世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


7月 13, 2020

新HPCの歩み(第7回)-前史(g)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本の開国後、欧米から優れた技術が流入し、政府はその対応に追われた。国の機関でその後追いや研究開発を進めるとともに、第二次世界大戦前後には、民間企業もコンピュータの開発に取り組んだ。

日本のコンピュータ開発の源流

1) 電気試験所
1885年(明治18年)12月22日、内閣創設に際して逓信省が発足した。農商務省から駅逓局と艦船局を、工部省から電信局と燈台局を承継した。1891年(明治24年)8月16日、逓信省は電気事業の監督行政を所管することになり、同日、電気試験所が逓信省電務局傘下に設立された。逓信省電気試験所は、「我が国で最も早い時期から存続していた物理工学系試験研究機関」、「その発足の時から関連する領域で唯一の国立試験機関」とされている。1943年(昭和18年)11月1日、戦時中の海陸輸送体制を強化するため、逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省を設置した。旧逓信省の所管業務のうち、郵便・貯金・保険・電信・電話の事業は運輸通信省の外局である通信院が所管した。電気試験所も通信院の所管になったものと思われる。1945年(昭和20年)5月19日、運輸通信省から通信院を分離し、内閣所属部局として逓信院を設置し、運輸通信省を運輸省に改称した。1946年(昭和21年)7月1日、逓信院を廃止して、逓信省を再設置したが、戦前の逓信省とは異なり、海運・航空・電気は所管せず、通信事業のみを管轄した。

逓信省電気試験所は戦後1948年8月1日に、商工省電気試験所と逓信省電気通信研究所に分割された。その背景には電話通信網の整備を何よりも重視したGHQ民間通信局(CCS)の意向があったといわれる。通信・電波系の部門は逓信省に残って電気通信研究所に改称し、NICT・NTT通研・KDDI研究所の源流となった。CCSは、アメリカのBell研空所をモデルに電気通信研究所を発足させた。なお逓信省は、1949年6月1日、郵政省と電気通信省に分割され、電気通信研究所は電気通信省所管となった。電気通信省は1952年8月1日に日本電信電話公社に移行した。

他方、電力・材料系の部門は電気試験所の名称を受け継いで商工省工業技術庁(1949年から経済産業省工業技術院)に移管され、永田町に本部を移した。『電子技術総合研究所百年史』によると、このとき電気試験所に配属された所員たちは(電気通信研究所より)格下げになったとの印象を持ったとのことである。

この分割により、電気試験所には弱電の研究部門がなくなり、強電部門に専心することとなった。ところが、1948年の電気試験所分割直前にBell研究所でトランジスタが発明されたというニュースを受けて、1948年10月から、永田町本部で、大学関係者や企業関係者を交えてトランジスタ勉強会が発足した。この勉強会は、1949年4月には文部省の研究費を得て、渡辺寧東北大学教授を委員長とする「トランジスタ研究連絡会」として公的な研究会となった。しかし電気試験所でトランジスタ製作に苦心しているうちに、電気通信研究所は1951年、高純度のゲルマニウム単結晶を用いたトランジスタの製作に成功してしまった。

しかし、上記のように1952年に電気通信研究所が国立でなく日本電信電話公社所管となったので、商工省の電気試験所が、電気一般に関して唯一の国立試験研究機関としての地位を回復した。1951年から1年間アメリカに留学していた和田弘(1914〜2007)は、帰国後電気試験所における弱電部門強化に尽力し、1954年7月に電子部を発足させ、間もなく電子計算機の研究が開始された。

1970年、電気試験所は電子技術総合研究所に改称された。2001年1月、中央省庁再編にともない、同研究所を含む工業技術院の15研究所は経済産業省産業技術総合研究所(AIST)へ組織替えされ、2001年4月、独立行政法人産業技術総合研究所が設立された。2015年には独立行政法人から国立研究開発法人に、2016年には特定国立研究開発法人に変更された。(Wikipedia「逓信省」「産業技術総合研究所」などを参照)

2) 統計数理研究所
文部省直轄研究所であった統計数理研究所(1944年6月5日勅令により創立、上野の帝国学士院内、文部大臣の管理)では、初期からコンピュータを使った研究が行われていた。いつ設置されたかは不明であるが、最初にリレー式の統計計算用単能計算機(FACOM 415A)が導入された。TSK Iという愛称がつけられている(TSKは「統計数理研究所」のローマ字の頭文字か?)。

「75年の歩み」によると、戦争末期に長野県に疎開していたが、1945年11月には全員が小石川区高田老松町細川邸の一部に合流した。1947年1月には第3部が麹町区の大蔵省別館に移転し、1948年2月には本部が細川邸から三軒茶屋に移転し、1949年6月1日に文部省所轄機関となり、事務部も三軒茶屋に移転した。1949年9月には、細川邸が米軍に接収されたため、研究第1部第2部が世田谷区祖師谷(労働科学研究所内)に移転した。1950年4月、労働科学研究所の施設が統計数理研究所の所属となった。6月、事務部が祖師谷に移転した。

