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【わがスパコン人生】第27回 藤井實
第27回 藤井實
「自分ではなくて周りを良くしようという発想があればみんながうまくいくはず」
小学生の頃から家業を手伝い、大学卒業後は家を継ぐと考えていた藤井 實さんですが、大学・大学院での経験から、日本原子力研究所(原研)に就職。30年ほど過ごした原研では色々な分野を経験されたと言います。そのどの分野でも藤井さんが大事に考え、行っていたのが、”とにかく話を聞いて、問題解決策を提案すること”だったそうです。それはなぜか。またご自身の人生に大きな影響を与えた大切な方々のお話も伺いました。
大好きな”算数・数学“に夢中だった少年時代
―出身地はどちらですか?幼少期のことからお聞かせください。
出身は島根県松江市です。私の父が終戦後に松江で行商から身を起こし、食料品と雑貨を扱う店を始めました。電車駅と船着き場から県道に出る所に店を構えていたため、商売が忙しく、父は日の出とともに起きて仕入れに行き、夜も11時頃まで働いていました。とにかく人の何倍も働く父の姿を見て育ちました。
小学校時代は野山を駆け巡り栗やアケビを取ったり、家のすぐ近くにある宍道湖でエビ取りをしたり、軟式テニスボールを竹バットで打つ三角ベース野球をしたり。遊びまわっていました。
小学校高学年になると店番、配達、風呂焚きといった家の手伝いも多くしました。また、小学5、6年のときの担任の先生が、算数の問題を解くのが早かった私が授業中退屈そうにしていたからか…和算の問題を解くよう勧めてくれたんです。植木算や流水算など問題の意味を考えながら解く数学のおもしろさに夢中になりました。
後に島根県連合婦人会会長まで務められた方です。就職してからも何度かお会いしました。この先生に出会って、私ができた。それくらい素晴らしい先生でした。この先生に出会わなかったら、私のその後の人生は大きく変わっていたでしょう。
父の教え「借金するな」、「受けた恩は忘れるな」、「お天道様は見ている」と、小学校の先生の「よーーく、考えて」は、私が今も大切にしている人生の道しるべです。
中学に入っても数学の時間は退屈で、「サムロイドの数学パズル」の本を買い、大人でも簡単に解けない問題を、1週間考え続けて解くという数学の醍醐味を味わっていました。今の受験生は記憶力が求められますが、私は解がすぐに見つからない複雑な問題を、試行錯誤しながら解くのが好きでした。
高校は学区内からの受験生はほぼ合格していることもあって、全く受験勉強はしませんでした。受験前日も校庭で暗くなるまでサッカーをやっていて、「早く帰って寝なさい」と叱られたほどです。
ちなみに私の高校入試の成績は数・理・社が満点か98点、英・国はともに40点と極端だったようです。好きなことは何でもやり、嫌いなことは全くヤル気が起きない生徒で、英語は生涯、苦労しました。
―大学時代のこと、初めて触れた計算機についても教えてください。
1969年、東大紛争で東大受験がなくなり、浪人など全く許されない家庭環境であったことから、地方大学まで真剣に調べました。兄がすでに銀行に就職していたため、私が家業を継ぐと思っていたんです。それで将来、家業を継ぐのにも広島大学の経営工学科が自分にピッタリだと直感し入学しました。
経営工学では、中堅企業の中堅管理者が実務を扱うのに必要なことを全て学ぶことができます。これは面白そうだと思って選びましたが、今振り返っても私に100%ピッタリでした。大学は自分のテストの点が良いから行くのではなく、自分が好きだから行くというのが良いのでしょうね。
1年のときは学生寮に入り、手当たり次第にアルバイトを経験。それで、自分が体力勝負の仕事と営業の仕事は向かないことがはっきり分かりました。
初めて計算機を使ったのは大学2年生のときで、HITAC 10でした。ボタンで起動させて、プログラムとデータを紙テープに打ち込んで。修正は紙テープをハサミで切ってセロテープで繋いで流す…。面白い時代でした。
大学卒業後は家を継がなくてはいけないと思っていたので、4年で卒業するつもりでした。ところが、3年の正月明けにゼミを志望していた布留川教授から「大学院に行くよな?」と問われたことがきっかけで、大学院へ進学することになりました。
大学院へ進学する前に父が、「世の中にはスーパーマーケットと言う大型店がでてきている。これからは田舎の個人商店はやっていけない。だから、お前は好きなことをやっていい」と言ってくれたことも大きかったですね。父には先見の明があったのです。
