世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


提 供

2月 16, 2015

HPCの歩み50年(第27回)-1987年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本では新しいベクトルコンピュータが登場する一方、アメリカではTMCのCM-2やIntelのiPSC/2など超並列コンピュータが続々登場する。ETA 10の一号機も出荷される。最初のGordon-Bell賞はnCUBEの利用者に与えられた。

日本の企業の動き

1) 日立
7月、日立は第2世代のベクトルスーパーコンピュータS-820を発表した。最初の出荷は1987年12月。最大構成のS820 model 80では、4個の加算・論理パイプラインと、4個の乗算・加算パイプラインを持つ。クロックは4 nsで、クロック毎に最大12個の乗算・加減算が実行可能で、ピーク性能は3 GFlopsである。S-810と違い、要素並列パイプライン制御が行われるようになった。シングルプロセッサである。あと、どれだけ使われたかは知らないが、拡張記憶をビデオRAMとして使い動画像出力を行う機構はユニークであった。

筆者は、9月3日に神奈川工場(秦野市)で開かれたS-820披露に招かれ基調講演を行った。日立のマシンをいろいろ壊すような人をよく呼んだものと思う。東京大学大型計算機センターのS-810は1987年12月24日にシャットダウンし、1月からはS-820が稼動した。

1993年11月のTop500からS-820の設置状況を示す。1.817 GFlopsというRmax値は、ピーク3 GFlopsのベクトルコンピュータとしては低めであるが、これは加減算と乗算が2:1でLinpack向きではないからであろう。このとき東京大学はすでにS-3800に更新していた。

設置組織 機種 Rmax 設置年
北海道大学 S-820/80 1.817 1989
分子科学研究所 S-820/80 1.817 1988
高エネルギー研 S-820/80 1.817 1988
日本大学 S-820/80 1.817 1993
専修大学 S-820/80 1.817 1993
日立社内(6台) S-820/80 1.817 1988-90

S-820/60は9件記載されている。

2) 富士通
7月にVPシリーズの改良型であるFACOM VPシリーズEモデルが発表された。最大構成のVP-400Eではピーク性能は1.7 GFlopsであった。

S820-60
HITAC S-820/60
VP400E
FACOM VP-400E

上記2画像出典:

一般社団法人情報処理学会

Web サイト「コンピュータ博物館」

アジアでの企業の動き

1) TSMC
1987年、台湾の新竹(Hsinchu)で、TSMC(臺灣積體電路製造股份有限公司)が張忠謀(Morris Chang)により設立された。現在では、世界最大の独立系半導体製造会社である。

アメリカ・ヨーロッパでの学界の動き

1) National Computing Initiative
アメリカのSIAM(応用数理学会)のPanel on Research Issues in Large-Scale Computational Science and Engineering(37人)は、2月に開催され、”A National Computing Initiative”を発表した。これは1982年のLax Reportに続く重要な文書であり、進んだコンピュータ技術を用いて”Grand Challenge problems”の解決に向かう重要性が述べられている。

2) Gordon Bell賞
Digital Equipmentの技術者としてVAXなどの開発を統括し、Encore Computer社の創立者、Ardent Computerのチーフアーキテクトなどを経て、NSFのAssistant Directorなどを歴任したC. Gordon Bellは、1987年、Gordon Bell Prizeを設立した。最初の受賞者はSNLのグループで、1024ノードのnCUBEを用いた計算である(このほか、3グループがHonorable Mentionを得ている)。賞の種類は年によって違うが、この頃は大体、Peak Performance, Price/Performance, Special Achievementの3種であった。2013年からは、ACMの賞一般のルールに従い、1種類の賞となり、Honorable Mentionもなくなった。

目的はHPC分野の推進と言われているが、創始者としては、超並列コンピュータが本当に科学技術分野に有効かという挑戦的な問いかけではなかったかと思われる。

現在ではSCxy(スーパーコンピューティング会議)で授与されるが、これは1988年からであるから、1987年は何の機会に授与されたのであろうか?

