世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


10月 5, 2020

新HPCの歩み(第14回)-1956年-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

富士通信機製造は商用リレー計算機FACOM 128を開発し、1号機を文部省統計数理研究所に、2号機を有隣電機精機に納入した。IBM社はStretchプロジェクトを正式に開始し、IBM 704の100倍の性能を持つコンピュータの開発をLos Alamos研究所と契約した。

社会の動き

1956年(昭和31年)の社会の動きは、1/1彌彦神社事件、1/23石原慎太郎『太陽の季節』、第34回芥川賞受賞、1/26コルチナ・ダンペッツォ冬季オリンピック開幕(2/5まで)、日本の猪谷千春が銀メダル、1/27東ドイツがワルシャワ条約機構に加盟、1/28万国著作権条約公布、2/1日本で「自動車損害賠償保障法」(自賠責法)施行、2/6『週刊新潮』創刊、2/24ドリス・デイの「ケセラセラ」リリース、2/25フルシチョフ、スターリン批判、3/15ニューヨークで「マイ・フェア・レディ」の公演開始、3/15『太陽の季節』単行本発行、4/18グレース・ケリー、モナコ大公レーニエ3世と結婚(翌日教会で結婚式)、5/9日本登山隊がマナスル初登頂に成功、5/17日活映画『太陽の季節』が公開、5/19総理府の外局として科学技術庁発足、主な所掌は原子力と宇宙関係、5/24売春防止法が公布(施行は1958年4月1日)、6/28ポーランドのボズナニで反ソ暴動、6/29アイゼンハワー米大統領の推進した連邦補助高速道路法施行、Interstate Highwayの建設が始まる、7/1日本で気象庁が発足、7/17日本政府、経済白書発表、7/26ナセルがスエズ運河国有化を宣言、9/10魚津大火、10/15佐久間ダム完成、10/17犬山市に日本モンキーセンター開園、10/19日ソ共同宣言、10/23ハンガリー動乱勃発、10/28大阪の通天閣が再建、11/19東海道本線全線電化、11/22メルボルン夏季オリンピック開幕(12/8まで)、12/2カストロらがキューバに上陸しゲリラ作戦、12/18日本が国際連合に加盟、12/20鳩山内閣総辞職、12/23石橋湛山内閣成立、など。

話題語・流行語としては、「太陽族」「慎太郎刈り」「ケセラセラ」「もはや戦後ではない」など。

ノーベル物理学賞は、トランジスタの発明に対し、William Bradford Shockley、John Bardeen、Walter Houser Brattainの3名に授与された。なおBardeenは、超伝導理論(BCS理論)により1972年にもノーベル物理学賞を受賞する。化学賞は、気相系の化学反応速度論に関する研究に対し、Sir Cyril Norman HinshelwoodとNikolay Nikolayevich Semyonovに授与された。生理学・医学賞は、心臓カテーテル法に対し、André Frédéric Cournand、Dickinson W. Richards、Werner Forssmannの3名に授与された。

わたくし事であるが、この年の4月、栄光学園中学校に入学した。当時は、横須賀市にあった。高校を含め6年間在学した。

日本政府関係の動き

1) 電気試験所(ETL Mark III)
1954年7月に創設された電気試験所電子部は、トランジスタ計算機の開発を進めていたが、1956年7月、点接触型トランジスタ130本を使用したETL Mark IIIを完成した。クロックは1 MHzと高速であるが、信頼度は低かったそうである。プリント配線を初めて採用し製作を早めた。記憶装置としては、金石舎研究所(2017年、京セラに吸収)製の石英ガラスによる超音波遅延素子を用いた。プログラム内蔵式としては世界初のトランジスタ計算機と自称しているが、IBMの方が先かもしれない。

2) 科学技術庁設置
1956年3月31日、科学技術庁設置法が交付され、5月19日、総理府の外局として科学技術庁が設置された。長官は国務大臣。2001年1月6日、文部省と統合して文部科学省となる。

