良かったんですよ。

そんな私のもとに、1986年の終わり頃、スーパーコンピュータの時間貸しビジネスを始めたリクルートから好条件のオファーが届き、1987年4月リクルートに入社しました。

当時の私は、日本語で日常的な会話はできましたが、会議に出ても分からないことが多く…。
日本語を理解するためには漢字を勉強しなければいけないと、会議では平仮名でメモを取り、会議後に辞書を引いては漢字の勉強をする日々。幸いなことに、日本語の先生を付けてもらい、毎日朝7時頃から会社で1時間ほど勉強をしていたんですよ。

コロンビアからアメリカへ行く前にも、3か月位集中的な語学の勉強をしましたが、スペイン語と英語は似ているところがあります。ところが、漢字は全く異なりますからね。これはリクルートに入社して、一番苦労した点のひとつだと言えるでしょう。

リクルートスーパーコンピュータ研究所には、Cray X-MP、NEC SX-1、FACOM VP-400、Alliant FX-8、Ardent Titan、PAX-64Jなど多数のスパコンが設置され、30人ほどの優秀な研究者が集まりました。私は所長として、時間貸しビジネスを拡大するためのアプリケーション開発に着手したものの、残念ながら1988年に発覚したリクルート事件により、時間貸しのビジネスは頓挫…。結局、研究所も1993年に閉鎖されてしまったんです。

 

インターナショナルシステムリサーチを設立


―リクルート退社後は、アメリカへ戻ることは考えなかったのでしょうか?

そうですね。まだ、もう少し日本にいたいと思い、1993年9月に自分の会社「インターナショナルシステムリサーチ」(ISR)を設立しました。

私自身、リクルートに入社する前は大学で教えていたので、会社で働いた経験がありませんでした。しかし、リクルートでは入社後2年目から役員となったことで、会社の経営の仕方を学べたことは大きかったですね。そのときに学んだことが、起業する上でも大いに役立ちました。

設立当初の主な業務内容はスパコンの導入支援、コンサルタントのようなこと。しかし、1993年当時、アメリカではクリントン大統領とゴア副大統領が掲げた全米規模の高度情報通信ネットワークの「情報スーパーハイウェイ構想」により、商用化が加速していたこともあり、ISRではインターネットやスパコンをビジネスに活用するための”ワーキンググループ”の運営を軸とすることに決めていました。

アメリカで全土の大学にスパコンセンターが作られて、それを研究者と繋ぐためのARPANETが作られて、私も海軍時代に使ったことがありました。アメリカ政府が1994年頃からARPANETを商用化し民間へ開放し始めたんです。これがインターネットの始まりと言えるでしょう。すると、リクルートでもインターネットを繋ぐためのプロジェクトを発足させ、私もメンバーに入りました。

とはいえ、日本ではまだインフラが整備されていなかったため接続は非常に困難で、太平洋に敷設された海底ケーブルを使い、ハワイ大学を経由して接続したのです。あの頃は3か月ごとにハワイへも行っていましたね。日本で初めてインターネットに接続したのは、私だったと思います。

このような経験や知識から、インターネットがまだ一般的になる前から、インターネットを介したスパコンの活用が進むことや、インターネットが非常に重要なものになることを予測し、それを前提に走っていた感じですね。

とはいえ、スパコン時代に培った人脈を頼り、さまざまな企業にアプローチしましたが、「インターネット?要らないよ」といった反応が多く、なかなか難しかったですね…。それでもいくつかの企業と契約を結ぶことができ、会社を軌道に乗せることができた私はある構想の実現に向けて動き始めました。

その構想とは、Webページをデータベースと連動させるためのミドルウェアの開発で、1995年にイリノイ大学の先生と一緒に「Zolar」を完成させました。インターネットを使ったデータベースの処理、ウェブのインターフェイスを簡単に作ることができるのがZolarで、このような仕組みが当時の日本にはまだなかったんです。

郵政省がインターネットを使い始めた頃に導入してくれましたし、ありがたいことにZolarはその後多くの企業で採用していただきました。

2003年にはPDAで利用可能なモバイルIP電話ソフト「PPPhone」の開発にも成功しました。今でいうスマホのようなものですね。この技術は後に、アイホン株式会社のインターホンにも採用されています。

 

―メンデスさんにとって、スパコンはどういったものか、お聞かせください。出会って良かったですか?

