世界のスーパーコンピュータとそれを動かす人々


3月 1, 2021

新HPCの歩み(第33回)-1964年(b)-

小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)

日本の各社はアメリカのメーカーと技術提携を結んだが、富士通信機製造だけは自主開発路線を貫いた。IBMはPL/Iの言語仕様を決定した。BASICやSpeakeasyもこのころ開発された。

筆者のコンピュータとの出会い

この年、筆者は4月から本郷に進学し理学部物理学科の3年生となったが、初めてコンピュータなるものに触った。前回述べたような機種選定のドラマが先生たちの間で進行していたことなどつゆ知らなかった。物理学教室のあった理学部1号館(旧館)の1階2階の南西の角に1962年5月から「計算センター」があり、そこのOKITAC 5090(沖電気工業製、トランジスタ方式、コアメモリ、1語50ビット、十進法、設置1962年3月)を使った。多分、5090Cか5090Dであろう。

後藤英一先生の授業の一部に、清水留三郎先生がやってきて、OKISIPというアセンブリ言語を習い、プログラムを学んだ。入力媒体は紙テープであった。問題は勝手に考えろ、というので、よく覚えていないが4次の内挿のテーブルを作ったような気がする。自慢ではないが、筆者の第1言語はアセンブリ言語であり、その後同じコンピュータでALGOLIPというアルゴル風の言語を使った。これが第2言語である。FORTRANは東大のOKITAC 5090ではサポートされておらず、HITAC 5020Eで初めて使ったので第3言語にあたる。今から思えば、このときコンピュータなるものに触れたのが筆者の運命を決めたのかも知れない。

手元に筆者が1967年5月9日に購入した森口繁一編『ALGOL入門』(日本科学技術連盟、1962年10月1日初版発行、これは1967年3月15日発行の第6版)がある。

M := if A > B then A else B;

などという構文が新鮮であった。

後藤先生の「計算機械」という授業ではチューリング・マシンの話が面白かった。ライプニッツが、人間の思考を少数の概念の組み合わせに分解し汎用言語で記述することにより、「人間思想のアルファベット」で諸学を統一することを夢見ていたという話を面白く聞いた。そうすれば哲学者間の論争は計算により決着するだろうというわけである。前半は記号論理学で実現したといえるが、Gödelの不完全性定理が提示された。また、後半は否定的に解決された。つまり、機械によって解けない問題があることが、チューリング・マシンによって示されたのである(停止性問題)。このあたりについては第1回に書いた。後藤先生の授業の最終レポートは「2次元テープのチューリング・マシンを通常のチューリング・マシンに写像せよ」という問題であった。一生懸命解いたが、先生は私のレポートを果たして読んでくださったのか?

日本の大学センター等(続)

2) 小樽商大
1964年11月に、やっとOKITAC 5090Hが設置され、12月に計算センターが発足した。

3) 千葉大学(HIPAC 103)
1964年3月、千葉大学は日立製作所のパラメトロン計算機HIPAC 103を導入し、4月工学部計算機室として発足した。

4) 静岡大学
1964年、共同利用計算機(何?)を設置。

5) 富山大学(OKITAC 5090C)
富山大学では、1964年12月に計算センター建物が竣工し、1965年2月にOKITAC 5090Cを設置し、3月に計算センターを設置した。

6) 神戸大学(OKITAC 5090C)
1964年4月神戸大学計算センターが発足し、9月に建物が完成した。10月、OKITAC 5090Cシステムが稼働した。

7) 熊本大学(FACOM 231)
学内共同研究施設として、工学部工学研究機器センター内に、熊本大学電子計算機室が発足した。FACOM 231(主記憶196KB)稼働。

8) 九州工業大学
1964年3月、OKITAC 5090Cを共同利用装置として設置。

9) 学習院大学(MELCOM 1101)
1964年3月、学習院大学は理学部菅研究室にMELCOM 1101を導入した。1976年に科学博物館に寄贈され、2011年度には情報処理技術遺産に認定された。大学付属機関として計算機センターが開設されたのは1974年7月である。

10) 青山学院大学(OKITAC 5090C)
1964年4月、電子計算センターを青山キャンパスに創設し、OKITAC 5090Cを導入した。

11) 東京大学原子核研究所(PDP-5)
1964年度、 同研究所高エネルギー部に2060万円の予算が認められ、PDP-5を設置した。

12) 統計数理研究所(ALS-1000)
統計数理研究所は、1963年3月30日からパラメトロン計算機HIPAC 103を利用してきたが、昭和39年度内に、アナログ計算機が設置された。これは日立製のALS-1000で、関数発生器2台、乱数発生機2台、磁気テープ、XYレコーダ、ペンレコーダなどからなり、HIPAC 103とは接続装置経由で接続されていた。これまでHIPCA 103がTSK IIIと呼ばれてきたが、HIPAC 103とALS-1000を組み合わせたハイブリッド計算機がTSK IIIと呼ばれるようになった。

