世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


6月 22, 2020

新HPCの歩み(第4回)-前史(d)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

大正時代、日本にはアメリカのHollerith社とPowers社のパンチカードシステムが導入され始め、政府や民間企業で盛んに使われるようになった。ノリタケやTOTOの元祖である森村組は、IBM社の日本代理店となり、日本IBM社に発展していく。

パンチカードマシン(続)

4) 日本のパンチカードシステムの始まり
国産化の動きもあったようであるが、大部分はHollerithとPowersの輸入であった。Burroughs社は、1919年(大正8年)黒沢商店が日本総代理店となっている(1927年からはIBMの代理店となる)。戦前の採用状況を木暮の「パンチカードシステムの歴史」や日本アイ・ビー・エム社の『情報処理産業年表』(1988年10月)、『日本IBM 50年史』などからまとめる。未確認の情報もある。

1920年8月

Hollerith

国勢院、穿孔機と検孔機を輸入

1923年

Powers

国勢院、鉄道省、横浜税関等

1925年

Powers

日本生命

1925年

Powers

第一生命

1925年9月

Hollerith

日本陶器(名古屋、現ノリタケ)(1927年火災で焼失)

1926年6月

Hollerith

三菱造船神戸造船所

1927年7月

Hollerith

三菱造船長崎造船所

1927年

Hollerith

呉海軍工廠総務部

1928年

Hollerith

商工省

1928年

Hollerith

呉海軍工廠会経理

1929年

Powers

安田生命、集計機、分類機、穿孔機など導入

1930年

Hollerith

内閣統計局、Hollerith式パンチ47台を黒沢商会に発注(国勢調査用)

1930年

Powers

千代田生命

1930年

Hollerith

日本生命がPowersから切り替え

1932年

Powers

明治生命

1932年

Powers

東邦生命

1933年

IBM405

日本生命、採用を決定(IBM405の正式発表は1934年)

1934年8月

IBM405

日本生命、一式設置。

1934年

Burroughs

日本生命(保険料払い込み案内作成用)

1934年

IBM405

帝国生命(後の朝日生命)日本初の80欄カード

1936年

Hollerith

武田長兵衛商店

1937年

Powers

塩野義商店、日本生命からの払い下げで

1937年

Hollerith

住友生命

1938年11月

Hollerith(68台)

第一生命、Powers式から切り替え

1938年

IBM機

塩野義商店

1938年

IBM機

川崎飛行機

1938年

IBM機

立川飛行機

1939年

IBM統計機械

安田生命統理課

1939年

Hollerith乗算穿孔機

日本生命

1940年

Hollerith(16台)

安田生命、Powers式から転換

1941年5月15日

IBM PCS 1セット

神戸商科大経営計算研究室

1941年

IBM機

大同電気製鋼所(後の大同製鋼)、賃金計算

1944年

IBM PCS

神戸商科大経営機械化研究室

 

『日本のコンピュータの歴史』(情報処理学会歴史特別委員会編、1985年、オーム社刊)によると、19世紀末から、Hollerithのパンチカード機が日本に紹介され、その重要性が認識されるようになった。国産化の動きもあり、川口式電気集計機というものが、試作され1908年に一応完成したが、実用には使われなかった。

1920年(大正9年)8月、国勢院は、Hollerith式手動穿孔機と手動検孔機をそれぞれ1台輸入したとのことである。『日本のコンピュータの歴史』p.323の年表・年譜には、「1920年 国勢院Hollerith式PCS輸入」と書かれているが、集計機や分類機、統計機などは含まれていないので、パンチカードシステムとは言えないと考えられる。

1923年(大正12年)8月31日(関東大震災の前日)、三井物産機械部はPowers式統計機会を輸入したとあるが、実物が到着した(どこに?)日なのであろうか。震災には遭わなかったのであろうか。また、この年のいつか、鉄道省経理局調査課は、主要貨物統計作成作業機械化の研究を行い、その結果、Powers式統計機を購入した。翌1924年(大正13年)6月の『鉄道時報』にPowers式統計機の紹介記事があるので、そのころまでには鉄道省内で稼働していたようである。1924年6月24日、三井物産はPowers社の東洋総代理店となった。

