世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


1月 25, 2021

新HPCの歩み(第28回)-1962年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

1962年現在の大学設置のコンピュータの一覧を掲載する。1961年の大学設置数と比較して飛躍的に増えていることがわかる。日本電気はNEAC-2206、NEAC-2230を、日立製作所はHITAC 3010を開発した。IBM社は、IBM 7030 (Stretch)をターゲットにFORTRAN IVを開発した。

大学設置の計算機

前に述べたように、1961年7月の『情報処理』に「計数型電子計算機納入状況」という記事があり、当時日本で納入された電子計算機がリストされていた。また、1962年7月の『情報処理』には、「各大学で電子計算機の設置盛ん」という記事があり、各大学の設置状況が書かれている。それらをまとめてみると、1962年頃の大学の計算環境が明らかになる。なお後者の表には「HITAC 103」が3件あるが、これは存在せず、トランジスタ計算機HITAC 102かパラメトロン計算機HIPAC 103かと思われる。他の資料からHIPAC 103と推定。

Vは真空管計算機(主記憶は磁気ドラム)、Rはリレー計算機、Pはパラメトロン計算機、Tは(個別)トランジスタ計算機である。ICはまだない。Librascopeはカリフォルニア州の会社。

設置場所

設置年月

機種

北海道大学

1961

P: HIPAC 103

T: NEAC-2203G

小樽商大

1962

T: IBM 1401

1964/11

T: OKITAC 5090H (計画中)

東北大学

1958/3

P: SENAC-1 (NEAC-1102)

1962

T: NEAC-2230

東京大学

1958/3

P: PC-1

1960/3

P: PC-2 (FACOM 202)

1962/3

T: OKITAC 5090×2

東京大学原子研究所

1962/1

P: INS-1

東京大学物性研究所

1961/3

P: FACOM 202

東京工業大学

1962

T: FACOM 222

東京教育大学

1962

P: HIPAC 103

一橋大学

1961

V: Burroughs E101

慶応義塾大学

1960/6

T: K-1 (別名KCC)

1962

T: IBM 1401

東京理科大学

1960/7

P: FACOM 201

早稲田大学

1959/8

V: LGP-30 (Librascope General Precision)

1961/2

T: NEAC-2203

1961/3

IBM Punch Card System

1962/1

T: PB-250 (Packard Bell社)

1962/7

T: TOSBAC-3100

日本大学(理)

1960

R: FACOM 128B            

日本大学(文)

1961

T: OKITAC 5090

専修大学

1961/11

T: OKITAC 5090

立教大学

?

P: HIPAC 101

明治大学

1961

T: HITAC 501

東海大学

1960

T: NEAC-2203

金沢大学

1962

T: NEAC-2203

富山短大

1962

T: OKITAC 5090

名古屋大学

1961/3

T: NEAC-2203

京都大学

1960/8

T: KDC-I

大阪大学

?

T: MELCOM LD-1

?

T: NEAC-2203

1962

T: NEAC-2206

大阪府立大学

1962

T: HITAC 201

甲南大学

1961

V: IBM 650

岡山大学

1962

T: NEAC-2203

広島大学

1962

P: HIPAC 103

九州大学

1960/3

T: MELCOM 2200

1962

T: OKITAC 5090H

 

この他、政府関係・公的セクターで30台以上、民間110台以上が判明している。山一證券は8台導入するなど、複数の導入も多い。これと比べると大学がまだ少ない。パンチカードマシンは1960年をピークに減っていった。

日本の学界

1) 東京大学(TAC、計数工学科)
1959年2月から稼働していたTACは、1962年7月にシャットダウンした。

東京大学工学部の計測工学科(1949年新制大学設立時に設置)は、1962年、物理工学科と計数工学科に改組された。計数工学科は、日本における情報科学・工学を対象とする学科としてはかなり古い。情報処理学会は2年前に発足しているが、学科名としては「情報」の名を避けたようである。

国内会議

1) プログラミングシンポジウム
第3回のプログラミングシンポジウムは、1962年1月8日~10日に開催され、114名(大学関係63名、会社関係51名)が参加した。会場は不明。