そして進学した大学院1年生の時に、教授が英語の本を使って夏休みにゼミをやろうと言うんですよ。困ったなと思って工学部の掲示板をみたら、”日本原子力研究所(原研)・夏季実習生募集”とあり、迷わず応募しました。
夏休みの間、40日間は原研で過ごしましたが、東海研究所はとても良い仕事環境で、こんなところで働きたいと思ったことを覚えています。
大学院1年の春休みと2年の夏休み・冬休みには大手メーカの研究所で、専門の多変量解析手法を使った不良解析計算を担当。バスと電車を乗り継ぎ研究所と本社計算センター往復で合計2か月間程度寮に入って働きました。この時の仕事は2、3年後に教授と大手メーカそれぞれのデミング賞受賞に繋がりました。
大学院終了後は原研から1人採用枠ができたので来ないかと声を掛けてもらい、就職することになりました。
日本原子力研究所(原研)の東海研計算センターに入所
―日本原子力研究所でのお話をお聞かせください。
1975年に日本原子力研究所(原研)の東海研計算センターに配属されました。大卒の研究員では4人目、10年ぶりの採用だったようで、原研計算センターの仕事はもちろん、対外的な仕事(兼職)、対内的な仕事(兼務)の依頼もほとんど担当させられました。
計算センターの本務では1975年に導入された富士通のF230-75大型計算機の会計情報処理(日報、月報など)、性能評価などを担当。大型計算機の調達、会計検査対応なども大きな仕事でした。
原研で私たちにとっては常識でも、会計検査官の方々にとってはそうではなく、理解してもらうのが難しいことも多くありました。そこで私は会計検査官や文系の方にでも分かりやすいように、数学モデルを使って説明することもありました。そうすることですぐに理解してもらえましたし、その後もたくさんの「なぜ?なぜ?」質問に対応することで、自分の力もついたように思います。
原研に入って半年後、総合研究開発機構(原子力システム調査委員会・原子力長期戦略委員会委員)で原研の大型計算機を使った仕事に参加。日本版エネルギー需給モデル(DESOMJ)の開発・試算などの仕事を月1回、2年半。原研の計算機で1985年から2000年の日本のエネルギー需給モデルを色々計算し、報告書ではモデルの概要とモデルの詳細など48頁を執筆しました。
30歳で結婚すると、上司から36歳で副主任研究員に昇任するには、情報処理学会論文誌に5本の論文を書く必要があるので毎年1本書くようにと言われました。業務で100%仕事を行った上で、研究に専念する同僚と同じ成果を要求されるのは簡単なことではありません…。ともかく、会計検査で「なぜ」と問われた実務問題を解決する論文を毎年1本書くと、副主任研究員に昇格する前に情報処理学会から論文誌査読委員の依頼が。実務問題をテーマにする論文が少なかったからだと思います。
原研では本当に多くの仕事を経験しました。動力試験炉(JPDR)解体プロジェクト(兼務)や大規模実験データ処理システムの詳細設計、大容量記憶システム(MSS)導入などにも携わりました。
―ウィーンへ派遣された際のことを教えてください。
1988年3月から半年間、IAEAからの要請でウィーンに派遣されました。その前年にIAEAから査察官が日本に来られ、私が原研の計算センターを案内しました。翌年、保障措置DB改良プロジェクトに各国から一人ずつ人を呼ぼうというときに、日本からはあの男がいいと指名してもらったようです。
英語はずっと苦手でしたが、彼らは私の英語力を知った上で声を掛けてくれたようです。でも仕事ではIBM講師から色々な講義を1週間受けましたが、専門的な内容は全て理解できました。日常英会話能力は低くても、計算機に関することは原研で色々なことをやっていたので、計算機の中に入ってしまえば一目瞭然でした。保障措置情報部門の計算機の応答性能低下原因について詳しく調べ、問題発生状況、その原因と改善策を70頁近くの報告書にまとめて提出。色々と良い経験でした。
外国へ行って英語ができても何も尊敬されません。しかし片言でも中身がよく分かっていれば、きちんと話を聞いてくれます。そんなもんです。ただ、現場にスムーズに入っていくためには、日本からちょっとしたお土産を何個か持って行ったので、担当者に渡すと喜んでくれて、こちらの質問に細かいことまで何でも教えてくれました。
―ウィーンから帰国後は、どのような仕事をされたのでしょうか?