1955年2月には研究第3部が、4月には第1部第2部が、港区麻布富士見町(現:南麻布)に移転した。写真によると既存の建物を利用したようで、外観は風格がある。各地を転々としてきたが、やっと安住の地を得た(2009年まで)。1969年10月、同じ場所に新庁舎が完成する。

3) 学会
1911年(明治44年)5月、逓信省電気試験所第2部で第2部研究会が始まった。これは、欧米視察から帰国したばかりの鳥潟右一技師が、当時の浅野應輔所長や利根川守三郎第2部長らを説いて、部員のための研究会として立ち上げたものである。約30名の所員が月1回会合を行っていた。これを基に、1914年(大正3年)3月、電信電話研究会が発足し、逓信省全体からも会員を募集するようになった。1917年(大正6年)5月、電信電話の学術技芸の研究、知識の交換および事業の振興を図ることを目的とする「電信電話学会」が創立され、学会組織が確立した。1937年(昭和12年)1月に名称を電気通信学会、1967年5月に電子通信学会に改め、1987年1月から「電子情報通信学会」に改称した。

なお電気学会は1888年(明治21年)創立、照明学会は1916年6月(大正5年)11月29日創立、情報処理学会は1960年創立。いずれも組織的な系譜関係はない。

日本テレビション学会は、1933年(昭和8年)9月30日に設立されたが、1937年に解散し、戦後1946年11月22日にテレビジョン同好会が発足、1950年4月1日にテレビション学会に改称、6月1日に社団法人となる。1996年(平成8年)12月17日から社団法人映像情報メディア学会。2012年4月1日から一般社団法人。

4) 日本科学技術連盟
日本科学技術連盟(JUSE、通称「日科技連」)は、1946年5月1日に発足した。その前身は、「社団法人 工政会」(1918年発足)、「社団法人 日本技術協会」(1935年発足の「日本工人倶楽部」が1935年に改称)、「社団法人 全日本科学技術統同会」(1940年発足)である。1944年11月3日にこの三団体が統合し「大日本技術会」が発足した。戦後の1946年4月30日、これを解散し、日本科学技術連盟を発足させた。1962年4月には、科学技術庁所管の財団法人となった。

この連盟の主要な目的は品質管理であるが、パンチカードシステムや初期の計算機の利用技術やソフトウェアに関しても大きな働きを行った。

5) 富士通
1923年(大正12年)、古川電気工業とドイツの電機メーカーであるSiemens社が、発電機と電動機を国産化するため合弁会社として富士電機製造株式会社(現在の富士電機株式会社)を設立した。「ふ」は古河グループの「ふ」、「じ」は「ジーメンス」の「ジ」である。1935年6月20日、富士電機製造の電話部所管業務を分離して、富士通信機製造株式会社を設立した。このころからリレーの応用として各種の演算回路を試作しており、1941年にはリレーによる二進法四則演算器を製作した。1943年には海軍からの委託によって暗号解読装置を製作したが、空襲で焼失した。

東京都庁統計課で、戦災で焼失したIBMパンチカード統計機の代わりに、山下英男(東京大学)(1899〜1993)らが開発した統計分類集計機を設置することになり、これが富士通信機に発注され、1951年2月(一説には5月)に納入された。1952年、東京証券取引所は機械化を検討し、山下英男を通して富士通信機製造に、リレーによる株式取引高の生産装置の開発が打診された。1953年3月に試作機が完成したが、受注には至らなかった。同社はリレー式の計算機の開発に向かった。FACOM 100が1954年10月に完成し、企業や大学からの委託計算に利用された。1956年には国産初のリレー式商用計算機FACOM 128が完成した。1号機は1956年9月に文部省統計数理研究所(港区麻布富士見町)に納入され、2号機は1956年11月に有隣電機精機に納入された。1958年5月、FACOM 128の使用経験に基づいて機能の追加と修正を行い、性能を向上させたFACOM 128Bが完成した。これと区別するため、FACOM 128はFACOM 128Aと改称された。会社名は1967年に「富士通」に改称した。

6) 日本電気
1899年(明治32年)7月17日、岩垂邦彦とWestern Electric社が54%を出資する日米合弁会社として設立した。戦前は電話交換機などの通信機器の製造を主な事業としていた。第二次世界大戦中に住友グループ傘下となった。1953年7月に日本電気玉川工場内で研究所が再編され、本格的な計算機の研究が開始された。1958年のパラメトロン計算機NEAC-1101からコンピュータの開発にも取り組み始めた。初期の歴史については金田弘(1921〜2000)の記事に詳しい。

