新HPCの歩み(第72回)-1984年(a)-
日本の大学の研究者は、やっと数百MFlopsのスーパーコンピュータを使えるようになった。前年10月の東大に続いて、4月にはVP-100が京都大学大型計算機センターに設置された(翌年VP-200に更新)。またこの年、村井純等がJUNETの実験を開始し、日本の高エネルギー物理学の研究機関をつなぐHEPnet-Jの運用も始まった。日本でも遅まきながらネットワーク時代の幕開けである。 |
社会の動き
1984年(昭和59年)の社会の出来事としては、1/1 AT&T分割、1/10アメリカとバチカン、外交関係樹立、1/18三井三池炭鉱火災、1/19九州から関東まで大雪、1/19週刊文春26日号「疑惑の銃弾」連載開始、1/19家永教科書裁判第三次訴訟、国家賠償請求を提訴、2/8-19サラエボ冬季オリンピック、2/14松元智津夫が「オウム神仙の会」を設立、2/15電気通信事業法成立(通信自由化)、3/5都はるみ引退宣言「普通のおばさんになりたい」、3/11「風の谷のナウシカ」公開、3/18グリコ・森永事件はじまる、4/1東京芝浦電気が東芝に社名変更、4/2 NHKハングル講座始まる、4/10長谷川一夫と植村直巳に国民栄誉賞、5/5夕張保険金殺人事件、5/9グリコ製品に毒物混入との脅迫状、5/12 NHKが衛星放送を開始、6/1第二電電企画創立、6/3-6インド軍がシーク教の黄金寺院を攻撃、6/7-9第10回サミット(ロンドン)、6/14-17 EC加盟国で欧州議会議員選挙、6/15エリマキトカゲ初来日、6/26辛子蓮根食中毒発生、7/6テレビドラマ『金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?』放送開始、7/11松山事件無罪判決、7/25北朝鮮帰還事業終了、7/28-8/12ロサンゼルスオリンピック、8/21臨時教育審議会設置、8/30スペースシャトル「ディスカバリー」、初の打ち上げ成功、8/?東京大学のトルコ人留学生が「トルコ風呂」の名称変更を厚生大臣に直訴、9/6全斗煥大統領来日、9/12森永製菓に脅迫状、9/14長野県西部地震(M6.8)、9/19自民党本部放火、10/6有楽町マリオン全面完成、10/7「かい人21面相」から脅迫状、「どくいりきけん たべたら しぬで」、10/1日本の健康保険本人の自己負担が定額制から10%の定率制へ、10/9山下泰裕に国民栄誉賞、10/25コアラ6頭到着、10/31インド首相インディラ・ガンディー、シーク教徒の護衛警官2名により暗殺、11/1新札3種類(福沢諭吉一万円札、新渡戸稲造五千円札、伊藤博文千円札)発行、11/4ダニエル・オルテガがニカラグア共和国の大統領に当選、11/6アメリカ大統領選挙、ロナルド・レーガン再選、11/9「フライデー」創刊、11/16東京世田谷電話ケーブル火災、電話網麻痺、銀行システム麻痺、11/22逗子市長に冨野喜一郎(筆者の中高での同学年)が当選(池子弾薬庫跡地問題)、11/30電電公社、キャプテンシステムのサービス開始、12/3インドのボパール化学工場事故、12/19東京都特殊浴場協会が「ソープランド」の名称を発表、12/27イギリスと中国が香港返還合意書に調印、など。
流行語・話題語としては、「ロス疑惑」「くれない族」「マル金・マルビ」「ソープランド」「ピーターパン症候群」「普通のおばさん」「私は、コレで、会社を辞めました」など。
チューリング賞は、EULER, ALGOL-W, MODULA, Pascalといった革新的なコンピュータ言語の開発に対してNiklaus Wirth(ETH)に授与された。授賞式は、1984年10月、San Franciscoで開かれたACM年次総会で行われた。
エッカート・モークリー賞は、データフローアーキテクチャの発展に寄与したJack Dennis (MIT)に授与された。
ノーベル物理学賞は、weak bosonのWとZの発見に対し、Carlo RubbiaとSimon van der Meerに授与された。化学賞は固相反応によるペプチド化学合成法の開発に対しRobert Bruce Merrifieldに授与された。生理学・医学賞は、免疫系の発達と制御における選択性に関する諸理論、およびモノクローナル抗体の作成原理の発見に対し、Niels Kaj Jerne、Georges J. F. Köhler、César Milsteinに授与された。
日本政府の動き
1) スーパーコン大プロ
1981年に始まった通産省の「スーパーコン大プロ」は1984年6月25日に機械振興会館で報告会を行った。出席したが詳細は記憶にない。
