世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


1月 19, 2015

HPCの歩み50年(第24回)-1986年(a)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

1986年の筆者の最大の思い出は、星野氏を中心とするQCD専用コンピュータ開発プロジェクトが、科研費特別推進のヒアリングで大論争の末討ち死にしたことである。ドイツではISCの前身であるMannheim Supercomputer Seminarが始まった。中国では、鄧小平国家主席の決断により、情報をはじめとするハイテク6分野に集中的に研究投資せよという”863”計画が決定された。現在の中国のHPC分野での活躍の原点である。この年、ベンチャーではKSRが創立された。

この年の社会の出来事は、1/28チャレンジャー号爆発事故、2/9 NTT 株式公開、2/14フィリピン革命、アキノ大統領へ、4/1日本で男女雇用機会均等法施行、4/26チェルノブイリ原発(ウクライナ)事故、5/9チャールズ皇太子とダイアナ妃来日、6/2死んだふり解散、7/6衆参同時選挙、自民党圧勝、9/6土井たか子、社会党委員長に、11/11若王子マニラ支店長誘拐、11/15三原山大噴火、11/19高エネルギー研トリスタンで最初の粒子衝突、など。

チェルノブイリ事故のとき、ソ連は事故をしばらく公表しなかった。日本でマスコミが報じる前に、物理関係者には、元東大教授でミュンヘン工科大のM教授から、ミュンヘンの放射線レベルが異常に上昇しておかしい、というニュースが伝えられていた。ゴルバチョフ書記長がテレビで事故の詳しい説明を行ったのは5/14であった。

(1990年当時の小柳義夫氏)

アメリカHPC事情調査

7月には3年ぶりに渡米した。主たる目的はUC Berkeleyで開かれた23rd International Conference on High Energy Physics (ICHEP)に出席することであったが、ついでにいろんなところを回った。筆者の見聞記を参照。ICHEPは78年に東京で開いたのと同じシリーズの国際会議で、偶数年に開かれている。

1) Floating Point Systems社
当時、FPS日本支社の川崎氏に「アメリカに来るなら寄ってください」といわれていたので、7月15日に日本を出て、午後San Francisco空港に着き、FPSが預けてあった航空券を拾ってPortlandへ。リムジンに乗って指定のモーテルで一泊。翌朝、Beavertonの本社へ行き午前中滞在。FPSの話を聞き、こちらはPAXの話をし、工場を見学した。

16ノードのT-seriesマシン5台が独立に動いていた。消費電力は1 KWとのこと。説明によると、transputer, Weitek FPU, Video RAMの3つがキーの技術だという。前の2つはともかく、何でVideo RAMかというと、CPUとFPUの両方からアクセスするので1 MB のdual-port memoryとして使っているとのこと。CPUからは普通のRAMのように見え、FPUからは128倍語のベクトル1024本としてアクセスするとのことである。Video RAMにはerror correctionはないので、ちょっと心配になった。手元には英語および日本語の説明書がある。

前に述べたようにtransputerは4本しかリンクが出ていないが、最大216個のノードをハーパーキューブ接続するので、これを16本に増やすマルチプレクサがある。ただし元々0.7 MB/sのリンクを4つに分けたらさらに細くなってしまう。

利用上心配になったのは、Weitekのベクトル演算をOCCAMの関数として記述するという点である。これではプログラムが書きにくい。ただ、密行列のかけ算で35 GFlops出ると言っていた(何ノードで?)。PAXで工夫していた同期回路(特許取得)もないという。

案内してくれたのはJohn Gustafson。その後、いろんな顔でつきあうことになる。元CDCのQCD物理屋のDavid Barkaiにも会った。午後San Franciscoに戻り、Berkeleyに向かった。

滞米中の7月末にFPS社の株価が下がり、安値更新したのでちょっと心配になった。

2) ICHEP (7/16~7/23)
高エネルギー物理の国際会議であるが、格子ゲージ理論に関係した分科会で、Columbia大学のマシンと、イタリアのAPEマシンの発表があった。

3) LLNL訪問 (7/25)
Magnetic Fusion Research Center(現在のNERSC)を訪問。所長のFernbach氏を前年つくばで接待した縁で訪問したが、氏は休暇中で副所長のHans Bruijnes氏が対応してくださった。ちょうどCDC7600(75年10月設置)を撤去しているところで、ボードを勝手に持って行ってよい、ということで若手が群がっていた。Hansによると、コンパイラとOS (CTSS) を自分で開発した歴史があることを強調していた。

コンピュータとしては、Cray-1 (78年5月設置、6号機)、Cray-1S(81年10月設置、33号機)、Cray X-MP/22(84年11月設置、119号機)、Cray-2(85年6月、1号機)が設置されている。それぞれのコンピュータには常時100人ほどloginしているとのことであった。各コンピュータのディスクの他にCSS (Central Storage System)があり、テープロボットと19.2 GBのステージングディスクがある(TBでもPBでもないことに注意)。10日アクセスがないとテープロボットに移され、1年アクセスがないと手動のテープに落とされるとのこと。

