新HPCの歩み(第5回)-前史(e)-
戦前から神戸商業大学(神戸大学の前身)では、日本最初の経営学部を設置し、創設以来経営教育に先駆的な努力を試みていたが、人々は経営機械化を理解しなかった。太平洋戦争が始まり、アメリカからの機械や消耗品の輸入が止まりパンチカードシステムの国産化を試みた。 |
パンチカードマシン(続)
8) 大阪商科大学
1940年(昭和15年)11月には、大阪商科大学(現在の大阪市立大学)で、「陸軍原価計算要領ヲ基礎トスル原価計算実演会」が行われた。これは、神戸商業大学(現在の神戸大学)の平井泰太郎教授の肝いりで、大阪商科大学商学部の会計学研究室(木村和三郎教授)が開催したもので、同教授からの依頼を受けて、日本ワットソン統計会計機械では、405会計機を展示した。
9) 神戸商業大学
1902年(明治35年)3月に神戸高等商業学校(現在の神戸大学)が神戸市葺合町筒井村(現在の中央区野崎通1丁目、神戸労災病院の南東、現・葺合高校付近)に設置された。1918年(大正7年)に改正された大学令により、単科大学と国公私立大学の設立が認められるようになり、1920年には東京高等商業学校が東京商科大学(現在の一橋大学)への昇格を果たした。神戸高等商業学校も大学昇格を目指しており、そのためには研究所を附置して大学にふさわしい研究体制を整備する必要が叫ばれた。
1919年(大正8年)2月、兼松翁記念会から、商業研究所に充てるべき建物として「兼松記念館」を建設寄附する旨の申し出があり、さらに株式会社兼松商店(現、兼松株式会社)から、外国貿易研究資金30万円および研究資金3万円の寄附が寄せられた。この寄附金は、兼松商店の社員のボーナスの一部を積み立てたものと言われている。
これを受けて、1919年10月には商業研究所が発足し、兼松記念館は1920年起工、同年12月竣工となった。2019年は創立100周年であった。1921年6月5日に開館式を挙行した。昇格運動の甲斐あって、1923年(大正12年)3月に帝国議会において、神戸高等商業学校から神戸商業大学への昇格が決定していたが、関東大震災や金融恐慌の発生などにより予定が遅れ、やっと1929年(昭和4年)4月に神戸商業大学が設立された。大学昇格に伴い、キャンパスを灘区高羽嘉太夫新田(現在の六甲台町)に移転することになり、1931年(昭和6年)5月17日に起工式、1932年11月13日に竣工した。兼松記念館も新たに建設され、1934年6月25日、新キャンパスにおいて竣工した。
神戸商業大学は、日本最初の経営学部を設置し、創設以来経営教育に先駆的な努力を試みていた。商業研究所では、重要な活動として、近代的な事務管理の教育のための「経営計算研究室」の設置を、平井泰太郎を中心に構想した。平井教授は1938年欧米視察旅行の際、IBM社など事務機械メーカー数社に対して、機械設備の寄贈を要請したところ、IBMではF. W. ニコル副社長らの賛同を得たという。平井教授は、帰国後、日本ワットソン統計会計機械に対し、寄贈を要請した。高価なため交渉は難航を極めたが、1941年4月、パンチカードシステム一式(001手動穿孔機、011電動穿孔機、051手動穿孔検査機、080分類機、3M型統計機)が設置され、経営計算研究室が発足した。1941年5月15日に創立記念日を期して大学内外に広く公開された。経営計算研究室では、1942年度から「機械会計論」の講義を設け、講師を日本ワットソン統計会計機械に依頼してきた。この時、すでに太平洋戦争が始まり、日本ワットソン統計会計機械は敵産管理会社の指定を受けていたが、2年間講師を派遣した。
平井教授は、1943年2月24日付の産業経済新聞(現在のサンケイ新聞)に『事務会計機械の国産化』という文章を投稿し、人々が経営機械化に無理解であると嘆いている。
「米英は勿論、独伊でも、ロシアでも、これ等をみんな機械の手を借りてやって居るのである。米英では、事務機械製造会社が、飛行機、自動車、タンクの製作と同様流れ作業の大規模経営で、何分間一台の速度で計算機械を造っている。前欧洲大戦に当っても、すでにこの状態であったのだが、勿論今度の戦争は一層この傾向が助長せられたのであって、それを工場や会社は勿論、前線の塹壕の中でまで使っている。これを使って生産力を拡充し、また軍需用品の管理および経理を行っているのである。」
「人間の方が安い」「人間の方が機械より正確」「我が国では機械を作れない」などというが、「竹槍で戦闘機は落とせない」「ペンと算盤の時代は終わった」と述べている。
上に書いた通り、日本でもパンチカードシステムは導入されており、その必要性を分かっていた人は少なくない。とくに海軍や陸軍はその重要性を強く認識していた。平井教授の檄文はそれを社会全体に行きわたらせようとの意図があったのであろう。
