新HPCの歩み(第73回)-1984年(b)-
世界初のハードに依存しないウィンドウシステムX Windowがリリースされる。Karmarkarの多項式時間の線形計画問題解法が発表された。また、Mendezは流体力学のベンチマークで、富士通のVP-200がCray社のX-MPより高性能であることを発表してアメリカに衝撃を与えた。 |
日本の企業の動き
1) 富士通・日立のスーパーコンピュータ
富士通関係では、1月に名古屋大学プラズマ研究所でVP-100が稼動したのに続いて、4月にはVP-100が京都大学大型計算機センターに設置された(翌年VP-200に更新)。東大のHITAC S-810/20に続いて、日本にも本格的なスーパーコンピュータ時代が到来した。メインフレームと互換性のある、ベクトル処理によるスーパーコンピュータと言う点では同じであるが、アーキテクチャ的には違った特徴を持つ。
S-810/20の主要部は8本のベクトル演算器(演算パイプと呼ばれる)である。4本は加算器(論理演算を含む)、4本は乗算器+加算器という構成になっていて、それぞれが独立に動き、一種のデータフローのような処理を行う。Model 10ではそれぞれ半分。14nsに最大12 浮動小数演算を実行することができ、理論ピーク性能は850 MFlopsである。他方VP-100/200では、機能的には1本の加算パイプと1本の乗算パイプであるが、中では複数の演算器が並行に動き、今の言葉でいう要素並列を実現している。ベクトル命令では今で言う「アウトオブオーダ」実行を実現していた。
ベクトルレジスタは、S-810では256語(64ビット)の固定長のレジスタがmodel 10では16個、model 20では32個設置されている(アクセス時間40 nsの1 KbバーポーラRAMを使用)。VP-200では、64 KB(8192語)のレジスタを、1024語×8や256語×32などダイナミカルに再構成することができる。VP-100では半分である。Cray Research社のマシンでは普通の論理素子でベクトルレジスタを実装していたが、日本ではメモリデバイスで実現したので、大きな容量のベクトルレジスタを持つことができた。
主記憶についても、当初のCray X-MPが16MBを上限としていた(1984年のX-MP/48でも64MB)のに対し、VP-200でもS-810/20でも最大256MBまで搭載することができた。前回述べたように、東大のS-810/20では当初64MBであったが、その後256MBに増強した。
日立製作所神奈川事業所に保存されているHITAC S-810論理パッケージは、情報処理学会から2015年度情報処理技術遺産に認定される。
2) IBM産業スパイ事件
1982年に始まった産業スパイ事件に関連して、アメリカIBM社は、1984年8月に日立と富士通の立ち入り検査を行い、12月に富士通が協定に違反し、富士通の互換ソフトウェアに大量のIBMコードのコピーが含まれている、また富士通のシステム開発言語SPLがIBMのPLSに酷似しているとして違約金の支払いを求めた。IBMは1985年7月11日AAA(American Arbitration Association、アメリカ仲裁協会)に富士通を提訴し仲裁が始まった。その後、AAAは、1987年9月に仲裁命令を下し、富士通に和解金の支払いを命じた。AAAは1988年11月29日に最終決定を下し、紛争は決着した。和解金の額は$833Mと言われている。富士通とIBMとの係争は伊集院丈の「雲を掴めー富士通・IBM秘密交渉」と「雲の果てにー秘録富士通—IBM訴訟」の本に詳しく述べられているそうである。
3) 日本電気(PC-UX)
1984年5月17日、日本電気はUNIXをパソコンPC9800シリーズに移植し、PC-UXとして発売した。
4) 日本電気(NEDIPS、μPD7281)
日本電気は、データフロー計算機NEDIPSを1983年11月に開発した。同社のC&Cシステム研究所がシステム設計を行い、誘導光電事業部がハードウェアを開発した。資源探査衛星の合成開口レーダーからの画像処理が汎用機より約10倍高速に実行できる。日本電気株式会社百年史によると、1984年5月に1号機をリモートセンシング技術センターに納入した。
1984年9月27日、本格受注を開始した。NEDIPSには、MODEL 10(演算ユニット1台)、MODEL 20(演算ユニット2台)、MODEL 30(演算ユニット3台)の3種類のモデルがある。メモリは最大64MBまで拡張できる。
また同社は、1984年2月にSan Franciscoで開催されたISSCC 1984において、データフローアーキテクチャに基づくImage Pipelined Processor (ImPP)μPD7281を発表した。NEDIPSとの関係は不明。
5) 日本電気(V20、訴訟)
日本電気は、1984年3月、8ビットバス版の16ビットプロセッサV20(μPD70108)を発表した。Intel8088をCMOS化して高速化した。
