新HPCの歩み(第27回)-1962年(a)-
東京大学では学内組織の計算センターが設置されたのを初め、いくつかの大学で計算センターが設立され、コンピュータの設置が進んだ。7月には、国立7大学の大学計算センターの関係者が会合し、協議会を設立した。 |
社会の動き
1962年(昭和37年)の社会の動きとしては、1/11毛沢東主席が大躍進政策の失敗を認める、2/3アメリカKennedy大統領、キューバへの全面禁輸、2/5フランスのde Gaulle大統領、アルジェリアの独立承認の意向を表明、2/23西ヨーロッパ12か国でESA(欧州宇宙機関)を創設、3/23丸ノ内線全線開通(当時、新宿以西は荻窪線)、4/16後楽園ホール開館、5/3常磐線三河島駅構内で列車事故、6/1アイヒマン死刑執行、6/1「007は殺しの番号(原題“Dr. No”)」日本でロードショー、6/10北陸トンネル開通、6/25米国連邦最高裁、公立学校での始業前の祈りが憲法違反との判決、7/5アルジェリアがフランスから独立、7/11国産旅客機YS-11が完成、7/25プエルトリコがアメリカ合衆国領となる、8/5米女優Marilyn Monroe不審死、8/5南アフリカ連邦政府、ネルソン・マンデラを逮捕、8/12堀江健一、小型ヨットで太平洋単独横断成功、8/22フランスのde Gaulle大統領暗殺未遂、8/26三宅島噴火(小中学生など島外避難)、8/30 YS-11初飛行、9/12日本原子力研究所JRR-3臨海に達する、9/20新丹那トンネル開通(新幹線用)、9/27アメリカのRachel Carsonが『Silent Spring(沈黙の春)』を出版、10/10中印国境紛争ぼっ発、10/11第二バチカン公会議開会(1965年12月8日閉会)、10/14アメリカのU-2偵察機が、キューバにソ連製核兵器が設置されたことを確認、10/22アメリカKennedy大統領が、キューバの核兵器についてテレビ演説で全国民に公表、海上封鎖を表明(キューバ危機)、11/1ソ連、キューバ国内のミサイル撤収を開始、11/6国連総会が南アフリカ連邦のアパルトヘイトを非難し制裁を要請、11/9「日中長期総合貿易に関する覚書」(LT協定)締結、11/17ワシントンDCにダレス国際空港開港、11/20キューバ危機終了、11/29英仏で超音速機コンコルド共同開発に合意、11/29草加次郎事件、12/11恵庭事件起こる、など。
話題語・流行語としては、「ツイスト」「孤独との闘い」「残酷物語」「わかっちゃいるけどやめられない」「サラリーマンは気楽な稼業」「セルフサービス」など。
ノーベル物理学賞は、凝縮系とくに液体ヘリウムの研究に対しLev D. Landauに授与された。化学賞は、球状タンパク質の構造研究に対しMax Ferdinand PerutzとJohn Cowdery Kendrewに授与された。生理学・医学賞は、DNSの二重らせん構造の発見に対し、James Watson、Francis Crick、 Maurice Wilkinsの3名に授与された。文学賞はJohn Steinbeck、平和賞はLinus Pauling(1954年に化学賞も受賞)。
筆者はこの年の4月東京大学理科一類に入学した。前期教養科目の「哲学」(都立大学大村晴雄先生担当)を取ったら、習ってもいないラテン語だのドイツ語だのが黒板に書きなぐられてびっくりしたが、これが大学の授業なんだ、と実感した。今Wikipediaを見たら、「語学の才があり」と書かれている。大村先生は敬虔なプロテスタントとしても有名であるが、授業はトマス・アクィナスが中心で、その発展と批判の上にヘーゲルなどの近世哲学を位置づける、というような流れであった。筆者には面白かったが、一般向けではなかったようだ。前期はヘーゲルどころかWilliam Ockhamあたりで終わってしまったが、後期の授業は、受講者が完全に入れ替わっているにも関わらず、前期の授業の続きをやっていた、と伝え聞いた。古きよき時代であった。
日本政府関係の動き
1) 大型計算機設置要求
このころ日本の大学環境には大型計算機がなかった。大学関係者全体が要求していたというわけではないが、原子核物理学や結晶学などの分野では、大型電子計算機を用いることが不可欠となり、それにより注目すべき結果があげられつつあった。IBM等の大型計算機を利用するためにわざわざアメリカに行く例さえあった。原子核物理の有馬朗人先生(その後東大総長、文部科学大臣、2020年12月7日死去)は、アメリカで計算した数表(6-j記号とか9-j記号とかか?)のプリントアウトを後生大事に抱えており、「火事になったらまずこれをもって逃げる」と言っておられた。