経済経営研究室は、1944年8月22日に経営機械化研究所として1944年に官制化され、平井教授が所長に就任した。当時の記録によると、2月7日、第84議会で経営計算研究所(仮称)設置の予算が可決され8月22日、勅令第515号をもって、神戸商業大学・経営機械化研究所(2部門)が設置された。また、2月10日、第84議会で。経営計録講習所(一年間過程)の設置が認可され、4月24日、第1回生の入所式が挙行された。経営計録講習所は、1947年2月23日、第5回卒業式を挙行して閉所となった。
商業研究所は、1944年4月に大東亜研究所と改称された。1944年10月に神戸商業大学は神戸経済大学と改称したが、1945年10月、神戸経済大学経済研究所となった。1949年5月、新制の神戸大学設立に伴い、研究所は経済経営研究所と改称した。(以上は、「神戸大学経済経営研究所100年のあゆみ」2019年9月30日発行などによる)
9) パンチカードシステムの国産化
経営機械化、生産管理へのPCS導入などの研究と実用化が進められるとともに、1941年12月、戦争が始まると、輸入が困難となったPCS(パンチカードシステム)機器の国産化が要請された。そのころPCSは、戦時の諸活動における経営機械化の手段としての重要性が認められ、重要機械製造事業法による重要機械に指定された。陸軍が強力に指導したとのことである。前述のように、1943年、東京芝浦電気、第一生命、日本生命、帝国生命などのユーザの出資で、資本金100万円で日本統計機株式会社を設立した。元日本ワットソンの安藤馨氏などの協力を得て、平井教授は鐘淵実業(現クラシエホールディングス)、神戸製鋼、東京芝浦電気の3社に国産化の指導を行い、分類機や穿孔機を完成させた。
製品の大半は空襲により焼失、もしくは戦後処分され、現存するのは現在、神戸大学経営機械化展示室に展示されている鐘淵実業製の分類機、カード穿孔機、神戸製鋼のカード穿孔機だけである。写真は展示室の一部。手前は手動カードパンチ機械。奥は、オリジナルのIBMのカード分類機(右)と、鐘淵実業製のカード分類機。カードホッパー部分以外は似た外観である。
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戦後は、日本でもPCSの導入と利用が広く行われるようになったが、PCS機器の開発・製造には高度な技術を要することや、すでにコンピュータの時代が始まりつつあったため、国内のコンピュータメーカはPCS機器の製造を行わなかった。したがって、戦後のPCS機器も戦前と同様すべて輸入機でまかなわれた。
1949年5月、新制神戸大学発足時に、神戸経済大学経営研究所(旧、神戸高等商業学校商業研究所)と経営機械化研究所は、神戸大学唯一の附置研究所として統合された。PSCの主要機器は、1976年12月25日、日本IBM社に返還された。1999年に設置された経営機械化展示室には、わが国初の鐘淵実業製分類機などPCS機器のほか、戦前の計算機械、および戦後使用されたミニコンシステムなど、28点の機器が保存展示されている。
なお、同展示室は、2014年3月、情報処理学会により2013年度 分散コンピューティング博物館に認定された。
10) 日本IBMへ
終戦後、GHQは1946年5月、「在日連合国財産の返還に関する覚書」を発し、これを受けて1947年3月大蔵省令25号「連合国財産の返還等に関する件」が交付施行された。1948年10月、水品は大蔵省に敵産管理解除を申請し、1949年8月、指令により日本ワットソンの資産凍結が解除され、資産相当額2,992,437円が返還された。1950年には、横浜の土地建物も返還された。
これに先立ち、1949年6月東京丸の内ビル886号室で、日本ワットソンの株主総会が8年ぶりに開催され、新社名を「日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ」とし、本店は日本統計機の所在地である神田須田町に決めた。新役員は以下の通り。
代表取締役 |
C. M. Decker(IBM本社の利益代表) |
常務取締役 |
水品浩 |
取締役 |
T. K. Mallen |
監査役 |
右田政夫 |
日本統計機はそれまでに積み立てたIBMに対するロイヤリティを、日本ワットソンに3回にわけて全額返還し、それが再出発した日本ワットソン/インターナショナル・ビジネス・マシーンスの増資の財源となった。1959年、社名を「日本アイ・ビー・エム」に変えた。
次回は、1940年代の、リレー式や真空管式の初期のコンピュータについて述べる。
(アイキャッチ画像:Shutterstock)
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