前年のV30や、その後で他V40やV50と合わせて高性能・低消費電力と評価され、世界中で採用されたが、Intel社が訴訟を起こすとのうわさが広まり売れ行きが鈍った。このため、1984年末、日本電気はIntel社を相手取り、V20/V30/V40/V50のマイクロコードがIntel社の著作権を侵害していない旨の債務不存在確認訴訟を米国カリフォルニア州連邦裁判所に提訴した。1985年6月、Intel社もV20とV30が著作権法違反であるとして提訴した。1989年に、日本電気はIntelの著作権を犯していないとの判決を得た。ただし、その直接の理由は、8086に著作権表示がなく、当該製品に対して著作権が認められないからであった。一方で、著作権表示があればマイクロコードにも著作権があることが判示され、互換プロセッサの製造が困難となった。この係争中、日本電気はVシリーズの世界市場での販売を控えていたと言われている。
6) 富士通研究所(CAP)
富士通研究所は、並列計算機CAPを開発した。64ノードをTorus結合したもので、各ノードはIntel 80186+8087である。最初Ray Tracingによる画像生成に用いられたが、分子動力学計算にも用いられた。その後256ノードのCAP-256に拡張。
7) セイコー電子工業(不揮発性メモリ)
セイコー電子工業(現セイコーインスツル)は、256ビットの不揮発性メモリ(NVRAM)の試作に成功し、1985年からサンプル出荷する予定。アメリカではIntel社が4ビット、Xicor社が256ビット、1Kビットなどの製品を市販しているが、日本では初めてである。
8) 日本製鋼所(SOR)
日本工業新聞6月13日号によると、日本製鋼所室蘭製作所では、超伝導SOR (Syncrotron Orbit Ratidation)装置が完成し、波長10Åの放射光の取り出しに成功した。超伝導磁石は石川島播磨重工業製である。3年以内に装置をリソグラフィ用に販売するとのことである。1982年には高エネルギー物理学研究所(現、高エネルギー加速器研究機構)でPF (Photon Factory)が完成しているが、PFは巨大な装置である。この装置は超伝導磁石利用で小型化され半導体工場に設置が可能である。
当時、次世代リソグラフィとしては、放射光、電子線描画装置、X線リソグラフィなどが考えられていたが、現在ではEUV (Extreme Ultraviolet)リソグラフィが主に用いられている。
9) 生活構造研究所
生活構造研究所は、横浜こども科学館」の構想・計画への参画を機に、北米標準(NAPLPS)方式ビデオテックス(双方向画像通信システム)の検討を行ってきたが、1984年7月12日、三菱商事と共同で、PCをNAPLPS方式の日本語ビデオテックスの端末装置とするソフトウェアを開発した。
10) LSIロジック社
1980 年に創立されたLSI Logic Corporationは日本にも進出し、1984年4月、東京にLSIロジック株式会社を資本金$20Mで設立した。1985年からは元日本電気の八幡恵介が社長。
標準化
1) GNU
MIT人工知能研究所にいたRichard Matthew Stallmanは、完全にフリーソフトウェアで構成されるOSを実現するため、1984年1月5日に研究所を辞し、GNUの開発を始めた。1985年10月、Stallmanはフリーソフトウェア財団 (FSF) を創設した。1992年にはLinuxのバージョン0.12がGNU General Public Licenseライセンスでリリースされ、完全にフリーソフトウェアで構成されたOSとなった。
2) X Window
1984年5月、MITのJim GettysとBob Scheiflerは、X Windowのversion 1をリリースした。Bitmap displayを用いたユーザインタフェースはそれ以前にも存在していたが、Xは世界初のハードウェアやベンダーに依存しないウィンドウシステム環境となった。1983年頃、W Window SystemがUnixに移植されたが、Xという名称は、Wの後継ということで与えられた。1985年1月にはversion 6をリリースした。1985年末にはversion 10 (X10)となった。X11のリリースは、1987年9月15日に行われた。筆者が最初に触ったのは、Sun 4上のX10やX11であった。
3) NFS
Sun Microsystems社は、1984年、Unix上で使用される分散ファイルシステムNFS (Network File System)の実質的な最初の規格となるNFS Version 2を公表した。なお、Version 1は社内の実験に留まった。NSFにより、ネットワークで接続された他のホストのディレクトリやファイルを、自分のホスト上のファイルのように利用できる。また、NSFの大きな特徴は異機種や異種OSのもとでも動作することである。その後機能拡張され、1995年6月にVersion 3が、2000年から2005年にVersion 4が発表される。
性能評価
1) Dhrystone