2) 第五世代コンピュータプロジェクト
本プロジェクトでは、1981年に続く第2回目となるFGCS’84を、1984年11月6日~9日に東京京王プラザホテル5階ボールルームで開催した。参加者は1100人、逐次型推論マシン、基礎ソフトウェア要素技術の実験システムのデモンストレーションを実施した。また、一般投稿を受け付け、この分野の発展を促した。参加登録費10万円(早期登録は8万円)、バンケット15000円(別)であった。
3) ソフトウェア保護
文化庁著作権審議会は、1984年1月10日、ソフトウェア保護に関する中間報告を公表。
4) 日本学術会議(学協会推薦制)
1949年以来、学術会議は内閣総理大臣の所轄の下に設置され、登録された研究者の公選によって会員を選出してきたが、1983年の法改定により、1984年5月、学協会推薦制へ変更された。7つの部に、専門に対応した研究連絡委員会があり、定められた数の会員を推薦する。1985年7月の第13期からは新しい制度で選出された会員により学術会議が構成されるようになる。
公選制には組織票や買収・票集めなど問題があったが、学協会推薦ではボス支配が強まるなど多くの批判がなされた。研究者の視点でも、日本学術会議が遠いところに行ってしまったような気がした。筆者が大学院の時、論文が出版されて学術会議に登録すると会員選出の「有権者」となり、研究者として一人前と認められたような気がしてうれしくなったことを思い出す。
2005年10月の第20期からは、現会員で構成される選考委員会が、会員・連携会員からの推薦および協力学術研究団体に指定されている学協会からの情報提供を考慮して選考する、いわゆるcooptation方式に変わり、さらに研究者から遠のいた感じとなった。
日本の大学センター等
1) 東京大学
1983年10月に設置された東大大型計算機センターのS-810/20は、1984年に拡張記憶256MBが設置された。その後(おそらく1985年)に、主記憶256MB、拡張記憶512MBに増強される(この件については、河辺峻氏(明星大学、故人)、中川八穂子氏(日立)、金田康正氏(東大、故人)から貴重な情報をいただいた)。
2) 京都大学(VP-100)
1984年4月にはVP-100 (1 CPU, 64 MB, 267 MFlops)が京都大学大型計算機センターに設置され、4月26日にサービスを開始した(翌年VP-200に更新)。
3) 群馬大学(M-240H)
1984年11月、計算センターの建物(595m2)が竣工し、12月情報処理センターを設置した。HITAC M-240Hシステムの運用を開始した。
4) 富山大学
1984年11月、「富山大学計算機センター」を改組し、「富山大学情報処理センター」設置した。センターを増築し、FACOM M-360を導入した。
5) 工学院大学(ACOS 850)
工学院大学電子計算機センターは、1984年、日本電気ACOSシリーズモデル850を導入し、PC-9801Eを新宿校舎に30台、八王子校舎に60台設置し、授業利用を開始した。
6) 名古屋大学プラズマ研究所(VP-100)
名古屋大学プラズマ研究所では、1984年1月からVP-100(1号機)が稼動した
7) 日本原子力研究所(VP-100)
日本原子力研究所には、1984年10月、VP-100が設置された。フロントエンドはM-380Q。
日本の学界の動き
1) NUMPAC
名古屋大学数学ライブラリNUMPAC (Nagoya University Mathematical Package)は、1971年の名古屋大学大型計算機センター開設以来、研究開発部において二宮市三を中心に開発が行われていたが、NUMPACという名前が登場したのは1984年頃と思われる。同センターニュースのVol. 15, No. 2, pp.222-243 (1984)に「名古屋大学数学ライブラリNUMPACについて」という記事がある。数少ない日本製のマシン独立でオープンな数学パッケージであり、その後ベクトルスーパーコンピュータへの拡張もなされた。
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2) 筑波大学(PAX-32J)
筑波大学の星野力等は、DC J-11をCPU として用いた新しい並列コンピュータPAX-32Jを製作した。J-11は、DEC社がPDP-11をマルチチップモジュール化し1979年に開発したプロセッサである。新技術開発事業団(JSTの前身の一つ)の委託を受け、三井造船が製造を担当した。最初は64並列を計画したが、二つに分け、半分は慶應義塾大学に設置し、川合敏雄、朴泰祐らがソフトウェアの研究に活用した。接続は2次元トーラス(8×4)である。隣接するCPU間で小さな2-port memoryが共有され、FORTRANでは名前付きCOMMONプロック(EAST, WEST, SOUTH, NORTH)のデータがそこに割り当てられる。写真はPAX-32J。星野力「PACSな日々」より。