3) 日本科学技術情報センター
1957年8月16日、日本科学技術情報センター(JICST)が設立された。1996年、新技術事業団と合併し、科学技術振興事業団(JST)設立。

4)理化学研究所
1956年、株式会社科学研究所法が制定され、1956年設立の株式会社科学研究所(第三次)は政府の出資を受ける。

日本の大学センター等

1) 統計数理研究所(FACOM 128)
文部省直轄研究所であった統計数理研究所(1955年に港区麻布富士見町に移転)では、1954年以来、リレー式の統計計算用単能計算機(FACOM 415A)が使われてきた。TSK Iという愛称がつけられている。1956年9月、富士通信機製造のFACOM 128の1号機が納入され、TSK IIと名付けられた。これは5000個のリレーを使用しており、3アドレス方式、十進法で、仮数は8桁、指数は-19乗~+19乗である。なお、1958年5月のFACOM 128Bの完成により、128は128Aと呼ばれることとなった。

これらの計算機は、多元連立一次方程式、微積分方程式、高次代数方程式、フーリエ解析、補間法、任意函数の近似展開等、あらゆる種類にわたる。特にベクトル算、マトリックス算等を含む線型計算に便利なように設計してある、とのことである。

同研究所では、原理はいろいろあるが、現在に至るまで物理乱数の生成装置を利用している。これらは、情報処理学会から2015年度情報処理技術遺産に認定された。

日本の学界

1) 東京大学(パラメトロン)
東京大学理学部物理学科の高橋秀俊と後藤英一は、パラメトロンに適したメモリとして、2周波記憶装置を発明し、1956年2月に発表した。また、両氏の指導の元、日本電子測器は、パラメトロンによる記憶容量16語の配線板式計算機PD-1516を1956年10月に完成した。1957年4月25日の電気通信学会電子計算機研究専門委員会において、高橋秀俊、後藤英一、村上幸雄、山田博「パラメトロン計算機“PD-1516”」として詳細に報告されている。

PD 1516もIBM 602Aと同様に、プログラムは配線盤を用いて行った。計算が終わると、プラグを全部引き抜いてしまうので、次に同じ計算をするにも、またプラグを一本一本差し込む必要があり、大変であった。化学者の島内武彦は、カードで計算の手順を示し、これを実行する「万能計算盤」を考案した。

2) パラメトロン計算機
このころ、日本では産官学を挙げてパラメトロン計算機の開発を進めていた。1956年に完成したものを示す。資料は、Wikipedia「パラメトロン」、「日本のコンピュータの歴史」(情報処理学会歴史特別委員会編)オーム社1985年、情報処理学会コンピュータ博物館など。

日本電子測器

PD 1516

東京大学と日本電子測器が協同して15桁の十進レジスタを16個持つパラメトロン計算機PD 1516が1956年10月に開発された。日本電子測器のパラメトロン計算機開発グループは1957年9月に富士通信機製造(現富士通)に移籍された。

 

国内会議

1) 電気通信学会(電子計算機研究専門委員会)
1956年から3回にわたって、同学会の全国大会で、コンピュータ関係のシンポジウムが行われている。主催は、電子計算機研究専門委員会である。1956年11月のシンポジウム「我国における自動計算機の現状」の発表は以下の通り。時代が見えますね。

自動計算機の展望

前田憲一(京大)

継電器式計数型自動計算機

駒宮安男(電気試験所)

FACOM 128リレー計算機について

池田敏男(富士通)

電子計算機FUJICとその計算例

岡崎文次(富士写真フイルム)

TAC計算機について

雨宮綾夫(東大)

トランジスタ化電子計算機

高橋茂、西野博二松崎磯一、近藤薫(電気試験所)

大阪大学の電子計算機について

城憲三、牧之内三郎、安井裕(阪大)

東京大学におけるパラメトロン計算機について

高橋秀俊(東大)

