世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


11月 9, 2020

新HPCの歩み(第19回)-1959年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本の各社はトランジスタ式計算機を続々開発する。日本電気はNEAC-2202を、東京芝浦電気はTOSBAC-2100を、松下通信工業はMADIC-1を、日立製作所はHITAC 301を開発した。パラメトロン計算機もOPC-1、FACOM 201、FACOM 212などが製造された。

日本の学界(前回から続き)

4) 日本物理学会(電子計算機講習会)
2008年にパラメトロン計算機記念会が発行した「パラメトロン計算機 PC-1 1958-2008」に掲載された、有山正孝(1929年生まれ、東京大学理学部物理学科卒業。東大工学部助手・同理学部助手、電気通信大学教授・学長を経て、電気通信大学名誉教授)の記事「電子計算機講習会」によれば、1959年8月31日(月)~9月7日(月)に、日本物理学会主催により、東京大学を会場として「電子計算機講習会」が行われたとのことである。講義のプログラムを見ると、単にプログラミングを教えるだけでなく、計算機の原理から、数値解析、諸応用分野での利用法などが講義され、大げさに言えば、「計算科学」の旗揚げでもあった。先に述べたTACでの計算課題一覧と合わせて興味深い。PC-1は256語(長語)の主記憶しかなかったが、工夫により驚くような計算を次々行っていた。前記の電子工業振興協会の講習会とどちらが先かはわからないが、アカデミアでは最初の本格的な講習会であったのではないか。TACでも同様な講習会が行われたかもしれない。有山氏自身は、当時工学部力学教室の助手であり、雨宮綾夫・村田健郎両先生の下でTACのソフトウェア開発を行っていたとのことである。

前半の講義が行われた工学部2号館大講堂は、二三百人は入る大きな部屋であるが、聴講申し込みが多くて希望に応じきれなかったとのことである。後半の実習は、理学部1号館のPC-1で行われた。アセンブラさえないような計算機でどうやって実習したのであろうか。実習のマニュアルは当時修士1年生の石田晴久が書いたとのことである。9月6日の日曜日も実習をやったのであろうか。記念碑的な講習会であるので、全プログラムを示す。当時、コンピュータの利用に強い期待を抱いておられた錚々たる大先生が、多く講師として名を連ねておられる。筆者は当時高校1年生で知る由もないが、講師のうち10人ほどは、筆者もその後授業を受けたり、学界でのお付き合いがあったりしており、感慨深い。例えば島内武彦先生は当時助教授で、1954年から1955年にかけてアメリカに滞在し、当時最新の電子計算機を使った経験を持っておられたが、その後東大大型計算機センター長を務め、筆者が筑波大学に赴任した時は情報学類長であった。

第1日(8月31日)

9:00-10:20

10:40-12:00

電子計算機概説

東大理学部 高橋秀俊

13:00-14:40

パラメトロン計算機PC-1の演算命令

東大理学部 後藤英一

14:50-15:20

電子計算機の使用経験

東大理学部 島内武彦

15:30-16:00

幾何光学等への応用

日本電気KK 岡崎文次

16:10-17:00

結晶解析への応用

東大理学部 竹内慶夫

第2日(9月1日)

9:00-10:20

電子計算機のための数値解析 I(線形計算)

東大工学部 森口繁一

10:40-12:00

電子計算機のための数値解析 II(数値積分と微分方程式)

東大工学部 雨宮綾夫、有山正孝

13:00-14:40

プログラムの作り方(流れ図とその実例)

東大理学部 石橋善弘

15:00-15:50

気象学への応用

東大理学部 都田菊郎

16:00-16:50

流体力学への応用

東大理学部 今井功

第3日(9月2日)

9:00-10:50

プログラムの作り方(サブルーチンの使い方)

東大理学部 相馬嵩

11:00-12:00

プログラムの作り方(R0 R1によるテープの作り方)

東大理学部 中川圭介

13:00-13:30

大学における電子計算機 I

東大理学部 森野米三

13:30-14:00

大学における電子計算機 II

東北大通研 大森充郎

東北大工学部 桂重俊

14:10-15:00

モンテカルロ法

東大核研 藤本陽一

東大理学部 後藤英一

15:10-16:00

量子力学への応用

東大理学部 小谷正雄

16:10-17:00

ORおよび制御工学における応用

鉄道技研 穂坂衡

第4日(9月3日)