それはもう、非常に良かったと思いますよ。スパコンと出会ったことで、研究の世界から事業の世界へ、そして日本へも来ることになった。まさに私の人生が変わりましたから。

スパコン、インターネット、認証へと歩んできましたが、これらは全て繋がっているんですよね。そもそも数学を学んでいた私が、流体力学や数値計算で大きな計算が必要となりスパコンを使うようになりました。そして、もっと便利にするためにはどうするか仕組みを考えました。その中でネットワークを使うことがもっと一般的になると考えたんです。インターネットですね。安全にインターネットを使用するには「セキュリティ」が欠かせません。そこで認証と繋がります。

日本ではスパコンの若い研究者が増えていないと聞きますが、私自身が若い頃そうだったように、今の若い研究者の方たちにも、無料で巨大なコンピュータを使うチャンスを与え、スパコンに興味を持ってもらう必要があるでしょうね。

―今後はどういったことを展開していきたいですか?次のステップを教えてください。

インターネットはもともと”共有”するために作られた仕組みで、セキュリティを考えていなかったんです。だから、最初は利便性から始まったサービスでも、時間が経つと色々なセキュリティ上の問題を考えないといけないようになりました。

私は日本が大好きです。しかし、セキュリティに関しては甘いと言わざるを得ません。インターネットから攻撃されるということを意識していない人が非常に多いです。ベンダー側にもそういう意識の人がいます。

しかし、米連邦政府機関や大手企業が導入する「SolarWinds」の管理ソフト経由で、史上最大規模とも言えるサイバー攻撃を受けたように、実際にそういったことが起きています。

残念ながら安全ではない世界なので、ひとつのパスワードで「認証」するようなことをしていると、セキュリティ上の問題が発生するんです。非常に危険です。

特にコロナ禍でクラウドをリモートで使うことが増え、安全性は益々重要になっていると言えるでしょう。さらにはロシアのウクライナ侵攻で、世界的にサイバー攻撃が増加しています。

当社では2021年7月に、「2021年 認証維新始まる」をスローガンに掲げ、日本をサイバー攻撃から守るためのサービスを発表しました。

そのひとつが法人向けのクラウド認証サービス「CloudGate UNO(クラウドゲートウノ)」への、ゼロトラストアーキテクチャの採用です。

2008年にGoogle Apps™(現Google Workspace)対応シングルサインオン(SSO)ASPサービス「CloudGate」の提供を開始して以来、14年の歴史と10億回以上の安全なログイン環境を提供しています。

企業の経営者の皆さんには、「Security First」へとマインドチェンジをし、SSOの利便性を保持したまま、ハッキングの恐れがある多要素認証(MFA)ではなく、”ゼロトラスト”の考え方に基づいたMFAソリューションの導入を検討して欲しいですね。

今後益々多様化するサイバー攻撃から大好きな日本を守るのが課題であり、今後も行っていきたいと考えています。

 

Raul Mendez

メンデス ラウル氏 略歴

1977年 カリフォルニア大学バークレー校応用数学の博士課程( Ph.D.)を修了後、アメリカ海軍大学院大学( Naval Postgraduate School)の数学科助教授としてスーパーコンピュータを用いた流体解析の計算を手がける
1985年 宇宙科学研究所の研究者からの依頼により、当時の日立製作所や富士通、NECが開発したスーパーコンピュータの性能試験のため初来日
1987年 「リクルートスーパーコンピュータ研究所」の所長としてリクルートに入社。その後、取締役に就任
1993年 スーパーコンピュータ活用のコンサルティング会社として、株式会社インターナショナルシステムリサーチ(ISR)を設立
現在に至る

写真:小西 史一