帰国後は、二足歩行ロボットの移動視覚を担当し、床置きマークを使用した自己位置認識を実際のロボット視覚で行い、広い模擬環境で二足歩行ロボットの歩行、跨ぎ越え、階段昇降なども成功させました。
本務である計算センター業務も、持ち込まれたものは何でも対応しなければならず、色々な研究報告書作成も加わって、忙しさは大変なものになっていました。だから、30代で唯一家族サービスできたのはIAEAに派遣された半年間だけだったような気がします。
計算センターのネットワーク、セキュリティを除く実務のほとんどを担当するとともに、原子力知能化システム技術の研究、特別基礎研究(両眼立体視の研究)なども行い、茨城大学から博士(工学)号もいただきました。
1995年度から計算センターは課から部に昇格し、計算科学技術推進センターとなり、東京に計画管理室と研究3G、東海に実務1課と研究1Gができました。
計算センターの実務は情報システム管理課長となった私に決済権限がほとんどおりてきていましたが、職員14名(研究職の管理職者は私1人)と業務委託要員等数十名で4地区の計算機運用管理、スパコン調達など、様々な業務処理と実務全般を担当するため私の仕事は激務を極めました。そんな中でも、上から制約を設けられず、全てを任せてもらえたことは有難かったですね。とんでもない業務量でしたが…。
コンピュータ利用検討会は、それまで副所長が座長、各部門の部長が委員であったのを座長が課長の私、委員は各部門の課長、研究室長、大口ユーザで構成し、計算機利用の御用聞き会にすることで仕事の効率化を図りました。
また、4地区7社10台のスパコン会計情報処理では、各社の会計情報を原研で指定する形式でファイル出力するように、スパコン調達仕様書に一文書き加えて、全てを共通処理できるように設計。この処理を担当した若い2人が創意工夫功労者賞(文部科学大臣賞)を受賞できたことは嬉しい限りでした。
ともかく、3地区同時スパコン調達や情報交流棟建設を行うなどで多忙が続き、体調を崩し、50歳から第一線を離れさせてもらい、その後、原研とサイクル機構のOA統合に関わる仕事などを担当し、組織統合後に55歳で退職しました。
原研では色々な分野を経験しましたが、どの分野でも私が行っていたのは、何をしたいのか話を聞いて、問題解決策を提案すること。これは、まさに父の御用聞きと同じですね。とにかくヒヤリングすること。だから座って仕事をしている人には難しいことだったかもしれません。
子どもたちが持つそれぞれの才能を引き出す学校を作りたい
―退職後はどう過ごされていたのかお聞かせください。
しばらくは荷物整理をしながら、体調回復を図りました。その後、友人の紹介で日本分析センターの情報部門で週2日ほどでしたが、依頼されて色々な仕事をしました。
分析センターでは情報部門が受け身だったので、情報部門に来る仕事は全て私を通してもらうようにしました。情報部門には優秀な方々がいましたので通常業務は任せて、私が直接ヒヤリングしに行くことで、情報部門が主導で仕事を進められるようになりました。
私はブラックボックスとなっていた業務処理プログラムを解読し、その内容を報告書にまとめることなどを担当。ITは全体を見て、きちんと基本設計をして仕事を進めると後が全てうまくいくようになります。
こんな風にお話しすると、私は何でもできたと思われるかもしれませんが、エクセルもパワーポイントも使えません。またワードは文字入力できるけれど、体裁を揃えることもできません。だから、計算センターでは、周囲の人たちが「藤井さんはできないでしょうから、私たちがやりますよ」と言ってくれていました。