9:00-10:50

プログラムのエラーを見つける方法について

東大理学部 和田英一

11:10-12:00

これからの電子計算機とプログラミング

東大理学部 高橋秀俊

13:00-16:00

パネルディスカッション「電子計算機の現状と将来」

司会 山内恭彦

パネリスト 磯部孝(東大工)、穂坂衡(鉄研)、高橋秀俊(東大理)、森口繁一(東大工)、小谷正雄(東大理)、和田弘(電試)、喜安善市(電電公社通研)、茅野健(電電公社)

第5日(9月4日)~第8日(9月7日) 実習

 

表題に出てくるR0は和田英一が作成したPC-1のイニシャル・オーダーのことである。68語で書かれ、超絶技巧と言われた。R1は「長語の整数、小数読み込みルーチン」である。

第4日目に行われたパネルディスカッションの内容を、高橋秀俊が「計算機の現状」と題して、日本物理学会誌15巻(1960)2号p.70-77で紹介している。当時のコンピュータの状況がわかって大変おもしろい。

5) パラメトロン計算機
このころ、日本では産官学を挙げてパラメトロン計算機の開発を進めていた。1959年に完成したものを示す。資料は、Wikipedia「パラメトロン」、「日本のコンピュータの歴史」(情報処理学会歴史特別委員会編)オーム社1985年、情報処理学会コンピュータ博物館など。[]内は納入先。

沖電気

 

OPC-1

十進、固定浮動切り替え、メモリは磁気ドラム1000W、パラメトロン6000個、真空管130本、トランジスタ300個。会計事務処理用。

富士通信機製造

1960年3月

FACOM 201

MUSASINO-1Bを製品化。[電電公社電気通信研 60/3、東京理科大1960/6]

富士通信機製造

1959年4月出荷

FACOM 212

十進12桁。事務用(オフコン)として製品化。[日本電子工業振興会(1959/4)、富士電機三重工場(1960/2)、関西電力(1960/10)など]

 

この他、高橋秀俊によると、「PC-1の写しに近いものが防衛大学、工学院大学でそれぞれ作られた」とあるが、詳細は不明である。

6) 慶応義塾大学
1959年4月、慶應義塾大学工学部(小金井キャンパス)は、山内二郎を主任教授(学科長)として、管理工学科を創設した。計算機の利用を意識的に教育目標においた大学レベルの教育課程として、日本初であった。従来の工学系諸学科で特殊化した専門技術者を育ててきたのに対し、基本的な工学の素養の上に、数学的な考え方を身に着けた総合的な視野に立つシステムエンジニアを養成することを目標としている。

日本企業

1) 日本電気(NEAC-2203、NEAC-2202)
NEAC-2201をベースとしてNEAC-2203を開発し、1959年5月電子工業振興協会に納入した。大電力パルス回路もすべてトランジスタ化し、真空管を1本も使っていない。浮動小数演算を加え、記憶装置は磁気コア40語、高速磁気ドラム、磁気ドラムの3層構造とした(現在のキャッシュとメモリとディスクみたいであるが、OSではなくプログラムで制御するのであろう)。1語は十進12桁で、固定/浮動小数点、文字は6文字。割込み機能を有し、時分割により3個のプログラムを走らせることができた。OSはまだないので、すべてアプリで処理をした。

日本電気は、山一證券の伝票処理の機械化のために、NEAC-2202を開発し、1959年12月に完成し、8台出荷された。オンライン用の時分割多重コンピュータである。トランジスタ350個、ダイオード7000個、磁気コア360(単位は不明)を用い、十進直列式固定小数演算であった。プログラム内蔵ではなく、50ステップまでのパッチボードを持ち、定数をプラグとジャックで記憶した。内部記憶は6語が共通で、入出力装置1台当たり3語。今なら汎用レジスタといったところか。

2) 東京芝浦電気(TOSBAC-2100)
前述のように、同社は真空管式コンピュータTACで苦戦したので、トランジスタに着目していた。しかし、当時高価だったので、磁心記憶用に作られた矩形ヒステリシスのトロイダルコイルと組み合わせて機能分担を図った磁心トランジスタ論理回路を1958年に完成した。この回路でTACの論理を実装し、真空管駆動の磁心記憶を用いて、1959年、TAC IIを試作した。