米国ニュージャージー州PrincetonにあるSiemens Corporate Research and Technology, Inc.に所属するReinhold P. Weickerは、1980年10月、Communications of the ACM 27 (1984) 1013-1030に“Dhrystone: a synthetic systems programming benchmark”という論文を発表し、整数演算や文字列演算向けのベンチマークを提案した。浮動小数点数演算は含まれていない。この名前は以前からあった浮動小数点数演算負荷を対象とするWhetstone(地名、意味は砥石)をもじったものである。
アメリカ政府関係の動き
1) HEPAP Subpanel on Theoretical Computing
経緯はよく分からないが、1984年4月、DOEのOffice of Energy Research, Division of High Energy PhysicsのHEPAP (High Energy Physics Advisory Panel)はSubpanel on Theoretical Computing を構成し、「高エネルギー物理学理論研究のための大規模計算の利用状況と需要を調査し、クラスVIもしくはそれ以上のスーパーコンピュータへのアクセスがどのような利益をもたらすか分析する」任務を与えた。委員長はChris Quigg (FNAL)で委員はNorman H. Christ (Columbia), Michael J. Creutz (BNL), John S. Kogut (Illinois), Julius Kuti (UCSD), Christoph W. Leeman (LBL), Robert H. Siemann (Cornell), Jack Worlton (LANL)であった。クラスVIとはCray-1またはCyber 205クラスのスーパーコンピュータを指す。
アメリカ、ヨーロッパ、日本における研究目的のスーパーコンピュータへのアクセスについて分析しているが、日本について「政府が複数の計算センターに設置し、研究者は料金を払って利用する。全国的なネットワークが設置されている。最近、いくつかのスーパーコンピュータが設置された。」と報告している。
このサブパネルは1984年9月にレポートを公表し、理論物理学と加速器設計におけるコンピュータシミュレーションの急激な進展のため、短期的にクラスVIのマシンが3台必要であると結論している。同時に、専用計算機やアレイプロセッサのような革新的なアプローチを研究する複数のプロジェクトを支援すべきであるとも述べている。
2) 日米のコンピュータ科学のレベル比較
アメリカ政府の商務省は、日本の科学技術の現状を調査する目的で”Japanese Technology Evaluation Program”を立ち上げ、4つの分野(コンピュータ科学、材料工学、マイクロエレクトロニクス、ロボット工学)について調査部会を設置した。コンピュータ科学については、SRI副社長でACM前会長のDavid H. Brandinを部会長とし、産学からの7人の委員で構成されている。そもそもこのような委員会ができた背景には、日本の半導体メモリ市場の独占、第五世代コンピュータプロジェクトの発足、スーパーコンピュータでの日本の優位など、アメリカ人の神経を逆なでする出来事が相次いだことがある。
情報処理学会は、部会長のBrandin氏が第五世代コンピュータプロジェクトの主催するFGCS’84参加のため来日した機会をとらえ、1984年11月8日に東京一ツ橋の日本教育会館で講演会を企画し、詳細なお話を伺った。『情報処理』1985年5月号に講演記録「日本と米国のコンピュータサイエンスについて」が掲載されている(ダウンロード可能)。
調査対等とした項目は、「ソフトウェア」「人工知能とマンマシンインタフェース」「コンピュータアーキテクチャ」「通信」で、それぞれについて、細目別に、「基礎研究(Basic Research)」「応用開発(Advanced Development)」「製造技術(Product Engineering)」の3つの側面について日本の実力をアメリカと比較し、- -(はるかに遅れている)、-(遅れている)、○(対等)、+(進んでいる)、++(はるかに進んでいる)の評価を与えている。ここで、基礎研究とは主に理論面における基礎的な研究を、応用開発とは製品化に向けてのプロトタイプの作成を、製造技術とは実際に出荷される製品、特にソフトウェアについては第三世代計算機向けのコードにつちえの技術を指している。加えてその時間的変化の方向も分析しているので元記事を見てほしい。
総合評価としては、基礎研究は- -、応用開発は-、製造技術は○との評価である。4分野については以下の通り。
|
基礎研究 |
応用開発 |
製造技術 |
ソフトウェア |
- - |
- |
+ |
人工知能 |
- - |
- |
- |
アーキテクチャ |
- - |
○ |
+ |
通信(ハード) |
- - |
○ |
+ |
通信(ソフト) |
- |
- - |
基礎研究を総じて- -と見ていることは注目される。ちょっと長くなるが細目についても記す。
ソフトウェア |
|||
ソフトウェア工学 |
- - |
- |
++ |
OS |
- - |
- - |
+ |
アプリケーションソフトウェア |
- - |
- |
不明 |
言語 |