パラメトロン計算機M-1号について

喜安善市、室賀三郎、高島堅助(通信研究所)

電子測器におけるパラメトロン計算機について

村上幸雄(日本電子測器)

東北大学における電子計算機の研究

大泉充郎(東北大)

京都大学における電子計算機(数字式)の研究

前田憲一、坂井利之、田中哲郎(京大)

日本電気における自動計算機の研究

長森亨三(日本電気)

富士通信機における電子計算機の研究

清宮博(富士通)

日立に於けるディジタル型電子計算機の研究

高田昇平(日立)

東芝で研究試作中の十進計数型電子微分解析機TEDDAについて

三田繁、千葉一夫(東芝)

 

この時点で完成・稼働していたのは、電気試験所のETL Mark II(リレー式)、ETL Mark III(トランジスタ式)、富士通信機のFACOM 128(リレー式)、富士写真フイルムのFUJIC(真空管式)、日本電子測器のPD 1516(パラメトロン式)の5台だけであった。メーカーでは、日本電気、富士通信機製造、日立、東芝で電子計算機の計画あるいは試作が進んでいたが、見るべき発表はなかった。

日本企業

1) 富士通信機製造(FACOM 128)
同社は、FACOM 100の完成後、商用機の設計を始め、1956年9月にはFACOM 128と呼ばれるリレー計算機が完成した。1号機は1956年9月に文部省統計数理研究所に、2号機は1956年11月に後述の有隣電機精機に納入された。

FACOM128は、内部コードを二五進コードに変更し、インデックスレジスタや割込みを採用した。FACOM 128Bは、1959年5月に製造された改良版で、キヤノンカメラや日本大学などに導入された。1959年から1974年まで日本大学理工学部で使われていたものが富士通沼津工場「池田敏雄記念室」に現在も動態保存されている。なお、128は128Bが登場後、128Aと呼ばれる。

2) 有隣電機精機(FACOM 128)
1956年11月、リレー計算機FACOM 128を用いて数値計算を業務とする有隣電機精機株式会社 富士電算機計算所が千代田区飯田橋駅前に設立された。これはわが国初めての本格的な計算センターであった。初期の利用者の話では、立方根を求めるのに30秒もかかったとのことである。オペレーションズリサーチ学会の小柳芳雄の見学記(1958年4月訪問)によると、訪問当時。飯田橋にはFACOM 128Bが2機、神戸元町にもう1機設置されていた。今でいう「計算科学」に目覚めた産官学の先駆者は唯一の計算センターである有隣電機精機に群がった。ちなみに、有隣電機精機は、1949年3月、富士電機製造(現富士電機)と富士通信機製造(現富士通)の販売特約店として設立された。

有隣電機富士電算機計算所は、岡本彬、平野菅保、山下真一郎などの有能な人材をそろえ、計算受託を行ったので、大規模な計算を抱えた研究者や技術者が活用した。有料であったそうだが、当時の大学関係者は何かの研究費を使えた場合はともかく、本当に払ったのであろうか。

岡本彬氏は存じ上げない(富士通信機製造に行かれたらしい)が、平野菅保氏は、その後日建コンサルタントを経て東芝に勤務し、日本大学教授となった。数値解析の分野で大きな貢献をされたが、2013年2月4日に亡くなられた。山下真一郎氏はその後富士通で活躍され、2000年9月に亡くなられた。山下氏は、リレー式計算機の時代、リレーの発する音で、プログラムが今どの部分を実行しているか指摘できたという逸話が残っている。

なお、有隣電機精機の電子計算機関連部門は、1963年、富士通信機製造の全額出資によりファコム株式会社(1966年11月から富士通ファコム、1980年11月から富士通エフ・アイ・ピー)が設立されたとき、分離継承された。

3) 富士写真フイルム(FUJIC)
富士写真フイルム(2006年から富士フイルム)の岡崎文次は、社内で1949年3月に20万円の予算を与えられてレンズ設計自動化の研究を始め、1956年3月にわが国初の自動電子計算機FUJICを完成した。

