世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


9月 9, 2019

大学計算センター事始め(d) ―――大型計算センターへ―

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

いよいよ全国共同利用の7大型計算機センターが正式に発足する。7大学にはそれぞれ独自の歴史がある。

V 大型計算機センターへ

 

1.日本学術会議

1965年10月、日本学術会議は第44回総会において科学研究計画第1次5カ年計画を政府に勧告したが、その中に大型計算機設置と全国共同利用の計画が含まれている。勧告の詳細な内容は、北川敏男編「情報科学講座A・1・2 情報科学の動向I ――欧米の計算機科学・日本の情報科学計画――」(共立出版、1967年8月20日)にも収録されている。全国を4地区に分け、以下のように大型機を配置することとなっている。東大大型計算機センターの7地区区分とは関係がない。

第1地区――北日本

北海道:大型機、東北:大型機

第2地区――関東および中部地方の一部

大型機(既設)、超大型機

第3地区――中京、北陸、近畿および中国、四国の一部

中京:大型機、京都:大型機、大阪:大型機

第4地区――西日本、中国、四国の一部および九州

中国:大型機、九州:大型機

全国計

超大型機1、大型機7、ほかに既設1

 

ここでいう大型機とは、東大に設置準備中のHITAC 5020程度で、主記憶65KWの主機と8KWの衛星機よりなる主組織、およびそれに釣り合う周辺装置よりなるシステムであり、超大型機とは主記憶131KWの主機に、8KWの衛星機を接続したものを中心とする主組織で、大型機を副組織として加えたものとしている。上記の4地区分けはその後聞かないが、中国地区を別にすれば、その後の7大学大型計算機センター設置にほぼ対応している。中国地区(広島?岡山?)にはできなかった。

さらに、地区内、地区間のデータ伝送網の整備も勧告しており、先見の明があったと言えよう。米国のARPANETが始まったのは4年後の1969年である。日本の大学間で計算機ネットワークが運用されたのは1975年7月に東大と京都大がN-1で接続されたのが最初である。

2.文部省令

この勧告を受けて、文部省は、1969年、「昭和四十四年文部省令第十八号」を制定し、大型計算機センターを法制化した。

実は、「法制化」の根拠についてこれまで不明であったが、7月10日の「法制化50周年シンポジウム」に当たって文部科学省の方が調べてくださり、昭和四十四年省令十八号であることがわかった。これも、国立大学設置法施行規則の一部改正であろう。

3.東京大学大型計算機センター

 
 

1965年4月、東京大学に全国共同利用施設として大型計算機センターが発足し、HITAC 5020 (16 KW)とHITAC 5020 (32 KW)が設置された(7月と9月)。写真は主システムと副システム、および整理作業(パンフレットより)。正式稼働は1966年1月である。

HITAC 5020 (16 KW)は1966年11月にHITAC 5020E (65 KW)にアップグレードされた。

1973年1月、HITAC 8700/8800が稼働し、4月から利用開始された。セルフサービスの入出力が始まった。OSが複雑で、当初は不安定であった。カードリーダの前に長い行列ができていたことを思い出す。

1975年10月:公衆網(電話回線利用)のTSS正式サービス開始。最初は300 bps。

4.東北大学

1967年11月:片平キャンパスに大型計算機センターの建物が竣工。
1969年1月からNEAC2200-500の共同利用が始まる。
1969年6月に大型計算機センターが正式に設置された。
1971年4月:NEAC2200-700/500にシステム変更
1979年5月:公衆網サービス開始。

5.京都大学

1969年4月:京都大学大型計算機センターを全国共同利用施設として設置。FACOM 230-60 (2 CPU、 192 KW、 0.8 MIPS)およびFACOM 230-60 (2 CPU、 384 KW、 0.8 MIPS)が稼働。

6.大阪大学

1969年4月:全国共同利用施設として大阪大学大型計算機センターを設置

7.九州大学

1967年2月:大型計算機センター設置の内示(1969年1月稼働予定)、設置準備委員会、学外委員4名
1967年6月29日:設置準備委員会でFACOM 230-60(2 CPUにシステム)に決定。第2位はNEAC 2200 model 500。
1967年12月:箱崎キャンパスで大型計算機センター建屋の建設が始まる
1968年6月2日午後10時48分頃:工事現場の5階に米軍ファントムII偵察機が墜落。現場が学生らによりバリケード封鎖。
1969年1月5日:残骸が何者かによって引き下ろされ、10月14日搬出、工事再開
1969年3月:福岡市東薬院の九州電力研究所跡に仮設センターを設置し、3月7日からFACOM 230-60が稼働を開始。6月11日、昭和四十四年文部省令第十八号により、全国共同利用施設として発足。
1970年3月:本来の建物が竣工、4月12日に移転、4月27日から業務再開
1970年5月8日:開所式
1970年10月:センター外からのTSS処理の実験始まる。