- - |
- |
++ |
データベース・システム |
- - |
- - |
- - |
人工知能とマンマシンインタフェース |
|||
日本語処理 |
○ |
++ |
++ |
音声認識 |
○ |
○ |
- |
機械翻訳 |
○ |
○ |
- |
エキスパートシステム |
- - |
- - |
- - |
言語、ツール、プロセッサ |
- - |
- |
- |
自然言語理解 |
- - |
- - |
- - |
コンピュータアーキテクチャ |
|||
並列プロセッサ |
- - |
- |
意味がない |
スーパーコンピュータ(ハード) |
意味がない |
○ |
- |
スーパーコンピュータ(ソフト) |
- - |
○ |
+ |
ワークステーション |
意味がない |
ー - |
ー - |
IBMクローン |
意味がない |
+ |
++ |
通信技術 |
|||
ローカル・エリアネットワーク |
- - |
- |
○ |
ハードウェア |
○ |
○ |
○ |
プロトコルとソフトウェア |
- - |
- |
- - |
ファクシミリ、OA |
- - |
+ |
+ |
全体的に、日本はソフトウェアの基礎研究では大幅に立ち遅れているが、出荷される製品の信頼性は高く、製品技術での高い評価につながっている。アーキテクチャの基礎研究でもアメリカが日本を圧倒しているが、これらは主としてペーパーワークであり、逆に日本はプロトタイプ作りが重視されているため、応用開発の評価は高くなっている。通信では、ハードウェアについては日本が、ソフトウェアについてはアメリカが優位に立っている。
ソフトウェアとしての言語の製造技術に関する評価は、スーパーコンピュータの言語処理系に関するもので、スーパーコンピュータ(ソフト)の基礎研究がー -で、製造技術が+なのも同様であろう。後述のMendezらのベクトル化コンパイラ比較研究を踏まえているのであろうか。スーパーコンピュータ(ハード)の製造技術が- -なのは意外であるが、1984年という時点では(X-MP、Cyber)対(S-810、VP-200)なのでそうかもしれない。時間変化は上昇中とされている。並列プロセッサは、アメリカのペーパーマシンに対して、日本ではプロトタイプ作成が重視されており、応用開発の面では急速に追いつきつつある。
エキスパートシステムに関しては、アメリカの現状に対比しうる活動は日本に見当たらない。アメリカではこの分野に85社もが参入している。
いろいろ議論はありうるが、一つの見方であろう。
3) 半導体保護法案
SIA(米国半導体工業会)からの働きかけにより、1984年10月、アメリカ下院本会議は半導体保護法を可決した。5月頃開催された、日本電気、日立、東芝、富士通など半導体関連メーカの3月期決算発表では、各社とも256Kb DRAMが話題の中心で、その技術力や生産計画を競っていた。このニュースがSilicon Valleyに伝わると、256Kb DRAMの量産に手間取っている現地の企業に衝撃をもたらしたとのことである。半導体保護法は11月発効した。日米半導体摩擦の号砲であった。
他の政府関係の動き
1) EC委員会(ESPRIT計画)
ESPRIT計画(The European Strategic Programme for R&D in Information Technology)は、1982年初頭EC委員会から発表され、1983年実施のパイロット計画を経て、1984年から本番の計画が開始された。5年間のPhase Iが承認されている。目標として、欧州の情報技術産業が今後10年以内に、国際競争力を有し、これを維持するのに必要な技術基盤を構築することである。このため、「産業レベルでの国際協力」「基盤技術の提供」「国際標準化」を進める計画である。5つのサブプログラムが設けられている。それぞれ研究プロジェクトを公募し、重要度に応じてタイプAとタイプBに分けて採択する。
1.高速マイクロエレクトロニクス |
2.ソフトウェア技術 |
3.知識情報処理 |
4.オフィスシステム |
5.コンピュータ利用による生産技術 |
1983年のパイロット計画は、総額€23Mで、その半分をECが、残りを民間企業が負担した。Phase Iでは、総額€1.5Bが予定されていて、半分はECが負担する。
2) ソビエト連邦(M-13)
Wikipedia(ドイツ語版)等によると、1984年、モスクワの計算科学研究所で2.4 GFlops(低精度の複素数演算らしい)のマルチプロセッサ・ベクトル計算機M-13が作られたとのことである。製作したのは、ウクライナ(当時はソ連の一部)の技術者Mikhail A. Kartsevである。かれは1950年ごろからソビエトのコンピュータ製作に関係しており、M-1、M-2、M-4、M-9、M-10など種々のコンピュータを設計製作している。今回初めて見つけたが詳細は不明(参照画像)。
3) CSIRO(オーストラリア)
オーストラリア政府の研究所CSIRO (The Commonwealth Scientific and Industrial Research Organization)は、1984年中ごろCanberraにCDC Cyber 205を設置した。