東京芝浦電気は、事務用の電子計算機を、TACとは別の系列として通信機事業部で開発を進め、天羽浩平を中心に真空管式のTOSBAC D (Toshiba Scientific & Business Automatic Computer)を試作した後、1959年に事務用の全トランジスタ計算機TOSBAC-2100を開発した。5000個のトランジスタと、10000個のダイオードを使用している。記憶装置は18語の二進化十進のトランジスタカウンタ方式である。パンチカードシステムの延長として設計され、内蔵プログラム方式ではなく、60ステップのパッチボードによる外部プログラム方式を採用した。紙テープを入出力とする2101と、パンチカードを入出力とする2103とがある。2101の1号機は1959年3月に神奈川県商工指導所に納入され、2103の1号機は1959年3月に日本電子工業振興協会に納入された。1960年9月には自社の小向工場に設置した。

また、TOSBAC-2100をベースとした小型磁気テープ照合機TOSBAC-4100を完成させ、1号機を日本科学技術情報センターに納入した。

TOSBAC-2100を改良したデータロガーTOSBAC-8000は、1959年、関西電力黒部第四発電所に備え付けられ、1975年頃まで稼働した。1961年の表ではTOSBAC-8335となっている。制御用計算機の走りである。

東芝が商用化したコンピュータは全て演算素子として半導体を使用したもので、真空管やパラメトロンは採用しなかった。TACに懲りたのであろうか。

3) 松下通信工業(MADIC-1)
1958年1月、松下電器産業通信事業部から分離した。電気試験所で開発されたETL Mark IVをモデルとして、1958年5月からトランジスタ計算機MADIC-1の試作研究に着手し、1959年4月に完成した。12月から自社使用開始。MADICの由来は不明だが、Matsushita Digital Computerか?

4) 日立製作所(HITAC 301、MARS-1)
日立製作所は、電気試験所の技術指導を受けて、1958年5月から事務処理用トランジスタ計算機の開発を始め、1959年4月にHITAC 301が完成した。5月に日本電子工業振興協会に納入された。語長は符号+12桁、1語に2命令を格納する。磁気ドラムは1960Wの容量を持つ。日立製作所神奈川事業所に保存されているHITAC 301の部品は、情報処理学会から2014年度の情報処理技術遺産に認定された。

国鉄(現JR)の座席予約システムの原型であるMARS-1は、国鉄鉄道技術研究所で計画設計され、1958年に日立製作所に発注され、1959年、東京駅に設置された。1960年2月から、東京・大阪間の特急列車「つばめ」「はと」の予約業務が開始された。世界で初めてであった。情報処理学会情報処理技術遺産に認定されている。

5) 富士通信機製造(FACOM 212A)
1957年9月、日本電子測器で開発中であったパラメトロン計算機を山田博ら開発技術グループとともに受け入れ、事務用計算機FACOM 212A(または212)の設計を開始した。1959年3月に完成し、6月には日本電子工業振興協会に納入された。2号機は1960年2月、富士電機三重工場に納入。1964年には電子計算機輸出の1号として、フィリピンのマニラ関税局に納入された。出荷台数は計30台。

6) KDD(リアクトロン)
KDD研究所は、1959年9月、新しい論理素子「リアクトロン」を発明した。これを用いてKR-2というコンピュータを開発し、国際電報の中継・配信処理を自動化する計画であった。詳細は不明であるが、一種の磁気増幅器であろうか。当時はトランジスタの信頼性が低かったので、信頼性の高い素子として期待されたが、その後のトランジスタ技術の進歩により歴史の表舞台から姿を消した。パラメトロンや東芝の磁心トランジスタ論理回路やUNIVACのUSSCなどを連想させる。

7) 日本IBM社
日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ社は、1959年、商号を日本アイ・ビー・エム株式会社に変更した。

8) 海外コンピュータの導入
このころ、多くの企業が様々なコンピュータを海外から導入した。詳しくは、1961年のところに表で示す。

1959年6月、フランスのParisのUNESCO会議場で、International Conference on Information ProcessingがUNESCO主催で開催され、ここからIFIPや日本の情報処理学会が誕生する。

 

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