3) ICS会議
6月、International Conference on Supercomputing (ICS)の第1回がアテネ(ギリシャ)で開かれた。会議録はProceedings of First Int’l. Conference on Supercomputing, Athens, Greece, editors: E.N. Houstis, T.S. Papatheodorou, C.D. Polychronopoulos, Springer-Verlag, New York, NY (June 1987)。2回目からはACM/SIGARCがスポンサーで、現在まで毎年開催されている。

4) Mannheim Supercomputer Seminar
前年に引き続き第2回が開催された。この年は、アメリカからSidney FernbachとJack Dongarraを招待し、講演を依頼した。他の7人の講師はドイツ国内から。2001年からはISCと改名する。

5) Perfect Benchmark
上記ICS会議において、David KuckとAhmed Sameh (Illinois Univ.)は、”A Supercomputing Performance Evaluation Plan”という講演においてPerfect Benchmarkを提案した。これは短いカーネルではなく、13種類の実用規模のプログラムから構成されている。その後、これを改良したPerfect Club 2が提案されている。

6) Columbia University
コロンビア大学の格子ゲージ専用計算機の2号機(64ノード、1 GFlops)は1987年完成し、Science誌の表紙を飾った。

7) PERCOLA
1987年5月に、フランスのSaclay研究所でパーコレーション専用計算機PERCOLAが稼働したそうである。今回初めて見つけた。32ビット整数乱数生成プロセッサと、64ビット浮動小数演算プロセッサを持つ。後者はWeitek社のWTL 1264 GCDを4チップ用いている。超並列コンピュータではないようである。目的の演算では、Cray X-MPとほぼ同等の性能を出したとのことである。

世界の企業の動き

1) ETA Systems社
1987年1月5日にETA 10の1号機をフロリダ州立大学に出荷した。全体で7機製作した。サイクルは7 ns、8 CPUで、名前の通り10 GFlopsのピーク速度を標榜していた。1988年には東工大に導入された。このほか、空冷の低性能のマシンは27台製作された。明治大学が1台購入したと記憶している。

Cyber 205等と同様なベクトルレジスタのないメモリ直結のアーキテクチャであり、実効性能は出なかった。並列OSや並列化コンパイラも不十分で利用者の評判は悪かった。東工大でも8個のノードを独立に使っていたそうである。ただ、1 CPUによる100×100のLinpackデータ(Dongarra Report, Oct. 27, 1987)では

ETA 10E 52 MFlops
SX-2 43 MFlops
X-MP/4 39 MFlops
IBM3090VF 12 MFlops

で、当時最速だったそうである。

1988年、CDC社はいったん別会社化したETA Systems社を本社のコンピュータ部門の傘下におき、事業の立て直しを図った。次の30 GFlopsのETA-30を目指して開発を進めていたが、1989年4月、親会社のCDC社はETA Systems社を閉鎖し、スーパーコンピュータビジネスから撤退した。日本側は、「日本のメーカがCDCをつぶした」という感情的な日本批判が起こるのではと危惧した。

1982年にLax Reportが出て、5つのNSFスーパーコンピュータセンターが設立されたことを述べたが、最後にできたThe John von Neumann Center at Princeton Universityは、2台のCyber 205とETA 10を設置したが、ほどなくETA Systems社は閉鎖されてしまった。運営のまずさなどもあり、1990年頃、このセンターはNSFの資金を打ち切られ(第2期の5カ年計画を拒否された)、閉鎖された。知人のB氏が、「おれがプラグを抜いたんだ (I pulled the plug.)」と言っていた。

Intel-iPSC2
 iPSC/2 Intel PersonalScientific Computer
sequent-symmetry

 Sequent Symmetry parallel

computing systems

CM-2
 TMC CM-2
 上記3画像 出典:Computer History Museum

2) Intel社
iPSC/2を発表し、12月から出荷。ノードは、80386+80387である。初代のiPSCでは、メッセージ通信にstore-and-forward方式を用いていたが、iPSC/2では、Direct-Connectという一種の回線交換ネットワークを用いている。iPSC/1との違いは、Direct-Connectではまず送り手と受け手の間でルートを確立してからメッセージを送ると言う点である。これにより、ルート確立のオーバーヘッドはあるが、フローコントロールが不要となった。