8.北海道大学

1970年4月:北海道大学大型計算機センターが設立され、富士通のFACOM 230-60が設置された。第6番目のセンターであった。9月開所式。
1971年8月:副システムとしてFACOM230-25が設置
1974年11月にFACOM230-60をFACOM230-75に機種変更した。

9.名古屋大学

1971年4月:大型計算機センターが設置され、FACOM 230-60が稼働した。最後に設立された大型計算機センターである。

 

VI アメリカの動き

アメリカにはコンピュータ大国であり、多くのコンピュータが設置されていたが、高性能コンピュータの多くはDOE, NASA, DOD関係の国立研究所などで、大学には少なかった。日本は大学や共同利用研に戦略的に配置した。スパコン時代には、これでは日本に負けてしまうとの認識がアカデミアから高まった。

1.Lax Report (1982年12月)

Peter Laxを座長とする “Panel on Large Scale Computing in Science and Engineering”は、以下のような勧告を行った。

(1) アカデミアの研究者にスーパーコンピュータへのアクセスを改善すること
(2) 計算数学の研究やアルゴリズム開発を推進し、それを使ったソフトウェアを作成すること
(3) 新しいアーキテクチャのシステムの研究開発を増強すること
(4) 数値シミュレーションのための先端計算のユーザを育成すること。とくに学部学生や大学院生に対して。

これを受けてNSFは1985~6年、5カ所の大学スーパーコンピュータセンターを設立した。Peter LaxはCourant Institute of Mathematical Sciences, New York Universityの応用数学者で、Lax–Wendroff法などで有名である。

2.Bardon-Curtis report (1983年7月)

NSFに対し6点の勧告を行っている。

a) 政府や企業のプログラムを連携させ、スーパーコンピュータ研究を推進させる
b) 各地の研究用コンピュータ設備への支援を増強する
c) スーパーコンピュータ研究センターを募集し、3年以内に10のセンターを設置する
d) 大学、研究所、スーパーコンピュータセンターをつなぐネットワークを支援し、設備へのアクセス、ファイル転送、科学的通信を可能にする
e) コンピュータのサービスやネットワークに関するNSFの決定を支援し監視する諮問委員会を設置する。
f) 先進的なコンピュータシステム設計、計算数学、ソフトウェア、アルゴリズムの領域での研究教育プログラムを支援する。

日本では7大型計算機センター(後には、東京工業大学と筑波大学を加えて9センター)が長期的な戦略を立てているが、アメリカではプロジェク毎に公募で担当大学を決めている。これは、ドラスティックな技術革新に対応しやすいという利点もあるが、短期的な戦略しか立てられないという欠点もある。先日の法制化記念50周年シンポジウムで来日講演したJack Dongarra教授は日本のシステムを褒めておられた。

3. National Computing Initiative(1987年2月)

進んだコンピュータ技術を用いて”Grand Challenge problems”を解決

4.The Federal High Performance Computing Program(1989年9月)

5.Blue Book(1991年2月)

1992年度予算教書の付属文書である。なお、アメリカの予算年度は前年の10月から9月まで。
 “Grand Challenges: High Performance Computing and Communications The FY 1992 U.S. Research and Development Program”→HPCCとNIIが始まった。

6.The High Performance Computing Act of 1991(1991年12月9日)

7.Hayes Panel (1995年9月)

”Report of the Task Force on the Future of the NSF Supercomputer Centers Program”
アカデミアにスケーラブルな最先端コンピュータを設置し、アクセスのためのインフラを整備し、産官学の連携を促進し、人材養成に力を入れるよう勧告している。
この勧告により、PACI (Partnership for Advanced Scientific Computing) programが翌年発足する。

8. ASCI (DOE)

1995年発足。Red – Blue – White – Q – Purple (Red Storm, Blue Genes)

 

VII ライブラリ開発

 

1.日本政府のコンピュータ政策

わが国では、1960年代以来、政府(初期には通産省)はコンピュータのハードウェアやシステムソフトウェアの研究開発に対して多くの予算を投入してきたが、当初、アプリケーションはユーザが自分で作成するものと考えられており、アプリを開発するプロジェクトはなかった。第五世代プロジェクトやスパコン大プロにおいても、言語やツールの開発は含まれていたが、アプリケーションの開発は構想になかった。