このような事情にあったため、1962年、文部省の国立大学研究所協議会の原子核小委員会において、大型電子計算機設置のための予算要求の要望が出されていた。国立大学研究所協議会の電子計算機小委員会では、1962年9月29日に結論を出し、「1963年度には2カ年計画で2億円程度の大型計算機を京都大学に、また小型計算機を山形大学他11大学に設置する」ための予算要求にとどめ、大型電子計算機の導入要求は見送られた。
日本の大学センター等
1) 国立7大学計算センター協議会
『情報処理』1962年7月号によると、北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大の国立7 大学計算センター関係者が1962年7月9日、東大で会合した。東京大学高橋秀俊教授を議長として議事に入り、この協議会を常置させることを決定した。
この会議には文部省より立松学術課長補佐が招かれており、計算機の維持費、とくに保守契約について文部省の考えを聞き、また各大学が説明を行った。この結果を要望書にまとめて関係当局に陳情することにした。
この協議会は、いわば7大学大型計算機センター体制の原点と言ってもいいであろう。この連載記事でも収録しているように、1962年当時多くの大学で計算センターが設置され始めていたが、旧帝大7大学だけで集まったあたりが時代を感じさせる。
2) 北海道大学計算センター(NEAC-2206)
1962年3月、NEAC-2206の1号機が設置された。1962年8月、北海道大学計算センターが学内組織として発足した。よくあることだが、マシン設置の方が組織発足より前になっている。
3) 東北大学(NEAC-2230)
1961年12月に設置された東北大学計算センターにNEAC-2230を導入。
4) 東京大学(OKITAC 5090)
東京大学では、1962年5月に学内組織としての計算センターが始まった。物理学教室のあった理学部1号館(旧館)の1・2階南西側(化学館に近い角)にありOKITAC 5090Cおよび5090Dが設置されていた。筆者が使ったのは1964年である。計算センターにはパラメトロン計算機PC-2が1962年5月23日から移管されており、出力のテレタイプがカタカタと動いているのを見た記憶がある。何だろうと思っていた。
『情報処理』Vol 24, No.3 (1983年3月号) p.241-243の、「東京大学計算センター発足時における言語処理系の開発」(清水留三郎)という記事によると、1961年度末に8000万円の予算でOKITAC 5090を2組購入し、事務局経理部機材調達課に所属する形で計算センターが発足したとのことである。この記事によると、提供されたアセンブラOKISAPは紙テープを4回も読ませて初めてオブジェクトが作成できるような、飛んでもない仕様だったそうである。そこで、東大で改造し、ユーザが3000番地以降を使わないようにして、そこにアセンブラシステムを収納し、プログラムは1回読み込めばよいようにした。大学の先生が商用機のシステムソフトに手を入れられる「よい」時代であった。
計算センターは、1965年4月の大型計算機センターの発足により、「データ処理センター」に改称された。
5) 大阪大学
大阪大学サイバーメディアセンター沿革によると、1962年4月に学内組織としての計算センターが発足した。当時の設備は不明。1963年3月、NEAC-2206を設置、使用開始。1967年4月からバッチサービスが開始された。全国共同利用施設として大型計算機センターが設置されるのは1969年4月である。
6) 九州大学
1962年5月8日、評議会において中央計数施設の設置を決定した。2000年4月に情報基盤センターに統合された。
7) 小樽商大
1962年にIBM 1401を導入したようである。1962年11月には計算センターの建物が完成した。計算センター自体の発足は1964年。
8) 岡山大学(NEAC-2203)
1962年9月、岡山大学理学部内に、学内共同利用施設として電子計算機室が発足。NEAC-2203導入。
9) 広島大学
1962年4月、広島大学理学部内(東千田町)に電子計算機室が設置される。
10) 早稲田大学(PB-250)
電子計算室は、1962年1月、Packard Bell社からPB-250を導入した。このマシンは電力系の制御など特定目的のシステムの要素として動作するよう設計されていた。今の言葉で言えば一種の組み込みコンピュータ(embedded system)であろうか。電子計算室や自動制御研究グループはPB-250をアナログコンピュータとのハブリッドシステムを研究するために利用した。1962年7月15日には、日立製の低速型アナログコンピュータを導入した。アナログコンピュータとしては3台目である。まだ同日、東芝のTOSBAC-3121を導入した。(『情報処理』1962年7月号)