1920年(大正9年)に予定されているわが国第1回目の国勢調査実施に備えて、内閣国勢院(後の総理府統計局)は1918年(大正7年)逓信省に「製表機械」の製作を委託した。逓信省式電気集計機第1試作機は、1923年(大正12年)5月12日に完成した。しかし、9月1日の関東大震災により調整中の9台の製表機械が破壊されてしまった。その結果であろうか、1923年(大正12年)には、Powers PCSを輸入することになった。前記のようにPowersのマシンの輸入業務は三井物産(機械部)が行った。

5) 日本におけるIBM社代理店
以下の記述は、岡崎世雄・小長谷和高「水品浩―創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」と『日本IBM 50年史』によるところが大きい。

森村組(1946年からは森村商事)の水品浩(みずしな・こう)は、1920年からニューヨークの現地法人森村ブラザース商会に派遣され主要販売品である日本陶器(後のノリタケ、森村組と同じく森村市左衛門が創立)の高級洋食器セット「ノリタケ・チャイナ」などの販売を担当していた。水品は日本陶器の日本での生産管理合理化のため、ニューヨークで開催されていたビジネスショーに出かけ、CTR (Computing Tabulating Recording)とPowersの2種類のパンチカードシステムを見て慎重に比較検討したところ、CTRのHollerith式を採用することに決定した。

CTR社は、1924年社名をInternational Business Machines(IBM)社に変更した。水品は新社名になったばかりのIBM社を訪問したところ、当時の副社長が、「名古屋で使うなら売れません。わが社の統計機はすべてレンタルであり、日本には代理店がないので、アフターサービスができず売れません。」といわれ窮したが、自分にサービスの技術を学ばせてくれというとんでもない要求を出し、IBM社は何とそれを受け入れた。

1924年11月、米国ニューヨーク州のEndicott工場に赴き、翌年4月まで保守技術員の研修を受けた。1925年(大正11年)5月21日、森村組はIBM統計機の日本輸入総代理店の契約を結んだ。6月1日、日本向けの第1号機1セットが、ニューヨークで船積みされ、8月に神戸港に到着、1925年9月1日には日本陶器名古屋本店に設置された。45桁丸孔カードで加算のみが可能であった。日米の電源電圧・周波数の違いを調整するため、稼働したのは翌年であった(アメリカは60Hz、115Vなので、名古屋なら周波数は同じはず)。朝日新聞2015年7月20日の椎名武雄のインタビュー記事には、1925年(大正14年)の日本陶器に対するIBMの統計機械の設置の次第が生き生きと語られている。

上記の表にあるように、運よく三菱造船から2台の注文があった。森村組は年間5台の契約義務があったので、1926年(大正15年)11月19日から2週間にわたって、東京市日本橋区通り1丁目の森村銀行4階で、日本最初のIBM機械展示会が大々的に開催した(森村銀行は後に三菱銀行に吸収された)。来訪者は多かったが、契約は全く得られなかった。

1926年、森村組との総代理店契約の解除が決定し、契約期間の残りを引き継いで、1927年(昭和2年)1月よりタイプライターなど事務機を販売していた黒沢商店がIBM統計会計機械の日本総代理店となった。当然、日本陶器や三菱造船のサポートは引き継いだ。年間契約義務台数の条項は削除されたようである。水品は1927年1月に黒沢商店に移籍した。なかなか顧客は得られなかったが、海軍の呉造船所から受注があった。1928年(昭和3年)11月、内閣統計局は買い取り可能なPowersのカードシステムを第2次国勢調査に採用したが、キーパンチについてはHollerith式も大量に併用した。IBM社のキーパンチだけはレンタルでなく買い取りもできた。