自分たちが困っていることは藤井さんがやってくれる。藤井さんができないことは自分たちがやってあげる。そうすると、win-winの関係でみんなうまくいくんです。上にいるから、なんでも自分の方ができるという発想はありませんでしたね。それぞれの得意なところを組み合わせれば、みんなハッピーで上手くいくという発想が上の人間には必要だと思います。
―藤井さんにとって「スパコン」とはどういったものでしょうか?また、今後のスパコンに望むことを教えてください。
私にとってスパコンとは調達・運用するものです。私はユーザではありません。だから、スパコンを使う皆さんの成果が少しでも上げられるようにはどうしたら良いか。どれだけ性能を活かせるか。環境をいかに良いものにするかといったことを考えて仕事をするのが私の役割でした。
今後のスパコンについてですが、今はそれぞれの計算センターが複雑なことをやっていて、大変だと思いますよ。だから九州に1つ、関西に2つ、中部に1つ、東京に1つ、関東に2つといった具合に、九州から北海道までスパコン中核センターを、中央に実務情報センターをひとつ置いてあらゆることをやってしまうことが理想ではないでしょうか。スパコンといえども、インターネットと同じでインフラのようになっていますからね。
だから、自分のセンターにこのスパコンがあるという発想ではなく、スパコンはどこにあっても良い。どこからでも同じように使える。その代わり、出した成果をしっかりと検証することが必要だと思います。
―最後に、今後やってみたいことを教えてください。
今後やってみたいのは日本の1500兆円とも2000兆円(年金先食いなどを含む)とも言われる借金返済計画を作ることです。日本ではアベノミクス以降、大幅な円安となって給料も財産もドル換算では半分近くまで減ってきています。誰かが具体的な財政再建策を示さないと…。
それから、私は結婚してから朝日と日経の2紙を毎日読んでいます。研究をやるにしても、研究だけやっている人は考え方が狭いと感じます。新聞を読むとあらゆる情報が入ってきます。これは仕事をする上でも極めて有効だったことです。70歳を過ぎてからは5時間かけても、それまでの1/3も1/4も読めなくなってしまいましたが…。新聞を読むのは楽しいので、これはずっと続けていきたいですね。
他にやりたいのは小さな学校を作ること。今の子どもたちは可哀そうだと思うんです。それぞれの良いところを見出して、それを伸ばせるようにするのが本来の教育です。しかし、記憶力がとにかく求められる今の受験勉強では、能力を発揮できない子どもが少なくないでしょう。
だから、私にもう少し余裕ができたら、普通の学校ではなく、今の学校教育制度から外れてしまった子どもたちの、それぞれが持つ能力を見出し、伸ばし、輝けるような。どこか夢のあるような学校を作りたいですね。そういう学校があれば、少子化も解消されるはずです。
今は自分を優先させる人が多いですが、自分ではなくて周りを良くしようという発想があれば、もっとみんながうまくいくはずです。だから、そういったことも伝えていきたいですね。
私自身、本当に多くの方々に励まされ、助けられ、あちこち壁にぶつかりながらも自分の思う道を歩んでこられました。感謝、感謝です。
藤井實氏 略歴 |
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1件のコメントがあります
とても爽やかなインタビューでした。建築家の安藤忠雄氏の人生を連想しました。
今後念願の青年が自分の才能と楽しく向き合える学校が出来ることを祈ります。