3) Sequent Computer Systems社
1983年に創業したSequent Computer Systems社は、1984年にBalance 8000とBalance 21000を発表したが、1987年にはi386 (80386) を用いたSymmetryを出した。Oracleと提携して成功した。

4) Thinking Machines社
1982年に創業したTMC社は、1986年にCM-1を出荷したが、1987年4月、数値計算を強化したCM-2を発表した。基本はCM-1と同様に1ビットマシンであり、1 chipは16ノードを含む。CM-2では32ノード当たり1個のWeitek3132が設置されている。2のべき乗のノード構成が可能で、CM-2aは4kと8k、CM-2は16k、32kの構成である。ピーク性能は28 GFlops。言語はCM Fortran、C*、および*Lispが使え、PRISMという開発環境が用意されている。

日本で最初に導入したのはATR(国際電気通信基礎技術研究所)である。信じがたいことであるが、CM-2にはSDI(戦略防衛構想)向けに開発した素子を多く使用していると日本経済新聞1989年4月11日号は伝えている。何のことであろうか。

5) Sun Microsystems社
Sun Microsystems社(1982年創業)のSun-3はMC68020を用いていたが、1987年SPARCを用いたSun-4を発売した。SPARCはSun Microsystems社が開発し、1985年に発表したRISC processorである。

6) Cydrome社
1984年に創立されたCydrome社は、1987年Prime Computersから出資を受け、Cydra-5を開発し出荷した。

7) Inmos社
イギリスのInmos社(1978年創業)は、第1世代のtransputerであるT2やT4を1983年に発表しているが、第2世代として、1987年にT800を登場させた。64ビットのFPUをもち、20 MHzもしくは25 MHzで動作する。

Inmos社を中心に、ESPRIT Supernode projectが1985年12月から1989年11月まで続けられた。その目的はT800 transputerを用いて低価格で高性能なリコンフィグラブルなコンピュータを開発しようとするものである。Parsys SN1000はその商品化である(SNはSupernodeから来ている)。

8) IBM社
IBMと日立が、ソフトウェアをつくるのに必要なプログラミング情報の相互利用を行うことで合意し、専門技術者による共同プロジェクトチームを発足させていることが、11月4日明らかになった。IBMが検討対象にしている日立の製品として、DEQSOL (Differential Equation Solver Language、第19回の記事参照)とSEWB (Software Engineering Workbench)の名前が報道されていた。

日米スパコン貿易摩擦

1985年のNCARでの日本製スーパーコンピュータ導入キャンセル事件に続いて、1987年にも似た事件が起こった。日経コンピュータ1988年2月29日号の記事などを基に見てみたい。

1) MIT事件
MITは、スーパーコンピュータの入札を行い、富士通(VP-200)、日本電気(SX-2)、Cray、CDC等が応札した。日本電気(正確にはHNSX, Honeywell NEC Supercomputers、1986年10月に日本電気とHoneywell社の均等出資により設立)が落札し、5年リースで950万ドルという条件で契約寸前まで行った。しかしそのとき、米国商務省長官代理が、MITの学長に対して書状を送り、婉曲に脅しをかけてきた。「私は外国製のスーパーコンピュータの購入に対し、異議をもっていないことをお知らせします。しかしながら、輸入製品は米国のダンピング防止法による関税措置の対象になり得ることをご承知おきいただきたい。」HNSX社は事情を察して直ちに競争から手を引いた。

2) BYU事件
同じ頃、Brigham Young大学(ユタ州)も、言語学科の研究で使うスーパーコンピュータについて、NHSXとCray Researchの2社との間で商談を進めていたが、87年10月に大学は両社を選考対象から除外した。広報担当者は否定するが、大学の上層部に対して政治的圧力が及んだとの報道がなされている。

3) 米国の圧力
米国商務省は、1986年8月に締結したスーパーコンピュータ協定の効果を調査するためということで、1987年6月28日、スーパーコンピュータメーカ等13社からなる貿易使節団を日本に送った。30日には、都内(たしか私学会館、現在のアルカディア市ヶ谷)において、スーパーコンピュータセミナーを開催し、国内の需要家に対してアメリカのコンピュータ・メーカが自社の製品の特徴などを説明した。参加企業は、CDC、Cray Research、FPS、DEC、Apolloなど11社であった。筆者はETA10の積層ボードを初めて見た。51層という厚いボードであったが、これを液体窒素に浸けて大丈夫かと心配になった。