三井造船はこれをMiPAX-32JFVとして商品化した。商品の1号機はISR(リクルートスーパーコンピュータ研究所)に設置された。
3) Prolog/LISP マシン
5月には和田耕一、田村直之(神戸大学)らによりPrologマシンPEK (Prolog Engine of Kobe University)が製作された。
後藤英一(理研/東大)は三井造船、富士通とともに数式処理用計算機FLATSを1979年から開発し1984年に完成した。FLATSはFormula, Lisp, Association, Tuple, Setの頭文字を並べたものである。1984年8月21日22日にはFLATSの完成を記念してRSYMSAC(第2回数式処理国際会議)が開催された。
4) Kyoto Common Lisp
京都大学数理解析研究所の湯淺太一と萩谷昌己は、同研究所SIGLISP (The Special Interest Group in LISP)においてCommon Lisp仕様に準拠したLispを開発していたが、1984年4月に初版を公開した。
5) 日本物理学会(講習会)
日本物理学会は、1984年7月25日~27日に日仏会館において、講習会「スーパーコンピューター」を開催した。筆者は企画に協力するとともに、26日に「スーパーコンピュータの応用例」という講義を行った。講義内容は、培風館から日本物理学会編『スーパーコンピュータ』として1985年12月1日に発行される。
6) JJAM発刊
応用数理科学に関するわが国唯一の英文誌JJAM (Japan Journal of Applied Mathematics)が、1984年発刊された。森正武によると、これは占部実教授が最初のChairmanとなって1974年から1983年まで発行された英文誌Memoires of Numerical Mathematicsを継承して、独自の刊行会により発行されたものである。1990年に日本応用数理学会が設立されたのを機に、同学会からも編集委員が加わり、1993年のVol.10からJJIAM (Japan Journal of Industrial and Applied Mathematics)に改名した。
7) Computer Today
サイエンス社は、1984年5月から隔月刊誌Computer Todayという日本語雑誌を発行した。2003年3月の通号114号まで発行した。
8) TRON
坂村健らは、リアルタイムOS仕様の策定し独自のMPUを開発するため、1984年6月、TRONプロジェクトを開始した。TRONは”The Real-time Operating system Nucleus”から来ているそうである。1986年4月、日本電気、日立製作所、富士通、三菱電機、松下電器の5社がTRONプロジェクトに協力することが発表された。
日本電気はV20やV30上で稼働するI-TRON OSを1984年12月から販売すると発表した。ロボットや電子交換機などに組み込むマイクロプロセッサの制御を目的とし、リアルタイム処理を行う。
9) 作行会解散
筆者が博士号を取って助手に就職した1970年代では、給料が月3万程度でかなり低く、親の支援がなければアルバイトをする必要があった。助手になったとき、西川哲治教授から「作行会(さっこうかい)に推薦してあげる」といわれて、申請書を書いた。幸い採用され、月3万円が3年間給付された。給料が倍になったようなものである。多くの助手が受給していたが、作行会が何であるかは誰も知らなかった。
若手教員の給料もだいぶ上がってきたので、作行会は1983年で活動を止めるということであった。1984年7月7日、経団連会館で作行会解散記念謝恩会が開かれ、筆者を含めこれまでの受給者が多数参集した。そこに現れたのは、なんと和服姿の本田宗一郎と藤沢武夫であった。
Wikipedia「藤沢武夫」によると、
藤沢と本田は、ホンダの株式及びそれに伴う配当金などから得た莫大な創業者利益を元に、1961年に苦学生への研究助成を行う基金として「財団法人作行会」を設立した。同会が給付する奨学金・助成金に関しては、藤沢が考案した以下の条件があった。
1. 奨学金の用途は問わない(遊びに使おうが、生活費に使おうが自由)。
2. レポートは必要ない。