日本の学界

1) 東京大学(PC-1)
1958年3月26日に完成し、学内で熱烈に利用されていた東京大学理学部高橋研究室のパラメトロン計算機PC-1は、1964年5月、シャットダウンした。

日本の企業の動き

1) 電子計算機技術研究組合(FONTAC)
1962年7月、通産省の指導の下で、富士通、日本電気、沖電気の3社に「電子計算機技術研究組合」を結成させ、これに3年間で3億5千万円の補助金を与えた。IBM 7090や7094レベル以上の国産コンピュータの開発を目標とした。3社の頭文字をとってFONTAC (Fujitsu Oki Nippondenki Triple Allied Computer)と呼ばれ、CPUは富士通、入出力制御用衛星計算機は日本電気、入出力装置は沖電気が担当した。1964年11月に完成し、日本電子工業振興協会に納入された。磁気コアメモリ、1語42ビット、二進法のマシンである。FONTACシステムは、主コンピュータとして高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャネルを持つ大型2進計算機FONTAC Centralを、衛星コンピュータに可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピュータは密接に結合された。この共同研究で開発された技術を基に、CPUを担当した富士通信機製造(現富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM 230-50として商用化した。

2) 富士通信機製造(FACOM 230)
同社は、前年に完成した可変語長方式のFACOM 231の機能を完全に包括する中型汎用コンピュータFACOM 230を1964年5月に発表した。演算速度をFACOM 231の10倍とし、記憶装置の容量を倍増した。前項のFOMTACに基づくFACOM 230-50(固定語長)の発表を機に、FACOM 230はFACOM 230-30と改名された。

3) 日立製作所(HITAC 2010、HITAC 5020)
日立製作所は、HITAC3010/4010の後継として、1962年からHITAC 2010を独自開発し、1964年に完成させた。語長は24ビットで、4文字格納する。浮動小数もサポート。2システムを試作したが、IBMがS/360を発表し、1文字を8ビットに定義し、アドレスの単位としたので、製品化は断念した。WikipediaのHITACには書かれていない。

1964年9月、日立はトランジスタ方式、磁気コアメモリ使用のHITAC 5020を完成した。このコンピュータの1号機は翌年4月に京都大学計算センターにKDC-IIとして納入され、続いて電電公社に、そして東京大学大型計算機センターに2台納入された(1965年7月と9月)。東大の1台は1966年10月、より高速化した5020Eに更新された。アーキテクチャについては1965年のところで述べる。後に筆者の愛用したコンピュータである。

 
 

東芝 TOSBAC-3400

出典:情報処理技術遺産

   

4) 東京芝浦電機(TOSBAC-3400、TOSBAC-5400)
東京芝浦電機株式会社(1984年以後は東芝)は、科学技術用コンピュータTOSBAC-3400京大となど共同開発した(写真)。1963年末に完成し、翌1964年に発表された.KT-Pilotで実用性が確認された非同期マイクロプログラム方式を採用し、開発過程のアーキテクチャ調整によってソフトウェア開発を容易にするなどのマイクロプログラム方式のメリットを活かした.非同期制御方式や回路素子へのエピタキシャルトランジスタの採用によって2〜3桁の高速化を実現すると同時に、商用機としては、論理素子数を減らすことによって低価格化を図った.1語長24ビットのワードマシンで、119種の命令セットと入出力制御用の16種のコマンドを持ち、加減算命令実行速度は7.8ms、メモリサイクルは1msを実現した.OSは1963年に京大と共同開発したTOPS-1である。その後TOPS-2やTOPS-3が開発された。

また1964年10月、アメリカのGE社と技術援助契約を結んだ。この提携により1964年、GE-400の技術によりビジネス用計算機TOSBAC-5400を開発し販売した。これは通信プロセッサ(TOSBAC DN-30)を接続することで最大120回線を接続可能なネットワーク指向のコンピュータであった。気象庁は世界気象観測網(World Weather Watch)の一部となるADESS(気象資料自動編集中継装置)としてTOSBAC-5400を採用し、世界各地とネットワークを形成した(1969年稼動)。(Wikipediaによる)

5) 日本電気(NEAC-1210、NEAC-2200)
パラメトロンもまだ頑張っている。日本電気は、1964年9月、小型で高性能、かつ内蔵プログラム方式のNEAC-1210を1964年に開発した。1966年8月までに700台が納入されたことは驚異的な販売実績である。内部表現は8単位BCDコードで、長語は12桁、短語は6桁、数値は二進か十進法で固定小数点である。記憶素子は小型磁気ドラム。容量は3000桁で、長語では250語、短語では500語である。磁気コアは書かれていない。1965年5月から半年間、ニューヨーク世界博覧会に出展され、1966年4月には第12回大河内賞を授与された。情報処理学会2009年度情報処理技術遺産に認定されている。