1930年代にアメリカでIBM社が独占的地位を得ると、Hollerith式が多くなった。1924年以降はIBMと書くべきかもしれない。前述のように、1928年のIBM 301からは、角孔80桁カード(戦後まで使われたカード)が使えるようになった。しかし1929年10月のWall Streetの株式暴落に始まる世界恐慌が日本にも及び、1931年(昭和6年)3月には三菱造船長崎造船所が契約を解除した。神戸造船所も1932年(昭和7年)末をもって契約解除を申し入れた。

1934年、前述のように画期的なIBM405が登場した。掛け算も可能となり、数字だけでなく英字も印刷できた。IBM本社は大きく収益を伸ばした。日本でも日本生命と帝国生命が1934年(昭和9年)にさっそく採用した。

6) 日本ワットソン
IBM社はしだいに日本での事業活動の将来性に期待するようになり、IBM本社と海外事業を担当するIBMヨーロッパ・ディビジョンは、日本にIBMの現地法人を設立することを決断した。渋沢栄一の孫である渋沢敬三(第一銀行常務取り締まり)は協力を約束し、新会社の社長として弟の渋沢智雄を推薦した。1937年(昭和12年)6月17日に日本ワットソン統計会計機械株式会社の設立発起人会が丸の内の三菱東9号館の立五組合(りゅうご、渋沢智雄の貿易会社)の事務所で開かれた。営業の拠点となる事務所は、横浜市中区山下町のビルを購入した。山下町の事務所の1階のショールームには、一式(001手動穿孔機、015電動穿孔機、550数字穿孔翻訳機、080分類機、601乗算穿孔機、3M型統計機)を設置し、一般に展示された。1939年、日本ワットソン統計会計機械は横浜にカード工場を開設した。1932年以降は対ドル円為替が暴落したために、カードの輸入が困難になっていた。商工省の貿易統制のため1940年ごろからIBM社の機械の輸入が困難となった。

1941年(昭和16年)10月、水品浩は日本ワットソン統計会計機械の代表取締役に就任した。外人役員はすでに危機を察知して休暇の名目で本国に引き上げていた。1941年12月8日の開戦の朝、水品は突然踏み込んできた警官に捕らえられ、加賀町署に連行された。米国資本の会社の社員が呉の海軍工廠や立川飛行機などに出入りしていたので、スパイ容疑を疑われたようであるが、顧客のところに行っていただけでスパイの事実はなかった。3か月後釈放された。しかし、1941年12月23日には敵産管理法が交付され、1942年(昭和17年)、日本ワットソンは「敵国資産会社」と指定された。指定管理人については、1942年1月に大蔵省から留置中の水品に意見が求められ、その推薦により森村ブラザース・ニューヨーク店の前支配人で元森村組取締役の地主延之助が1942年2月10日に指名された。地主は、市債の保全と必要な業務継続のための措置を講じ、資産と負債の明確化、固定資産のチェック、資産目録の作成を行った。3月、日本政府によって全資産を凍結された。

1942年3月から5月にかけて、安藤馨、北川宗助、島村博、楡時雄ら幹部社員は相次いで退任した。安藤、北川、島村の3人は統計研究会と称するグループを作り、神戸商業大学(神戸大学の前身)の経営計算研究室の嘱託となり、同研究室の若い研究員たちと協力して、統計機による経営管理の研究と啓蒙活動、さらには統計機械の国産化などに取り組むこととなった。(情報処理学会「日本のコンピュータパイオニア」によると、「安藤馨は,英文学者 安藤勝一郎を父,幸田露伴の妹でバイオリニストの安藤幸を母として」生まれたとのことである。)

7) 日本統計機株式会社
皮肉なことに、1942年(昭和17年)10月以降、戦争の長期化にともない、物資動員計画のための統計処理が注目され、陸海軍当局も、暗号解読から物資の効率的輸送まで、近代戦遂行における統計機械の役割に気付き始めた。こうした事態の進展を見て、管理人地主延之介は、新たに国策会社を作り、顧客サービスを続行する計画を練り始めた。このため、日本ワットソンと法的には無関係という建前で、顧客の出資により1943年(昭和18年)3月31日、日本統計機株式会社が設立され、1949年(昭和24年)まで業務を継承した。