4) 日本電気(SENAC-1)
1956年、東北大学から大型技術計算用コンピュータの共同開発の注文があり、石井善昭(よしてる)をリーダーに渡辺和、山本淳三らとともに設計を始めた。東北大学側は大泉充郎(じゅうろう)教授をヘッドに、大学院生の野口正一らが参加した。長時間の議論の末、先進的な仕様を作成した。語長は48ビットだが、レジスタは96ビットとし、倍長演算が可能で、4倍長も容易に行なえるような工夫をした。浮動小数演算と固定小数演算をスイッチ命令で切り替えることとした。素子はパラメトロンで、励振周波数は2 MHzであった。1958年11月に完成し、SENAC-1と名付けられた。日本電気としての商品名はNEAC-1102 である。(『オーラルヒストリー 石井善昭氏インタビュー』情報処理 Vol. 55, No. 10 (Oct. 2014))

5) 日本IBM社
1956年9月19日、日本IBMは日本で初の電子計算センター設置を発表した。1956年(月不明)、水品浩は日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ社の社長に就任した。副社長は鈴木信治。

アメリカ政府の動き

1) Defense Science Board
1956年、Hoover委員会の勧告により、DSB (Defense Science Board)が設置された。最初の会合は1956年9月20日に開催された。メンバーは25人。1956年12月31日、Boardの任務を規定したCharterが発布された。

2) LASL (Stretch)
Manhattan計画ののち、1947年1月1日、LASL (Los Alamos Scientific Laboratory)が発足した。1981年からはLANL (Los Alamos National Laboratory)。IBM社は1955年9月、構想していたStretchをさらに改善してLASLに提案し、LASLは興味を示した。IBM社は1956年1月、Stretchプロジェクトを正式に開始した。1956年11月、LASLはIBMと契約し、IBM社は、1960年までに、IBM 704の100倍の性能を持つコンピュータを納入することを約束した。

ソヴィエト連邦の動き

1) M-40
ソヴィエト連邦科学アカデミーの精密機械コンピュータ技術研究所のSergei Alekseyevich Lebedevを中心に、ミサイルの長距離レーダー追尾を目的としたM-40コンピュータを開発していたが、1956年に完成した。トランジスタ式で、メモリは4096語の磁気コア、1語36ビット固定小数、外部メモリは6000語の磁気ドラムである。

世界の学界

1) Dartmouth会議
1956年7月~8月に、ニューハンプシャー州HanoverのDartmouth大学で、John McCarthyが主宰して開かれた。集まったのは、Marvin Minsky, Nathan Rochester, Claude Shannonなど。この会議の提案書でAI (Artificial Intelligence)という言葉が用いられた。

2) Sydney大学(SILLIAC)
オーストラリアのSydney大学では、1953年ごろからコンピュータSILLIAC(Sydney version of がthe Illinois Automatic Computer)を開発していたが、1956年7月4日、完成し科学技術計算の評価プログラムが初めて実行された。1968年まで運用。ILLIAC IとORDVACをベースとしたコンピュータで、演算は真空管、メモリはWilliams管40本(1語40ビット、1024語)を使用した。

アメリカの企業

1) IBM社(独占禁止法訴訟)
米国司法省は、1952年1月21日に、IBM社のレンタルビジネス手法を独占禁止法として告訴したが、1956年1月25日に和解が成立して、同意審決(Consent Decree)が発効した。その結果、IBMは顧客が希望すれば機械を売り渡し、その保守には別会社を設けることとなった。このときはソフトウェアの価格分離までは要求されなかったが、この審決が1970年のアンバンドリングにつながることになる。また、この審決によって、リース会社を可能にし、PCM (Plug Compatible Maker)の出現を促した。