国の事業としてアプリソフトの研究開発が行われるようになったのは、原子力など特定の分野のものを別にすれば、JSPS未来開拓『計算科学』(1997)やACT-JST『計算科学技術活用型特定研究開発推進事業』(1998)、文部科学省ITプログラム『戦略的基盤ソフトウェアの開発』(2002)、JST『シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築』(2002)以来であり、比較的最近のことである。

2.ライブラリ開発

しかし、大型計算機センターでは、かなり当初から「ライブラリ開発」を支援してきた。東大では、1965年9月の広報第3号によると、「今のところカード・デックにしてセンター内に保存されているだけで、適当な分類番号もついていない。」と書かれている。1965年12月の広報4号では、分類されて内容が紹介されている。また、結晶構造解析プログラム(5020 UNICS)開発の記事もある。筆者が開発に参加した1970年代にはかなり整備が進んでいた。ライブラリの募集があり、ライブラリを開発したい人が、ライブラリ小委員会に提案し、認められると無償の計算時間(と多少の優先度up)が与えられた。筆者も、個人ではPOW1というサブルーチンを作り、グループとしてはSALSというパッケージを開発しセンターに収めた。計算時間は1秒10円程度であったが、無償の計算は非常に魅力的であった。HITAC 5020E時代、一般のジョブでは30秒という最低のクラスでもターンアラウンドは1週間であった。ライブラリ開発者は副システムのHITAC 5020を使うことができ、一晩で結果が返ってきた。

3.ライブラリの利用

作成されたライブラリは、テストの上、ベンダの提供するライブラリとともに、全ユーザに公開された。多くはソースも公開された。カウンタがセットされ、利用統計が出された。SALSは、最高時で月あたり1000回近い利用があった。

4.行き詰まり

筆者は、その後ライブラリ小委員会委員もやっていたが、「計算時間を対価とするライブラリ開発」の魅力は次第に薄れ、提案は次第に減少してしまった。開発提案が減ったのは、無償の計算時間に魅力がなくなったこととともに、他人が使うライブラリの作成には自分用のプログラムに数倍する注意を要し、ユーザにそれをする余裕がなくなったからであろう。従来のライブラリはほとんどFORTRANであるが、そういう時代でもなくなった。またこれまでのようなバッチ処理を前提のソフトウェアではすまなくなって、会話処理への対応も必要になってきた。しかし、いくつかのセンターでは現在でもライブラリ開発の公募を行っているようである。

5.アプリケーションソフトウェア

欧米を中心として、シミュレーションなどのために大規模なソフトウェアパッケージの開発がなされ、商用ソフトとして、あるいはOSS(オープンソフトウェア)として、日本でも広く利用されている。もちろん、戦略分野や重点課題で、いくつかの大規模ソフトウェアが開発され、産官学への利用を進めているがまだ十分ではない。

筆者として、すべてのソフトウェアが日本製でなければならないとは言わないが、いくつかの日本製のアプリケーションソフトウェアが日本のみならず、世界でも使われるようになることが重要であると考えている。「買ってくればよい」だけでは、今後の科学技術の発展は望めないと思う。

 

VIIIネットワークと共通番号制

 

1.日本学術会議

前述のように、1965年10月、日本学術会議は第44回総会において科学計画第1次5カ年計画を政府に勧告したが、その中に、大型計算機センター群とともに、地区内、地区間のデータ伝送網の整備も勧告している。

2.アメリカのネットワーク

1969年:ARPANET
1975年:TCP/IPの通信試験(Stanford – UC London)
1983年1月1日: TCP/IPに切り替え

3.N-1ネットワーク

1973年~75年度:科研費特定研究「広域大量情報の高次処理」

1974年からN-1の開発
1976年7月に東大と京都大がN-1で接続

1976年~79年度:科研費特定研究「情報システムの形成過程と学術情報の組織化」

N-1ネットワークの実証実験

1981年10月からN-1正式運用

1970年代に電子メールの利用が進んだARPANETとは異なり、N-1上の電子メールが可能になったのはずっと後で、主な利用形態はリモートログイン(当時の言い方ではNetwork Virtual Terminal)とリモートバッチ(同Remote Job Entry)であった。N-1ネットワークはARPANETと同様に、異機種をつなぐという点で、また同一回線で複数の業務をサポートすると言う点で画期的な試みであった。しかし、N-1からwebは生まれなかった。OSIにこだわり過ぎたからだという見方もある。

1999年末:N-1は「2000年問題」に対応できないためサービスを停止した。

4.共通番号制

1986年4月:7大学大型計算機センターの共通利用番号制実施

主に利用するセンターへの登録で、他のセンターへの利用ができる。申請はオンライン、課金は主センターへ。所属が変更しても、利用資格があれば、利用者番号を継承できる。

登録番号 N31000A N:年次 3:主所属センター A:支払いコード

 