上記『日本IBM 50年史』にも一節が設けられている。これによると、地主氏は日本ワットソンの設立に関与した渋沢敬三(第一銀行常務取締役、渋沢栄一の孫)や顧客の代表格の第一生命と相談し、新会社の中心としては東京芝浦電気が最も望ましいと考え、協議の結果、同社が新会社設立の推進母体となった。社長には清水与七郎東京芝浦電気副社長が就任し、東京芝浦電気の子会社の東京電気で精密機械の開発も行っていた小向工場に日本ワットソンの技術者を招き、統計機械や部品の研究を始め、翌年(おそらく1943年)には試作に取り掛かった。さらに地主は、カストマーである生命保険会社に新会社への業務移管の証人と、あわせて新会社への出資を要請し同意を取り付けた。特に第一生命は積極的に協力し、米国IBMでカストマー教育の受講経験を持つ伊藤栄一を、会社設立の事務担当に推した。このような努力の結果、1943年(昭和18年)3月31日、日本統計機株式会社が資本金100万円(2万株)で設立される運びとなった。

5月28日、資産管理人の地主は大蔵省の指令により日本統計機に引き継ぐべき日本ワットソンの正味資産を1,736,980円と計算し、これを新会社へ移転し、6月1日、日本統計機は認可を得た。重役は以下の通りで、実はIBMとかかわりのあるメンバーが名を連ねている。

社長

清水与七郎(東京芝浦電気副社長)

常務取締役

西岡俊雄(東京芝浦電気電気資材部長)

取締役

矢野一郎(第一生命)

弘世現(日本生命)

森村義行(森村産業)

渋沢智雄(渋沢倉庫)渋沢敬三の弟

 

1943年8月31日、地主延之助は指定管理人を免じられ、朝日信託銀行(後の三菱信託銀行)が日本ワットソンの指定管理人に指名された。

輸入部品に代わる代替部品は東京芝浦電気が製造し供給したので、どうにか間に合わせることができたが、戦争末期になると、召集による人員不足、部品やカードの供給難のため、業務の遂行は困難を極めた。『日本IBM 50年史』によると、この時点でのIBM PCSの国内のユーザは次の20機関であった。前述の導入年表とは若干の齟齬がある。

保険会社

第一生命、日本生命、帝国生命、安田生命、明治生命、住友生命

製造業

立川飛行機、中島飛行機、大同製鋼、日本陶器、東京芝浦電気、三菱重工業、武田薬品工業、塩野義製薬、住友金属

政府関係

貯金保険局、日本銀行、軍需省、農林省

学界

神戸商業大学

 

一方、「重要機械製造事業法」により、政府の助成金を受けて統計機の「国産化」に挑戦したメーカーは、東京芝浦電気、鐘淵実業、神戸製鋼所であった。

東京芝浦電気小向工場では、1943年9月、付属機器であるパンチ、ソーター、ベリファイヤーの製作に成功したが、タビュレーター(統計機)については試作機が完成しないうちに終戦を迎えた。

鐘淵実業(1938年11月24日設立)は、神戸商業大学の経営機械化運動に触発されて統計機の開発に着手したが、その兵庫精密機械工場で日本ワットソン出身の安藤、北川、島村らの協力を得て、1943年末から44年にかけていく代価の統計機を完成して、自社で使用したほか、統計局や九州大学に納入した。しかし45年に入ると空襲で製作は止まった。

神戸製鋼所鳥羽工場(三重県)では、水品を中心に、日本軍がフィリピンのコレヒドール要塞から接収したバラバラになったIBM405を組み立てて動作させた。さらにこれをモデルに国産品の製作を試みたが、実現しなかった。

次回は日本の大学でのパンチカードシステムについて述べる

(アイキャッチ画像:Shutterstock)

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