4) 東京工業大学
東京工業大学は、9月22日、日本の国公立機関では初めてETA 10の導入を決めた。システムの価格は27億円、補正予算による導入であった。一応公開入札の手続きが取られていたものの、「OSはUnixに限るなど」実質的に「国内勢は門前払い」であり、米企業優遇措置だとの批判があった。もちろん当事者側は、「こちらとして必要な条件を並べただけで、国内勢外しの意図はない」という公式の見解を表明した(朝日新聞1987年9月25日号)。

5) 工業技術院
同じく補正予算のついた工業技術院情報計算センター(つくば市)に導入するスーパーコンピュータの入札が9月28日締め切りとなり、日本クレイ1社が応札した。これで事実上Cray Research社製に決定した。仕様書には「中央演算処理装置が並列動作できるものに限る」という条件をつけたので、国産メーカは応札できなかった。購入価格はハード20億円、ソフト10億円といわれる。

6) 日米半導体摩擦
1985年から続いている日米半導体摩擦では、1987年2月21日、アメリカ上院は日本が半導体日米協定を破っているとして、大統領に報復措置を要求する決議案を可決した。4月17日、アメリカ政府は日本からのカラーテレビやパソコンに対し、関税を一方的に引き上げた。

7) 三好甫氏の懸念
日米スパコン協議に1987年から参加していた航空宇宙技術研究所の三好甫もこの問題に大きな関心を抱き、当時のビジネス界の取材に「スパコン摩擦を巡る米国の動きは、スパコン技術でリーダーシップを保持したいという技術覇権主義の押しつけである。」と語っている(『地球シミュレータ開発史』p.18)。

ベンチャー企業の創立

1) MasPar Computer社
1987年に、Digital Equipment社(DEC)副社長であったJeff Kalbによってシリコンバレーの一角Sunnyvaleで創立された。彼はDECにおいてGoodyear MPP (1983)のためのIC開発を担当していたが、PEを1ビットでなく4ビットとし、4個の隣接接続でなく8個の接続(Xnet)とし、別に大域ネットワークを作ったらよい、という新しいSIMDマシンの着想をえた。DECは自分で商品化する意志がなかったので、Kalbは自分の会社を設立した。1989年のSC’89では注目を集めていた。1990年にMP-1を出荷し、1992年には改良型のMP-2を出荷した。全体で200台のシステムを出荷した。日本では1990年頃、理経が代理店となった。MP-3が完成する前に、会社は1996年6月にハードウェアビジネスを中止し、NeoVista Softwareというソフトウェア会社に転身した。

2) Tera Computer社
1985年に閉鎖されたDenelcor社の副社長だったBurton Smithは、1987年、Tera Computer社をWashington, D.C.で創立した。1988年にSeattleに移転。Burton Smithは1988年から2005年まで主任技術者であった。この会社は、MTA (Multithreaded Architecture)に基づく共有メモリシステムを開発した。MTA-1はGaAsプロセッサを用い、各プロセッサは128スレッド分のレジスタファイルを持っているのでプロセッサ当たり128スレッド走る。データキャッシュはなく、メモリ・レイテンシはマルチスレッドで対応する。実装についてはIBMと技術提携し、ルータはRP3のものを使っているとの観測がなされている。1998年にSDSCに2プロセッサが設置された。最終的には4プロセッサまで設置された。

2000年に、1996年にSGIに吸収されていたCray Research社を名前ごと買収し、Cray社となった。これは後の物語である。その後MTA-2を出荷した。MTA-2はCMOSを用い、2002年にNaval Research Laboratoryなどに販売された。

次回は1988年、ついに第1回のSCが開催される。ベクトルコンピュータは第2世代の始まりである。CrayはY-MPを発表、富士通はVP2000を発表。ConvexはX-MP互換のC2を出荷。東工大がETA10を導入。日本ではSWoPPが始まる。

(タイトル画像: ETA-10 画像出典:Computer History Museum)

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