ネットワークで接続された他のセンターを容易に利用。グリッド的利用が可能。画期的な制度であったが、2004年からの国立大学法人化に伴い廃止

 

IX 大学計算センターのビジネスモデル

 

1.コンピュータ環境の激変

数十年の歴史を振り返ると、当初、計算機と言えばメインフレームであり、ネットワークさえメインフレームを結合するものであった。 それ以外に計算機は存在せず、 すべての情報処理は大型計算機でなされた。

その後次第に計算機が普及し、 多くの大学や研究所はもちろん、 学部や学科レベルにまで大小の計算機が設置されるようになった。 それだけでなく、ミニコンピュータ、 ワークステーション、 更にはパーソナルコンピュータの普及により、 計算機は身の回りに溢れる一つの道具となった。計算機の性能も飛躍的に増大し、 現在のパソコンの性能は最初のスーパーコンピュータCray-1をはるかに凌ぐほどになってしまった。 

2.大学計算センターのビジネスモデル

しかし、スーパーコンピュータ時代になった当初は、共同利用という機能は、 初期の大型計算機センター時代と大きく変化していなかった。 すなわち、 利用者の計算需要に対し、 計算機資源を提供するという、 「サービスセンター」ビジネスモデルである。1963年の学術会議の勧告にも「サービス機関」として提案されている。今後とも、 このようなモデルのまま行けるのであろうか、という危機感から名古屋大学大型計算機センターニュース32巻3号論壇 (2001/5/30)に、「大学のスーパーコンピュータセンターの展望」という記事を書いた。

なぜなら、 手元の計算機のパワーの増大により、 またクラスタやグリッドの発達により、 いわゆるスーパーコンピュータでなければできない計算は、 総量はともかく、 件数としては減少せざるをえないからである。 つまり、 少数の人の計算需要に多額の国家予算を使ってサービスするというモデルは早晩成立しなくなると予想される。

3. 計算科学の登場

では、コンピュータセンターは不要になるのであろうか。 そうではない。計算科学の発展により、 大規模な計算は科学研究の重要な手段となった。大規模計算は単なる道具ではなく、 一つの実験装置である。 つまり、 センターは大型の加速器や望遠鏡を持っているのと同様な研究所なのである。

研究所の使命は、設置されている装置をもっとも効果的に活用するように、 研究活動を企画し遂行することである。 スーパーコンピュータ部門は、 外の研究者と共同して、 それを用いた研究活動を、 自身で計画し実行する機関にならなければならない。つまり、 「サービスセンター」から「研究センター」に変貌しなければならないのである。

大規模な計算科学研究では必要とする資源量は非常に大きく、従来の大型計算機センター風のnominalな課金でも莫大な額になる。大型の研究資金でもない限り支払うことは困難である。この意味でも、センターの研究プロジェクトとして位置づけることは非常に意味がある。

4.国立大学法人化

国立大学は2004年に法人化され、独立した組織となった。メリットも多くある半面、計算センター(や図書館)など共同利用の組織については大きな問題が生じる。すなわち、他大学はいわば商売敵であり、「どうして競争相手に計算資源を提供する必要があるのか」というような意見が、無理解な理事などから出てくる危険は十分考えられる。しかし、研究センターと考えれば、ユーザは共同研究者であり、その成果はユーザの成果であると同時に、センターの成果でもあると考えられる。これが単なる資源の切り売りとは異なるところである。

5.JHPCNとHPCI

この意見を述べたのは2001年であるが、その後始まったT2Kプロジェクト、JHPCN(学際大規模情報基盤共同利用・共同研究拠点)や、京を中心とするHPCIの利用は、まさにこのモデルに沿っていると考えている。

もちろん言うまでもないことであるが、 従来からのサービスセンター的な機能も残ることになるであろう。これにより、中小規模の処理が迅速かつ機動的に実行でき、多くの潜在的ユーザにも参入のチャンスを提供することになる。スーパーコンピュータユーザの人材育成も喫緊の課題である。

 

X まとめ

大学の計算センターは、今や教育研究のサポートだけではなく、研究を推進するという機能を持つようになった。高エネルギー加速器研究機構が粒子を加速する装置を軸とする研究機関であるように、大学センターは計算を加速する装置を軸とする研究機関なのである。今後、ますます戦略的な企画力が必要とされる。

なお、本稿をまとめるに際し、山田昭彦氏(元国立科学博物館)および前山和喜氏(総合研究大学院大学)から、助言や資料提供をいただきました。

次回は、2012年の歴史を語る。原稿の準備ができ次第連載を開始する。今回の「HPCの歩み50年」のシリーズは2012年を最後とする予定である。あまり最近のことは歴史としては語りにくいからである。

 

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