2) 日本電子計算機ショウ
1961年8月に設立された日本電子計算機(JECC)は、1962年11月21日に晴海において、第1回日本電子計算機ショウを主催した。以後、6回にわたり主催している。

日本企業

1) 日本電気(NEAC-2206、NEAC-2230)
NEAC-2206は、トランジスタを用いた事務処理用コンピュータNEAC-2203(1959)の後継機として開発され、1962年3月に1号機が北海道大学に納入された。磁気コアを内部記憶だけではなく、入出力や補助記憶装置の制御にも多用し、周辺装置を簡略化した。

1962年2月に、NEAC-2230が発表された。NEAC-2206で開発された、コアメモリ、多重プログラミング、電子式周辺制御装置、オンライン機能などをできる限り採用している。1962年11月、JECCが晴海で主催した第1回日本電子計算機ショウにNEAC-2206とNEAC-2230を出展した。

1962年7月、日本電気はアメリカのHoneywell社と技術提携の契約を結んだ。

2) 三菱電機(技術提携)
1962年2月、三菱電機はアメリカのTRW社(Thompson Ramo-Wooldridge)と技術提携の契約を結んだ。合弁会社「三菱テー・アール・ダブリュ株式会社」(現三菱スペース・ソフトウェア)が設立された。

3) 日立製作所(HITAC 3010)
1961年5月、日立はアメリカのRCAと技術提携契約を結んだが、1962年6月26日、中型事務用計算機RCA 301を国産化したHITAC 3010を発売した。1962年に1号機を神奈川県庁に納入した。日立製作所神奈川事業所に保存されているHITAC 3010は、情報処理学会から2014年度情報処理技術遺産に認定された。

 
   カシオ計算機 AL-1 出典:情報処理技術遺産
   

4) カシオ計算機(AL-1)
カシオ計算機は、14-A (1957年6月)、14-B (1959年5月), 301 (1960年3月)に続いて、1962年1月、プログラム機能がついたリレー式科学技術用計算機AL-1を発売した。プログラムといっても、6枚のプラスチックの歯車(歯は60個)からなる取り外し可能なユニットがあり、その歯をペンチで折ることによって最大60ステップのプログラムを与えるものである。書き換え不能なwrite-once-read-onlyのメモリであった。これは、国立科学博物館が主催する2014年度重要科学技術史資料(未来技術遺産)に登録されるとともに、電気通信大学UECコミュニケーションミュージアムで動態保存されているAL-1は2016年度情報処理学会情報処理技術遺産に認定された。

筆者は大学3年生(1964年)の数値計算演習のとき、4台の計算器の中でたまたまカシオ計算機が当たったが、膝の周りがポカポカして、いつの間にか眠ってしまうことも多かった。もちろん、プログラム機能は使わなかった。

標準化関係

1) FORTRAN IV
IBM社は顧客の要望を受けて、FORTRANの改良を進めていたが、1962年、IBM 7030 (Stretch)用のFORTRAN IVをリリースした。続いてIBM 7090版、IBM 7094版もリリースされた。当然、他の機種用も用意されていたと思われる。

文法としては、FORTRAN IIの機種依存部分を削除し、論理型データ、論理演算、論理IFを追加した。

1965年までにはAmerican Standards Association(後のANSI)X3.4.3 FORTRAN Working Groupが活動し始めており、FORTRANはそれが開発する標準に合わせるようになった。

2) 文字集合とコード化
日本では、1958年からコード会が紙テープコードの標準化を議論していたが、国際的には、ISO/TC 97の「文字集合とコード化」の分科会SC2は1962年から活動を始め、いわゆる6単位および7単位コードが審議された。これを受けて1963年、情報処理学会は工業技術院からの調査研究委託により、コード標準化委員会(委員長佐々木卓夫)を発足させた。2年間の活動の後、ISOの7単位コードにわが国の仮名コードを付加する国内標準案をまとめた。

3) 計算機用語
1957年に電気通信学会に設けられた計算機用語専門委員会によるJIS原案の作成は、1959年3月に終了し、この原案は日本工業標準調査会基本部会の計算機用語専門委員会(委員長山下英男)に上げられた。1961年にはJIS Z 8111「計数形計算機用語(一般)」が、1962年にはJIS Z 8112「計数形計算機用語(一般を除く)」が制定された。