各大学や研究所とは、専用線や衛星を通して56~112 kb/sで接続されている。それほど速い回線ではないが、巨大な(当時としては)ファイルシステムがあるのでどうにかなっているらしい。

4) Cornell University (7/29~7/30)
29日はセミナーでILUCR法について講演。聴衆にはDe Folkland (Cray)がいた。Hans Bethe先生もいらしたような気がする。計算尺を持って議論していた姿が印象的だった。
翌日はTheory Computer Centerを訪問した。FPSのShahin Khanが案内してくださった。彼はその後Sun Microsystemsの副社長になったが、今はどうしているか? FPSのT20(16ノード)のテスト中であった。iPSC (32ノード) 、IBM3090やFPS-264などもあった。
Cornellの格子ゲージ理論屋は、ちょうどC++に魅入られていたところであった。基本演算はFORTRANで書き、C++で全体を制御するということであった。本気だったのか?

5) IBM Watson J. Research Center (7/31)
Cornell大学のあるIthacaからの小さな飛行機が、雷雨でNew YorkのLaGuardia空港に着けず、Newark空港に臨時着陸とかいうので心配したが、結局LaGuardiaに着陸した。そこからハドソン川に沿ってリムジンで北上し、最後はタクシーでホテルに着いた。

研究所ではホスト役のはずのHarold Stone氏が休暇中で、直接Donard WeingartenにGF11を見せていただき、格子ゲージ理論の計算についていろいろ議論した。GF11はボードのテストが終了し、キャビネット1個(36ノード)は埋まっていた。スイッチの電線の束は壮観であった。

研究所の午後のお茶の時間に、ある人が「(日本の)大プロのスーパーコンピュータとは、要するに日本のETA10なのか」と聞いてきたのでびっくりした。

その晩、Harold Stone夫妻が近くの日本料理屋で夕食をごちそうしてくださった。日本人の女将が筆者の耳元で「味噌汁は[スープのように]最初に出しましょうか、[日本食風に]最後にしましょうか。」と聞いてきたので笑ってしまった。

その後、三田一郎氏(当時Rockefeller大学)と議論したり、親戚の家を訪問したりした。

特別推進のヒアリング

筆者の記憶が正しければ、前年、科学研究費特別推進を申請したが落ちた。今年も、星野力氏を代表として申請した。何月何日だったか記録はないが、審査委員会のヒアリングというので、星野力氏、岩崎洋一氏と3人で出席した。ヒアリングは、筆者は初めてであったが2回目か3回目であると思う。ヒアリングで出された決定的な質問は、「いったい君たちは新しい計算機を作りたいのか、それとも物理の研究をしたいのか」ということである。しかしこの質問は落とし穴である。もし、「物理の研究をしたい」といえば、それならコンピュータを自作することなど考えずに、買ってくればよい、ということになる。もし、「計算機を作りたい」と言えば、計算機屋のおもちゃに金は出せないということになる。

そこで、筆者がかねて考えておいたとおり、「両者が分かちがたく結びついているところに、この提案の独自性があります。」と答えたところ、審査委員のN先生がどういうわけか激怒され、またT先生から「君たちを査問しているわけではない」などという発言もあり、提案者側と審査委員との激しい議論の攻防となった。われわれは座を蹴るように退席した。同席していた課長補佐のI氏は、学生時代(彼は北大)からの友人であるが、後に電話をかけてきて、「私たちもそろそろ通そうかと思っていたところなのに、あんなけんかをされては困ります。」と怒られた。当然、また不採択となった。お世話になったI氏は残念ながら1989年10月1日に動脈瘤破裂で亡くなられた。

ずっと後のことになるが、2009年11月13日(金)の事業仕分けで日本の次世代スーパーコンピュータ計画が死にかけた。その背景にも同様な落とし穴があったと思われる。「君たちは(二番でなく)世界一の計算機をつくりたいのかね、それとも社会的・科学的諸問題を解決したいのかね?」両者は分かちがたく結びついているのです。それを納得させるのは難しい。

これも余談であるが、だいぶ後になって、筆者も2年間、特別推進・特定領域の審査委員を務めた。ヒアリングの際、ある提案に思わず同様な質問を発してしまい、昔を思い出してはっとしたことがある。

この頃、週刊朝日の蜷川真夫編集委員が取材をしたいというので6月14日に会った。「電子テクノエリート」という特集で、7月11日号の「超高速電算機が切り開く第3の科学」という記事に登場した。他に、金田康正、桑原邦郎、柏木浩が登場。筆者はPAXではなく商用のスーパーコンピュータ利用者として登場している。この特集は後に単行本(1987朝日新聞社)になった。

自分の話が長くなったので、残りは次回へ。ベンチャー企業が続々新製品を発表する。FPS社はT-seriesを発表、TMC社はCM-1を発表・出荷、MeikoはCSを発表、など。KSR社はKendall Squareにおいて創立される。

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