11) 九州産業大学(OKITC 5090)
九州産業大学は、1962年、産業経営研究所電子計算機室にOKITAC 5090を導入した。
12)東京大学原子核研究所(INS-1)
『核研二十年史』(1978年12月1日発行)および東京大学百年史部局史四によると、東京大学原子核研究所(田無)では、1960年度予算として電子計算機のために1000万円の予算が認められ、PC-1やMISASHINO-1などを参考にして、1語40ビット、1024語のコアメモリ、3個のインデックスレジスタを持つパラメトロン計算機INS-1を沖電気工業とともに開発し、1962年1月に設置し、主として宇宙線部で用いられたと書かれている。また1962年3月31日付のAnnual Report(英文)によると、「論理素子として900個のパラメトロンを用い、メモリはフェライトコアで512語(1語40ビット)であった。後に1024語に増強された。3個のインデックスレジスタを持ち、浮動小数の利用が可能であった(ハードかソフトか不明)。固定小数演算時間は、加算に0.2 ms、乗算に2 msであった。このコンピュータは原子核研究所のコンピュータグループによって設計され、沖電気工業が製作した。最初の(実用的)パラメトロン計算機PC-1を製作した(東大の)高橋研究室から多くの助力を得た。」とある。高橋秀俊著『パラメトロン計算機』(1968年3月31日、岩波書店)にも、「PC-1の性能を少し高め、浮動小数点やBレジスタをつけたものが東京大学原子核研究所に設置された。」とあるが、製作企業についての言及はない。
他方、情報処理学会関係の資料では、三菱電機が核研にパラメトロン計算機MELCOM 3409を納入したと書かれている。当時の状況からみて、2台設置したとは考えられないので、この2つの記述は矛盾している。日本アイ・ビー・エム社が1988年10月、創立50周年を記念して編集した『情報処理産業年表』によると、1959年の項に「三菱電機、東京大学原子核研究所からパラメトロン使用の計数型電子計算機一式を受注(翌年3月納入)」とあり、文献553として「電子産業新聞」が引用されている。これがもし原子核研究所の記者発表そのものの記事であれば、信頼度が高いが、確認が必要である。なお、『三菱電機社史』の1959年には、トランジスタ式の「ディジタル電子計算機MELCOM LD1を研究所で試作」という記述はあるが、パラメトロン計算機の記述はない。もちろん、電子産業新聞の記事が間違いで、これが情報処理学会関係に伝染した可能性も否定できない。ちなみに、『沖電気100年の歩み』(1981.11)にもそれらしい記事はない。
三菱電機はこれ以外にパラメトロン計算機を開発したという話はないが、沖電気工業は、前に述べたように事務用パラメトロン計算機OPC-1を製作している。今のところ謎である。銘版のついた当時の写真でも出てこないであろうか。
1963年にはコアメモリの増設、浮動小数関係の命令の新設、高速紙テープ穿孔機の増設などが行われ、主として宇宙線部のエアシャワーのデータの編集解析に利用された。高エネルギー部、低エネルギー部、理論部なども利用した。 1965年には磁気ドラム2台(各4096語)が増設された。(『核研二十年史』および『東京大学百年史』については一井信吾氏(KEK)から、『情報処理産業年表』については田村栄悦氏から情報提供をいただいた)
次回は日本国内の大学に設置されているコンピュータの一覧を掲載する。日本のメーカーのコンピュータ開発も進んでいる。
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2件のコメントがあります
*「計数型電子計算機納入状況」、情報処理Vol.2, No.3 (May 1961), p.158
IPSJ-MGN020307.pdf
には、以下の記述があるだけです。
> MELCOM-3409; 東大原子核研(昭和35年3月)
* 山田昭彦:[コンピュータ開発史概要と資料保存状況について]、
所収:国立科学博物館技術の系統化調査報告(2001年3月)。
http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/003.pdf
MELCOM 3409 はこの資料の73頁の表にも出ているが、解説は一切なし。