7) 日立製作所
日立鉱山で使用する機械の修理製造部門が、1910年(明治43年)に国産初の5馬力誘導電動機を完成させて日立製作所が創業された。株式会社としては1920年(大正9年)2月1日設立。日立製作所は、アナログ計算機の研究(1951年開始)、パラメトロン計算機HIPAC MK-1(1957年12月)、HIPAC 101などの試作を経て、電気試験所の技術指導を受けて、1958年5月から事務処理用トランジスタ計算機の開発を始め、1959年4月にHITAC 301が完成した。

8) 東京芝浦電気
1939年(昭和14年)7月1日、芝浦製作所と東京電気とが合併して東京芝浦電気株式会社が設立された。通称は東芝、1984年4月から正式に東芝。

芝浦製作所の起源は、1875年(明治8年)に初代田中久重が東京銀座に電信機工場を創設したことに始まる。1882年(明治15年)には田中大吉が東京芝浦に田中製作所を設立し、1893年(明治26年)には三井財閥の支援を得て、芝浦製作所として再スタートし、1904年(明治37年)には会社組織となり、株式会社芝浦製作所を設立。General Electric社は、1909年(明治42年)、芝浦製作所の株式の24.8%を保有し、役員を派遣した。特許も芝浦製作所へライセンスした。

東京電気の起源は、1890年(明治23年)、東京京橋に合資会社白熱舎を創設し、一般家庭向けの白熱電球の製造を始めたことにある。1899年(明治32年)1月26日、東京電気株式会社に社名変更した。General Electric社は、1905年(明治38年)、東京電気の株式の51%を保有し、役員を派遣。特許も東京電気へライセンスした。『東京電気五十年史』によると、1904年(明治37年)11月からGeneral Electric社との間で提携交渉が始まり、1905年(明治38年)1月8日に仮契約を締結した。1月20日に臨時株主総会を開催し、資本金を25万円増資して40万円とした。おそらく増資分のほとんどをGE社が購入したのであろう。その株主総会で、J.R.ゲーリー氏を専務取締役副社長に選任した、とのことである。1921年(大正10年)には社長に選任されている。1928年(昭和3年)には、GE社の電気冷蔵機(ママ)、真空掃除機、自動電機アイロン等その他各種家庭用電気機械器具および電気工具の転売を行う、という記事がある。いわばGEの輸入代理店である。最初に述べたように、1939年、両社は合併して、東京芝浦電気株式会社となった。

日本のパンチカードシステムのところで述べたように、開戦後「敵国資産会社」として活動停止した日本ワットソンの活動を引き継ぐ日本統計機は東京芝浦電気を中心に設立された。

東京芝浦電気は、1948年頃から三田繁(1904〜1984)らにより電子計算機の研究に着手した。TACは1951年ごろら、同社のプロジェクトとして始まっていた。

わたくし事であるが、筆者の父は東京芝浦電気の冷熱技術者で、同社がIBMコンピュータ(たぶん7090)を導入したとき、さっそく飛びつき、最初のユーザの一人となったようである。血は争えないということか(?)。実は、家内の父も東京芝浦電気にいたことがあり、マツダ研究所で半導体物理の研究を行っていたとのことである。

9) 三菱電機
1921年(大正10年)1月15日、三菱造船(後の三菱重工業)の電機製作所(神戸)を母体に、三菱電機株式会社として独立した。三菱電機は1958年にBendix社のG-15を購入し、その利用経験を元にコンピュータの開発に着手した。1960年、トランジスタ式コンピュータMELCOM 1101を発表し1961年に出荷した。

10) 沖電気工業
1881年(明治14年)、沖牙太郎により明工舎を設立し、電話交換機などの製造を行う。1889年(明治22年)、明工舎を沖電機工場と改称。1912年(明治45年/大正元年)、沖電気株式会社設立。1955年ごろから電子計算機の開発に着手し、パラメトロン計算機OPC-1を、1959年3月に発表した。プログラム記憶方式とともにワイヤリング制御方式を併用した。1961年には、トランジスタ式コンピュータOKITAC 5090を発売した。

11) 松下通信工業
1917年(大正6年)6月、松下幸之助が電球用ソケットの製造販売を始め、1918年(大正7年)3月に松下電気器具製作所を創立する。1935年(昭和10年)12月、松下電器産業株式会社に改組。 1958年1月、松下電器産業通信事業部から分離した松下通信工業が、電気試験所で開発されたETL Mark IVをモデルとして、1958年5月からトランジスタ計算機MADIC-1の試作研究に着手し、1959年4月に完成した。2003年からパナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社。

次回以降は、1950年から暦年に従って日本の動きや世界の動きを記す。

(アイキャッチ画像:Shutterstock)

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