世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


4月 5, 2021

新HPCの歩み(第38回)-1966年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

ソ連はこのころ精密機械・計算機科学研究所においてコンピュータBESM-6の設計を完了し、1968年から20年間にわたって生産する。Michael J. Flynnは、並列コンピュータをSISD, SIMD, MISD, MIMDの4種に分類した。DEC社は、1966年、4世代目の18ビットミニコンピュータPDP-9を発売した。

標準化関係

1) FORTRANの規格化
1966年の大事件は、ANSI (American National Standards Institute)がFORTRANの米国規格を制定したことである。2種の言語が制定されたが、一つはFORTRAN IIを基にしたBasic Fortranであり、もう一つはFORTRAN IVを基にしたFORTRANである。後者は後にFORTRAN 66と呼ばれることになる。この規格は1967年、JIS C 6201(水準7000)として「電子計算機プログラム用言語FORTRAN」という日本規格となった。同時に水準5000および3000も規定された。

FORTRANの歴史は10年以上前にさかのぼる。1953年末、John Backusは、IBM 704のためにアセンブリ言語に代わるものを開発するよう上司に提案し、開発チームが発足した。最初のコンパイラは1957年4月に開発された。1958年にはFORTRAN IIが、1962年にはFORTRAN IVが開発された。

筆者に言わせれば、FORTRANこそ、最初の「数式処理」言語、最初の「高級」言語、最初の「オブジェクト指向」言語であった。「数式処理」言語というのは、名前がformula translation(数式変換)に由来するからである。演算子のオーバーロード(四則演算は、整数、単精度、倍精度、複素数に共通の演算子)などは、オブジェクト指向っぽいところと言えよう。カプセル化は不十分であるが。

2) BCPL
1966年にCambridge大学のMartin Richardsはプログラミング言語BCPL (Basic Combined Programming Language)を設計した。中括弧”{“、 “}”を採用した最初の言語と言われる。現在は利用されていないが、B言語を経てC言語の元祖である。

フランス政府の動き

1) Plan Calcul
1959年1月8日にフランス共和国第18代大統領に就任したド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle)は、冷戦の陰で欧州統合を推進し、再び地中海のビジネスを繁栄させようと考えていた。こうした思惑がド・ゴールの「独自路線」として実を結んだ。1960年2月、フランスはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功し、アメリカ・ソ連・イギリスに次ぐ核保有国となった。1963年の部分的核実験禁止条約には加盟せず、以降もアルジェリアなどで核実験を繰り返した。

このような動きにアメリカは反発し様々な圧力をかけてきた。アメリカは、1960年代半ば、水爆の開発に使われるとして、IBMやCDCのコンピュータのCEA (Commissariat à l’énergie atomique、フランス原子力庁)への輸出許可を出さなかった。1964年4月、GE (General Electric)社はフランスのGroupe Bullの株式の51%を買収してBull-GEとしたが、GEは2種のBullコンピュータを生産ラインから外した。

このような背景のもと、フランス政府は軍事用の研究開発のための超大型コンピュータの必要を痛感し、強力な国産コンピュータを育成する必要に迫られた。そのため、1966年7月、フランス政府はPlan Calculというプロジェクトを開始し、以下のコンピュータ振興策を立てた。

(a) 政府の指導力の強化
 首相直属のコンピュータ担当政府代表を置き、コンピュータ振興計画の作成、財政援助の実行とチェック、コンピュータの設置および情報処理システム設定の調整、研究開発、技術教育の促進などを進めた。

(b) 民間コンピュータ企業の再編成
 アメリカ企業に対抗するため、1966年12月、CAE社 (Compagnie Européenne d’Automatisme Électronique)とSEA (Société d’ Électronique et d’Automatisme)を合併して、ビジネス用および科学技術用コンピュータの製造会社CII社 (Compagnie internationale pour l’informatique)を設立した。CII社は、アメリカのSDS社(Scientific Data Systems社、1961年設立)の指導のもとに開発を進め、1968年10月、IC採用の中型コンピュータIris 50を発表した。これはSDS Sigma seriesの国産化であった。CII社は科学技術計算や軍用の分野では競争力があった。ビジネスコンピュータ分野への参入も試みたが、IBMとBullの強力な抵抗に遇った。

(c) 情報科学研究機関IRIA(INRIAの前身)の設立
 フランス政府研究省は1967年1月3日、IRIA (Institut de Recherche en Informatique et en Automatique、「情報学自動制御研究所」)を設立した。1979年にINRIA (Institut National de Recherche en Informatique et en Automatique、「国立情報学自動制御研究所」)に改名する。

ソ連の動き

1) BESM-6
1966年(一説には1967年)、ソ連の精密機械・計算機科学研究所においてコンピュータBESM-6の設計が完了し、1968年から20年間にわたって生産された。BESMは「大規模電子式計算機械」のロシア語の頭文字に由来する。1952年に完成したBESM-1およびBESM-2は真空管式、BESM-3およびBESM-4はトランジスタ式であった。BESM-6もトランジスタ式であり、10 MHzのクロックで動作し、2本の命令パイプラインを備えた。性能は1 MFlops程度と推定され、CDC 6600に匹敵するものであった。(Wikipediaの“BESM”による)全体ではBESM-6は355台生産されたとのことである。

世界の学界の動き

1) Flynnの分類
Northwestern大学(ANL兼務)のMichael J. Flynnは、1966年12月、”Very High-Speed Computing Systems”という論文において、並列コンピュータをinstruction streamとdata streamの観点からSISD, SIMD, MISD, MIMDの4種に分類した。そればかりでなく、現在では多くのプロセッサでも採用している命令パイプライン、演算パイプライン、複数命令の同時実行、アウトオブオーダ実行、分岐予測、メモリインターリーブなどのプロセッサ高速化技法が詳しく論じられているのは驚きである。