2) IBM社(磁気ディスク)
IBM社は、1956年9月13日に、磁気ディスク装置IBM 350を搭載したRAMAC 305を発表した。RAMACはRandom Access Method of Accounting and Controlに由来する。IBM 350は4.4 MBのデータを保存した。これは50枚の24インチ磁気ディスクをそなえ、1200 rpmで開店した。IBM社で真空管を使った最後のマシンと呼ばれる。

また、IBM 650(1953年)に、磁気ドラムの代わりに最大4台の磁気ディスクを搭載できるIBM 650 RAMACを発売した。

3) Burroughs社(B205)
Burroughs社は1956年6月、PasadenaのElectroData Corporationを買収し、同社が開発していたDatatron 205をもとに、Burroughs社初の本格的真空管コンピュータB205を発売した。

4) Sperry Rand社(UNIVAC 1103A、UNIVAC File Compupter)
同社Sperry UNIVAC部門は、1956年、UNIVAC 1101のメモリを磁気コアに置き換えた1103Aを発表した。商用機では初めてである。

1956年と思われるが、UNIVAC File Computerを発表した。大容量磁気ドラム(当時として)と電気的(おそらく真空管)演算機構を持つ。ベストセラーと言われたIBM 650の対抗機であった。日本にも4台導入された。

5) Bendix社(G-15)
アメリカのBendix社(1924年創業)は、車のブレーキなどの会社であるが、その航空機部門Bendix Aviationは1956年、科学技術計算や工業関係での使用を指向したミニコンピュータBendix G-15を発売した。基本システム価格が$50k以下で安価だったので400台も販売された。180本の真空管と300個のダイオードを使用し、磁気ドラムメモリは2160語(1語は29ビット)である。開発者の一人David Evansは、後にEvans and Sutherland社を設立した。Bendix社のコンピュータ部門は、1963年、CDC社(Control Data Corporation)に買収された。

G-15は日本に最初に輸入されたコンピュータであり、1957年、座席予約システムを検討開始した国鉄鉄道技術研究所に納入された。三菱電機は1958年にG-15を購入し、その利用経験を元にコンピュータの開発に着手した。(Wikipediaによる)

6) Librascope社(LGP-30)
カリフォルニア州GlendaleのLibrasope社(General Precision社の部門)は、1956年、小型のコンピュータLGP-30を発売した。基本価格は$47kであり、現在の$433k(5000万円弱)であった。販売は、Royal Typewriter CompanyのRoyal McBee部門との合弁会社であるRoyal Precision Electronic computer Companyが行った。真空管113本と、1450個のダイオードを使用。1語は31ビットで、主記憶として4096語のドラム記憶を持つ。日本にも輸入された。

7) RCA社(BIZMAC)
Radio Corporation of America社(1969年からはRCA社)は、1956年、最初のBIZMACコンピュータ(真空管式)をミシガン州Detroitのthe Ordnance Tank-Automotive Command (OTAC)に設置した。1951年、RCA社はアメリカ軍とMAP(the Mutual Assistance Program)のロジスティックスを支援するコンピュータを$5.4Mで開発する契約を結んだ。その成果がBIZMACである。真空管式で、磁気コアメモリとランダムアクセス磁気ドラムメモリを使用し、100台の磁気テープでデータベースを構成した。このコンピュータは、Higbee Department Storesや Travelers Insurance Companyや New York Life Insurance Companyなどに設置されたが、6台しか作られなかった。

世界の企業

1) Ferranti社(Pegasus)
イギリスのFerranti International plcは、Ferranti Mark I (1951)に続いて、1956年に真空管式コンピュータPegasusを発表した。これは最初の汎用レジスタマシンで、それまでのアキュームレータマシンとは異なる。38台売れた。

1957年、電気試験所は接合型トランジスタ計算機ETL Mark IVを開発した。初期のパラメトロン計算機PC-1/4、MUSASINO-1、HIPAC MK-1が完成した。またIBMにおいて最初のFORTRANコンパイラが開発された。

(画像:ETL Mark III 出典:コンピュータ博物館 )

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