次回は、海外のコンピュータの状況について紹介する。

前回(第27回)の訂正

前回記事の「12)東京大学原子核研究所(INS-1)」で、同所の最初の計算機が何であったかについて史料が矛盾していると書きましたが、1997年4月に東京大学原子核研究所(核研)が合流したKEK高エネルギー加速器研究機構の徳宿克夫素核研所長はじめ関係者多数から貴重な史料や情報をいただき、状況が少し分かりましたのでご報告します。

結論をいうと、初期の核研にはパラメトロンを搭載した機械が2種類あったのです。

まず、記事のこの項の第1段落はほぼ正しいと考えられます。「1959年度予算1000万円で、パラメトロン計算機INS-1を沖電気工業と共同開発し1962年2月完成し、所内で利用された。」これは、PC-1などと同様の汎用計算機です。後に浮動小数演算のハードも付加しました。ただ、核研二十年史のp.35に、なぜだかわかりませんが「最小自乗法単能機」と書いてあり、東大百年史がこれを引用していますが、アーキテクチャを考えるとどう見ても汎用計算機です。最小二乗法の計算ができるくらいなら、色々な数値計算ができたと思われます。

今回分かったことは、同じころ、核研の宇宙線部が、(宇宙線の)空気シャワーの観測のために、パラメトロンによる自動記録装置を導入していたことです。費用は宇宙線実験の予算から支弁したものと思われます。下に紹介する文書によると、自動記録装置の導入により、それまで使っていたブラウン管記録装置より大規模な実験が可能になったそうです。1959年に三菱電機に発注し、1960年3月に納入されました。これがMECLOM 3409であったと推測されます。どのような機能があったのかは不明です。計数や記憶とともに加算ぐらいはできたのではないかと思われますが、電子計算機というより自動記録装置です。『情報処理産業年表』が引用している電子産業新聞の記事「パラメトロン使用の計数型電子計算機一式」は不正確な表現です。むしろ「パラメトロン使用の計数装置一式」ではなかったかと思われます。パラメトロンがコンピュータだけではなく、一種の組み込み素子として使われていたことはもっと注目されてもよい事実と考えます。

情報処理学会の「黎明期のコンピュータ」年表では「三菱電機:MELCOM 3409(パラメトロン式)を完成」と含みを持たせています。この表には電気集計機なども入っており、コンピュータだけではありません。しかし東京農工大が編集した「昔の計算機たち」の表2にはMECLOM 3409が国産コンピュータとして掲載されています。他方、沖電気工業製のINS-1は、情報処理学会関係では完全に無視されています。INS-1がいつからMELCOM 3409と誤って結びつけられたかは不明ですが、この連載の第30回に登場する1963年の日本学術会議勧告の付表「わが国における計算機導入状況」には「INS_1 (MELCOM 3409)」と書かれています。

今回KEK史料室で見つけてくださった文書ですが、昭和36年(1961)2月20日に野中到核研所長名で出された「核研空気シヤワープロヂエクト共同利用募集(ママ)」(INS-Z-151)にこう書かれています。

「Dataのパラメトロンによる自動記録がn-detecter、n’-detecter、μ-detecter(ママ)について出来るようになりました。dataの数を大量に必要とするようなテーマが可能になったと思います。ご利用ください。

核研の計算機は、三浦、柴田、林、大塚等のご指導によりメーカーで製作中、5月に入る予定です。この計算機は当初からのいきさつで三浦がその責任者になると了解しています。」

後段の「核研の計算機」は当時沖電気工業と共同開発していたINS-1を指していると思われます。1961年5月に入る予定とありますが、実際に利用可能になったのは翌年1962年1月でした。なお文中の、三浦は三浦功氏で三浦謙一氏(富士通→国立情報研)の父君、柴田は柴田進吉氏で、両先生には筆者も高エネルギー物理学研究所・筑波大学・筑波技術短期大学で大変お世話になりました。懐かしい。 

 

(アイキャッチ画像:カシオ計算機 AL-1 出典:情報処理学会情報処理技術遺産

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