世界の学界の動き
1) 量子色力学専用機
このころ多くの量子色力学(QCD)専用機が開発されていたが、別項にまとめる。
2) Mendezのベンチマーク
経緯は明らかでないが、流体力学研究者であったRaul Mendez (Naval Postgraduate School, Monterey California)は、かなり初期に、日本のスーパーコンピュータとCray X-MPとの性能比較を行いアメリカの業界にショックを与えた。彼はアメリカと日本の両方のスーパーコンピュータを性能評価したことのある唯一のアメリカ人であった。本人の手記では、1985年に来日してベンチマークを行ったと書いているが、bit誌1984年9月号の栗田昭平の記事『スーパーコンピュータ、産業化時代へ』によれば、すでにそのころX-MPとVP-200との性能比較の結果を公表している(下記SIAM NEWS参照)。もしかしたら、来日せず、性能測定を依頼したのかもしれない。Mendezは、流体力学の5本のプログラム(VORTEX, EULER, 2D MHD, SHEAR, BARO)を両機で走らせ、その結果、「VP-200はベクトル性能の面でX-MPより大幅に勝っており、スカラ性能は互角。」との報告を公表した(SIAM NEWS, March 1984, “Supercomputer Benchmarks Give Edge to Fujitsu”)。その理由として、
(1) ベクトル演算器の性能がVP-200はX-MPの2倍ある
(2) IF文を含むDOループに関して、マスク命令かgather-scatter風かを選択する機能がある
などを挙げている。X-MPはおそらく1 CPUの実行であろう。
筆者の記憶では、彼はしばしば訪日し、日本の友人の助力で各社のスーパーコンピュータを使って廻っていた。上記の手記によると、1985年に宇宙科学研究所の研究者(おそらく故桑原邦郎氏。後に計算流体力学研究所を設立。)から、日立・富士通・NECのスパコンの性能試験をしてほしいと頼まれ、日本に来たとのことである。比較テストをすると、日本製のスパコンの方が米Cray社のものより高い性能を発揮することがあり、これを論文に発表した。筆者もその頃何度かお会いしている。「ヘンな外人」という印象であった。かれの経験はISCやSCでも珍重された。
3) The Computer Museum
1984年11月13日、The Computer Museumがボストンで公式に開館した。Wikipedia “The Computer Museum, Boston”によると、1975年にDEC Museum Projectが始まり、マサチューセッツ州のMaynardのDECのビルのロビーに展示されていた。1979年9月、DEC社の援助により、Gordon and Gwen Bell夫妻が、マサチューセッツ州Marlboroの元RCAのビルにDigital Computer Museumを設立した。1982年春、このMuseumはIRS(内国歳入庁、日本の税務署に相当)から非営利団体として認定され、1983年秋、名前をComputer Museumに変更してBostonの中心部に移すこととした。こうして、1984年11月13日に再開館したのである。この後、1996年にカリフォルニア州MountainviewにComputer Museum History Centerが設立され、展示物を順次移動して、Bostonの博物館は1999年に閉鎖された。2001年にComputer History Museumに名称変更した。
4) 雑誌SUPERCOMPUTER
1984年5月、オランダのスーパーコンピュータセンターSARA (Academic Computing Services Amsterdam) からスーパーコンピュータに絞った雑誌“SUPERCOMPUTER”が発行された。A6判の小型の雑誌である。Editorsとして以下の名前が記されている:Bill Buzbee, Jack Dongarra, Ad Emmen, Jaap Hollenberg, Yasumasa Kanada, Rossend LLurba, Raul Mendez, Aad van der Steen。筆者も一二度投稿したことがある。不定期に1997年ごろまで発行されたようである。
5) Karmarkar法
インド人の数学者Narendra Krishna Karmarkarは、1984年、Bell Labs.において線形計画問題の高速な(多項式時間の)解法を発見した。これは内点法の一種で、候補を実行可能領域の境界に沿って更新するSimplex法とは異なり、実行可能領域の内部を動いて更新する。New York Times紙では、11月19日の第一面に紹介され、大騒ぎとなった。その後、多くの内点法のアルゴリズムが発展した。
日本クレイ社は1984年になって、8月に電電公社にCray X-MP/22を、11月に東芝にCray X-MP/22を設置する。DEC社はミニコンピュータVAX 8600を発表する。
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