ただし現在の視点からは、メモリの構成がリアリティを欠いている。SIMDではデータメモリは共有を前提としており、ILLIAC IVは完全なSIMDではないと書いている。

またMIMDは分散メモリを前提としており、プロセッサ間の通信や同期はなしまたは最小限にせよと書かれている。今で言うEP (embarrassingly parallel)クラスの問題を前提にしているのであろうか。マイクロプロセッサの出現前なので致し方ない。また、演算器間の同期が配慮されていないので、今で言うchaotic algorithmのようなものが連想され、のちにわれわれがPAXはMIMDだと言った時、激しい拒否反応を受けた。従って、現在この4分類は並列処理の枕詞としてしか言及されないが、このうちSIMDだけはプロセッサ内の(浮動小数、後に整数等も)演算高速化の技術の名称として使われている。

国際会議

1) ISSCC 1966
第13回目となるISSCC 1966 (1966 IEEE International Solid-State Circuits Conference)は、1966年2月9日~11日にペンシルバニア州Philadelphiaで開催された。会場は、前回までと同様にPennsylvania大学Irvine AuditoriumとUniversity Museum、およびPhiladelphia Sheratonホテルのようであるが、表紙には記されていない。主催はIEEE Group on Circuit Theory、IEEE Electronic Circuits and Systems Committee、IEEE Philadelphia Sections、University of Pennsylvaniaである。組織委員長はJ. Meindl (US Army Electronics Cmd., Stanford U.)、プログラム委員長は Gerald B. Herzog (RCA Labs)である。電子版の会議録はIEEE Xploreに置かれている。

アメリカの企業の動き

1) IBM社(DRAM)
IBM社Thomas J. Watson Research CenterのRobert Dennardは、1966年DRAMを発明し、1968年に特許が成立した。これは1ビット当たり、1個のトランジスタと1個のキャパシタをNMOS上に構成したものである。1964年にはIBMでトランジスタやダイオードを配線でくみ上げて記憶セルを構成する実験を行っており、翌年には16ビットのシリコンのメモリチップを開発していた。Dennardは、MOSFETによる小型化に大きな将来性があることに気づき、1974年に、LSI上のMOSFETは小型化すればするほど高速かつ省電力になるという「Dennardの法則(スケーリング)」を提唱する。2013年に、京都賞先端技術部門を受賞。

Intel社は、1970年10月、世界初のDRAM製品としてDRAM 1103を発表する。容量は1024ビットであった。

2) Hewlett-Packard社
同社は、1939年1月1日に、Bill HewlettとDavid Packardによりカリフォルニア州Palo Altoのガレージで始まった。初期の製品はオーディオ発信機HP 200Aであった。シリコンバレーの走りと言われているが、同社が半導体やコンピュータに乗り出したのは、比較的後のことである。カリフォルニア州の法人となったのは1947年8月18日、株式を上場したのは1957年11月6日である。

HP社は、HP 2116Aを開発し、1966年11月7日~10日にSan Franciscoで開催されたJoint Computer Conferenceでデモを行った。同機は、最初の16ビットミニコンピュータのひとつであり、リアルタイム処理の機能を持っていた。HP社は多くのHP 2100シリーズを開発した。

3) DEC社(PDP-9、PDP-10)
DEC社(Digital Equipment Corporation)は、1966年、4世代目の18ビットミニコンピュータPDP-9を発売した。全体で445台生産され、内40台は廉価版のPDP-9/Lであった。

また同社は、PDP-6(1963年)をベースにPDP-10を出荷した。36ビットワードを採用。TSSを広く浸透させたマシンで、多くの大学や研究機関に採用された。1967年にTOPS-10 OSがリリースされ、これを搭載したシステムが1971年9月、DECsystem-10の名前で販売された。 なお、TOPS-10と呼ばれるようになったのは1970年から。

4) SDS社(SDS 940)
SDS社(Scientific Data Systems社、1961年設立)は、1966年2月にSDS 940を発表し、4月に出荷した。アーキテクチャはSDS 930の24bitに基づくが、仮想記憶と記憶保護の機能を持ち、Time-Sharing Systemをサポートする。60台が販売された。1969年にSDS社がXerox社に買収され、Xerox Data Systemsとなった時、SDS 940はXDS 940と名称変更される。

SDS社は、1966年12月、第3世代であるSDS Sigma seriesを出荷した。最初の製品は、16bitのSigma 2と、32bitのSigma 7であった。32bitシステムとしては、1967年にSigma 5、1970年にSigma 6、1971年にSigma 9、1972年にSigma 8を発表した。16bitとしては、1969年にSigma 3を発表した。

1973年に発表されたXerox 500 seriesは、新しいテクノロジを使ってSigma seriesを改良したものである。

5) Burroughs社(B2500)
同社は1966年、中型機B2500を開発した。事務用でCOBOLプログラムを効率的に実行できるよう設計されている。

企業の創業

1) Interdata社
1966年、Electronic AssociatesにいたDaniel SinnottによりInterdata社がニュージャージー州Oceanportで設立された。IBM 360アーキテクチャに類似した16ビットおよび32ビットのミニコンピュータを安価に製造販売した。1973年に、Perkin-Elmer社に買収された。

次は1967年である。電電公社ではDIPS研究実用化計画が立案され、オンライン情報処理サービスやデータ通信サービス用の商用開発を目指した。このころ日本のメーカーは、ICを論理素子とするコンピュータの開発にしのぎを削っていた。

(アイキャッチ画像:BESM-6 写真:Victor R. Ruiz – https://www.flickr.com/photos/rvr/21836713154 )

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