1963年11月、Honeywell社が事務用計算機IBM 1401の置き換えを狙って発表したH-200は世界的な評判を呼んだが、日本電気は急遽ノックダウンで輸入し、1964年5月にNEAC-2200として発表した。

6) 松下通信工業(大型コンピュータ撤退)
松下電器産業は、1964年3月からオランダのフィリップス社と提携し大型コンピュータ事業に進出する計画を進めていたが、松下幸之助会長は1964年10月、進出計画の中止を決断した。社史によると、松下会長がアメリカのチェース・マンハッタン銀行副頭取と懇談する機会があり、席上、オランダのフィリップス社と提携の話が出た。その時、副頭取から「日本では7社でコンピュータをつくるというが、多過ぎないか」と指摘されたことが決断のきっかけとなったそうである。

7) 早川電機工業(CS-10A)
早川電機工業(1970年1月1日からはシャープ株式会社)は、1964年3月18日、日本で初の国産電卓CS-10Aを発表し、6月に発売した。価格は何と53万5000円であった。ソニーも電卓MD-5をシャープの出荷と同日に発表し、67年に発売した。 

8) アメリカのメーカーとの技術提携
1961年から64年までに結ばれた技術提携をまとめると以下の通りである。高橋茂『通産省と日本のコンピュータメーカ』(情報処理第44巻10号(2003年10月))による。

メーカー

提携先

期間

料率

認可年月

製品・合弁など

日立製作所

RCA社

10年

5%

1961年5月

HITAC 3010

三菱電機

TRW社

15年

4%

1962年2月

「三菱テー・アール・ダブリュ株式会社」

MELCOM 1530

日本電気

Honeywell社

10年

5%

1962年7月

NEAC-2200

沖電気

Sperry Rand社

10年

10%

1963年6月

「沖ユニバック株式会社」1963年11月21日設立

東京芝浦電気

GE社

10年

 

1964年10月

TOSBAC-5400/5600

 

富士通信機製造は技術提携を行わず自主開発路線を貫いた。初期にIBM社に提携を提案し断られた経緯があるとのことである。

標準化関係

1) PL/I
IBM社がそのユーザ団体SHAREとともに、FORTRAN、COBOL、ALGOLを統合した新言語PL/Iを提唱したのは1963年であった。最初の言語定義は1964年4月に提唱されたが、このころはNPL (New Programming Language)と呼ばれていた。この略号が英国の国立物理学研究所National Physical Laboratoryと衝突するので、1965年にはPL/I (Programming Language One, pee-el-one)と呼ぶこととなった。最初の実装はSystem/360上であった。これ1つだけあればすべての目的に使えるという触れ込みであったが、仕様が膨大なため、大型機以外に広まらなかった。1979年、ISOで標準化(ISO 6160:1979 Programming Language – PL/I)。

筆者は、1970年代後半に、文字処理のためにPL/IをHITAC 8800上で使ったが、日立のコンパイラに不備が多く、実行速度も遅く、実行時システムも不安定で往生した。まあ、電話帳ほどの厚さのあるマニュアルの隅から隅まで使おうなどと思ったのが間違いかもしれない(「電話帳」も死語になりつつあるが)。その後、FORTRAN 77で文字データ(ただし固定文字数)が扱えるようになり、乗り換えた。FORTRAN 77の文字処理により、TRISTANという電子陽電子衝突実験データに関する簡単なデータ検索システムを構築した。

2) BASIC
ダートマス大学ではBASICが開発されていたが、対話型のBASIC処理系が、1964年5月1日に稼働したとされている。

3) Speakeasy
1964年頃、ANLの理論物理学者Stanley Cohenは、数値計算を簡便に行うためのインタプリタ言語Speakeasyを開発した。その後、かれはSpeakeasy Computing Corporationを創立し商業的に売り出した。最初はmainframe上で動いていたが、次第にミニコンピュータやPCで動くようになり、現在は、Windows、macOS、Linux, AIX、Solarisなどでも動く。MATLABに影響を与えたと言われている。

4) 第12回国際度量衡総会
1964年の第12回国際度量衡総会(CGPM)で、リットルの定義が元の1 dm3に戻され、接頭辞としてattoとfemtoが承認された。1901年からこの時まで1リットルは1.000028 dm3であった。

Illinois大学はDARPAと契約を結びILLIA IVの開発を始める。タイムシェアリングOSの走りであるMulticsの開発は、MITを中心とする共同研究として1964年に始まった。

(アイキャッチ画像:東芝 TOSBAC-3400 出典:情報処理技術遺産)

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