3. 将来の進路も自由。
4. 返還の必要はない。
5. 誰が支給しているか知らせてはならない。
本田・藤沢の二人が作行会のスポンサーであったことは、当時は徹底的に伏せられ、解散記念謝恩会の席で初めてその事実が公開された。新聞等でも報道された。
まことに感謝の一言に尽きる。
国内会議
1) 情報処理学会「数値解析研究会」
数値解析研究会も3年目となった。この年には、ベクトル計算機について、「京都大学大型計算機センターのベクトル計算機システムFACOM VP100とある種の線形計算ライブラリのベクトル化について」(島崎眞昭、京大大型センター)と「スーパーコンピュータS-810の応用性能」(唐木幸比古、東大大型センター)の発表があった。あわせて、並列コンピュータによる数値解析としては初めての発表「並列計算機PAXによる数値解析」(星野力、筑波大学、川合敏雄、慶応大学)がなされた。
2) 数値解析シンポジウム
1972年から自主的に開いていた合宿型研究集会「数値解析研究会」は、この回から「数値解析シンポジウム」と名称を改めた。回数は通しで数えている。上記の情報処理学会の研究会と区別するためであろう。第13回数値解析シンポジウムは、1984年6月7日(木)~9日(土)に愛知県民の森「森林学習館」(愛知県新城市門谷字鳳来寺)で開催された。参加者は120名。この回は参加していないようである。
3) 数理解析研究所
京都大学数理解析研究所は、1984年11月29日~12月1日に、伊理正夫(東大)を代表者として「数値計算の基本アルゴリズムの研究」を開催した。第16回目である。報告は、講究録No. 553に収録されている。並列計算関係では、電総研の関口智嗣、島田俊夫がSIGMA-1によるモンテカルロ法について発表している。
また、1984年9月6日~8日には村田健郎(図書館情報大学)を代表者として研究会「大型の線形計算に関するアルゴリズムの研究」が開催され出席した。発表は行わなかったが、前処理付き反復解法について多くの知識が得られ、その後の研究に大変有益であった。報告は、講究録No. 548に収録されている。
それとは別に、「数論の数値解析への応用」という研究集会が一松信を代表として、5月31日から6月2日に開催され、筆者は大規模モンテカルロ・シミュレーションにおける乱数生成の問題について論じた。報告は講究録No. 537に収録されている。
日本のネットワーク
1) JUNET始まる
画期的なことは、村井純等がJUNETの実験を開始したことである。このときはインターネットではなく、電話回線をつかったUUCP接続で、速度は1200 bpsであった。9月に接続したのは東京工業大学と慶應義塾大学であり、10月からは東京大学も接続しネットワークらしくなった。故石田晴久氏(東京大学大型計算機センター)は、「このときに当時の郵政省に電子メールの件について聞きに行ったら、翌年に通信自由化を控えていたこともあってか『こっそりやるなら結構です』と言われた」とのエピソードを、20年後に披露している。東京大学では、1980年11月に導入したVAX11/780の4.2BSDに含まれていたUUCP (Unix-to-Unix copy)の機能を利用した。
その後、どういうわけか筆者はJUNET-adminに加わり、ドメイン名割り当ての議論などに加わった。当時のトップドメインは.jpではなく、“.junet” であった。
2) HEPnet-J
このころ、日本の高エネルギー物理学の研究機関をつなぐHEPnet-Jの運用が始まった。KEK(高エネルギー物理学研究所)、東教大、農工大、京都大、広島大、名古屋大、中央大がNTTパケット網(9600 bps)で結合。プロトコルはDECnetを用いていた。翌年、VENUS-P国際パケット網(9600 bps)で海外と結合。1986年には日本とアメリカが9600 bpsの専用回線で接続。1990年56 Kbpsに増強。
3) 日本電信電話公社
電電公社は、1984年11月30日、キャプテンシステムというビデオテックスのサービスを開始した。奇しくもJUNETの開始とほぼ時を同じくしていた。2002年3月31日終了。
東大のHITAC S-810/20に続いて、1月に名古屋大学プラズマ研究所でVP-100が稼動し、4月にはVP-100が京都大学大型計算機センターに設置された。SIA(米国半導体工業会)からの働きかけにより、1984年10月、アメリカ下院本会議は半導体保護法を可決した。いくつかのQCD専用並列コンピュータを開発するプロジェクトが始まっている。
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